15.〈主〉ユーディット




 ヴィクトル・グラーツはいい駒だった。


 何か腹に据えかねるとすぐに顔に出る。嫌そうな顔、面倒くさそうな顔は日常茶飯事で、でも命令は決して背かない。口は悪いが横暴でも暴力的でもなく、妙に従順だ。ただ、特に優しくはない。


 ギレスベルガー公爵家の本邸では、食堂で主家の二人が長いテーブルの端だけを使って贅沢な夕食をとっていた。


「ユーディット」


 正面に座るギレスベルガー公爵が呼ぶ。そのとき、ユーディットは丁度好物である白身魚のムニエルを味わっており、邪魔されたくなかったので聞こえないふりをした。この後予定もないからとワインを舐めながら食事を満喫する。


「ユーディット」


 父親と二人きりの食事は、家ではいつものことだ。もともと病弱だった母はユーディットを生み体を悪くしたらしく、めったに寝室から出てこない。幼い頃は定期的に会いに行っていたが、毎度のようにあの人の夢を叶えてくれと泣くので最近は寝ている間を見計らって見舞うようにしていた。


「ユーディット」


 公爵のために無理を押して娘を生んだ母の思いも虚しく、肝心の駒は父親の夢の破壊活動に全力である。本当のところ、この両親から逃れるなら国外に出ればよかった。ヴォルフラム王太子と婚約する前は外国の王族に求婚されたこともあったし、国王夫妻はユーディットの味方だったから、公爵の横槍が入る前にさっさとまとめてくれただろう。外国に行けば、物理的な距離と国家間の不文律が、他国籍となったユーディットを守ってくれたはずだ。


「ユーディット」


 でも、その程度では癪だった。二人の夢など何の価値もないと目の前に示さねば気が済まなかった。だからその方法をたくさん考えて、浮き名を流そうか、修道院に入ろうか、消えない傷痕を作ろうか、贅沢三昧して王宮を放逐されようか、権力と無縁な男と結婚しようか、悩んだのだ。


 どれもこれも二人の滑稽な吠え面が思い浮かんで魅力的だが、決定打がない。ユーディットは途中で面倒くさくなってくじを作った。


「ユーディット様」


 後ろから、本当に小さな声がした。


 この場で席に着いていない者は皆使用人で、いくら気まずくても主家の団欒に口を挟む立場にない。だから公爵にはばれないように呼んだのだが、ユーディットはふとカトラリーを持つ手を止めて背後を振り返った。


「なんですか?」


 護衛のため控えていたヴィクトルの、苺色の瞳が不愉快そうにユーディットを容赦なく睨む。


 主ユーディットは、にこりと優しげに微笑んだ。






 聖女研究室で、王国騎士団と魔術省の交流試合の開催を提案してから、そろそろ半年になる。ヴォルフラムと交渉して主催者として王太子の名義を勝ち取り、魔術省の重鎮であるジークハルトや王国騎士団団長のコルネリウス第三王子の尽力もあって、想定より反発も少なく準備が進行していた。


 今回の交流試合は、三日間にわたる有志によるトーナメント式の大会に加え、余興として御前試合が行われる。御前試合は初日の開会式と最終日の閉会式の二回で、それぞれジークハルト結界管理室室長とヴォルフラムの筆頭騎士、魔術省警務部部長とコルネリウス騎士団長の一騎打ちだ。ヴィクトルやエルナの護衛官であるレオノーレとゲオルクは、ドレッセル伯爵家の推薦枠で大会に参加することになっている。


 当初の目的だった手合わせは、大会優勝を命じられたヴィクトルがなりふり構わず特訓を始めたので、すでに相当数相手をしてもらっているようだ。かつてユーディットに仕えていた騎士たちにもしごかれており、ヴィクトルからの視線に時々殺意を感じる。


 開催が決まり参加者が集まってしまえば、部外者であるユーディットに手伝えることはない。いつものように様々な社交会に顔を出していたところ、ライザー伯爵家主催のガーデンパーティーで珍しい人物に出会った。


「お久しぶりです、ユーディット姉上」

「あら。私にこんなに大きな弟はいましたかしら」


 足早に駆け寄ってきたかと思えば、左胸に拳を当ててニッと笑ったのは、従弟であり第三王子のコルネリウスだ。十八歳で騎士団長を務めるだけあって大柄で、喋る距離で目を合わせようと思うと若干首にくる。


 普段騎士団の制服を着ているコルネリウスは、今日は珍しく華やかな若草色のセットアップで着飾っていた。冗談混じりに首を傾げたユーディットに、コルネリウスはちょっと唇を尖らせる。


「ひどいよ。王家に入らなくても私は従弟なんだから、姉上って呼んでもいいでしょ」

「お言葉は嬉しいですけれど、むやみに小姑を増やしてはゾフィーさんを困らせますよ。コルネリウス様」


 ゾフィーとは、先日の妖精王の悪戯に際してコルネリウスと婚約した令嬢である。彼女の実家ライザー伯爵家は、友人のフランツィスカの生家、グートシュタイン公爵家の遠縁で、政治的に言えば王太子妃の派閥から妻を選ぶことで兄への恭順を示した形だ。


 コルネリウスは心底不思議そうにちょっと首を傾げた。


「ゾフィーなら大喜びするよ?」


 否定しないが。


「私も、強い兄が欲しかったから嬉しい。今日は彼はいないの?」


 コルネリウスは、ユーディットの後ろに控えている護衛の顔を眺め、残念そうに尋ねる。ユーディットは苦笑した。


「騎士にも休息は必要ですから」


 最近は大会のための訓練に明け暮れているので、ヴィクトルがユーディットの護衛を務める日は多くない。今日休みだったのは偶然だが、そうでなくてもコルネリウスが来ると知ったらヴィクトルは絶対に休んでいる。


「えぇ……。運が悪いなぁ。兄上が騎士団を辞めてから、全然会えてないんだよ。最近なんか訓練場によく来てるって聞くのに、私は姿も見られないし」


 それはヴィクトルが避けているからだ。強者と見ればその場で手合わせを申し込むコルネリウスに絡まれたくないのだろう。


「本人には兄上と呼ばないでやってくださいね。いまだに身分の高いお相手には緊張するようなので」

「それなら、むしろ私で慣れるべきじゃない?」

「王子殿下を練習台にする者はローゼンミュラーにはおりません」


 拗ねたように食い下がるコルネリウスを窘めていると、遠くから慌ただしく近づいてくる気配があった。そちらを振り向けば、白銀のプリーツドレスが令嬢とは思えぬ速度で直進してくる。


「ユーディット様!」


 到着するや否や、彼女はコルネリウスを押し除ける勢いでユーディットの前に出た。髪が乱れるのも気にせず勢い良く頭を下げる。


「本日は私の誕生会などにお越しくださり誠にありがとうございます! 一生の思い出です」

「お友達ですもの、もちろん出席いたします。お誕生日おめでとう、ゾフィーさん。せっかくの髪型が崩れてしまいますよ」


 位置がずれた髪飾りをそっと直しながら、ユーディットは微笑んで友人を言祝いだ。至近距離で顔を覗き込まれたゾフィーは呆然と固まり、数秒後ブワッと濡羽色の瞳を潤ませる。


「光栄です……」


 相変わらず面白い子だ。


「よかったね」


 隣で婚約者が泣かされているにも関わらず、コルネリウスはニコニコ笑っている。ゾフィーは何度も瞬きして涙が落ちるのを堪えながら頷いているので、仲は良いのだろう。婚約前に親交はなかったはずなので、順調そうで少し安心した。


「コルネリウス様は今とてもお忙しいでしょう。ゾフィーさんがつらい思いをなさっていないかと心配しましたけれど、お節介でしたね」

「ユーディット様……」


 ゾフィーがいよいよ泣き出した。コルネリウスは動じることなくハンカチを取り出し、ぼろぼろ溢れる涙を丁寧に拭っている。もう、とわざとらしく怒ったように唇を尖らせた。


「私がゾフィーを泣かせるわけないでしょ。姉上じゃないんだから」

「それは何も言えませんね」


 三年ほど前、デビュタントのゾフィーに声をかけて以来、ゾフィーはなぜかユーディットにぞっこんだ。会う度この調子なのが可愛くてわざと泣かせたこともあるので、コルネリウスの苦言はもっともである。


「それに、ゾフィーも代替わりで忙しかったから、本当に寂しかったのは私の方だよ。あちこち交渉に走り回ったのに、余興の一回で大会に出してもらえないし」


 寂しいとは言うが、コルネリウスの不満の比重は後者の方が大きそうだ。普段仲の悪い騎士団と魔術省の垣根を越えた交流試合だから、より多くの強者と戦いたかったらしい。


 ゾフィーがコルネリウスのハンカチを受け取り、赤くなった顔を隠しながら窘めた。


「騎士見習いも出る大会に、騎士団長は反則ですよ」

「でも、兄上が出るんだよ? あの人こそ反則だよ」


 コルネリウスが唇を尖らせて言えば、ゾフィーがきょとんと目を瞬かせた。濡れた睫毛が重たそうに揺れる。


「ヴィクトルさん、そんなに強いのですか?」

「強いよ。姉上にとられたとき本当に悔しかったんだから」

「そうなのですね……。申し訳ありません、不勉強で」


 悔しそうに頭を下げるゾフィーに、ユーディットはゆるく首を振った。


 王太子の婚約者だった頃、社交の場に連れていたのは他の騎士たちだったので、ヴィクトルの印象が薄いのだろう。ヴィクトルは騎士団に入ってすぐにユーディット付きになり、同僚以外と戦った経験がほとんどないから、本人すら自分の実力を正確に把握していない。真価を知る者は一握りだ。


 パーティーの主役と一番身分の高い来賓二人のお喋りに、遠巻きにしていた他の参加者はぎょっとしたふうだった。お姫様の個人的なお気に入りと揶揄されてきたヴィクトルが、実は剣豪コルネリウス王子も認める実力者だと知って、これまでの言動を思い出したのかもしれない。もしくは、大会の優勝者を予想する賭け事が流行っていると聞いたので、このままでは大損しそうなのかも。


「兄上の実力なら、準決勝はまず間違いないと思うけどね。対戦相手次第ではどうなるかなぁ」


 意外と辛いコルネリウスの評価に、ユーディットは「あら」と首を傾げた。コルネリウスが出るなら優勝は五分五分だったが、この従弟は出ない。ヴィクトルより強い参加者がそんなにいただろうか。


 はてと考えるユーディットに、コルネリウスは「姉上は相変わらずだね」とおかしそうに笑った。


「兄上は強いけど、姉上の騎士だから、相手を討ち取る勝利条件は本来領分じゃない。その点は犯罪捜査に出てる騎士団や警務部の魔術師が有利だよ。特に、カティンカ隊長とかは怖いよね」


 カティンカは魔術省警務部で一小隊を預かる魔術師の女性だ。今度コルネリウスと対戦する警務部部長の娘であり、この間も街中で大捕物を演じて騒動になったらしい。社交界にはあまり出てこないが、優秀さと一緒にトラブルメーカーとして有名な人物だ。


「それで、ヴィクトルはあれほど熱心なのですね」


 やたら訓練に余念がないと思ったら、強力な優勝候補がいたからだったようだ。大会優勝を命じたユーディットにいつもより当たりが強いのもそのせいだろう。ユーディットが思っているより難題だったのだ。


 コルネリウスがかすかに声を低めた。


「兄上は何が欲しいんだろうね」


 基本的に気のいいコルネリウスだが、王族らしく腹芸もこなせる。物欲が少なく勝負事にも興味のないヴィクトルが、優勝すれば王族に願いを一つ叶えてもらえる大会に全力を出すのが誰の思惑なのか、当然、確信しているだろう。


「きっと、聞いてあげてね。姉上」


 ユーディットは柔らかく苦笑を返した。


「ヴィクトルが答えてくれればよいのですけれど」


 どんなに無茶な命令でも、ヴィクトルがユーディットの望みを叶えなかったことはない。そして、ヴィクトルがユーディットに自身の望みを口にしたこともない。


 そういう関係だ。



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