12.〈研究者〉ヨルン




 ヴァラハの一族は、数百年前、この地方の支配者がローゼンミュラー王家になる前に、当時の大国に攻め滅ぼされた。大国に敵うべくもない少数部族が狙われた理由については諸説あり、彼らの住む肥沃な土地を奪おうとしたというのが有力だったが、魔術式の言語が判明した今となっては一目瞭然である。


 ヴァラハの一族は、優秀な魔術師の集団だったのだ。それなら史料がほとんどないのも、そのくせ現存しているわずかな史料は比較的状態がいいのも納得できる。ヴァラハを滅ぼした支配者は強大な魔術を恐れたが、同時に利用しようともしていたのだろう。


「発見された場所や年代を考えて、間違いないと思います。二人称がない言語は珍しいですから」


 ユーディット姫は穏やかに続けるが、その目は獲物を見つけた鷹のように爛々としている。それを向けられたエルナはびくりと肩を震わせ、後ろに立つゲオルクが眉をひそめた。瞬間、姫は「あら」と恥ずかしそうに視線を和らげる。


「申し訳ありません。ヴァラハ古語の発音の史料なんて残っておりませんから、つい興味が抑えられませんでした。驚かせてしまいましたね」


 ヨルンは、立場上口を出せないゲオルクをちらと見やり、軽口のように呟いた。


「室長がいたら怒られていますよ」


 とはいえ、気持ちはわかる。ヨルンもエルナの状態を室長からしつこく釘を刺されていなければ、研究意欲のままに突進していただろう。室長の心配性をよく知っている姫は肩をすくめた。


「エルナ様がこれほど可愛らしい方であれば、致し方ないでしょうね」


 エルナは何と言えばいいかわからないようで、困ったように体を小さくしながら首を横に振る。ゲオルクはヨルンに向かってぺこりと頭を下げた。


「とはいえ、文字は見慣れない形が多いですね。王宮図書館の史料とは時代が違うのかもしれません」

「解読は可能ですか?」

「もう少し文献が多ければ、エルナ様のご協力である程度読み解けると思います」


 ユーディット姫の回答は落ち着いていて淀みない。ヨルンは、他にも用意しておいた魔術式の写しを手にとった。それを広げながら、それより手頃な大きさの白紙とペンをテーブルに置く。


 二人で話していたレオノーレとヴィクトルは、一通り話が済んだらしく、レオノーレは扉を守り、ヴィクトルが主である姫の元へと戻ってきていた。それなら構わないだろう。


「ゲオルク、書記を頼んでもいいか。他にも気づいたことがあれば教えてほしい」


 魔術師学校に通っていたというゲオルクの知識は、魔術の素人ばかりの聖女研究室では貴重だ。しかし、護衛官である本人は指名されると思わなかったようで、少し怪しむように用意された文具を見下ろした。


「俺、魔術師資格はありませんよ」

「だが、魔術知識は相当だろう」


 特に魔術史に関しては、ヨルンより造詣が深い気がする。指摘すればゲオルクの目に意外そうな、暗鬱そうな色がひらめき、すぐにエルナに確認を取った。


「エルナ様、よろしいでしょうか」

「お願いします」


 主であるエルナが話を承諾すると、ゲオルクが着席し、四人は魔術式の解読作業を開始した。エルナが魔術式を読み上げ、ユーディット姫が音と文字を噛み合わせ、ゲオルクが記録していく。ヨルンは次々と古代魔術式を示しながら、頻出する語彙を記憶に刻み込んでいった。


 無心で熱中していると、随分時間が経ったらしい。


「ユーディット様」


 寡黙に控えていたヴィクトルが姫を呼ぶ。気づけばすっかり窓の外の日が傾いていて、ユーディット姫は「あら」と頬に手を当てた。


「話に夢中になってしまいましたね」

「そうですね。今日はここまでにしましょう」


 ヨルンはそう言ってテーブルの上を片付け始める。姫が手を出そうとするのを制して、ヴィクトルが代わりに開いた本やメモした紙の山をかき集めた。エルナはテーブルの隅で記録と睨み合っているゲオルクに声をかける。


「ゲオルクさん、大丈夫ですか?」

「問題ありません。少し筆が遅くて」


 ゲオルクは素早く最後の文字を書き終え、席を立った。


 ほどなく片付けが済み、迎えの馬車の時間が迫っていたユーディット姫とヴィクトルが先に退室する。エルナたちはジークハルトが迎えに来るまで研究室で待っているのが常で、今日はエルナがゲオルクに魔術の質問をしていた。


 本を開き熱心に話し込んでいる二人を横目に、ヨルンは物静かなもう一人の護衛官を手招きする。レオノーレは戸惑ったようにしながら、呼ばれるまま扉の前に移動した。


「何か?」

「エルナ様のお力のこと、レオノーレはどう聞いている?」


 小声で単刀直入に尋ねれば、レオノーレは警戒するように眉をひそめる。嫌な予感を感じ取ったらしい。


「私は公表されている程度の情報しか存じません」

「そう。室長に確認するか迷うな」


 かつてはエルナの指導役の一人だった室長である。ヨルンが推測したくらいは勘づいているはずだ。それなのに護衛官であるレオノーレが知らないということは、相当な極秘事項の可能性がある。


「……危険な力ということですか」

「まだ何とも言えない。だが、これが本当なら私では抑止力になれないな」


 さて、どう守るのが適切か。今後も秘匿できるならそれに越したことはないが、室長の実家のドレッセル伯爵家は魔術に特化した家系であり、社交界での影響力は大きくない。というより、国防を左右する力を持つが故に、権力集中を避けて距離を取っていたというのが正しい。もしどこかの派閥が一斉に動き出せば、守りきれるかは微妙なところだ。


「バルヒェット様は、エルナ様に味方なさるのですか」


 レオノーレの硬い声に問われて、ヨルンは目を瞬かせた。信用に足るか疑われたのかと思ったら、レオノーレの不可解そうな表情を見るに味方する理由を聞かれているようだ。


「おかしかったか? 魔術研究に有益な力があり、世話になっている室長の婚約者でレオノーレの主だ。それに、傷つけられた少女を見過ごすほど薄情ではない」


 魔術研究者としても、一人の人間としても守らない理由はない。ヨルンがそう答えれば、レオノーレは何やら納得していなさそうな顔で「存じています」と呟いた。


「困っている方がいれば、求婚までなさる方ですもの」

「先日の舞踏会のことなら、違う。ただの挨拶だ」


 ヨルンは冷静に否定しながら、様子のおかしいレオノーレを覗き込んだ。レオノーレはぎょっとしたように二歩、後ろに下がって距離を取る。その反応には流石のヨルンも気が落ちた。


「レオノーレ、言いたいことがあるなら言ってくれ。私は仕事相手としても付き合いたくないか?」


 すると、レオノーレは思いもよらぬことを言われたとばかりに目を見開く。


「まさか」

「それはよかった。じゃあ、私を拒む理由は何だ?」


 ずいと身を乗り出せば、磁石のようにレオノーレが遠ざかる。間もなく肩を壁にぶつけたレオノーレが横に逃げようとしたから、ヨルンは壁に手を突いて退路を塞いだ。


「無理を言ったつもりはないんだが」


 部屋の角に閉じ込められたレオノーレが硬直する。ヨルンはむくれたような子どもっぽい表情を作って顔を寄せた。


「稼ぎがあって、見目も悪くない。貴族だが面倒な付き合いはいらないし、仕事を続けられるし、あなたの主の盾にもなれるよ。時流を見誤ってばかりのクライン子爵より、よほどあなたの役に立つのに、なぜ遠ざける?」


 レオノーレはちょっと嫌そうに顔をしかめる。


「そうすれば私が受け入れると思っているでしょう」

「うん」


 しっかり者のレオノーレは、年下に甘えられるのに弱い。鉄壁のガードが少し緩むことに気づいてからは、時々使っていた。ヨルンが悪びれず頷くと、レオノーレはあきれ混じりの溜息をついてまっすぐこちらを見返す。


「バルヒェット様こそ、身分も低い、財産もない、仕事ばかりで女主人の役目を全うする気のない私にこだわる理由は何ですか? ご実家からの縁談避けに使うつもりもないなら、私に近づくメリットは何もないと思いますけれど」

「縁談避け?」


 奇妙な言葉に、ヨルンはこてりと首を傾げた。確かに縁談は面倒だが、それから逃げるために適当な話を受けたことはない。疑問を解消しようとレオノーレの言動を反芻し、ふと気づいた。もしかして。


「私の本気を疑った?」


 ヨルンの気持ちを本気にされていないのか。レオノーレは一瞬、迷う素振りを見せたが、「はい」と素直に肯定する。


「バルヒェット様と結婚するために貴族になった私に対して責任をお感じなのかもしれませんけれど、養子縁組も養父の借金もクライン子爵家の問題です。バルヒェット様には関係ございませんから、どうぞお忘れください」


 ヨルンはきょとんとした。何を言われたのか少し考えて、ああと全部が腑に落ちる。つまりレオノーレは、ヨルンに負い目があるから、何度迫っても手を取らなかったのだ。


「その点に関して、責任は特に感じていない」


 レオノーレがそこを気にしていると思わなかった。今まであまり感じなかったが、やはり生まれた身分が違うのだろう。


 家の期待を背負って生き方を強要される貴族子女は少なくないし、彼らにいちいち肩入れしていては共倒れになるだけだ。ヨルンは散々拒否してきたのだから、人の人生を捻じ曲げた末に失敗しようと、いらぬ熱量をかけた両親たちが悪い。それでヨルンを責められたら八つ当たりである。


「あのとき、私が婚約を拒否した場合のレオノーレの立場を心配したことは確かだよ。でも、その気もないのに婚約はしない。あなたを好きになったからだ」


 当たり前のように胸の内を見せながら、ヨルンは今度こそ本当に拗ねてレオノーレの額を指先で押した。関係があるかないかで言うなら、レオノーレの方が本来無関係なのだ。


「逆に、レオノーレはクライン子爵の命令だね。私と結婚したいなんて思っていないだろう?」

「それは……」


 予想通り、レオノーレが気まずそうに口をつぐむ。ウロウロさまよう視線は言葉を探しているようだ。しばらくして何か言いかけた瞬間、レオノーレはわずかに頬を赤らめてヨルンの胸を勢いよく突き飛ばす。ぐらりと後ろによろめいた隙に拘束から逃げられた。


「あ」

「こんなところで、やめてください」


 レオノーレに睨まれて振り向けば、テーブルからじいっと二人の様子を眺めるエルナと、食傷気味に頬杖を突くゲオルクの姿がある。レオノーレの動揺の理由を察したヨルンは、憮然として腕を組んだ。


「それなら、二人きりの場所に誘ってもいいの?」

「いいですよ。よそでやってください、ぜひ」


 巻き込まれることに飽きたのか、ゲオルクが勝手に返事をする。エルナは無表情のまま、伺うようにかすかに眉をひそめた。主と後輩にしっかり話を聞かれていたレオノーレ本人は、半ばやけっぱちのように溜息をつく。


「ヨルン様が援助を諦めるなら、それ以外は、仕事に支障を来さない範囲で何でも聞いて差し上げます」

「宝飾品を貢いでも?」

「絶対に換金いたしません」


 レオノーレは即座に宣言した。お金の形をしていなくても、援助になり得る行為は等しくダメらしい。そんな頑固なところがかえってヨルンをやる気にさせているのだと知ったら、レオノーレはどんな顔をするのだろう。


「じゃあ、今度耳飾りをあげるよ。石は何がいい?」


 レオノーレはぽかんとしてヨルンを見た。


 そういえば、お互い仕事ばかりだったから、こんな言葉は婚約期間でも言っていないかもしれない。関係の名前も周囲の目も、穏やかな日々の中では気にも留めなかった。


 正直、必要はない。でも、どうせするならあなたがいい。


「…………パール」


 ぼそっと答えたレオノーレは、初めて見るような膨れっ面をしていた。


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