10.〈護衛官〉レオノーレ




「我々の最初の仕事は、【通信】の護符の実用化に向けた研究になります。以前エルナ様が解読された、ジークハルト室長が写しを持って帰った魔術式のことですね」


 ヨルンが説明の途中で「失礼」と立ち上がる。棚のそばにつけておいた台車の木箱から、整理前の資料や筆記用具を引っ張り出してテーブルに戻ってきた。


 ヨルンは席に着くと、エルナに見やすいようまずローゼンミュラー王国内の地図帳を開いた。隣に座るゲオルクが身を乗り出して覗き込む。


「【通信】の護符は、四か月前にヴァラハ要塞の奥で見つかりました。ここですね」


 ヨルンは身を乗り出して、地図のある一点を指差す。王国北部のグートシュタイン公爵領の北東の端、広大な山脈の麓だった。ヴァラハ要塞はおよそ八百年前に建設されたとされており、その辺りは当時の国境付近である。


「あの護符も同時代の遺物でしょう。魔術分野では、大体千年前から七百年前の魔術文明を古代魔術と定義しています。古代魔術は現代魔術より難解で高度な魔術式が使用されているため、ほとんど解明できていません。今回王太子殿下が直々にエルナ様に出仕を命じたのも、それだけ大事だったということです」

「六百年前に暗黒期がありましたからね。そこでそれまで盛んだった古代魔術の文明が壊滅しちゃって、散逸した史料をかき集めながらそれを復元しようとしているのが現代の魔術です。古代魔術と現代魔術の境目は六百年前ですよ」


 ヨルンの説明に、ゲオルクが口を挟んだ。一般人が持ち得ない知識にヨルンが意外そうに驚き、ゲオルクが皮肉げに笑う。


「昔魔術師学校に通ってたんですよ。授業についていけなくて落第しましたけど」

「へえ。それは心強い」


 ヨルンがあっさりと歓迎すると、ゲオルクはちょっと虚を突かれたような顔をした。研究者の領分に踏み込んで怒られないのが予想外だったらしい。しかし、主のエルナがゲオルクが口をつぐんだのを不思議そうに見るので、黙ってもいられなくなった。期待に応えて話を続ける。


「暗黒期以降、怪しげな呪い扱いされていた魔術を本格的に研究し、初めて体系化したのがヴァルプルガ・ドレッセル。二百年前のジークハルト様のご先祖です。魔術の才を開花させた初代は当時のローゼンミュラー王に取り立てられ、代々魔術の最前線を走っているというわけですね」


 ゲオルクの説明に、エルナは首を傾げた。レオノーレは奇妙に沈黙した彼女を不自然に思い、「何か気になりましたか」と優しく尋ねる。


 エルナは緊張を堪えるようにぎゅっと両手の拳を握り合わせ、おずおずと口を開いた。


「……現代の魔術と古代魔術は、同じなのですか」

「現代魔術の先に古代魔術があるとするのが通説です」


 ヨルンは地図帳を片付け、横に置いていた分厚い本を引き寄せる。魔術師学校の教科書のようだ。


 ヨルンはぱらぱらとページをめくり、「いくつかエルナ様に見ていただきたいのですが」と教科書を上下逆さまにしてエルナの前に差し出した。


「先程ゲオルク殿がおっしゃっていたように、現代魔術と古代魔術には暗黒期という明確な断絶期間があります。現存する史料が少ない古代魔術はあまり研究が進んでいません。また、今まで魔術式は絵や図形のようなものだとされており、エルナ様のご指摘によって初めて言語であるという説が浮上しました」


 本の内容が見えず置いてけぼりを食らいそうになって、レオノーレはそっと席を立った。エルナの後ろを回り、ゲオルクの反対側から教科書を覗く。


 ページの説明を見るに、いくつもの魔術式が古いものから順番に解説されているようだが、レオノーレにはやはり奇妙な線の集合体にしか見えない。子どもがクレヨンを握って落書きしたような見た目だ。


「現在の主流は現代魔術――魔術師一族ドレッセルの初代ヴァルプルガが確立した魔術体系、つまりこの二百年間の常識です」


 最後のページまで行き着いたところで、ヨルンはエルナの顔を覗き込んだ。


「エルナ様。どこまで読めましたか?」


 問いの意味を図りかねた様子で、しかしエルナは迷う素振りはなく四分の一辺りを開く。


「確実に読めるのは、ここまでです」


 エルナが開いたのは七百年前の、最も新しい古代の魔術式のページだった。次からは五百年前の暦に飛び、現代魔術の解説がされている。


 知識を持たないエルナが魔術式を読んだのは、全ての言語を操る聖女の力によるものと推測される。魔術式を読めないレオノーレのような一般人とエルナの違いがそれしかないからだ。だから魔術式が言語である可能性が出てきた。


 しかし、エルナは読めるものと読めないものがあると言う。その返答を聞いたヨルンは楽しげにほくそ笑んだが、レオノーレは意味不明だ。ゲオルクが眉根を寄せる。


「古代魔術が読めて、現代魔術が読めないってことは、魔術式が途中で言語から絵や図形に変わったってことですか。暗黒期で文明がほとんど失伝してるし、研究の過程で技術が変容しても不思議ではないですけど」


 ヴァルプルガが開発した現代の魔術式として一番有名なのは【浄水】だが、長年研究と改良を重ね、二百年前のものとは大きく変わっている。その要領で古代魔術からどんどん乖離して独自の発展を遂げたのかもしれないとゲオルクは推測した。


「変わったというより、現代魔術の始祖であるヴァルプルガが変えたような気がしてるけどね。証拠はないが、それくらい古代魔術と現代魔術は完全なる別物だ」

「本気ですか」


 ヨルンの言葉に、ゲオルクが唖然とする。レオノーレは素人なりに必死で話を理解しようとした。この先エルナに何が期待されているのか、それによって何が起きるか考えて、ヨルンに確認を取る。


「……古代と現代とで魔術が別物なら、現代魔術の知識を前提に古代魔術を研究するのは無理ではございませんか? 外国語の文章を無理やりローゼンミュラー語で読もうとするようなものですよね」


 ヨルンは感心したように頷く。


「かいつまんで例えるならそんな感じだろうね。私の研究はエルナ様のご助言という辞書の一ページを手に入れて、四苦八苦翻訳しながら何とか文章の大意を掴んだというところです。ここから実用化させるのは、習ったことのない言葉でその国の作法に則って返信を書くようなイメージですね」

「…………」


 細かい決まりの多い文書でのやり取りを最も苦手とするエルナの目が光を失った。うへえ、とゲオルクも嫌そうな顔をする。レオノーレは悪い予感がして、つい声を小さくした。


「それでは、古代魔術の研究者を敵に回しませんか? バルヒェット様のお話が真実だとすると、これまでの古代魔術研究は大幅に空回りを続けていることになります。研究というものに野暮な指摘なのは承知していますが、その状況でエルナ様の研究室が新設され、しかもそのお力が古代魔術の研究に真価を発揮するともなれば」


 古代魔術の研究者が、研究成果において門外漢に出し抜かれたことで用済みと判断され、今後専門分野の研究は聖女研究室に乗っ取られると予想してもおかしくない。


 心配するレオノーレに、ヨルンはふむと顎を撫でた。


「あなたが心配するのはもっともだけど。残念ながら古代魔術を専門とする部署って、【通信】の護符を古代遺跡で発見した遺物研究課が一番大きいんだ」


 すでに自分たちの功績になるはずだった研究成果を横から掻っ攫われた状態である。恨みを買うならとっくに買っている、とヨルンが呑気に言う。レオノーレは表情を消した。


「大丈夫だよ。王太子殿下が気にかけてくださっているし、ドレッセルとバルヒェットのセットに歯向かえるような研究者はいない」


 ヨルンが安心させるように微笑む。それはそうだろうが、むやみに敵を作るべきではない。研究馬鹿のヨルンはともかく、国をまとめる立場の王太子がいつまでもエルナを支持できるとは限らないのだ。それに、とレオノーレはつい視線を鋭くする。


「お言葉ですが、それはバルヒェット様も同じでしょう」


 不躾にも切り込めば、ヨルンは意外そうに目を丸くした。


 すでに諸外国へのアドバンテージを十分に得ている魔術分野は確実に守り育てていくべきものだが、相当な金食い虫なので現状維持で十分という声もある。そういう穏健で堅実な価値観を持つ貴族の筆頭は、実はバルヒェット侯爵家だ。本人は欠片も気にしないだろうが、他の研究者と無用な軋轢を生むようなら、バルヒェット侯爵は事を収めるためにヨルンを切り捨てることも躊躇わないだろう。


 ヨルンは少し嬉しそうに頬を緩ませた。


「心配してくれた?」

「バルヒェット家の方々にはお世話になりましたので」


 レオノーレは他人行儀に視線を外して答えたが、ヨルンは付け入る隙を見つけたとばかりに即座に言い返す。


「お世話になったのは私の方だと思うけど」

「ご冗談を。ご厚意に甘えて度を過ぎたこと、今も猛省しております」

「それなら、私がもらいすぎた分を返させてほしい」

「私がいただくのでは釣り合いが取れません」


 何度も聞いた元婚約者の申し出を、レオノーレはその度に辞退する。あの手この手で言質を取ろうとするヨルンの猛攻をかわし続けていると、ゲオルクがあきれ顔で割り込んだ。


「あのー、お二人とも、痴話喧嘩ならよそでやってくれませんか。エルナ様が興味津々ですよ」


 言われて目を向ければ、エルナはつぶらな瞳でこちらを見つめていた。ゲオルクが言った通りだ。青ざめるレオノーレを目の前で、ヨルンがここぞとばかりにアピールする。


「どうぞ、ご覧ください、エルナ様。そして私がレオノーレの害にならないと理解してくださったら、私の味方をしてください。レオノーレときたら、いらぬ苦労をわざわざ買い込んでいるのですよ」


 子どもが先生に言いつけるような話し方に、レオノーレは思わず悲鳴のような声を上げた。


「エルナ様を巻き込まないでください、ヨルン様! ゲオルクも痴話喧嘩ではない!」


「今、思いっきり、名前呼んだじゃないですか」


 さっきは苗字だったのに、とゲオルクが半眼で指摘する。ヨルンは動揺するレオノーレを無視してエルナに話し続けた。


「エルナ様、レオノーレに幸せになってほしいとは思われませんか?」


 エルナはレオノーレの様子を気にしながら、しかしはっきりと首肯する。主を味方につけられそうになったレオノーレがガタッと腰を浮かせ、エルナはおもむろに口を開いた。


「でも、レオノーレさんがヨルン様と結婚したら、困ります」


 しん、とその場が静まった。


 ヨルンはきょとんとしている。レオノーレは言いかけていた言葉を失って、ゲオルクは素直に驚いていた。しかし、ほとんど意見しないエルナから、レオノーレを信頼する言葉が聞けたことに喜んでいる暇はない。


「レオノーレにその意志があればの話になりますが、結婚したとしても私はレオノーレの仕事に口を出すつもりはありません。三男なので跡継ぎの必要もないですし、レオノーレがエルナ様のお側を離れることはないかと」


 ヨルンが平然と答えるので、エルナは考えるようにぱちぱちと瞬きした後、ゆっくりと頷いた。


「それなら……」


 レオノーレが同意すれば、結婚に反対しない。エルナがそう言わんばかりの視線をレオノーレに投げたとき、ヨルンはにこりと微笑んで気軽に告げた。


「とはいえ、私との結婚がレオノーレにもたらすものは特にありませんから。婚約期間の恩を返せれば、それで」

「……?」


 エルナとゲオルクが怪訝そうに疑問符を浮かべる。レオノーレは苦虫を噛み潰した気分になり、とっさに拳を握った。


「結構です。以前も申し上げましたが、ご迷惑をおかけしたのは私ですから。これ以上甘えるわけにはまいりません」


 レオノーレの笑みが圧を帯びたが、ヨルンは柔らかな態度を崩さない。


「あなたがクライン子爵の借金を返済する必要はないと思うよ」

「ヨルン様こそ、肩代わりする理由はないでしょう」


 クライン子爵家が抱える借金はヨルンには関係がない。ヨルンは肩代わりの理由としてレオノーレとの婚約期間を挙げるが、二人して仕事優先で、手紙のやり取りも何度かのデートも先延ばしになりがちだった。そんな緩い関係を恩と言われても、そんなことはないとしか思えない。


 なぜそこまで食い下がるのかと、レオノーレが恨めしさを込めて睨むと、ヨルンはひどくあっさりと告げた。


「レオノーレが気にするから」


 テーブルに頬杖を突き、拗ねたような仏頂面で続ける。


「あなたがたくさん苦労を背負い込むから、あなたを愛する私はどうにかしたいと思うのだけど」

「……やめてください」


 ゲオルクの視線が痛い。ふてくされたヨルンの顔を見るとレオノーレが悪いような気がしてくるが、愛すると言って何も求めてこないのはヨルンの方だ。


 いっそ、借金を肩代わりする見返りに結婚でも迫ってくれればいいのに。ヨルンはただレオノーレに与えようとするから困る。


(私を、奪うばかりの悪女みたいにしないでいただけますか)


 言えない思いを胸の底に沈め、レオノーレは人知れず溜息をついた。



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