8.〈王太子〉ヴォルフラム




「エルナ」


 ジークハルトが何かを囁く。聖女は数秒固まっていたが、おもむろに婚約者の腕を放して手を伸ばした。


「私でよろしければ」

「感謝する」


 そっと添えられた指先は冷えている。ガチガチに緊張している聖女本人よりも、幼なじみ二人の警戒心の方が強い。ヴォルフラムは横目でジロッと睨みつけた。


「お前たち、不敬だぞ」

「ヴォルフ兄様は自分勝手で意地悪ですもの」


 取り繕わないフランツィスカの口から、幼い頃の懐かしい呼び名が飛び出した。ヴォルフラムもつい気が緩んで、虫でも追い払うようにしっしっと手を払う。


「お前たちも踊ってこい」

「そういたしますわ。ジークハルト、お相手願います」

「勝負ですか?」


 ジークハルトはフランツィスカの誘い文句に吹き出しそうになり、口元を隠しながら手を取った。


 少しすると曲が変わり、四人でダンスフロアに出る。王太子と聖女、元婚約者の二人という組み合わせは注目を集めており、ヴォルフラムのエスコートを受ける聖女の顔は青い。二組は空いた場所を見つけて立ち止まり、ダンスをするべく向かい合った。


「聖女殿」


 フランツィスカを相手にするような適当なリードでは無理そうだ。ステップを間違えないことだけに集中している聖女に、ヴォルフラムは小声で話しかける。


「いくつか連絡事項がある。返事はいらぬし、どうせジークハルトから聞いているだろうから、聞こえなくても構わない」


 ヴォルフラムの襟元を注視していた聖女の視線がわずかに上がった。反応を気にせず話を続ける。


「一つ目、三か月ほど前にジークハルトが持ち帰った護符を解読しただろう。そのときの聖女殿の指摘をもとに進められた研究が、魔術史に残る発見になると予想されている。二つ目、それによって聖女殿の能力が魔術研究に役立つことがわかったので、あなたの出仕が決まった。具体的には魔術省開発部に籍を置き、新たな研究室で魔術式の解読に取り組んでもらう。助手としてジークハルトの部下をつけるので協力してほしい」


 ここまでを一気に喋り、ヴォルフラムは息をついた。


「最後に、聖女殿の助手になる魔術研究者はヨルン・バルヒェットという。ジークハルトの推薦だから問題ないだろう。この後紹介する」


 事前の顔合わせとして呼びつけておいたので、会場のどこかにいるはずだ。話し終えると、聖女が踊りながら「あの」とかすれた声で言葉を返す。


「ジークハルト様から、殿下にご配慮いただいたと伺いました。ありがとうございます」


 ぺこ、と軽く頭を下げるような動きをする。ヴォルフラムはつい溜息をつきそうになった。執務室まで来て許可をもぎ取っておいて、この決定はジークハルトに言わせればヴォルフラムの配慮らしい。


「ほとんどジークハルトの考えだ。礼なら奴に言え」

「もう、言いました」

「そうか」


 ヴォルフラムは静かに視線を動かした。近くでフランツィスカとジークハルトが踊っている。長く婚約していただけあって堂に入ったダンスで、笑う余裕もあるようだ。


「ジークハルトは優しいか?」


 尋ねると、聖女はきょとんとする。戸惑う様子が何やら意外そうに見え、ヴォルフラムは眉を上げて説明を要求した。


「……フランツィスカ様に同じことを聞かれました」

「ああ、奴は心配性だからな」


 フランツィスカは聖女の境遇に憤り、未来の王太子妃として彼女の後ろ盾になろうと画策していた。王宮を離れた聖女が本当に気を休められているのか気になったのだろう。


「良くしていただいています」

「ならいい」


 楽団の演奏もそろそろクライマックスだ。ヴォルフラムは次の算段を考えながら老婆心で忠告した。


「それと、あまりジークハルトの話を鵜呑みにしない方がいい。奴は何事も柔らかく表す癖がある」


 曲が止まり、ダンスの距離から通常に戻る。ヴォルフラムはダンスフロアを離れながらジークハルトを探し、目配せで合流場所を示した。


 素直に後をついてきた聖女が、「殿下」と控えめに呼ぶ。


「それは殿下も、ですか」

「……本当に、奴にどう聞いたんだ」


 王宮滞在中なら、返答を求めない会話で口を利くことは一切なかった。ずっと俯いていた当時に比べると態度がずいぶん気安い。信頼の置ける者がいるかいないかの違いかもしれないが、ジークハルトの入れ知恵をひしひしと感じる。初めて見たものを親と信じる雛鳥のようだ。


「……殿下のお話を、またお聞きしたいです」


 意表を突かれて振り向くと、聖女のグレーの瞳と目が合った。耐えきれなかったのかすぐに視線をそらされたが、聖女の目を正面から見たのは初めてだ。


「ヴォルフラム殿下」


 話しかけようとする参加者を上手くさばき、ジークハルトとフランツィスカが追ってくる。ヴォルフラムは聖女を婚約者のもとに帰すとフランツィスカの手を取り、先んじて彼女に伝達した。


「このまま聖女殿とヨルン・バルヒェットの顔合わせを行う。付き合え」

「何も聞いておりませんけれど」

「今言った」


 臆面なく言い放てば、フランツィスカに睨まれた。人前とは思えない鋭さだが、まだ大丈夫だろう。何も知らない者の反応を確認しておきたかったから仕方ない。


「――ああ、ちょうどいるな」


 軽食が置いてある壁際に、一人もりもり食べ続けている探し人を見つけた。彼は空色の長髪をサイドでお団子にし、白と銀の中間のような色の衣装を身につけている。色味は寒色系でまとまっていたが、袖や裾にびっしり施された刺繍や大きな青薔薇の髪飾りはなかなか派手だった。


 初対面の聖女はその出で立ちに度肝を抜かれたようで、困惑したようにジークハルトの袖を引いた。呼ばれた婚約者が安心させるように答える。


「彼がエルナと組む予定のヨルンだ。俺や殿下を見てると派手に見えるけど、舞踏会ならあれくらい一般的だから」


(まあ非常識ではないが、珍しいぞ)


 とは、聖女が萎縮しそうだからわざわざ言わない。声が聞こえたのか、渦中の人物はこちらを振り返り、持っていた皿をテーブルに置いた。ヨルンはすたすたと歩いて聖女の正面に足を止める。


「こんばんは、聖女様方」


 悠然と微笑んだヨルンは、そのまま流れるように聖女に跪いた。


「お初にお目にかかります。聖女様のご婚約者である室長のもとで働いております、バルヒェット侯爵が三男、ヨルンと申します。今夜は聖女エルナ様にご挨拶申し上げたく参上しました」


 ヨルンの振る舞いにフランツィスカが絶句する。聖女の生まれは平民で、まだ身分の序列も不明確なので、上流階級である侯爵家の者が跪くことは本来有り得ないのだ。


 あまりの事態に驚愕している者たちを置き去りにして、ヨルンは滔々と語り出す。


「私の仕事と趣味は魔術研究でして、先日のエルナ様のご助言には研究者として非常に刺激を受けました。魔術研究を大きく発展させる素晴らしいお力です。ご協力いただけるならば、私はいつでもどこでもエルナ様のお役に立ち、ローゼンミュラーのために尽くしましょう。これからよろしくお願いいたします。エルナ様」


 聖女は数度瞬きして、そっと丁寧に一礼した。


「こちらこそよろしくお願いいたします」

「ヨルン、立ったら? 目立ってるよ」


 ジークハルトが聖女とヨルンの間に入る。ヨルンが立ち上がると、ジークハルトがリードして三人の会話が始まった。


 フランツィスカが小声でヴォルフラムの腕を引く。


「ヴォルフ兄様の差し金ですの?」

「共謀だ」


 ヴォルフラムが満足げに笑うと、こちらの考えを悟ったフランツィスカはわずかに眉根を寄せた。






 すっかり夜が更けた頃、王妃によって舞踏会の終了が宣言され、白龍の間を辞したヴォルフラムたちは着替えもせず王太子の執務室にいた。フランツィスカが内密に話したいと申し出たからで、情報漏洩を避けるため、側仕えは全員外で待機させている。


「あれは何でしたの? ヨルン様が聖女様に縁づこうとジークハルトに喧嘩を売ったように見えましたけれど」


 執務室で二人きりになると、フランツィスカは早々に笑みを消して真顔になった。ヴォルフラムは涼しげに頷く。


「想定通りだな。これでしばらくは静かになる」


 ヴォルフラムの答えを聞き、フランツィスカはこちらの狙いに気づいた。


 先程のヨルンは、新たな仕事仲間に同僚として挨拶に来ただけなのだが、聖女の出仕は上の一部しか知らない情報だから、傍目には彼の個人的な興味で聖女に近づいているように見える。さらにヨルンは妖精王の悪戯の際に婚約者と別れており、現在決まった相手がいない。ギレスベルガー公爵が未だに娘と王太子の復縁を狙っているように、ジークハルトと別れさせ、自身が後釜に収まることを企んでいると推測するはずだ。爵位や家の権力はヨルンの実家の方が強いので勝算がないわけではない。


 ドレッセル伯爵家もバルヒェット侯爵家も、ローゼンミュラー王国の名家だ。ここがバトルを始めて割り込むような無謀な者はいない。今まで社交界に出てこなかった聖女にとっていい虫除けになるだろう。


「バルヒェットのご令息を間男に仕立てるなんて……人の名誉を何だと思ってらっしゃるの?」


 フランツィスカはあきれ顔でぼやく。ヨルンもグルだと言ったから責めないだけで、フランツィスカの性格上こういった策謀は賛成しない。彼女の批判的な反応は予想通りだった。


「結婚する以上、私とヴォルフラム様は無関係ではございません。何かお考えがあるなら事前に教えていただきたいですわ」


 フランツィスカは目尻を吊り上げて怒る。


「ヴォルフラム様は他人を巻き込んだ独断専行が多すぎます。効率ばかりで周りの混乱をなおざりにして、そんなに自由にしたいならずっと一人でいらっしゃって」

「……」


 面倒事が再燃した。このまま黙っていれば、彼女の頭越しに侍女を解雇した件も掘り返されるだろう。


 自分のやり方がフランツィスカの反感を買いやすいのは理解しているが、宥めすかすのもだんだん面倒くさくなってきた。ヴォルフラムは開き直ったような口調で捨て台詞を吐く。


「知らん」

「は?」


 フランツィスカの指先がぴくりと反応する。


「私は優しい男ではないから、冷たくて身勝手で人の心がわからぬもので」


 言い捨てれば、フランツィスカは戸惑ったように首を傾げた。目を合わせないヴォルフラムをまじまじと見つめ、しばらくして尋ねる。


「優しい男って何ですの?」

「お前がそれで私を振ったんだが?」


 ヴォルフラムは喧嘩腰に噛みついた。フランツィスカは他人事のように「はあ」と呟く。心当たりのない態度が癇に障って顔をしかめた。


「お前が八年前、私よりジークハルトがいいと言ったんだろう! おかげで婚約者選びがやり直しになって、要らぬ仕事が激増したわ」

「あら。私、殿下は選択肢が十倍に増えて喜んでいらっしゃるものだと」


 怒鳴られても、フランツィスカが平然としている。


 王族の伴侶選びは大体苛烈な政争になる。縁談が取り沙汰される年頃には、すでにフランツィスカがヴォルフラムの妃の最有力候補になっていたため静かだったのだが、彼女がジークハルトと婚約して候補を外れたら、グートシュタイン公爵家相手に諦めていた貴族が色めき立って、ヴォルフラムに次々と縁談を持ち込み始めた。フランツィスカの言う通り、候補者は格段に増えたけれども、一度目の婚約相手がユーディットに決まるまでのすったもんだは思い出したくない。


 思わず凶悪な顔で睨んでしまい、フランツィスカは婚約者の本気を悟ったのか哀れみの表情になった。


「からかいすぎたようですけれど、もとはと言えばヴォルフラム様のせいですわよ。私は勝手を許すほど甘くありませんからね」


 フランツィスカは嘆息し、心底不思議といったように頬に手を当てる。


「昔と全く変わっていない気がしますわ。そうやって相手を軽んじていると愛想を尽かされますわよ。ユーディットさんは平気だったのかしら?」

「時々ヴァラハ古語しか喋らなくなった」

「しっかり怒らせているではありませんの」


 ヴァラハ古語は、世界の言語の中で最も文法が難解で単語数が多いと言われている言葉である。国内の話者が片手に収まるほどしかいない言語なので、実質的な会話の拒否だ。あれも大概面倒くさかった。


「本当に、性格がよろしくないですわね」


 フランツィスカが口元を手で隠し、くすくすと笑い出す。お説教態勢から一転してなぜか楽しそうな幼なじみに、とりあえず失礼なことはわかるヴォルフラムは不満げに口角を下げた。


「お前に言われたくないわ」

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