妖精王の悪戯

橘花かがみ

1.〈聖女〉エルナ




 豪奢な金髪を真珠で飾り、レースを幾重にも重ねた菫色のドレスを身にまとった美女が、ずらりと侍女や護衛を従えながら待っていた。


「ようこそ、聖女様。お会いできるのを楽しみにしておりました」


 グートシュタイン公爵家次女フランツィスカは、ころころと笑いながらエルナに椅子を勧めると、侍女を一人残して十人前後の側仕えをガゼボの外に追い出してしまった。屋外なので姿は見えるが、声は聞こえない形だ。エルナの護衛として連れてきた女性武官は同席を許されたが、緊張する。


『終わる頃に迎えに行くけど、少しでも気分が悪くなったら、無理せず退出するんだよ。俺も、ちゃんと仕事を調整してあるから、遠慮しないで』


 このガゼボがある王宮までの道を同行してくれた婚約者ジークハルトの言葉が耳によみがえった。


 エルナをここに招待したフランツィスカは、今のところ穏やかで敵意を感じないが、身分ある人の落ち着いた佇まいで、妙な迫力がある。エルナは「失礼いたします」とぎこちない動きで、中央に設置されたテーブルに近づいた。


「本日は、お招きいただき、ありがとうございます。この度のお礼に、ささやかながらお土産を持ってまいりましたので、お受け取りください。レオノーレさん」

「かしこまりました」


 覚えた口上を述べ、後ろに控える護衛官を見上げれば、彼女は慇懃に一礼した。懐から一通の封筒を取り出し、フランツィスカの侍女に手渡す。


 それを横目で眺めていたフランツィスカが、不思議そうに瞬きした。


「あら、お手紙?」

「フランツィスカ様のためになるものが同封してあると、ジークハルト様に伺っています。機密上、他に漏らせないそうで、私は中身を存じませんが」

「機密ねえ」


 フランツィスカは無関心そうに呟くと、何事もなかったかのように「どうぞ、おかけになって」とエルナに椅子を勧めた。ありがとうございます、とお礼を言ったが、まだ座る気になれない。


「あの、フランツィスカ様。最初に一つだけ、よろしいでしょうか」


 フランツィスカはおっとりと頰に手を当てる。


「構いませんけれど、何かしら?」

「この度の、私の、婚約についてです」


 エルナは小さく息を吸って、フランツィスカに深々と頭を下げた。


「申し訳、ありません。様々、事情があったとはいえ、フランツィスカ様に失礼なことになってしまいました」

「ああ、そのことですの」


 フランツィスカは動揺一つ見せず、全く同じ調子で相槌を打つ。取り付く島もないようだった。


「謝罪は結構です。妖精王の悪戯ですもの」


 お座りになって、と再度促され、エルナはようやく、のろのろと着席した。


 どうすれば、目の前の人のプライドをこれ以上傷つけずに済むのか。


(……わからない)


 喉がからからになる。


 先日、とある伯爵令息との婚約が発表された聖女エルナは、その伯爵令息の元婚約者フランツィスカを前に、早くも言葉をなくしてしまった。






 ローゼンミュラー王国は、わずか一年の間に目紛しく情勢が変化した。


 伝説の聖女の出現、怪しげな妖精教会の台頭、王弟派の不穏、隣国との緊張関係、各家の経営状態、能力や適性、性格の不一致。諸々の事情が重なった結果、上流階級の複数の縁談が同時期に破談になり、新たに婚約し直された。国内外に激震を走らせた国王主導のその発表は妖精王の悪戯と呼ばれ、皮算用していた気の早い下々――といっても、貴族や彼らと関わりのある大商人くらいだが――は今大わらわだという。


 それでも、将来的には、今の状態が一番良いらしい。


 地方のしがない農民だったエルナの生活が一変したのは一年ほど前だ。突然、今まで関わったことのなかった妖精教会が実家に現れ、御言によりエルナは聖女に選ばれたと教会に連れ去られた。訳もわからぬまま大勢の信徒に傅かれ、どうか奇跡をと乞われた二月は地獄だった。異変に気づいた王国騎士団が何とかエルナを救出してくれたが、今度は血みどろの乱闘の記憶やら王宮での軟禁生活やらに傷つき、他にもいろいろあって、現在は婚約者ジークハルトの実家、ドレッセル伯爵家に身を寄せている。


 ジークハルトは優秀な王宮魔術師で、エルナが王宮に保護されたばかりの頃、聖女の力を使いこなせるように派遣された魔術の指導役だった。眉目秀麗な人だし、実際婚約まで運んでいるのだから、あわよくば取り込もうという采配だったのだろう。すっかり疑り深くなったエルナは簡単に人を信じない。


 ジークハルトは妖精王の悪戯によって、十年の付き合いであるフランツィスカとの婚約を解消し、改めてエルナと婚約した。先の婚約を解消したフランツィスカは、ローゼンミュラー王国の第一王子と婚約し、次期王妃の立場になっている。伯爵夫人に比べても大出世で、彼女の実家は大喜びだというが、本人がどう思っているかは定かではない。政略的な事情のみでかつての婚約が結ばれたなら、社交界の中心人物であり、引く手数多の公爵令嬢が、格下の伯爵令息を選ぶ理由がないからだ。


 ジークハルトによれば、二人の婚約の発端は、王子の妃候補として度々登城していた幼いフランツィスカが、王子の意地悪の数々に堪りかねて結婚を拒否したことにあるらしい。フランツィスカは王子の乳兄弟で親交のあった優しいジークハルトの方がいいとごね、両家も利があると合意したために婚約に至ったそうだ。


 つまり、フランツィスカはかつて、王子よりもジークハルトを選んだのだ。しかも、彼女がジークハルトの婚約者だった頃に、彼はおそらくエルナを射止めるために指導役として送り込まれている。フランツィスカがジークハルトに未練を残していなくても、平民のために婚約者を譲らされたと怒っていても不思議ではない。


「今、お茶をお淹れしますわ。我が家自慢のものをご用意しましたの」


 フランツィスカの言葉に、彼女の侍女が淀みない手つきでお茶を淹れ、エルナと主人にそれぞれ湯気の立つティーカップを差し出した。


「グートシュタイン産の新茶になります」


 お茶の香りに気を取られていると、次に焼きたてのパイが並べられる。艶がかった金色の果実が生地の中に敷き詰められ、また薄切りにされて皿の端で花の形を作っているので華やかな見た目をしていた。グートシュタイン家の特産物といえば蜂蜜林檎だが、まだ時期ではないはずだ。何の果物だろう。


 侍女が取り分けるのを見ながら、フランツィスカがエルナに微笑みかけた。怖い。


「おわかりになって?」


 背筋にだらだらと冷や汗が流れる。平民でずっと家事ばかりしていたエルナに、貴族に求められるような教養は一かけらもない。


(やっぱり、一言言いに来たのでは……)


 来たというか、招待されたのはエルナなので呼びつけたというか。謝罪を拒否されてしまったので、他にどうすべきかわからないが。


「……えっと」


 エルナはゆっくりと考えを巡らせた。


「蜂蜜林檎、でしょうか」


 エルナが答えると、フランツィスカは優雅に首を傾げる。


「あら、どうして?」

「パイは、酸っぱい林檎を使った方が美味しくなる、ので」


 蜂蜜林檎は、長い年月をかけて蜂蜜のように甘くなることから名付けられている。逆に言えば、まだ時期ではない、熟していない林檎は甘みがなく、酸味が強い。蜂蜜林檎のような高級品は平民には手が届かないが、成長途中で間引かれた蜂蜜林檎が流通していることは稀にあったから、一度だけ食べたことがある。全然甘くなくて、弟などはこんなもの蜂蜜じゃないと怒っていた。


 間引き林檎などと呼ばれていた未完成品を、立派なお貴族様が「自慢」としてお茶会に持ってくるかわからなかったが、今のエルナにはそれしか回答がない。エルナのたどたどしい説明を、フランツィスカは神妙に聞いていた。


「よくわかりましたわ。正解です。……フリーダ」

「はい、お嬢様」


 呼ばれた侍女が、どこからか小さな箱を持ってくる。丁寧な仕草で護衛官に受け渡され、エルナは戸惑った。


「これは?」

「我が家のもう一つの自慢ですわ。お近づきの印に、受け取ってくださいな」

「……ありがとうございます」


 フランツィスカの対応をどう受け取ればいいのかわからないが、ひとまず躓かなかったようだ。ほっとしてお礼を言うと、フランツィスカは当然のように言う。


「ジークに渡せば上手くやってくれますわ」

(……ジーク)


 親しげなのが気にかかって、一瞬難しそうに眉が寄ってしまった。それに、すでに社交界の荒波を乗りこなしている公爵令嬢が気づかないはずもなく、「あら」と指先で口元を隠す。


「馴れ馴れしくしましたわね」

「いえ。ジークハルト様とは、幼なじみだと伺っています」


 幼少期から付き合いのある二人の仲が良いのは当然だろう。ただ、現婚約者であるエルナを前にして、元婚約者のフランツィスカがジークハルトを愛称で呼ぶというのは、邪推してしまう。


 フランツィスカは、エルナが気に入らなくて、嫌味を言っているのではないか。


「そうですけれど……。そうね、いい機会ですから、エルナさんに、一つだけお聞きしたいの」

「はい」


 何を言われるのかと、エルナがか細く頷いた次の瞬間だった。


「あの人、甘くありませんこと?」


(…………)


 エルナはしばらく硬直した。


「はい?」

「そうですわよね! あの人、甘すぎますわよね⁉︎」

「え? え、えっと」


 どうやら、聞き返したのが肯定と捉えられたらしい。勢いづいたフランツィスカは身を乗り出さんばかりに綺麗な菫色の瞳を爛々と輝かせ、その後ろで侍女が軽く目を閉じた。手がつけられないと言わんばかりに。


「少し前髪を整えただけで可愛い可愛いと褒めそやし、習い事が上達すれば努力した結果だと言い、パーティーで失敗すればそのために俺がいると言う! お手紙も欠かさず、こちらの好みと流行を押さえた贈り物をくださり、暇があれば頻繁に会いにいらっしゃって、否定的なことは絶対に言いませんの。やりたいことを咎めることもなく、付き合ってくださって……あの人の言葉を信じたおかげで、私、手持ちのドレスが全部入らなくなるほど太りましたのよ!」


 呆気にとられているエルナを見て、侍女が淡々とした声色で補足する。


「あの頃のお嬢様は怠惰の化身でございました」

「お姉様にもヴォルフラム王子にも散々馬鹿にされましたわ!」


 ヴォルフラムとは、彼女の現婚約者であるこの国の第一王子である。


 癇癪を起こした子どものように叫んだフランツィスカは、不満げに唇を尖らせた。


「もし、私がお転婆でなければ、社交もせずずっと邸に引きこもっていてもおかしくなかったでしょうね」

「そう、なのですか」


 フランツィスカは心を落ち着けるようにお茶に口をつける。エルナはまだ付き合いの浅い婚約者の優しい笑顔を思い浮かべた。


「確かに、お優しい方ですが……」


 ただの教師と生徒だった頃から、未知の力に振り回されるエルナに根気よく付き合ってくれて、行儀作法や読み書き、地理歴史などの他の科目の相談にも乗ってくれた。食が細いのを見かねて故郷の料理が食べられるよう取り計らってくれたり、拉致されたきりだった家族に会えるよう掛け合ってくれたりしたのもジークハルトである。その身を狙われやすい聖女を守るためにと国内の貴族との結婚を求められたときも、候補にジークハルトが入っていたから、冷静な判断ができた。正式に婚約が決まった後は、息の詰まる王宮からさっさとドレッセル伯爵家へ移らせてくれて、心労の種だった側仕えの数も減らしてくれた。


 指折り数えると甘えっぱなしで情けないが、それがなければ、エルナはたぶん生きられなかった。心は死んで、ぼんやり人形のようになっていたと思う。


「私には、それくらい、必要でした」


 ぽつりと言葉が落ちる。フランツィスカがふと手を伸ばして、エルナさん、とテーブルの上の手に触れた。



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