11.〈研究者〉ヨルン




 バルヒェット侯爵家は、五百年前にローゼンミュラー王国が誕生して以来の臣だ。真面目で厳格な家系として有名で、身分や礼儀作法にうるさく、古きを重んじ新しきを怪しむ伝統貴族である。当主である父を始め、よそから嫁いだ母も二人の兄も例に漏れず保守的で、三男坊のヨルンは小さい頃から異分子だった。


 バルヒェット家の血筋は規則や礼儀に対する厳格さから内務省の文官になることが多く、幼少期に魔術に目覚めたヨルンは珍しかった。ヨルンは眉をひそめる両親に無理を通し、専門的な魔術書や家庭教師を揃えてもらって勉強を始める。どんどん魔術研究にのめり込んでいったヨルンが、一族の問題児になったのは十六歳の頃だ。


 年頃になり、決まった相手のいない三男のためにと両親が用意した令嬢の釣書やお見合いを、ヨルンが魔術研究を優先してことごとく無駄にしたせいである。家族は人の好意を無下にしたり、伝統や仕来りを無視したりすることを嫌う。縁談に無関心で、不義理を働いて平然としていたヨルンの評価は日を増すごとに下がっていった。ヨルンの方も研究時間を奪われるだけの縁談話にはどんどん気持ちが萎え、加速度的に縁談は上手くいかなくなる。


 家から逃げるように魔術省に入った後も、家族の催促は続いた。どうやら家族は、ヨルンが家庭を持てば魔術への情熱が落ち着いて他にも目を向けると思っているらしい。多分、一時期魔術そっちのけで絵画やその専門書を漁り始め、ヨルンがようやく魔術以外に興味を示したと思ったら結局魔術関連だったというぬか喜びを経て、やけになっているのだと思う。絶対変な意地を張らない方が楽なのだが。


 膠着していた事態が変わったのは二十二歳のとき、例の如く無理やり引っ張り出された見合いの席だ。その頃には通常侯爵家の結婚相手に要求される家格や教養の条件はだいぶ緩くなり、今度の相手は子爵令嬢だった。しかも、三男の縁談に難儀しているバルヒェット侯爵家に恩を売るべく、娘のいなかった家がそのために養子縁組した親類の娘だという。


「……本当に関係ないらしいな」


 その見合い相手から届いた手紙を読みながら、ヨルンはあきれたように呟いた。


 結婚願望がなく仕事に一途なレオノーレに好感を持ち、無理やり文通の約束を取り付けてから早二月。どちらの住所も王都で近いのに、ヨルンから出し始めた手紙の返信は二通目というレベルだが、それを見守る両親はぱったり縁談の話をしなくなった。何せ、見合い相手からヨルンへの手紙と言えばお断りの連絡だったので、これだけ付き合いが続くのが初めてなのである。


 中身は純粋な近況報告だった。ドレッセル伯爵家の警護官を務めるレオノーレは職務上話せないことが多いはずだが、それでも便箋のほとんどが仕事の話で埋められている。レオノーレが養子に入ったクライン子爵家の話題は本当に申し訳程度だ。政略的に考えるならこの縁談の利点を売り込んでくるはずだが、全くない。ヨルンを相手にやり方を変えている可能性もなくはないけれど、おそらく素だろう。


 結婚を急かされない。魔術研究を中断されない。貴族たちの見栄の張り合いに付き合わなくていいし、端々にヨルンへの非難を感じない手紙は久しぶりだった。


 居心地の良い四年間だった。



「ヨルン様」


 新たな職場となった聖女研究室。論文漁りに夢中になっていたヨルンが呼ばれて顔を上げると、聖女であるエルナが本を片手に隣に立っていた。持っているのは、先日ヨルンが貸した初心者向けの魔術の教科書で、「読み終わりました」とたどたどしく報告してくれる。


「おや、早いですね。流石エルナ様です」


 本当に早い。ヨルンが素直に褒め称えると、エルナは無表情のままわずかな動きで一礼した。


「ですが、どの言語かはわかりませんでした」

「問題ありません。エルナ様のお力については室長から聞いています。わかれば儲け物という程度でしたから」


 エルナは全ての言語を操るが、文法を説明できるわけではなく、それぞれを区別しているわけでもないという。要は全ての言語が母語のような状態で、使えるのが当たり前だから切り替えも無意識なのだ。一度エルナの頭の中を覗いてみたい。


 そうですか、とエルナは小さく呟いて胸元に抱えた本を抱きしめる。ヨルンより一回り年下のエルナは、消極的で感情の見えない人だが、よく観察すれば考えていることは何となくわかった。


 エルナに付き従い、今もヨルンに複雑そうな視線を投げているレオノーレによれば、エルナが自分から人に話しかけるのは非常に稀だという。ヨルンとは最低限の業務連絡しか話していないのにも関わらず、だ。エルナにべったり懐かれている室長の恐ろしさがよくわかる。


「エルナ様」


 研究者ヨルンは読みかけの論文の上に栞を置くと、エルナに向き直って平然と尋ねた。


「言語系の専門家として、ギレスベルガー公爵家のユーディット姫を研究室に招きたいのですが、許可いただけますか?」






 一週間後、聖女研究室に新たな人員が加わった。


「初めまして、エルナ様。私はギレスベルガー公爵の娘、ユーディットと申します」


 予定調和のような余裕のある態度で、ローゼンミュラーの姫君は優雅に微笑む。エルナはいつもよりも固い表情で「エルナです。よろしくお願いします」と名乗り返した。


 ユーディット姫は研究者ではないが、かなりの数の言語を習得した逸材で、地方の廃れた古語にも精通している。どうしてもしがらみの発生する本職の研究者より、ただの趣味で言語を学んでいる姫の方が協力者に適していると判断した。ユーディットの父親であるギレスベルガー公爵が聖女の取り込みを企んでいる以上、打診をかければ明日にでも来るだろうというのも大きい。


 当然ながら、権力欲に駆られた公爵をエルナに近づけかねないことに、心配性な聖女の婚約者ジークハルトは難色を示した。しかし、現在勢いを落としているギレスベルガー公爵が焦って強引な手を打ち始める前に、娘と聖女を引き合わせて餌を与えておくのも一つの手だ。そもそもユーディット姫個人は優れた人物であり、かつて室長の乳兄弟である王太子と婚約していた関係で室長とも仲が良い。本人と家がいくら善良だとしても、全く見も知らぬ研究者を呼ぶよりエルナは警戒しないだろう。


 ヨルンの説得に先にエルナが同意し、室長の許可を求めたことに彼は驚いていたが、本人がいいならと許可をくれた。そのままヨルンが聖女研究室の名前でギレスベルガー公爵家に打診をかけたところ、即断即決でユーディット姫の参加が決まったのである。


「一般人のギレスベルガー公爵は魔術省へは立ち入れませんから、ご安心くださいませ」

「申し訳ありません。いつもこう、です」


 物腰穏やかなユーディット姫にも、エルナの表情筋は固まったまま全く動かない。姫は柔和に微笑みながら、背後に立つ一人の従者を一度振り返った。


「そしてこちらが、私の騎士ヴィクトルです」

「お初にお目にかかります」


 右目を前髪に隠した、生真面目そうな彼が一礼する。騎士とは言うが着ている制服に王国騎士団の腕章はなく、ギレスベルガー公爵家の所属と思われた。王宮に仕える武人の他にたった一人の主に剣を捧げた者のことも騎士と呼ぶので、後者の意味合いなのだろう。


「お一人ですか」


 王太子妃の座を降りたとはいえ、王族の血の濃いユーディット姫の身辺は危険が大きい。警備の薄さにヨルンは目を瞬かせたが、姫は「戦いに来ているわけではありませんもの」と平然と答えた。聖女研究室に所属するヨルンとエルナの他に、エルナの護衛官である二人に目をやる。


「レオノーレさんとゲオルクさんですね。よろしければ、この場所についてヴィクトルに教えてくださらないかしら」


 静かに控えていた二人が目を丸くし、思わずといったふうに顔を見合わせる。子爵令嬢であるレオノーレはともかく、平民だというゲオルクを知っているとは思わなかった。


 指名されたレオノーレが片手を上げる。


「それでは、僭越ながら私が」

「ありがとうございます、レオノーレさん」


 レオノーレとヴィクトルが部屋の隅へと移動した。ヨルンはそれを横目にテーブルの方へ身を翻す。


「こちらも仕事を始めましょうか」


 エルナは慣れた様子で定位置に近づき、後に付き従うゲオルクが椅子を引く。ヨルンはエルナの正面の椅子を引いて姫を振り返った。


「どうぞ、ユーディット姫」


 ユーディット姫はぱちりと瞬きすると、何やらおかしそうにくすくすと笑い声をこぼした。


「ヨルン様は本当に紳士の振る舞いをなさいますね」


 同じ国の上流階級同士、それなりに面識はある。社交界で屈指の変わり者と言われているヨルンが、姫を立てる態度をとったことに――それこそ、バルヒェット侯爵家の一員らしい行動に、何かのツボが刺激されたらしい。


 意外と笑い上戸な姫に、ヨルンは自然体で返事した。


「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めております」


 ユーディット姫はにこやかに頷いて席に着く。ヨルンはその隣に腰を下ろし、テーブルに用意しておいた護符やら資料やらを無造作に広げ始めた。姫はその様子を興味深げに眺めている。


「権力欲のない殿方は素敵だわ。ヨルン様、エルナ様に求婚なさったというのは本当?」

「え?」


 父親への愚痴を吐いた後に姫の口から飛び出した言葉に、驚きの声を上げたのはエルナだった。ヨルンは「おや」と意外そうに小首を傾げる。知らないとは思わなかった。


「室長から聞いておられませんか」


 エルナは戸惑ったように答える。


「ジークハルト様は……、ヨルン様と仲良くできれば、他の人は寄ってこないと」

「概ね合っています。室長と私が争っている中で、エルナ様に手を出せる輩はいませんからね。無事に結婚できるまではこの状態でしょう」


 ヨルンがエルナの安全のために一芝居打ったと気づいたのだろう、エルナは唖然としている。あの、と眉を下げて、遠慮がちな視線がヨルンを向いた。初めて見る顔だ。


「私が結婚できるまで、あと三年ありますが」


 おずおずとした告白を受けて、ヨルンはようやく察した。間男の悪評を被るヨルンを心配してくれていたらしい。


 ヨルンはエルナに浅く微笑んだ。


「問題ありません」


 そういう噂があるというだけだ。この間の舞踏会でもそれっぽい言葉を並べただけで言質は取られていないし、おそらくユーディット姫も本気で求婚したとは思っていない。元々あのパフォーマンスは王太子の発案だから、彼の従妹である姫なら目論見は察せるだろう。今の発言は、社交界への影響力が大きいユーディット姫からの、そういうことにしたいなら協力してやるという意思表示だと思われる。


「それより、本題に入りましょう。これが今回の研究対象になる【通信】の護符です」


 テーブルの半分を埋める大きさに、初めて見るユーディット姫がわずかに身を乗り出した。ぐにゃぐにゃと落書きのような線が何重にも絡まった魔術式をじっくり眺めて、姫は肩をすくめる。


「お手上げです」


 想定の範囲内だ。ヨルンは何事もなかったかのようにそれを片付け、また別の紙を広げた。


「では、次。先程の護符を分解したうちの一つ、【再生】を司る魔術式です」


 ユーディット姫はおっとりとヨルンを見やった。


「分解とはどういう意味でしょう?」

「三つの魔術式が組み合わされていたのです。現代魔術では有り得ない芸当ですが、古代では可能だったようですね」


 考え込んだ様子の姫は、古代、と小さく呟くと、「エルナ様」と正面のエルナを呼んだ。


「この魔術式にどのような意味の文字が書かれているか、詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか」


 その言葉に、ヨルンは少し首を傾げる。意味も何も、「再生」と読み解いたのはエルナなのだが。


 真剣なユーディット姫の申し出にエルナはこくりと頷き、広げられた魔術式に向き直る。すぐに、全く聞いたこともない言葉が耳慣れない発音で滑らかに読み上げられ、ヨルンはちょっとびっくりした。


(……すごいとはわかっていたが)


 ユーディットが独学で言語を習得しているように、エルナの力は正直なところ、万病を癒したり未来を予知したりした歴代の聖女に比べれば神秘性に欠ける。しかし、実際に謎の言語を自在に操る姿を見れば、自然と畏敬の念が湧いた。


 ヨルンには一つも理解できなかったエルナの声が止むと、静かに聞き入っていたユーディット姫は至極あっさりと告げた。


「ヴァラハ古語ですね」

「よりにもよって!」


 わずかな史料が王宮図書館の閲覧制限区域に所蔵されるだけの、大昔に滅びた一族の言葉である。研究の難しさにヨルンは思わず絶叫した。


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