第10話 誤解(前編)

 密筑の里は、急な浜の傾斜を越えた先にある。

岩地を越えると赤味を帯びた埃っぽい土地が続き、松林が広がっている。

この松は常陸国の海岸線に沿って帯のように繁り、陸と海の境に根を下ろしている。

 里はその松林を越えてだらだらと続く坂道を上がった先に作られていた。

二十戸程の大きな高床住居と貢を納める倉、五十を越える軒の低い低床住居が建ち並んでいる。

 大きな住居には里長とその一族、それぞれの里役達が家族と住まい、民は軒の低い住居に折り重なって起居する。その総数は五百人程である。

 周りには竹囲いが二重に組まれて侵入者に備えられ、この里の用心深さを物語る。

西には赤い土の畑が広がり東には泉がある。泉から一段下がった辺りには水田が作られていた。

 石決明は里に持ち込まれることなく、浜の小屋で解体された。

ここで潮風に干し、そのまま大船に乗せて運ぶためである。

この小屋は剛霜達船の一族が、常日頃漁の為に使っている頑丈な高床の建物である。

小屋の脇に設えた露廊に置かれた石決明から、巨大な身が剥がされ肝と身が分けられた。

肝は塩漬けに、身はたっぷりと塩で揉まれて天日に干された。

ウタリはその様子を見ながら、心配げに剛霜に尋ねた。

「オクリはいつやるんだ」

「オクリ?ああ、身がでかいからな。干し上がってからだと潮が変わる。たぶんその前に送ることになるだろう」

「そうか…カムィを待たせてしまうが…」

眉根を曇らせたが剛霜に向き直り、その時は自分もオクらせてくれるだろうかと尋ねた。

剛霜は頷いて、劉孔様も喜ぶだろうと言った。

その言葉になんとなく違和感を覚えたが、ウタリはオクリの日を待つことにした。

「ウタリ」

背後で葉祥の声がした。

「お父様が会いたいって」ウタリの手をとって駆け出した。

「きっと、ご褒美を下さるわ」

 少女は晴れ晴れとした顔で笑いかけた。ウタリの待ち望んだ笑顔である。

「ごほうび?」聞き慣れない言葉に戸惑った。

少年はただ少女の笑顔が見たかっただけなのだ。

二人は浜辺の坂を駆け上がり里へ続く小道を逸れて、大井おおいの湧水を流す掘割のほとりに向かった。

 密筑の大井は涸れることのない泉である。

生い茂った巨大な樹木に囲まれて、滾々と湧き出す玉水は池底の白砂を青く染める。

夏には清澄な水で人を癒し、冬には不凍の池として里の生活を守った。

 劉孔は田畑に行き渡って尚余り有る泉水が潤す樹林の陰に腰を下ろし、その清冽な流れを見つめていた。

「大井なかりせば…」今ここに居ることはなかったろう。

 劉孔達は百済くだらからの渡来人である。

半島南部の民と共に、諸蕃しょばんと呼ばれ大陸文化の担い手として重用されてきた。

故郷を遙かに離れたこの地で、皆が大過なくやってこれたのは山海の幸と大井の水に恵まれたからだ。

 遠い昔、先祖が残した足跡を追って辿り着いた場所は、期待に違わぬ豊饒の地であった。

おかげで入植も順調に進み、毎年の貢納にも滞りがない。

だが…いつまで続くだろうか。

 毎年、夏が来ると不安の種が芽を吹き出す。高句麗や新羅の天候はどうであろう。

故国の収穫よりも、そちらを心配せねばならない哀しさ。

北方二国の収穫如何で、百済はその襲撃に脅えなければならない。

もしも故国が敗れるようなことがあれば、倭の諸蕃達はその救済を朝廷に働きかけねばならない。

その為の貢であり、故にここがミツキの里と呼ばれる由縁なのだ。

 大陸からの大船が都へ着く度に、群れ寄って細々と話を聞きたがる人々。

どこのどんな情報であれ、聞き逃すことが、明日の我が身を滅ぼすかもしれないという恐れ。

権力に翻弄されてきた諸蕃であればこそ、大空の隅にかかる薄雲にも敏感になるのだ。

 人々の中に広がる不安を感じる時、無常でない世を恨めしく思う。栄華を誇った王朝も、いつかは倒れる時が来るのだ。

今年はどんな話が待っているのか…全てが順調であることが、却って劉孔を不安にさせる。

 大井の底から滾々と湧き出す清澄な泉水は、その透明さ故に青い水底の深みまでを見通すことが出来る。

湧き上がる水の揺らぎを捉えることは、ここでは難しいことではないのだが…。

「お父様」

呼ばれて高謙は視線を上げた。

艶やかな絹の黒髪、上気した白く柔らかな頬、黒檀の瞳、薄紅にほころぶ口元。

自慢の娘である。宮廷にあれば間違いなく人目を惹くであろう。

優美な身なりを嫌って、動きよい胡服を好むのが少々困りものだが、そうした無頓着さに安堵するのも父親である。

 その娘と手をつないで横に立つ者がいる。

容貌にはまだ幼さが残るが、無駄なく引き締まった体躯と褐色の肌が精悍な印象を与える。

ウタリという凛々しい若者。なにより彼の放つ気が劉孔を惹き付けた。

 黄金の気…こうして目の前に葉祥と並んでいても、ややもするとその気の中に娘の姿が消え入ってしまうほどの、大きく強い気の持ち主であった。

「ウタリ、此度は世話になったね」劉孔は少年を見上げて微笑んだ。

「‥葉祥が困っていたから」

少年はちらりと娘の顔を見て、つないだ手をそっと離そうとしたが、娘が握った手を離さないので困ったような笑いを浮かべた。

「礼をしたいが」

若者は意味を取りかねて、きょとんと劉孔を見つめた。

「何か欲しいものはないか」

「…何も要らない」

欲しい物は自ら狩るか作るかする一族の子である。劉孔は頷いた。

「では、これを」取り出したのは一振りの短剣であった。

劉孔が鞘を抜き放つと、刀身は銀色に輝いた。

 ウタリは目を見張った。

古潭には金属はない。道具は骨と石から作る。

ウタリが革の鞘に入れて腰に付けているのも、石を打ち割って作った石剣である。

彼は金属の輝きに魅せられたように刀身を見つめた。

以前、鹿と銅の鏃を交換したことがあったが、あれは小さすぎてこれほどの輝きはなかった。

「これは鋼の剣という。砂を熱して鉄を取り出し、それを叩いて作る」

ウタリは刀身を見つめたまま、劉孔の言葉を聞いた。

「堅く、良く切れるが手入れを怠ると錆びて使えなくなる」

劉孔は手入れの仕方を念入りに教えると、剣を鞘に納めウタリに差し出した。

「儂の留守中、これで葉祥を守ってくれぬか」

 ウタリは剣と劉孔とを交互に見つめた。

逡巡して隣を見ると、少女がにっこり微笑んだ。

「分かった。これで葉祥を守る」

受け取った剣を抜いて頭上に掲げる。

ウタリの剣は木漏れ日を受けて、水面のようにキラキラと輝いた。

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