第5話 探索

「大丈夫だ」

 ウタリは葉祥に笑顔を見せると、いっそう大きく息を吸い込んで潜水した。

浮き上がる直前に、目の隅で捉えた岩根の窪み。

群青の闇に沈みかける海底の、見過ごしてしまいそうな何気ない凹みから、沸き上がるような噴流を見つけたのだ。

彼はその場所へまっすぐに降りて行った。

 大鰒はその巨体ゆえ、海底の平らな岩礁にへばりついている。

その岩を住処に定めるともう決して動かない。だから里の者は石決明をイワギメと呼んで普通の鮑と区別している。

 定着した石決明は殻の色合いや付着した海草のせいで、薄闇の海底でそれと見分けるのは難しい。

呼吸穴から吹き上げる陽炎のような噴流が、唯一の手がかりになるのだ。

ウタリは周囲を確認しながら、先ほど見定めた海底を目指した。

 深い群青の海を透かして、岩壁の凹凸に目を凝らすとわずかな光の中にも、水の揺らぎを捉えることが出来る。

慎重に視線を移すと、案の定そこには噴流が見えた。

 だがその噴出口は、生き物にしては巨大すぎた。

まるで岩山に穿たれた洞穴のように、ぽかりと開いた穴から水流が噴き出しているのだ。

どうやら速い潮流が岩壁に穿って出来た、自然の流出口のようだった。

 ウタリは落胆して、すぐさま反転を試みた。

掴んでいた岩根に足をかけ、その反動で上を目指す。

ところが蹴った岩壁が、ぐずりと形を失った。

慌てて両手を掻いて、平衡を取り戻す。

見ると、今まで彼が掴んでいた岩根の上半分が無くなっていた。

 長年の浸食で限界に来ていた所へ、蹴りの衝撃を受けて崩れ落ちたのだろう。

その岩片が、岩山に開いた穴の上へどすんと落ちた。

これであの忌々しい噴流も止まるだろうと、さらに上方へ一掻きしたところへ不気味な震動が伝わってきた。

「なんだ…」

 下を見ると、海底の砂が白く巻き上げられている。

地震だろうか。それにしては突き上げられるような衝撃が全く感じられない。

 だが、次の瞬間、岩場全体がぐらりと揺れ動いた。

岩山が、ぐぐっとせり上がったかと思うと、大きく左右に振れたのだ。

砂粒を煙のように吹き上げて、動き出した岩山は、傾がせた身体をさらに大きく上下させた。

その動きで、穴を塞いだ岩片が、ごろりと転がり落ちる。

 ウタリは目を見張った。

海底から突き出た岩礁だとばかり思っていたそれは、石決明が平らな岩盤の上に、岩山のように貼り付いている姿だった。

彼の目の前には、林のように海草を生やした巨大な一枚貝の円殻が横たわっているのだ。

「カムィ…」

ウタリの目が幸運を捉えた喜びに輝いた。

 大鰒の周囲を観察すると、大小の岩や海草が取り巻いて容易には手を出しがたい。

彼は出来るだけ周囲の障害物を取り除き、腰に巻いていた荒縄を近くの岩礁に結びつけると、まっしぐらに海面に躍り出た。

「見つけたぞっ」

波間から拳を高く突き上げる少年を、金色の陽光が包んだ。

海面のそこだけに眩しい光が降り注ぐかのように明るい希望を見つけて、葉祥の目が大きく輝く。

「みんなを呼んでくるっ」

 駈け出していく後ろ姿に頷くと、ウタリは岩棚に身体を引き上げて仰向けに寝転んだ。

 夏の太陽で十分に灼けた岩棚は、少年の背中を熱く刺激するが、それが冷えきった身体には心地よい。

片手を額に乗せて陽射しを遮り、穏やかな潮風の愛撫を受けると、心地良い微睡みに誘われそうだ。

「これで約束を守れる」

去年よりさらに美しく成長した少女を思って、少年の頬は幸福に緩んだ。


 中天にあった太陽が西へと傾きだした頃、幾人かの男達が道具を携えてウタリの待つ岩場へやって来た。

密筑の里の若者達である。

どれも頬骨の張った武骨な顔立ちで、筋肉質のがっしりした体つきをしている。

「また、オマエかっ」

 中でもひときわ大きく、日に焼けてあかがねのような体躯の若者が、少年を睨め付けるように呼ばわった。

 鋭い眼光、大きく四角いあご、逆立った短い頭髪の片側には、そこだけ白髪の房があった。

故に名を蔡厳さいげんあざな剛霜ごうそうという。

「ここは密筑の海だ。お前なんぞが来るところではないっ」

胸を張り、その筋力を誇示するように腕を組んで見下ろす。

 寝そべっていたウタリは半身を起こすと、燃える瞳でその若者を見据えた。

「海も山も誰の物でもない」

なにっと眼を剥いた若者を、何人かの手が押しとどめた。

「やめろ剛霜。今はそんなことを言ってる場合じゃなかろう」

「だがな、袁乗えんじょう、此奴は…」

仲間の一人である袁乗の言葉に反論しかけると、次々と他の者も声を上げる。

「吾等は、一刻も早く石決明を獲らなければならんのだ」

「争う時ではない」

「くそっ」

 剛霜と呼ばれた若者は、仲間の手を力任せに振りほどくと荒い息を吐いた。

「分かっとるわっ。だが言っておかねば此奴等は好き放題に我等の海を荒らすぞ。里人と違って此奴等は食い物を作るということを知らんのだ。海も山も狩り尽くし、食い尽くす鼠野郎共だ。そんな奴等に恩をきせられてたまるものかっ」

 ウタリは剛霜から目を逸らさずにゆっくりと立ち上がった。

いるかのように柔軟で強靱な筋肉の動きがなめらかな褐色の肌に現れる。

全身から無数の針のように強い気が発せられ、まるでしなやかな猛獣のように男達との間合いを詰めた。

 挑みかかるような眼の色は、くっきりと虹彩の現れた鳶色で時に金色に輝いて見える。

その金色の眼光に気圧されて、若者達は思わず後じさった。

「やめてっ」

 葉祥が鋭く叫ぶと、ウタリは視線を外し軽く首を震った。

闘気がふいと消え、目の隅が僅かに笑う。

男達に近づくと、ぐいと両手を突き出した。

たじろぐ男達を前に、そのまま大きくひと伸びすると、剛霜達に「ついて来い」と告げて、するりと海中に飛び込んだ。

「‥くそっ」

少年の姿が海中に消えると、男達は慌てて彼の後を追った。


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