第19話 不審
泉を取り巻く真っ暗な森がざわざわと梢を揺らし、小さな獣が幹を駆け上がっていく。
夜気はたっぷりと湿気を含み、夏の残滓を持て余しているかのようだ。
深く闇に沈む泉の縁を回り、門への道を戻り掛けて、剛霜はふと足を止めた。
篝火に照らされた水場の一画に堆く積み上げられた物がある。
見れば最前の大鹿が既に解体されており、毛皮は干され、肉は燻製小屋に運ばれるところだったようだ。
ごろりと転がった大きな頭がこちらを向いている。
黒々として辺りを払うほどの威圧の光を宿していた目は、今は閉じられて一塊の中にその名残を留めているに過ぎない。
その代わりに、見事な大角は未だ生命有る大樹の枝のように、大鹿の頭を床上に支えている。
「鹿の王か」
剛霜は、その堂々たる大鹿を倒し、強烈な印象を残して去った古潭の少年を思った。
飛鳥のように舞い降り、素早く太い首筋を掻き切った鮮やかな手並みに、自分は感動すら覚えていたのだ。
小童とは侮れない筋の通った話しぶりと、懐の深さ。
少年は当初こそ獲物を横取りされると敵対心を露わにしたが、此方が話し合いの姿勢を見せれば素直に応じてくれた。
話の分からぬ蛮族という印象は無い。
いきなり襲いかかるような真似をしたのは、むしろ里人の方だ。
彼奴ほどの器量を持つ者が、古潭にはどれほど居るのだろうか。
その脅威にも気付かず、小童と侮って襲いかかり、返り討ちにされた愚かな里の者達。
其れ等の讒言を鵜呑みにして、船守衆憎さに怒り狂った里長と比べれば余りにも…。
「いや…違うな」
剛霜は眉間の皺を深くした。
権を越えた里の拡大計画と不遜とも思える主への態度は、すべて古潭の脅威に端を発するものなのだろう。
『この地に年の半分もおらぬ者に、吾等の不安など分かるものか』
側近の一人が吐き捨てた言葉が全てを物語っている。
「臆病者め」
そして、俺は阿呆だ。
まつろい者は移された地を動くことが出来ない。
古潭はその里の背後にあるのだ。
だが、その位置は不明で、不気味な存在を意識しながら生きていかねばならない者達にとって武器の優位性は拠り所の一つである。
それを失ってしまうのでないかという不安に対する配慮に欠けていた。
里長のあの半狂乱のような怒りには、心底に積もる不安と恐怖が現れていたのだ。
里人の大半は古潭の者を見たことが無い。
剛霜だとて、今日初めて彼の少年に
大抵は、そうした遭遇から広まった噂を聞いた者ばかりなのだ。
曰く、恐ろしげな容姿。曰く、血を好み見境無く襲う。曰く、猿のような身のこなし。
中には真実もあろうが、その多くは虚実の入り乱れた噂である。
目にしたことの無い古潭の者、背後の山の何処かにある里。
未だ見ぬ敵だからこそ、里人は茫漠たる不安を抱くのだ。
潜在的な脅威に晒されながら、生産と狩猟を続ける生活をこれからも続けなければならないのだ。
俺は交換という決着の付け方で、少年への借りを帳消しにしたつもりだったが、武器を渡した事で、里人に要らぬ不安を与えてしまった。
あれで古潭が銅の鏃を作れるとは思えないし、里長もそれは理解しているのだろう。
それでも思った以上に里人の憂いが深いことを知った。
だからといって、あの時交換という手段をとらなければ、それはそれで後の憂いとなっただろう。
弓矢以外に少年の興味を引く物が無かったということもある。
剛霜はずんずんと道を下っていった。
たいして効いてもいない里長の打擲であったが、今は背中の傷がずきずきと痛む。
己の迂闊さに忸怩たる思いを抱きつつも、一方では抑えきれぬ反駁もある。
『俺も阿呆だが、里長も浅慮で狭量だ』
結局、あの里の狩番共が古潭憎し、剛霜憎しの腹いせに大げさな讒訴をし、里長がそれを抑えもせずに騒ぎを大きくしただけではないのか。
剛霜の罪を言い立てたところで、里人と船守衆の対立をより深くするだけだ。
元々折り合いが悪かっただけに、里は古潭という潜在的な敵以外に、船守衆という明確な敵を作ってしまうことになるのだ。
里長は、これをどう収めるつもりなのか。
「ん? 収め方か…」
そこまで考えて、ふと思い至った。
只でさえあちこちの邑から集められた里人である。
おそらく見知らぬ同士の猜疑心や不安からくる不協和音は、里の成立当初からあったに違いない。
それを里長は、どうやって収めてきたのか。
古潭という見えざる不安を煽って里人の団結を促してきたのではないだろうか。
では、今度は…。
『いつまでも倉代わりの里に甘んじてはおられぬわ。儂は静織を越える里を作るのじゃ』
里長の言葉が蘇る。
『吾等を敵にして、さらに強く里をまとめ上げる…か』
それが里長の思惑なのだろうか。
そもそも里長は古潭の脅威など、最初から信じていなかったのではないだろうか。
「まさか…な」
胸に沸き上がった疑問に、あえて口にした否定の言葉が闇に溶けていっても、一度まとわりついた不信感が拭い切れないのを感じながら、剛霜は頭を振って歩みを速めた。
敵止めの土塁を曲がると、途端に潮の匂いが濃くなってくる。
「剛霜はどうしたっ」
「さっさと戻さぬかっ」
門前の喧噪が意味のある言葉となって聞こえてきた。
船守衆の影が篝火の先で揺らめき、門衛の構える槍の穂先が煌めいている。
里長への不審はあるものの、それをどう捉え裁くかは主の仕事だ。
今はただ、あの大鹿を射た少年の鏃のように、僅かな毒が総身に回らぬ内に事が収まるのを期待しながら、両者の衝突を防ぐのが剛霜の仕事である。
門前の喧噪は益々激しくなり、門衛と船守衆とは一触即発の危機を迎えている。
一刻も早く彼等に無事な姿を見せて暴発を防がねばならない。
「おうい、待てっ。俺はここだ」
剛霜は己の憂いが杞憂であることを願いながら、門に向かって駆け出した。
『野の
~ 常陸国風土記より ~
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