5.〈書記官〉フランツィスカ




 フランツィスカの実家であるグートシュタイン公爵家は、王都の北に領土を持つ領地貴族だ。現在、公爵位にあるのは王宮に程近い貴族街の別邸で暮らす祖父だが、実質的にはグートシュタイン領の本邸にいる父が当主の権限を持って辣腕を振るっている。


 この国の王太子ヴォルフラムとの再婚約が決まるまで、フランツィスカはずっと、父の書記官として領地経営を補佐していた。子どものうちは遊びのようなものだったが、だんだんとやり方を学び、十五を過ぎる頃には、フランツィスカが意見しに行かなくても父から呼んでくれるようになった。


 家の跡継ぎとして教育を受けていた姉を羨み、同じことを学びたいと言って拒否された四歳、フランツィスカは初めて部屋に立てこもった。そのときは乳母フリーダの裏切りで半日と持たず父に散々怒られたが、五歳の誕生日に姉と同等の教育権利を要求して二度目の立てこもりを起こす。今度はフリーダも幼い主の本気を悟ったのか協力してくれて、三日後に姉の家庭教師がフランツィスカも担当するという確約を得た。


 その後もグートシュタイン領のことを学ぶうちに、特産の蜂蜜林檎の収穫現場を見に行きたくて立てこもったり、暴風雨の被害状況の視察についていきたくて立てこもったり、娘をお淑やかに育てたい父と好奇心旺盛で活発な娘の対立は頻繁に起こったが、一番激しかったのは、ジークハルトとの婚約が決まった十一歳の頃だった。


 ジークハルトの実家ドレッセル伯爵家は、魔術師の一門である。代々積み上げてきた魔術の知識と技術によって王宮を支え続けるドレッセルの家系は、王家からの信頼が厚く、何より領地を持たず王宮に出仕する宮廷貴族だった。


 フランツィスカが培ってきた領地経営の経験は、領地を持たないドレッセル伯爵家では必要ない。次代の伯爵夫人として求められるのはドレッセルが所有する膨大な魔術の知識であり、領地経営に関わるのはやめて今すぐ魔術を学ぶべきだと父や祖父にせっつかれた。


 フランツィスカとしては、魔術はもちろん学びつつ、ジークハルトに嫁いだら領地経営はもうできないのだから、結婚までに未練を残さないように全力でやりたいと思っていた。ジークハルトやドレッセル伯爵夫妻がフランツィスカの肩を持ってくれて、望み通りに決着したが、あのときのことは未だにグートシュタイン公爵家の中でタブーになっている。


(……こうなるとは思いませんでしたわ)


 大量に積み上がった参考書の山を崩しながら、フランツィスカは心の中で呟いた。


 フランツィスカは現在、王宮の貴賓室に滞在し、王族教育を受けている。教育を統括するのはヴォルフラムの実母である王妃で、姑に当たる彼女がフランツィスカのための家庭教師や教材を揃えてくれていた。王妃は忙しい公務の間を縫ってフランツィスカとお茶会の時間を持ち、そこで教育の進捗状況を確認したり、義理の娘の相談に乗ってくれたりしている。婚約者のヴォルフラムの方とは、毎日彼の執務室へ出向いて朝の挨拶をするのが決まっているくらいで、他は二週間に一度ほど、一緒の晩餐をとることを向こうから通達してくるだけだ。フランツィスカの都合はほぼない。講義を受けたりお茶会を参加したりするだけで突発的な予定変更がないから、こちらが合わせるのは納得している。


 今日の講義は午前中でおしまいだったが、空いている時間は宛てがわれた部屋で自習をするのが常だった。昨夜読みかけで断念した書物を読み進める。部屋に控えているのは幼少期から側にいるフリーダと王宮に来てヴォルフラムが寄越した侍女二人と騎士四人で、皆静かだった。


 本当なら侍女がもう一人、実家から連れてきたヘンリケがいるはずだったのだが、婚約者と祖父が勝手に解雇したのでフリーダの負担が増えている。彼女は有能なのでそれでも遜色ない仕事ぶりを見せているが、長く無理させるのも可哀想だ。早く代わりの侍女を探さないといけない。


 フランツィスカは気づかれぬよう、小さく溜息をついた。ただでさえ人材不足なのに何をしてくれたのだろう。フランツィスカを最優先にできる専属の側仕えは貴重なのだ。いざというときに他を優先されたら何も守れない。


 実家で受け入れていた親戚筋の行儀見習いや、グートシュタイン家に忠誠を誓う使用人を置いてきたのもそのためだ。フランツィスカはいずれ王妃になる立場であり、これからは国のため、王のために命を捧げなければならない。その覚悟を持てない者は、側に置いてもお互い不幸になる。


 そうやって王宮に連れていく側仕えを厳選したのに、早速一人欠けてしまった。本当に、どうしてくれようか。


 婚約者である王太子ヴォルフラムに恨み辛みを募らせながら、書物を読破する。フランツィスカが本を閉じたタイミングでフリーダが近づいた。


「お嬢様。そろそろ湯浴みのご用意を」


 フランツィスカはテーブルに置いていた懐中時計に目を向ける。真鍮のそれは非常にシンプルな意匠で、文字盤の数字が飾り文字になっている程度だ。実用的すぎる婚約者の贈り物である。


 時刻は十四時を指していた。今日は十八時に王妃が主催する舞踏会がある。フランツィスカとヴォルフラムの婚約が発表されたあの日以来の、国内外の貴族が集結する大規模な社交会だ。隙を見せるわけにはいかない。


「そうですわね。お願いしますわ」


 書記官フランツィスカはすっと椅子から立ち上がり、戦場に赴く気持ちで側仕えたちを見回した。






 フランツィスカの前任とも言える、ヴォルフラムの元婚約者はユーディット・ギレスベルガーという。臣下に下った現王の弟の一人娘だ。王に娘がいないローゼンミュラーでは王女の立場に近く、王太子との婚約が決まる以前から、彼女は姫として扱われていた。


 ユーディットと王太子ヴォルフラムの婚約は、彼女の父親であるギレスベルガー公爵の野心が強かったために、逆に抱え込んでしまおうとして成立したものだ。しかし、権力を手に入れたギレスベルガー公爵の欲はかえって増大し、このまま二人が結婚しては国の害になりかねないとして、妖精王の悪戯に際して解消された。


 婚約の成立も解消も政略的な理由で、ユーディットとヴォルフラムに瑕疵はない。従兄妹に当たる二人は結構気が合ったらしく、時折王都のパーティーで見かけた二人は仲が良かった。関係性は悪友という感じで甘さはなかったが、上手くやっているのを見ていたから、二人の婚約が解消されると聞いて少し心配もした。


 ユーディット自身は人当たりがよく、誰にでも分け隔てない人気者で、国内外に人脈も広ければいくつもの外国語を流暢に操る社交の達人だ。未来の王妃としての資質を十二分に持っており、ユーディットがその地位を降りることを惜しむ声も少なくない。フランツィスカを狙った襲撃未遂も、そういう者の仕業だろう。


 フランツィスカは商談や数字には強くても、社交シーズン以外はグートシュタイン公爵領にこもりきりだったから、貴族の知り合いは多くない。加えてこの直裁な性格は相性がはっきりしていて、相手の態度が二極化するのだ。これまでジークハルトが緩衝材として上手く間に入ることで成立していたフランツィスカの社交術は、自身の派閥すらできているユーディットとは比べ物にならなかった。


「フランツィスカ」


 大勢の側仕えを従えて、黒一色の盛装を身にまとったヴォルフラムが自室にやって来た。極限まで遊びを削ぎ落としたシンプルなドレスコードに、菫色のコサージュを胸元に飾っている。前髪を上げて固めた姿は久しぶりに見た。ヴォルフラムは勝手知ったる様子でずかずかと中まで歩いてくる。


「準備は済んだか?」

「あなたにそのような配慮は期待しておりませんけど、見違えたな、くらい言えませんの?」


 対するフランツィスカはミルク色のスレンダーラインで、婚約者の瞳に合わせた赤い花を髪に挿した。お互い片耳しかつけていないコーラルの耳飾りは元々一対で、苦楽を分かち合おうという婚約の証である。古くから続く慣習だ。


 ヴォルフラムは改めて、婚約者を頭の天辺から爪先まで眺め回して答えた。


「お前はいつも変わらんだろう」


 肌のメンテナンスから化粧から装飾品選びまで、フランツィスカと侍女たちが必死に考えた結果をこれである。ジークハルトの十分の一でいいから褒め言葉はないのだろうか。フランツィスカは半ばあきれて婚約者の手を取った。


「ええ、そうですわね。私は殿下が思ったより綺麗な顔をしていて驚いたのですけれど」

「顔は生まれたときから変わっていない」

「そういう意味ではございません」


 くだらないやり取りをしながら、婚約者にエスコートされて自室を出る。パーティー会場である白龍の間までは王宮の端と端だ。二人分の側仕えを引き連れ、専用の通路を通ってぞろぞろと歩いていく。


 会場の手前、控え室に到着する頃にはすでに招待客の入場が始まっており、残るのは侯爵家以上の上位貴族ばかりだった。身分が低い者から順に呼ばれていくので、必然的にそうなる。フランツィスカはその中に自身の祖父を見つけて、目が合うなりにこやかに微笑んだ。グートシュタイン公爵の方も嬉しそうに相好を崩す。表面上、微笑ましい祖父と孫のやりとりだったが、あれは相当慌てている。


 気軽に立てこもれる立場ではなくなったフランツィスカは、人前で怒るときは機嫌良く笑う。絶対に許さないという殺意を込めて笑顔になるのである。先日ろくな反論の隙も与えられず詰られ続けたヴォルフラムもよくわかっているようで、グートシュタイン家からさりげなく目をそらした。


 そんな婚約者を横目に控え室を見回せば、懇意にしている友人やその家族、ギレスベルガー公爵家の親子、ジークハルトとエルナの姿も目に入った。エルナが聖女だから、身分にかかわらず順番が後になったのだ。元平民のエルナは周りが男爵だろうが公爵だろうが同じだろうが、エルナを支えるジークハルトには若干の緊張が見える。


(後で話しかけに行きましょうか)


 多くの賓客が集まる今夜、王宮の魔術警護を生業とするドレッセル伯爵家は仕事から抜けられない。ジークハルト自身警備の要なので早めに退場するとは聞いているが、隙だらけのエルナを抱えて頼れる相手もいないのでは辛いだろう。


「殿下」


 小さく呼ぶと、ヴォルフラムは平然と頷いた。ジークハルトに助力するのは吝かではないらしい。密かに約束を交わした後、二人は無心で敵情視察を続けた。王妃主催の、大勢が集まる重要な場に出席する者は、それだけ各家で存在を重視されていると言える。誰を跡継ぎに目すのか、家同士の関係はどうか、立ち居振る舞いは適切か。案内役の儀典官に呼ばれるまで観察を続けたフランツィスカは溜息を堪えた。


(ギレスベルガー公爵……どうしてもエルナとお近づきになりたいようですわね。確かに、聖女が手に入れば権威は増すでしょうけど)


 どうやって手に入れるつもりなのやら。エルナが王宮に保護されていた時期、何度も接触を図ろうとして本人に相当怯えられたと聞いている。ジークハルトにしか心を許していないエルナが、その状況からギレスベルガー公爵を信用するとは思えない。


 しかし、万一エルナがギレスベルガー公爵についてしまえば、ユーディットを王妃にしたい、フランツィスカを気に入らない者たちが活気づくだろう。本来なら聖女は、王家自ら繋がっておくべき人なのだ。友人たちを応援するにしても、保身を考えるにしても避けるべき事態だった。


 フランツィスカとヴォルフラムは最後に会場に入ると、白龍の間の奥、周りより一段上に設置されているステージに向かった。主催者である王妃と国王はすでに玉座におり、その右手にはヴォルフラムの双子の弟が控えている。二人がその反対側に到着すると、司会役の内務省長官が拡声器を取り上げた。


「皆様、大変お待たせいたしました。私は本日の司会を務めます、ローゼンミュラー王国内務省長官、ヴェンデル・バルヒェット侯爵です」


 白髪混じりの貫禄のある司会役は淡々と職務を遂行し、始めに主催者の王妃を紹介する。王妃はゆっくりと立ち上がると司会役から拡声器を受け取って前に進み出た。


「イングリット・ローゼンミュラーです。皆様、本日は私の主催する舞踏会にお越しいただき、ありがとう存じます」


 王妃は、そこそこの長さのある挨拶を、そうとは感じさせない穏やかな笑みで話しきった。臣下の忠誠への感謝や諸外国との友好を述べ、最後にちらりとこちらを一瞥する。


「最後になりましたが、私たちから皆様にご報告がございます。ヴォルフラム、フランツィスカ、いらっしゃい」


 指名され、婚約者がすっと手を差し出した。いつも通りの無表情に、フランツィスカは二人分微笑む。ヴォルフラムのエスコートを受けて、フランツィスカは王妃の横に歩いていった。


「この度、ローゼンミュラー王国王太子ヴォルフラムと、グートシュタイン家フランツィスカの婚儀を来年の夏に執り行うことになりました。突然のことですけれど、温かく受け入れられることを願っています」


 王妃の言葉に合わせて、二人は優雅に一礼した。



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