7.〈王太子〉ヴォルフラム




 ヴォルフラムは生まれたときから、王になることが決まっていた。


 ローゼンミュラーの国王である父親と、東の山岳部族の姫君である母親の長男として生まれた。下の双子と少し歳が離れていることもあり、早々に立太子した。幼い頃から勉学と公務に追われ、自由時間はほとんどなかった。自身の裁量権が大きくなった今でも、余暇もなく忙しくしているのは仕事が嫌いではないからで、一般的に窮屈な王の立場もヴォルフラムに適していたのだろう。音楽を愛する上の弟の放蕩ぶりを思えばますますその思いが強くなる。


 だから、少し意外だった。


「ヴォルフラム王太子殿下、先日は過分なご配慮をいただき、誠にありがとうございました。家宝を手放す覚悟もしていたのですが、杞憂に終わりそうです」


 舞踏会が続く白龍の間。


 冗談混じりだが、疑いようのない感謝と敬愛の心がこもった言葉をかけたのは、西方の領地を治めるグラーツ男爵だ。爵位の通り社交界での地位は決して高くなく、性格は実直だがそれゆえに損をしがちな家でもある。言ってしまえば、舐められやすい。


 先日、西方の一部で水害があった。グラーツ男爵領はその影響をもろに受けて農作物が軒並みやられ、自転車操業の領地経営に大打撃が加わったのだ。そこで男爵は、仕事や家を失った領民が飢えるのを厭って今年の税を免除し、多大な赤字を身銭を切って補填しようとしていた。


 深々と頭を下げるグラーツ男爵に、ヴォルフラムは首を横に振った。


「何も特別な対応ではない。慣例通りだ」


 領地が自然災害に見舞われた場合、申請があれば被害の半分程度を国庫から補填する制度がある。被害状況の確認のために国の監査が入るので、領主の自由にできる領地に横槍が入るのを嫌がられたりして使用率は半分程度だが、民思いで後ろ暗いところのないグラーツ男爵は即申請していた。


 ヴォルフラムは監察官の報告書を読み、きっちり半分の額を計算して支援の許可を出そうとしたのだが、たまたまその話を聞いたフランツィスカが待ったをかけた。


「全額支援なさってはいかがですの?」

「は?」


 当初、ヴォルフラムはその提案を論外だと思っていた。


 身分が違いすぎるのであまり交流はないが、グラーツ男爵の真面目な性格はヴォルフラムも好ましく思っている。しかし、情や好き嫌いで制度を曲げては、それは決まりとして成立しない。もしフランツィスカの言う通りにしたら、これから全ての申請に全額支援する必要が出てくる。


 それがわからぬフランツィスカでもないのに、一体何を言い出すのか。ヴォルフラムは胡乱げに視線を鋭くしたが、フランツィスカは平然とした顔で関連資料を引っ張り出してきた。


「過去の支援額を見てくださいませ。グラーツ男爵領は小さいですから、全額支援しても前例と大差ございません。復興支援制度の規定においても、半分以上支援してはならないという決まりは……ほら、ございません」

「全額支援していいとも書かれていないが」


 ヴォルフラムは冷めた口調で、自信満々のフランツィスカの話の腰を折る。けれど彼女はどこ吹く風で、今度は執務机に西方の地図を広げ始めた。


「おい、やめろ」

「グラーツ男爵領はこちらですけれど」

「馬鹿にしたいのか?」


 国内の地理くらい五歳の頃には把握している。地図の一点を指差すフランツィスカを睨むと、彼女は気にせず指を滑らせた。


「周辺のレンナルツ、リース、リッベントロップ……いずれも国王陛下や王家と距離を取っている家々です。特にリッベントロップ侯爵家は、西方派閥の要。ギレスベルガー公爵夫人の出身家ですわ」


 フランツィスカは、西方に現王族の敵となる王弟派や行動の読めない中立の貴族が集まっていると指摘する。お淑やかとは言い難い婚約者が突飛なことを言い出したと思っていたヴォルフラムは、ここで静かに傾聴の姿勢になった。


「グラーツ男爵は影響力こそ小さいですが、肝が据わっていて何より義理堅い方です。王都から遠い西方にヴォルフラム様の目を置けると考えれば、このような額、端金ではございません?」


 フランツィスカの菫色の目が、グラーツ男爵に恩を売って味方につけろと唆す。


 流石に全額は認められず八割程度にしたが、ヴォルフラムはフランツィスカの意見を概ね受け入れて、グラーツ男爵領への支援を指示したのだ。


「特別ではなくとも、自然に逆らう術のない領地にとってはありがたいものでした。大変……大変、感謝しております」

「わかったから、顔を上げろ」


 ヴォルフラムは愛想の良い弟やジークハルトと違って、厳しいやら怖いやら散々な印象を持たれている。昔のフランツィスカには人の心がないだの理が全ての冷血漢だの散々罵られていたのだ。身分の低いグラーツ男爵にいつまでも頭を下げさせていては、権力を笠に着たいじめにしか見えない。


 グラーツ男爵は、ヴォルフラムのかすかな苦みに気づき、しまったというように顔を上げた。


「少し感極まってしまいました。このご恩に報いることができるよう、微力ながら殿下に尽くしたいと考えます」

「励め」


 そっけない返事だったが、グラーツ男爵は少し嬉しそうに表情を緩める。男爵がその場を辞すと、黙って会話を見守っていたフランツィスカが、悪戯が成功した子どもみたいに楽しそうな視線を寄越した。


「上手くいきましたわね」

「金貨の価値の違いは理解していたと思ったが、これほど違うのだな」


 そもそも復興支援制度によって被害額の半分は保証されているため、今回ヴォルフラムが手回ししたのは三割分だ。それだけでグラーツ男爵の信頼を買えたことに、恵まれた王族の金銭感覚が戸惑っている。


 すると、フランツィスカはあきれたように「違いますわ」とヴォルフラムに顔を寄せた。


「グラーツ男爵に響いたのは、ヴォルフラム様の配慮によって借金せずに済んだからではなく、身分に関わらず重要視されたからです。王太子に信用されていると思ったから、あそこまで考えてくださったのですわ」

「昨日急に評価したわけではないが」


 最初からずっと信用している。婚約者の説明がいまいち腑に落ちなかったが、向こうから味方になってくれたのだから上々だろう。フランツィスカの発想は、実家で領主の書記官をやっていただけあって実地に即して効果的だった。


「フランツィスカ」


 お転婆で、じっと黙っていられなくて、頭で考えるよりも体で体験したがる彼女は意外にも、ふんぞり返って報告を待つのが仕事の、窮屈な王族の立場に馴染んでいる。


「お前、実は胃が弱いのか?」


 瞬間、フランツィスカはぽかんと首を傾げた。


「何がどうしてそうなりましたの?」


 警戒心を露わにする婚約者に、王太子ヴォルフラムは、また自分が余計なことを言ったらしいと悟った。






「婚約を破棄したいのです」


 一年近く前、当時の婚約者ユーディット・ギレスベルガーとお茶会をしていたときのことである。


 婚約者同士の交流の場として定期的に設けられていた王宮でのお茶会は、二人が国政に関わる極秘情報をぽんぽん喋り出すので、側仕えを全員ガゼボの外に待機させるのが通例になっていた。そのため、国内情勢をひっくり返す重要な提案を、誰に聞かれることもなく二人きりで協議できたのだ。


「そうか」


 ユーディットが土産に持ってきたクッキーを黙々と口に運びながら、ヴォルフラムは相槌を打つ。


「理由はわかるが。叔父上か?」

「ギレスベルガー公爵と呼んでください。調子に乗るので」


 ユーディットは涼しい顔で毒を吐く。ヴォルフラムは肩をすくめた。


「そうしたいところだが、黒蛇が一匹やかましい」


 黒蛇とはギレスベルガー公爵家の家紋だ。ギレスベルガー公爵から推薦された者がヴォルフラムの側仕えに何人かいるのだが、そのうちの一人が、親戚付き合いは大事、いざというときに頼れるなどと露骨にギレスベルガー公爵家との交流を勧めてくる。あまりにもうるさいので適当な理由で解雇しようかと思っていたところだ。


「まあ。躾がなっていませんね」

「躾はできているだろう。教育方針が間違っているだけだ」


 慰めにもならない冗談を返し、ヴォルフラムは片目を眇める。王妃に次ぐ姫の地位で一派閥をまとめ上げるユーディットの方が、現在の情勢を肌身で理解しているはすだった。


「ギレスベルガー公爵にこれ以上台頭されても困るし、婚約を破棄すること自体は構わぬ。しかし、お前の後任がいるのか?」


 ヴォルフラムはユーディットと婚約する前、妃候補の令嬢に振られて余計な苦労をした。それをまたやると思うと気が滅入る。


 ユーディットは淑女然と微笑んだ。


「私程度、世界を見渡せばいくらでもおりますよ。王妃陛下が東の部族のご出身ですから国内のご令嬢が望ましいでしょうけれど、弟君と協力できるならその限りではございませんし。聖女様も見つかったとお聞きしました」

「お前、聖女殿の状態をわかっているだろう」


 先日王宮騎士団が保護した聖女は、現在は王宮で治療と教育を受けている。聖女についてはヴォルフラムに一任されており、報告も聞いているが、質疑応答以外ろくに喋らず張り詰めているそうだ。このままでは死にそうだと思って、人当たりの良いジークハルトを無理やり差し向けたが、彼でもかなり難航している。


「わかっています。ヴォルフラムが時間をかければ、聖女様のお心を開くこともできますよ」


 あれで結構無責任なところのあるユーディットは、ころころと笑いながらそう言った。


「ヴォルフラム殿下、フランツィスカ様。この度は、おめでとうございます」


 ふと、名前を呼ばれる。


 せっかく機嫌が直ったのにまた面倒なことになりそうだと思ったとき、聖女とジークハルトが挨拶に現れた。フランツィスカはそちらに関心を移し、声を絞り出す聖女を見るや優しい笑顔になる。黙っていれば有耶無耶にできそうだ。


「ありがとう存じます、聖女様。お久しぶりですわね」

「はい。ご無沙汰しています」


 エスコートというより腕にしがみついているし、受け答えも幼子のようにたどたどしいが、王宮に滞在していた頃よりずいぶんマシだ。人形のような無表情は変わらないものの、振る舞いに少し人間味が出てきている。


 聖女をそこまで引き戻したジークハルトを、ヴォルフラムは感心を込めて一瞥した。


「お前は昼の会議ぶりだな」

「今日の俺はおまけですから」


 ジークハルトが謙遜するように肩をそびやかす。


 今日の会議は舞踏会の体制の最終確認だった。王宮の魔術警護を担うジークハルトも漏れなく参加しており、お互いに挨拶も何もない。話題に困るから、むしろ人目のある堅苦しい場所では会いたくないほどだ。


 ヴォルフラムは二人の格好を見て数少ない話題を絞り出した。


「お前の衣装代、全部聖女殿に注ぎ込んだのか?」


 ジークハルトは王宮魔術師の制服である。いつも使っている機能性を重視した略式と違い、装飾の多い式典用の正装だったが、手持ちで間に合わせた形だ。王族に負けるとも劣らぬ聖女のドレスとは似ても似つかない。


 聖女が着用している、白と淡いエメラルド色を基調とするドレスは控えめなデザインだが、布の質と使い方が大金持ちのそれである。ドレッセル伯爵家はそれなりに裕福だし、聖女に生半可なものを与えられないのは事実だが、思い切ったものだ。


 ジークハルトは「残念」と耳飾りの片割れに触れた。


「俺の分はこれです」


 指差したのは大ぶりのエメラルドだ。男性が贈る婚約の耳飾りは女性への思いの形と言われており、円満な家庭を望むなら適当なものは選べない。ヴォルフラムはこだわりの強いフランツィスカに選ばせた方が早いと思って好きにさせたが、ジークハルトは自分で選んだのだろう。


「まあ、情熱的ですわね」


 フランツィスカは感心半分、からかい半分といった様子で少し身を乗り出す。


「今度聖女様とお茶会をするお約束でしたけど、心配でしたらジークハルトも呼びましょうか?」

「フランツィスカを相手に心配はしませんよ」


 からかわれたジークハルトは苦笑し、ね、と聖女の顔を覗き込んだ。聖女は婚約者を見つめ返して薄く微笑む。


「平気です」


 恐らく、今夜初めて彼女の表情が動いたのだろう。今代の聖女の地位を図りかね、王族とのやり取りを遠巻きにしていた参加者らが、ざわりと空気を揺らした。


 絶大な力を持つ聖女は影響力が大きい。聖女に近づきたい貴族は数知れず、早々にジークハルトとの婚約を決めていなければ未婚令息の求婚合戦になっていただろう。不埒な輩に利用されぬよう、聖女の周りを権力で固める必要があった。


「聖女殿」


 ヴォルフラムが呼ぶと、聖女の肩がびくりと震える。傷を抱える彼女が耐えられるかは賭けだが、王太子としてやらねばならないことがあった。


「私と踊ってくれないか?」


 手のひらを差し出すと、聖女は目を見開いた。



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