6.〈書記官〉フランツィスカ




 舞踏会の作法は、実行しようと思うと面倒くさい。


 会場の端で楽団が音楽を響かせると、まず始めに参加者全員が、一緒に参加したパートナーと踊る。二曲目からは踊るも踊らないも自由だが、ずっと壁の花でいるようだと攻撃の的にされる。パートナーを変える場合は身分の高い者、同格の場合は男性からダンスに誘い、相手が了承すればダンスフロアに出る。常に人に囲まれる王侯貴族にとって、二人きりで内緒話ができる貴重なチャンスだった。


 そのため、婚約者や配偶者、親子などの関係にない他人同士が、一度の舞踏会で三回以上踊ると噂になる。表沙汰にできない蜜月関係を主張するようなものなのだ。未婚の者は特に注意するべきタブーである。


 フランツィスカは、ヴォルフラムと二曲続けて踊った後、休憩がてらダンスフロアの外に出た。壁際に用意された長テーブルの軽食の中からクラッカーを丸呑みにし始めたヴォルフラムの横で、果実水に口をつける。


「挨拶回りには行かれませんの?」

「後で行く。腹が減った」


 ヴォルフラムは率直に答えた。主催者は王妃とはいえ、今夜の主役は結婚を発表した二人である。そのヴォルフラムが招待客よりクラッカーを優先したのだから、後回しにされた貴族たちの反応を考えるとちょっと面白かった。


「最悪、向こうから寄ってくる」


 隣の婚約者だけ聞こえるような声量で、ヴォルフラムがぼやく。その言葉は言い訳というよりも愚痴だった。面倒事から逃げられない王太子に同情してしまう。


 案の定というべきか、ヴォルフラムが息をついて幾許もないうちに厄介事がやってきた。


「ヴォルフラム王太子殿下」


 きらびやかに盛装したギレスベルガー公爵と、父のパートナーを務めるユーディットだ。彼女はストロベリー色のドレスを身にまとい、にこにこと温厚に笑っている。


「殿下、フランツィスカさん、この度はご結婚おめでとうございます。お友達の慶事はとても嬉しいものですね」

「ユーディット。殿下の婚儀はまだ先だ」


 父より先に声をかけたユーディットを、ギレスベルガー公爵が苦笑混じりに窘める。あら、と恥ずかしそうに頬を染めた娘と父のやりとりは微笑ましく見えるが、今のは王太子とフランツィスカの結婚を望まないギレスベルガー公爵の言葉をユーディットが先んじて封じたのだ。親子の間で見えない火花が散っている。


「気が早いが、間違いではないだろう。妃共々感謝する」

「私の言葉をとらないでくださいな、旦那様。私だってお友達にお礼の一つや二つ申し上げたいのですけれど」


 すでに二人が結婚した体で話すユーディットに便乗し、ヴォルフラムが冗談混じりに妃と呼ぶ。フランツィスカも追撃するように、わざとらしく唇を尖らせて夫の袖を引いた。


「お祝い、ありがとう存じます。ユーディットさん」

「お礼よりも、私のこともお祝いしていただけませんか?」


 ユーディットは意味深に笑みを深めると、パッとギレスベルガー公爵の手を離してフランツィスカに近寄った。公爵が慌てて娘を呼び止めようとするのを、ヴォルフラムが間に割り込んで邪魔をする。


「ギレスベルガー公爵、少しよいか。先日の件だが」

「は……お聞きします」


 甥とはいえ、王太子に呼ばれてしまっては無視できない。ヴォルフラムが足止めしている間に、ユーディットは無邪気な笑顔でフランツィスカに囁いた。


「――実は、私、今度婚約する予定なのです」

「まあ」


 その内容に、フランツィスカは驚く。妖精王の悪戯によってヴォルフラムとの婚約が解消されて以降、ユーディットはフリーの状態だった。王家に捨てられ新たな相手も決まらなかった彼女は一部で口さがない悪評に晒されているが、全部王族に返り咲くのを諦められないギレスベルガー公爵のせいである。公爵に怒りを募らせていたフランツィスカにとっては意外な朗報だった。


「お相手をお聞きしても構いません?」

「ええ。以前私の騎士だった人です」


 ユーディットは唇に人差し指を当てる。その仕草は内緒話のようだが、周りにはそれなりに人がいた。噂としてあっという間に広まるだろう。


 ヴォルフラムとフランツィスカの結婚が決まり、ユーディットも婚約するとなれば、ヴォルフラムとユーディットの復縁は正攻法ではもう無理だ。予定というまだ正式発表できない情報を公の場で披露するなど、彼女は父親の夢を壊すことに躊躇がない。


(……すごいですわね)


 先ほどの結婚祝いといい、事前に打ち合わせることもできないのに、元婚約者の従兄妹たちは巧みに連携している。ユーディット王妃を望む政敵の気持ちが、フランツィスカにも少しわかってしまった。


「それなら安心ですわね。発表を楽しみにしておりますわ」


 ユーディットの騎士といえば、彼女が王太子妃になる予定だった頃の護衛だろう。側仕えはヴォルフラムら王家側とギレスベルガー公爵双方のお眼鏡に適う人材が選ばれているので、誰であっても有能で誠実なはずだ。


「立場が変わりましたけれど、お披露目の場にフランツィスカさんをお招きしてもいいでしょうか?」

「私、とっくにお招きいただいたつもりになっていました」

「まあ! ふふ、そうですね」


 ここぞとばかりに仲の良さをアピールしている間に、ヴォルフラムたちの話が終わったようだ。ギレスベルガー公爵がユーディットを呼び、ヴォルフラムは無造作にフランツィスカの手を掴む。


「フランツィスカ、話は済んだか。お互いずっと喋っていられる立場ではないだろう」

「ヴォルフラム様。そうですわね、ついお話が弾んでしまいましたわ」


 フランツィスカが苦笑すると、ギレスベルガー公爵は少し首を傾げた。


「舞踏会はまだ始まったばかりですよ。お忙しくとも、一曲踊るくらいの時間はございましょう」


 ふむ、とヴォルフラムはユーディットの顔を見る。


「ユーディット、私と踊るか?」

「差し出がましいですが、フランツィスカさんをお一人にするべきではないと思います」

「そうだな。今夜は騎士に徹するとしよう」


 ヴォルフラムらしからぬ華美な言葉に吃驚したが、たぶんフランツィスカたちの話が聞こえていたのだろう。ヴォルフラムは生粋の文官気質で剣術を嗜まない。


 ギレスベルガー公爵はこれ以上食い下がれないと諦めたのか、改めてユーディットをエスコートして一礼した。


「残念です。……お待ちの方がいらっしゃるようなので、本日はこれで失礼いたします」

「これからも仲良くしてくださいませ」

「ああ」


 ユーディットの挨拶に、ヴォルフラムが雑な返事をする。ギレスベルガー親子が離れていくと、すぐさま別の人物に声をかけられた。


 グートシュタイン公爵。フランツィスカの祖父だ。


「あらお祖父様。お久しぶりですわ」

「フランツィスカ、ヴォルフラム殿下、この度はおめでとうございます」


 祖父が闊達に笑う。昔ヴォルフラムには血筋を感じると言われたが、フランツィスカは祖父ほど豪快でも無神経でもない。


「ありがとう、グートシュタイン公爵」

「殿下と孫の縁が結ばれたこと、この爺、大変喜ばしく思っております。生きているうちにフランツィスカの花嫁姿を見られそうでほっとしましたわ」

「そう生き急がれると困るのだが。あと八年は妃の後ろ盾でいてもらわねば」

「絶妙に現実味のある数字を出されますな」


 祖父が思わずといったように呟く。フランツィスカはにっこり微笑んでヴォルフラムの腕に手を触れた。つねりたかったが、袖が厚くて上手くできなかった。


「そうですわね。私、王族としてまだ何もできておりませんから、力になってくださる味方は一人でも多く欲しいのです。お祖父様、可愛い孫をきっと助けてくださいね」


 フランツィスカが信頼するヘンリケの解雇を当てこすると、ヴォルフラムがさりげなく目をそらす。祖父は負けず劣らずの笑顔で頷いた。


「もちろんだ、フランツィスカ。お祖父様は健康に長生きしてみせよう」

「お祖父様が相談相手になってくださるなら心強いですわ」


 ヘンリケを侍女に戻すとは言わない祖父に、フランツィスカは続けて事前連絡のない勝手な決定を非難する。祖父はうーんと考えるように腕を組んだ。


「爺は隠居のようなものだからな。話を聞くことはできるが、若いフランツィスカとは考えも違うだろう」

「私はお祖父様とはわかり合えると思っていますけれど」


 価値観の相違だと軽く逃げられそうになり、フランツィスカは一瞬真顔になった。本気で切れかけたのに気づいて、巻き込まれないように傍観していたヴォルフラムが瞠目する。


「フランツィスカは王族になるんだ。グートシュタインのようにはいかないさ」


 祖父は孫の激怒など、子猫の威嚇程度の感覚なのだろう。気軽な微笑みで窘められて、フランツィスカは考えるのをやめた。


「そのようですわね。私も考え直すことにしますわ」


 怒りを込めてヴォルフラムの腕に爪を立てながら、フランツィスカはついと会場を見回した。


「お祖父様はどなたといらっしゃったの?」

「一人だよ。お祖母様はもういないからね」


 祖父はそう答えると、同じように会場を振り返る。


「こういう場所は久しぶりだし、知り合いに会ってこようかな。……殿下、御前失礼いたします。フランツィスカも、たまには里帰りにおいで」


 孫の不機嫌を察して、祖父はさっさと追い払われていく。周りに人がいなくなると、ヴォルフラムがいつもの仏頂面で囁いた。


「痛い」

「痛くしておりますの」


 フランツィスカが力を緩めずに言えば、ヴォルフラムは溜息混じりに答えた。


「……お前がなぜ怒ったか、わかった」


 フランツィスカは無言でヴォルフラムを見上げる。彼は若干居心地悪そうに続けた。


「あれは不愉快だ。……悪かった」


 珍しく謝罪の言葉を口にして、ヴォルフラムは慎重にフランツィスカの手を解こうとする。


「今すぐとはいかぬが、戻せるよう手配する。二年後なら本人もいくらか過ごしやすいだろう」

「結婚式に間に合わせてくださいませ」

「本気か?」


 ヴォルフラムは何とか手を振り解いたが、フランツィスカが諦めないので今度は繋ぎ合うような格好になった。そんな仲睦まじい婚約者同士が激しく喧嘩しているとは思うまい。


「本気、とは? 私はずっと本気ですけれど」


 迫力のある笑みでフランツィスカが迫る。


 信頼関係を築く気がないなら無視し続ければいい、という言外の脅しを悟ったのだろう。ヴォルフラムは握り潰されそうな右手を諦観の眼差しで見下ろした。


「……結婚式だな。準備を手伝わせたいとは言わないな?」

「早い分には歓迎しますわよ」


 勝利を目前にしたフランツィスカが晴れやかに微笑む。ヴォルフラムは無茶振りを受け入れて深い溜息をこぼした。


「わかった。お前の花嫁姿をそばで見せよう」

「ありがとう存じます」


 言質を取り、フランツィスカは意気揚々と手を離す。ヴォルフラムはようやく解放された手を握ったり開いたりしながら、どこか遠くを見つめていた。


「……お前は、本当に、面倒くさい」

「ヴォルフラム様に言われたくありません」


 絶対に彼より自分の方が性格が良い。フランツィスカは確信を持って言い返した。



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