9.〈護衛官〉レオノーレ




 魔術を駆使した揺れない馬車は、滑るように王宮への道を走行している。車内は快適で乗り物酔いを心配する必要もないが、問題は行き先だ。護衛任務中のレオノーレは、隣にちょこんと座る主のエルナの顔色を伺った。


「エルナ様、体調はどうですか」

「平気です」


 エルナは淡々と答える。エルナはいつも表情が薄く、婚約者であるジークハルトの前以外では微笑まないが、最近では専属護衛官のレオノーレやゲオルクには少し気を許したような空気を見せることがあった。その感覚で言えば、初対面の頃に戻ってしまったように表情が固い。


 全ての言語を操るという類稀な力を持つエルナは、かつて野蛮な妖精教会に囚われ、そこから救出されたかと思ったら今度は王宮での軟禁生活が始まった。他国からも狙われていた聖女を守るには国が保護するしか方法はなかったが、心に傷を負ったエルナをさらに追い詰めたのも事実である。


 国内でも王族と繋がりが強いドレッセル伯爵家の跡継ぎと婚約したことで、エルナは王宮を出て、ようやく人目の少ない場所で静養できる環境を得られた。しかし、先日エルナの聖女の力が魔術研究に役立つことが発覚して出仕が決定、現在初出勤のため王宮に向かっているところだった。


「エルナ様、大丈夫かどうかじゃなくて、我慢しているかどうかを答えてください。これから王宮に行って、新しい場所で仕事する元気はありますか?」


 エルナの正面に座り、進行方向と反対を向いている護衛官のゲオルクが、平然とした顔で問う。エルナは考えるように視線をそらすと、控えめに頷いた。


「あります」

「ならいいです」


 ゲオルクは満足したように座面に体を沈める。当初はその率直な発言にひやひやしたが、このくらいの方がエルナも対応しやすいらしく、警戒心の強いエルナの信用を得ている数少ない一人だった。


 ゲオルクはレオノーレの三つ年下で、高いコミュニケーション能力と魔術師学校に在籍していた経歴からエルナの専属護衛官に抜擢され、現在は同様の理由でエルナの出仕の供をしている。専属になる以前はあまり交流がなかったが、後輩ながらすでに頼もしい同僚だ。慎重派のレオノーレとしては彼の決断力に見習うところも多かった。


 王宮の正門前に到着した馬車が静かに停止する。ゲオルクは周囲を警戒しながら馬車を下り、安全を確認すると次にエルナとレオノーレが外に出た。門番に声をかけて身分証明を済ませれば、正門を潜り勤務先へ向かう。


 官吏たちが登城して混雑する時間帯を避けたので、時折巡回中の騎士とすれ違う程度で道に人気はない。二十分程度で何事もなく魔術省の建物に着き、事前にジークハルト経由で受け取った通行証を専用の魔術具にかざして入口を通った。


「……すごいな」


 中に入ると、ゲオルクが居心地悪そうに顔をしかめる。三人は玄関ホールの正面にあったエレベーターに乗り込んで、身内だけになったところでエルナが口を開いた。


「何かあったんですか」

「防衛結界ですよ。何重にも組んである。通行証の種類によって行けるフロアが決まってるんでしょうね。間違えて降りようものなら侵入者扱いで開かずの塔に転移させられます」

「え」


 それは王宮の警備レベルの厳戒体制ではないか。


「まあ、魔術ってローゼンミュラーの専売特許だし、それを極めた魔術師が集まってんだから、これくらいでも不思議じゃないのかもしれないですけど。誰か研究盗まれて地獄に落ちた奴でもいるのかよって感じ」


 ゲオルクは軽薄な口調だが、エルナの護衛官として警戒心は逆に跳ね上がったようだった。エルナはほっとしたように肩の力を抜く。


「それなら、部外者は入ってこられないんですね」


 エルナがこれから務める部署は、魔術省開発部聖女研究室と仮称されている。仮の部署であることと聖女への警備の必要性から、他の部署よりも警備が厳重でちょうど空室のあった防衛部のフロアに設置された。ちなみに、ジークハルトが室長を務める結界管理室は三つ隣である。


 結界管理室はその職務内容から魔術省の中でも外様の位置にあり、めったに他部署に干渉しないものの、発言権は大きい。聖女に接触したがる面倒な輩がいたとしても、ジークハルトのお膝元で妙な真似はできないだろう。ありがたい配置だった。


 長い廊下の両脇に様々な部署のドアが並ぶ中、「聖女研究室」と書かれた真新しい札のあるドアを見つける。この向こうには、ジークハルトが推薦したという、聖女研究室に配属されたもう一人の研究者がすでに出勤しているはずだ。レオノーレが呼び鈴を鳴らすと、向こう側から「はい」と返事があった。


 どくん、と心臓が嫌な音を立てる。


(……は?)


 何やら声に聞き覚えがある気がした。動揺するレオノーレをよそに、エルナが声を張る。


「おはようございます。本日より着任しましたエルナです」

「ああ、エルナ様ですね。おはようございます。今開けますので少々お待ちください」


 その声は心得たように気軽に答えて、心の準備をする間もなくドアが開く。現れたのは、紛れもない空色の髪だ。


「お待ちしていました。中へどうぞ、エルナ様」


 シャツとスラックスという簡素な服装に白衣を羽織っただけのヨルンは、正面にいたエルナに微笑みかけると、そこからすいと斜め上に視線を上げた。


「それから、久しぶり。レオノーレ」


(ジークハルト様……私、何も、聞いておりませんが)


 護衛官レオノーレは、元婚約者との意図せぬ再会に呆然と言葉を失った。






 ヨルンとの関係を説明するには、レオノーレの身の上から話さなければならない。


 レオノーレの生まれは平民で、とある子爵家の警護官をやっていた両親に倣い、ドレッセル伯爵家の警護官になった。忠誠心を持って仕事に邁進していた二十三歳の頃、あまり連絡を取っていなかった両親から手紙が来る。両親が仕えているクライン子爵家の養女にならないかという内容だった。


 聞けば当時、クライン子爵家は後ろ盾を失って頼りになる大貴族とのコネを切望しており、同派閥の重鎮バルヒェット侯爵家に目をつけた。その頃のバルヒェット侯爵家は変わり者の三男坊の縁談に難儀していたという。見合いに訪れた何人もの令嬢が裸足で逃げ去っており、そんな中でクライン子爵家が相応しい結婚相手を用意すれば、恩を売って庇護を受けることができるかもしれない。


 しかし、クライン子爵家に、今すぐ結婚できるような適齢の娘はいなかった。


「そのため、クライン子爵の従兄弟の娘であり、ヨルン様と年が近くて未婚の私が養女になりました」

「意味がわからない……」


 レオノーレから一通り事情を聞き終えた見合い相手が、もはや批判する気も起きないようにぎこちなく笑う。


 養父となったクライン子爵が待ち望んだ、バルヒェット侯爵家の三男、ヨルンとの見合いの席のことである。普段武人としてお洒落とは縁遠い生活をしていたレオノーレは、ここぞとばかりに飾り立てられて見合いに送り出された。対照的に、約束の時間ギリギリにやってきたヨルンは、二人を庭先に置き去りにしていった侯爵夫人にヨレヨレの白衣を脱がされていた始末である。鍛錬中汗と土でぐちゃぐちゃになった同僚を見慣れている身としては、驚くほど容姿端麗で感心しているくらいだが、見合いへのやる気は歴然だった。


 養父からは性格に難があると聞いていたが、単に見合いに興味がないだけだと思う。対応が適当なのは不誠実かもしれないが、この手のことによくわからない熱意を持つ人はいるものだ。見合いを拒否しても聞かない人がいたからこうして席が設けられているのである。話を聞いてくれないなら、残された手立ては実力行使しかない。


「実を言うと、私も。生涯独身を貫くのも辞さない思いでしたので、このこだわりは理解しかねます」


 この養子縁組に熱意を見せていた両親や養父に言えなかったことを、レオノーレは曖昧に微笑んでこぼした。状況をしばらく咀嚼していたヨルンがレオノーレを見つめる。


「失礼ですが、あなたが養子に入った理由は本当にそれだけですか? あなたがクライン子爵家が囲うべき能力を持っているとか」

「残念ながら」


 レオノーレ・クラインは、この見合いのためだけに用意された存在だ。失敗すれば用はない。この経歴が将来に影響しないことを願うばかりだった。


「私のことはご心配なさらずに、ヨルン様。侯爵夫人のご理解を得られることを祈っております」

「……いえ」


 ヨルンの意志が固いことはわかりきっている。縁談をさっさと締めくくろうとしたレオノーレに、ヨルンが首を横に振った。


「あなたさえよければ、またお会いしたい」

「え?」

「私は魔術省の研究者で、気楽な身です。面倒な付き合いは必要ありません。考えていただけませんか」


 ほら、優しいのだ。


 レオノーレは、その紳士的な言葉に絆されるように、気づいたら頷いていた。


 それからほどなく婚約して四年後、事業に失敗した養父が負債を抱え、二人の婚約を理由にバルヒェット侯爵家に金銭的な援助を願い出た。それが侯爵を失望させて、妖精王の悪戯に紛れてレオノーレとヨルンは他人になった。


 それで終わったはずだった。


「お久しぶりです」


 一瞬硬直したレオノーレははっと我に返ると、他人行儀にヨルンに会釈する。エルナはぱちくりと瞬きしてレオノーレを見やり、次にヨルンを振り仰いだ。


「お知り合いですか」

「ええ。元婚約者です。詳しい話は中で」


 涼やかな微笑みで促され、三人はぞろぞろと中に入った。


 部屋は所属する研究者が二人とは思えないほど広い。三分の一を占める本棚と作業用の大きなテーブル、それを挟むように椅子が四脚。物は最低限だが、ヨルンが運び込んだらしい台車や片付けの途中の書籍が棚の近くに置かれていた。


 ゲオルクがエルナの椅子を引いている間に、ヨルンが反対側の一脚を主に近い角に移動させる。ヨルンはさっさとエルナの正面の椅子に座り、空席を指差した。


「どうぞ、護衛官のお二人もお座りください。私も魔術師の端くれですから、側仕えというものに慣れなくて」

「ゲオルクさん」


 許可を求めるようにエルナが背後のゲオルクを振り返る。そのゲオルクに目配せされ、レオノーレは溜息を堪えるように目を伏せた。本当はよくないのだが。


「お言葉に甘えましょう」

「はーい」


 ゲオルクが気軽に頷いて、聖女の隣に着席した。レオノーレはさらにその横、角の椅子を引く。


「お気遣いありがとうございます、バルヒェット様。僕はエルナ様の護衛官でゲオルクと言います。それで、部外者が口を挟んで申し訳ないですけど、バルヒェット様がレオノーレ先輩の婚約者なんですか?」


 レオノーレが態度を決めかねている間に、ゲオルクは飄々とした仕草で単刀直入に切り込んだ。主の前であまり突っ込まれたくない話題だが、これからエルナがヨルンと組んで仕事をするなら先に片付けておいた方がいい。護衛官の私情で主を振り回すべきではないのだ。


「面倒だからヨルンでいい。レオノーレとの婚約期間は四年ほどです。先日、妖精王の悪戯に便乗して父のバルヒェット侯爵が破棄しました。お互いの仕事への影響や身分差を考慮して大っぴらにはされていませんでしたから、ご存じなくても無理ないかと」


 相変わらず偉ぶったところのないヨルンが簡潔に答える。重大なところを抜かしていると、レオノーレは即座に口を挟んだ。


「破棄ではなく、両家の合意による解消です。それも、私の養父が借金を作って、バルヒェット侯爵家に金銭援助を要望したのが原因でしょう。侯爵に非があるような言い方は適切ではないと思います」

「手続き上はそうだ。私は同意していないけど」


 ヨルンの訂正に、レオノーレが怯む。おそらく痴話喧嘩だと受け取ったゲオルクは「あーあ」と言わんばかりに頭の後ろで腕を組み、エルナは意外そうにレオノーレを見た。無垢な視線がつらい。


 さっさと話を終わらせたいのに、味方を得たと思ったのかヨルンがさらに口を開く。


「私、それなりに稼ぎはあるよ」

「だから駄目なんでしょう!」


 レオノーレは思わず大声を出した。ヨルンはむっすりと仏頂面で不満を示したが、こればかりは撤回できない。頑なに口をつぐんでいれば、ヨルンは肩をすくめて話を戻した。


「無理強いする気はないですが、護衛官を変えるならご自由になさってください。仕事の話に入りましょう」


 エルナがすっと背筋を伸ばした。



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