13.〈騎士〉ヴィクトル




 ユーディット・ギレスベルガーはクソ主である。


 王家の血を引くローゼンミュラーの姫であり、巷でうら若きご令嬢から酸いも甘いも噛み分けた貴婦人にまで淑女の鑑と持てはやされているが、そんなもんは関係ない。王太子の元婚約者で王妃に足り得る能力を持ち得ているとしても、国レベルで傍迷惑な父親を器用に抑え込んでいても、振り回されるヴィクトルにとってはただ八百枚の猫を被ったクソ主である。


 ユーディットが王太子と婚約し、正式に王族に準ずる扱いを受けるようになった五年前、騎士として王宮に勤めていたヴィクトルはユーディットの護衛に任じられた。しがない地方貴族の端くれで若輩でしかも異性のヴィクトルが、騎士団の元部隊長やらメイドに擬態する凄腕スパイやらに混じって選ばれた理由は全く思いも浮かばず、辞令を手に詐欺を疑った。しかし、そのわけはすぐに理解させられる羽目になる。


「ヴィクトル、脚を揉んでください」

「本当に最悪ですよあんた」


 湯浴みを済ませて自室で寛いだ格好のユーディットが、ふかふかの椅子に腰かけて、護衛任務中のヴィクトルを爪先で呼び寄せる。膝下のスカートに隠れた脚はガーターソックスを着けており、素肌をさらすことはない。しかし不敬を承知で王太子の嗜好と祖国の行く末を心配するくらいには悪趣味だ。


 ヴィクトルは顔をしかめながらユーディットの足元に膝を突き、指先から順番に凝り固まった筋肉をほぐしていく。これを告発したところで切られるのは身分の低い自分の首だというのがなおのこと始末に負えない。


「痛いです」


 無心に手を動かしていれば、上から文句が降ってくる。ヴィクトルは黙って力を緩めた。


 遺憾だが日常だった。それでこれまで使用を考えたこともなかった手袋まで買ったし、無駄にマッサージが上手くなって同僚にゴッドハンドなんて呼ばれるようになった。純粋に最悪である。顔が良くなきゃやってられない。


「ヴィクトル」

「何ですか」

「今度婚約を破棄することになりました」


 はあ、とどうでもよさそうな声が出た。


「それが?」


 顔を上げもせず聞き返せば、ユーディットはつまらなさそうに「驚かないのですね」と呟いた。思わず溜息をつく。


「あんた、今自分がどれだけ非常識なことしてるか自覚ありますか?」


 だから、このやばい醜聞も口にできないくらいの身分のヴィクトルを選んだのだろうに。


 それに比べて婚約破棄は、政略が全ての貴族社会ではありふれている。しがない男爵の甥っ子で、食い扶持に困って騎士を目指したヴィクトルには縁のない話だが、ユーディット姫様くらいなら有り得るだろう。


 ユーディットは肯定も否定もせず、「ところで」と尊大にヴィクトルの前髪をつまんだ。軽く引っ張られ、ヴィクトルは不満そうに顔を上げる。普段隠れている右目に直接映る美貌が毒のようだ。


 目を細めた一瞬後、ばさりと眼前に何本ものリボンの束を突きつけられた。


「一本選んでください」

「何ですか。くじ?」


 同じ色、同じ模様、同じ長さのリボンだ。ずいぶん高級だが、下町の祭りで見るくじ引きの屋台にしか見えない。箱入り娘の気まぐれかと思って、ヴィクトルは半ば呆れながら適当に一本を引き抜いた。いつもの無茶苦茶よりよほど可愛らしかったからだ。


 するりと抵抗なく、ユーディットの手からリボンがすり抜ける。手のひらの中に隠れていた反対側の端を確認すると、小さく流麗な文字が刺繍されていた。


 ヴィクトル・グラーツ。


「…………?」

「何でした?」


 妙なタイミングで見た自分の名前に困惑していると、上からリボンを覗き込んだユーディットが「あら」と落ち着いた口調で微笑んだ。


「おめでとうございます、ヴィクトル。あなたは今、私の想い人に選ばれました」


 ユーディットは場違いに朗らかな声で拍手する。不本意ながら主の悪行に慣れているヴィクトルも、このときばかりは流石に事態が理解できなかった。いまだその手に握られている十本近いリボンを見つめて呆然とする。


 ユーディットと王太子との婚約が破棄される。そうすれば発生するのはフリーになった二人の結婚相手を巡る政争だ。王族の地位に固執する姫の父親を思えば、早急に次の相手を決めて再起の芽を潰しておかないとどんな手に出るかわからない。


 ああ、なんか、理解した。


「――――こ」


 唇を震わせ、これまで何だかんだ耐えてきた言葉が、いよいよ腹の底から飛び出てくる。


「このクソ主!」


 こうして、騎士ヴィクトルは、くじ引きで厄介な身内付きの姫様の婚約者、王太子の後釜に選ばれたのである。






 一年前、王太子との婚約が破棄されてからのユーディットは、まるで本当にヴィクトルに恋しているかのように振る舞った。


 無論、外面だけは良いユーディットが、あからさまに主張することはない。王族に返り咲くことしか頭にない父親のおかげでヴィクトルとの婚約はいまだ成立していないので、ただ王太子に捨てられたユーディットに対する社交界の目は生ぬるいものではなかった。姫様がすでに派閥を抱えるくらいの地位を確立しており、かつ父親に吠え面をかかせてご満悦だから何事もないだけだ。大体のご令嬢はこの世を儚む。


 姫様の筋書きはこうだ。


 未来の国母となるべく努力を重ねていたユーディットは、昨今の情勢を鑑みて自分が王妃になるべきではないと苦渋の決断を下した。祖国の平穏を望むからこそだったが、婚約を破棄し、目標を失ったユーディットは自分に何ができたのかと失意する。ひっそりと表舞台を去ることも考えていたとき、その横には、何者でもなくなったユーディットを変わらず守り続ける騎士ヴィクトルがいた。本来なら婚約が破談になった時点で王家に仕える彼は任を解かれるはずだったが、職を辞してギレスベルガー公爵家についてきたのだ。ユーディットは寡黙な彼の行動に背中を押され、彼に報いる姫であろうと決意する――。


 と、まあ、一から十まで全部嘘だが、そんな陳腐な物語を一年間も姫様は演じてきた。おかげで父親の抵抗をよそに外堀は着々と埋まっており、二人の関係は公然の秘密となりつつある。このままなし崩しに結婚できそうな勢いだ。


 貴族子女が当主の許諾なしに結婚するなど通常は不可能だが、社交界の各所にパイプを持ち、国王夫妻の協力さえ取り付けてきたユーディットに敵はいなかった。最近は言語の専門家として聖女研究室を呼ばれるようになり、趣味の時間が増えた姫様の機嫌は降下という言葉を知らない。


 何度目かの聖女研究室、奇々怪々な護符を楽しそうに囲む面々をヴィクトルが部屋の隅から遠巻きにしていると、その日は唯一といっていい来訪者があった。盛り上がって気づかない面子の代わりに、ヴィクトルが応対を務める。


「ヴィクトルも来ていたんだね」

「お疲れ様でございます」


 顔見知りに対する気安い微笑みに、ヴィクトルは癖でつい堅苦しい敬礼を返した。


 ジークハルト・ドレッセル。代々王族からの信頼の厚い魔術師の家系である彼は、立場は違えど同じく王家に仕える騎士に友好的だ。身分差の大きいヴィクトルも例外ではなく、身分や若さを理由にユーディットの騎士を辞職するよう非難されていたときに庇ってもらったこともある。職場が違うので会ったのは数えるほどだが、その温厚さは尊敬していた。


「ギレスベルガー公爵家はどう? 王宮とは違う?」

「僕にとってはあまり変わりませんね」


 姫様の隣に卑賤の者が歓迎されないのはどこも同じだ。見下している奴が自分の上にいるのが許せないのだろう。


 人の多い王宮は流動的で、絶対の味方なんて作りようもなかったが、大人しくしていればそこまで目の敵にもされない。対照的にギレスベルガー公爵家は、父親派と娘のユーディット派で真っ二つだ。体の弱い夫人に代わって女主人を務める姫様のおかげで味方は頼もしいが、それに向こうからの敵意が比例する。


「そう。それなら少し安心かな」


 ヴィクトルの立場が強くないことを知っているジークハルトの言葉に、ヴィクトルはわずかに眉をひそめた。怪訝な反応に気づいたジークハルトが肩をすくめる。


「ヴィクトルは同僚の彼らと仲が良かったでしょ」


 どちらも同じなら、変わらず上手く付き合っているのだろうとジークハルトは苦笑した。


(……何の心配を)


 仲間と離れて寂しくないかなんて、子どもに対するような心配の仕方だが、ヴィクトルに頼れる相手がいるかどうか確認したかったのだろう。


 身分の低い者は所詮、高貴な者に逆らえない。ジークハルトの婚約者である聖女様だって、生まれが平民だったゆえに欲深な貴族に取り囲まれて心を鎖したのだ。たとえ能力が優れていても、身分が低いだけで従えるものと思っている。


 ヴィクトルはあえて返事をせずに、姫様やバルヒェット侯爵令息と一緒にいる聖女様を一瞥した。


「聖女様はジークハルト様以外に恐怖心があるとお聞きしました」

「そうだね。俺にもあるとは思うけど」


 ジークハルトはてらいなく頷く。その平然とした態度に、何となしにユーディットの姿が重なった。自分が嫌われ疎まれると思っていない者の態度だ。実際、自身の護衛官である女性に対してもゾッとするような無表情が変わらない聖女様が、ジークハルトの前ではかすかに笑う場面があるから、そのくらいの信頼は得ているだろうが。


「聖女様にお仕えして、ジークハルト様に何の益があるのでしょうか」


 ジークハルトがぱちりと瞬きする。無礼を承知で、ヴィクトルは少し上にあるジークハルトの目を見つめた。


 聖女様の立場は複雑だ。ローゼンミュラーには昔から奇跡の力を持つ聖女を信仰してきた歴史があり、国母となった先代への畏敬も根強いため、その存在は他国に奪われていい存在ではない。しかし王家で取り込むには、今代の聖女様の気質と、ぱっとしない力の中身が問題だった。そこで白羽の矢が立ったのが、何代にも渡り王家に忠誠を示しているドレッセル伯爵家である。


 聖女の威光は王家が管理しなければ国の均衡が崩れる。王家は平民生まれで後ろ盾のない妃を認めなかった代わりに、王族の影とも言われるドレッセル伯爵家の後継者ジークハルトと縁付かせた。混乱を防いだ国としての差配は見事だ。


 でも、王族の付属品のように扱われたドレッセル伯爵家に大したメリットはない。魔術分野以外に手を出さず中立的な立場を保っている彼らにとって、聖女様の社交下手はむしろ致命的なはずだ。


 ジークハルトはすっと笑みを薄くして、確認するように小首を傾げた。


「それは、どっちに対する心配かな」

「どちらも」


 ヴィクトルは即答した。


 本来なら口答えするべき相手ではない。さほど仲が良いわけでもなく、個人の事情に首を突っ込めば罰せられる。ジークハルトがきちんと対応する義理はなかったが、穏やかな彼は当然のように真摯に答えをくれた。


「俺については心配ないよ。婚約者になったのはいろいろ事情があるけど、やりたくてやってる。エルナは……」


 ジークハルトは途中で言葉を止め、一度聖女様を見やる。大切なものを見つめる優しい顔をしていた。


「エルナの気持ちはエルナに聞かなきゃわからないけど、俺があの子を利用しないってことは、信じてくれてるよ」


 その答えは、二人と親交の浅いヴィクトルでも、杞憂だったと理解するには十分なものだった。ヴィクトルは一歩下がると深々と頭を下げる。


「出過ぎたことを申しました」

「いいよ。ヴィクトルの方がわかることもあるから、エルナを心配してくれるのはありがたい」


 あっさり許したジークハルトに、ヴィクトルはちょっと言葉に詰まった。ヴィクトルの解釈が間違っていなければ、慣れない上流階級の世界に放り込まれた者同士、聖女様と仲良くやってほしいと頼まれている。生意気な口を許してもらった身として否やを言うつもりはないが。


「それは、どちらに対するご配慮ですか?」

「どっちも」


 食えない優男は、当たり前のように笑顔で答えた。



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