第3話 ウタリ
水底から見る空は、波間を漂う陽光に溶けて、ただ黄金色である。
夏の海は、ただそれだけで後の豊饒を約す熱気に満ちているかのように揺蕩っていた。
少年は何度目かの息継ぎで海面に顔を覗かせると、短く笛のような音を立てて息を整えた。
頭上の光で見当をつけると、青一色の清澄な世界に差し込んだ光の帯を掻き混ぜながら、煌めく水面を蹴りつけて勢いよく深みを目指した。
海底から黒く突き出た岩根を被う海藻の林を掻き分けて、彼は磯魚のように素早く泳いでゆく。
敏捷でしなやかな身体の少年、名をウタリという。
はるか昔、獲物を求めてこの地に辿り着いた古い一族に生まれた子で、
褐色の肌を金の波輪にくぐらせて、先ほどから彼は
銀白に反転する小魚の群を抜け、青緑や薄紅に彩られた珊瑚の群生を横切って、海底の傾斜を辿ってゆくと、やがて周囲の青は深い群青に染まりはじめ、陽光は重く翳ってゆく。
彼はゆっくりと移動しながら辺りに目を凝らした。
そこかしこの岩壁には、一抱えもある鮑がいくらも張り付いているが、そんなものには目もくれない。
探しているのは、人の背丈ほどもある
それが彼がこの夏中、入江のあちこちを泳ぎ回って探し続けている獲物であった。
鮑の殻には、たいてい横にいくつかの穴が開いている。
小さな物なら三つか四つ、年を経て大物になれば五つ六つと穴は増えてゆく。
だが、都人に石決明と呼ばれる九穴の大鰒になるためには、長い年月を経る幸運がなければならない。
石決明は目の衰えに明らかな効能があり、九穴は人体の九孔に通じることから、それぞれの急所を癒す不老長生の仙薬と考えられている。
しかし、獲物の豊富な蜜筑の入江でも石決明を見つけだし、捕獲するのは容易なことではない。
住処となる海底の岩場は暗く、潮流は速く激しい。
低温と水圧は容赦なく体力を奪い、命は絶えず危険にさらされる。
切り立った岩礁で怪我でもすれば、血の臭いに引き寄せられた鰐の餌食になる者さえいるのだ。
大鰒を手に入れること、それ自体が幸運であり仙薬と呼ばれる由縁でもある。
密筑の里の者達も競って鮑探しに精を出しているが、今年は未だ一つも揚がってはいなかった。
それだけに、まだ少年のウタリには無謀ともいえる挑戦であった。
だが、決して見つからないものでもないだろう。
星が誰の頭上にも輝くように、幸運もまた彼の隣に皆と同じように微笑んでいるはずなのだ。
その手をつかむために、やみくもに動き回ることも少年には大事な手段なのだ。
少なくともウタリには希望があった。
「好かれていれば‥」
古潭の生活は採取と漁猟が全てで、里のように作物を育てたりはしなかった。
男達は狩りに出かけ、女達は木の実を拾い皮を鞣し、子を育てた。
自然から与えられるものだけを頼りに生活することは、時に難渋を強いられる。
そんな時、彼らは獲物の中に居るカムィに好かれていないのだと考える。
鹿を獲るなら、鹿のカムィに好かれなければ出会えない。
栗のカムィに愛されなければ、その実は得られない。
そして彼等は、常に全てのカムィに好かれるように祈っていた。
ウタリもまた大人達に混じって狩りを始めた時から、カムィへの祈りを怠ったことはない。
それ故、獲物である大鰒のカムィに好かれていれば…それが彼の希望なのだ。
何度目かの息継ぎに水面に浮かぶと、心配そうな少女の瞳に出会った。
岩場の上から、ずっとウタリの姿を探し求めていた瞳である。
彼女は名を
密筑の里から一日歩いた山裾の里、
去年の夏、父に連れられ初めてやって来た密筑の浜でウタリと出会った。
葉祥の父は昨年、新たな作付けのために夏の初めから秋の終わりまで、密筑の里に留まり差配した。
その間、里に置かれた葉祥は子供達と遊んだが、里の子にはそれぞれ仕事があり、客分の葉祥は独りで過ごすことが多かった。
そんな時、この浜で出会ったウタリと親しくなったのだ。
今夏の初め、久しぶりに出会った葉祥から、ウタリは彼女の父が困っていることを聞かされた。
今年は大鰒が獲れないのだという。
毎年密筑の里では獣皮や角、干した海産物等の山海の幸を葉祥の父に納め、彼は静織の里から持参した織物や染料等の品々と一緒に、それらを持って大船に乗り込んだ。
常陸国の物産を都へ貢納するためである。
中でも干した石決明は、重要な貢納品になっていた。
だが、今年は未だに肝心の荷が揃わないのである。
里の大人達が深刻そうに集まっているのを見て、葉祥は父が苦境に立たされているのを知ったのだ。
子供達も一様に心配したが、彼等は同じ年頃のウタリのように、野山を駈け回ったり海に潜ることよりも、田畑の手伝いに出されることが多く、危険な入江の探索には向いていなかった。
今の葉祥には、ウタリより他に頼る者がいなかったのだ。
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