16.〈主〉ユーディット




「――と、ご忠告をいただきましたので、ヴィクトル。何か望みはありますか?」


 ライザー伯爵家でのガーデンパーティーから帰った夜。手合わせをしたいというコルネリウスからの伝言と一緒に、訓練帰りのヴィクトルに今日の出来事を報告すれば、ヴィクトルは露骨に嫌そうな顔をした。


「今さら?」

「はい」


 ユーディットは社交界で絶賛される淑女の笑みで頷く。


 ヴィクトルは、椅子に座るユーディットの足元に膝を突き、日課のマッサージをしているところだった。人払いを済ませた自室には、他に誰もいない。貴族の令嬢が血縁関係にない異性と二人きりになるのは一発で醜聞になるが、何年続けていてもこれまで表に出たことはなかった。


「ヴィクトルは私に忠義を尽くしてくれましたが、私はそれに見合った褒美を与えられていなかったと気づきました。ヴィクトルの働きにはいくら感謝しても足りませんから、遠慮せずに教えてください」


 申し訳なさそうな顔を作ってもう一度尋ねると、ヴィクトルは明らかに歯切れ良く答えた。


「気持ち悪い」


 ひどい言い草だ。


「いらない小芝居はやめてください。付き合いたくない」

「最後の機会かもしれませんよ」

「あんたは聖人にはなれませんよ」


 マッサージする脚から視線を上げないまま、ヴィクトルが断言する。ユーディットは困ったように笑った。


「まるで私が常人のような言い方ですね」

「高位貴族はそんなもんです」


 流石、使い走りにされ振り回されてきた下っ端の言うことだ。厳然と事実だけを示していた。


「今さら気まぐれを起こされると余計面倒です」

「あなたを困らせたいだけだと言ったら?」


 ヴィクトルがのっそりと顔を上げた。見るからに一欠片も信じていない目だった。


「ない」

「これはどちらに捉えればよいのでしょう」


 本当に判断に迷って、ユーディットは首を傾げる。昼間素直なコルネリウスやゾフィーと話したばかりだから余計に、ヴィクトルの感情は難解だ。命じられる方が楽というわけでもないのに、従順な駒を徹底しているのが本当に謎である。


「では、聞きたいことはありますか?」


 さっさと次の手に出ると、ヴィクトルは即答した。


「子どもはいるんですか?」

「あら」


 意外と直球な質問だった。


「そうですね。作りましょうか」


 次代を残さないとすると、ユーディットの立場上将来面倒な国のお局になりそうだ。引退のわかりやすいきっかけはあった方がいいだろう。


「念のため伝えますが、入婿の婚外子は面倒なので万が一の場合は早めに伝えてくださいね。養子にしますから」


 ヴィクトルは微妙に顔をしかめ、ユーディットの脚から手を離した。


「そういえば、お貴族様は不倫は当たり前でしたね」

「珍しくありませんね。ギレスベルガー公爵も二人ほど囲っていたはずです」


 政略結婚の多い貴族にとって、恋愛事は結婚して跡継ぎが生まれてから行うものだ。流石に表立ってやるのは眉をひそめられるが、一部では嗜みのように扱われることもある。


「大半は囲わないんですよ。俺もやりません」


 ユーディットは少し驚いて目を瞬かせた。


「それなら、どこで家庭を作るのです?」

「あんたしかいませんが」


 ヴィクトルは冷めた態度で吐き捨てる。愛人を作らないなら、確かにヴィクトルが家庭を作るには結婚相手であるユーディットとやるしかない。


「ユーディット」


 珍しい呼び方で、ヴィクトルはおもむろに立ち上がった。それを追いかけるユーディットの視線は自然と上を向き、部屋の照明を背にしてヴィクトルが思わず呟く。


「……気持ち悪いな」

「私のせいではありませんよ」


 呼び捨てにしたのはヴィクトルの方である。


「知ってますよ。最悪」

「私、怒ってもよろしい?」


 元から口は悪いが、最近はとみに悪態が多い。ユーディットが溜息混じりに咎めると、ヴィクトルはあっさり聞き流して踵を返した。どこかへ歩いていくヴィクトルの後ろ姿を眺めて、ユーディットはスカートの乱れを軽く直す。


 ヴィクトルは勝手知ったる様子で主の私室の棚を漁った。ユーディットは黙って椅子の肘掛けに頬杖を突く。つまらなさそうに待っていれば、ほどなくヴィクトルが戻ってきた。


「先日、見つけました」


 ばさっとユーディットの膝の上に放り出されたのは、いつかユーディットが作ったリボンのくじだ。懐かしいものが出てきて、あらと一本をつまみ上げる。


「残っていましたか。とっくに捨てたと思いましたけれど」

「適当にしまい込んで忘れただけでしょう」


 部屋の片付けも仕事の内であるヴィクトルは白けた顔だ。


「それ、もう一回自分で確認してください」

「縫い目が均一ではありませんね。途中で飽きてしまって」

「そこじゃない」


 ヴィクトルは、じっくりとリボンを観察するユーディットからそれを取り上げて、端の刺繍を眼前に突きつけた。読めということかと、ユーディットは素直に読み上げる。


「修道院」

「そうですね。他に傷物、醜聞、横領、放蕩」

「選べませんでした」

「細かくは聞きませんよ」


 ヴィクトルはリボンをユーディットの膝に置く。


「本当に何でもよかったんですね」

「どれも楽しそうでしょう」


 夢破れた両親の吠え面が。


「興味ありません」


 無関係なヴィクトルは、ユーディットの軽口をきっぱりと切り捨てた。


「ろくでもない選択を俺に委ねないで」

「ヴィクトルを信頼しているからですよ」

「どこにでも引きずり回せるからでしょう」


 同じである。


「王国騎士団すら辞めて私に仕え続けてくれる騎士の他に、誰を信じればよいのでしょう?」

「あんたの命令です」

「他の者は辞しましたよ」


 ヴィクトルが顔をしかめた。


 当然だ。かつて王宮の騎士たちがユーディットに仕えていたのは、王太子と婚約した未来の王族だからであり、婚約破棄によって前提が覆れば別の職務に移る。王家と国に忠誠を誓う彼らが一貴族に仕えることはない。


「俺が姫様に逆らえるとでも」

「実行できない内容は命じていません」

「自信満々ですけど、毎回スレスレですよ」


 平然と断言するユーディットをヴィクトルが睨んだ。


「その顔じゃなきゃ許してません」

「好みですか」

「不本意ながら」


 好きな顔を見ているとは思えない目だ。ユーディットはくすりと笑みをこぼす。


「私も好きです。あなたの顔」

「光栄です」


 全く響いていないヴィクトルは適当に返事をし、ユーディットはつまらなさそうに唇を尖らせる。


「ゾフィーさんなら泣いて喜ぶところですのに」


 すると、ヴィクトルは呆れ顔で突っ込んだ。


「まだ泣かせてるんですか」

「ヴィクトルは女の子に優しいですね」


 咎めるような響きに、ユーディットはにっこりと笑みを作る。


 ゾフィーに対してもそうだが、最近は聖女研究室で出会うエルナとも仲良くなっており、わざわざ王都の菓子屋を調べては手土産を持って行ったりしていた。対人恐怖症であるエルナが少しでも外に楽しみを見つけられるようにしたいのだろうが、ただの知り合いにしては甲斐甲斐しい行動だ。


 ヴィクトルは慣れた調子で肩をすくめる。


「あんたに騙されてるのが可哀想なんですよ」

「私は嘘を言ったことはありませんけれど」


 悪人のように言われるのは心外だ。ユーディットが言い返せば、ヴィクトルは面倒くさそうに溜息をつく。


「それでよく婚外子とか言いましたね」

「ヴィクトル」


 ユーディットは制止するように名前を呼んだ。ヴィクトルは顔色を変えずに言い直す。


「あんた、本当に束縛強いですね」

「してあげましょうか?」

「結構です」


 ヴィクトルはわざとらしく慇懃に頭を下げ、散らばったままのリボンを片付け始めた。ユーディットはその腕に控えめに手を触れる。


「いつコルネリウス様に勧誘されました?」


 耳元に囁いた瞬間、ヴィクトルの手が止まった。


「報告を受けていません」


 コルネリウスは、「姉上に取られたとき悔しかった」と言っていた。ユーディットがヴィクトルを側近に指名したのは五年以上前であり、その時点でコルネリウスはヴィクトルに目をつけていたことになる。コルネリウスは権力を盾に奪うような真似はしないが、人の側近だからと諦めるような性格でもなく、ヴィクトルに直接声をかけていただろう。おそらく、何度も。


 ヴィクトルはリボンを集めながら反論する。


「受けてないんだからいいでしょう」

「そうですね。コルネリウス様にずっと稽古の相手をさせられそうだと思って、私の騎士を続けたのでしょうね」


 王族からの打診は基本的に断れるものではない。剣術馬鹿のコルネリウスから逃げるために、すでに主がいるというのはいい建前だったのだろう。


 すると、ヴィクトルは小馬鹿にするように鼻で笑った。


「下手くそ」

「では、どうぞ」


 ここぞと煽るヴィクトルに向けて、ユーディットは軽く両手を広げる。束縛できていないと言うなら、ぜひ手本を見せてほしい。自分に何のメリットもないと理解したヴィクトルは真顔になった。


「クソ主」


 否定はしない。ユーディットは今すごく楽しい。


 ヴィクトルは諦めの溜息と共に、持ったままだったリボンを棚に戻しに行った。シンキングタイムだろうか。待つのは構わないが、その分のクオリティは期待するところだ。


 背を向けていたヴィクトルがこちらを振り向く。ユーディットの正面にやってくると、おもむろにその場に跪いた。見慣れた左目が射抜くようにユーディットを見上げる。


「あんたが欲しいのは俺の身分だけでしょう」

「よく聞く話ですのに新鮮」


 それは大抵こちら側の台詞だ。ユーディットは出鼻をくじくように頬に手を当てたが、ヴィクトルはそれを見越したように薄ら笑う。


「あんたは誰でもよかったとしても、周りはそう見ません。今さら俺を捨てられると思わないで」


 嘘とも本音とも言えない台詞がストレートに皮肉になる。


 これは待った甲斐があった。その出来の良さに、ユーディットは機嫌良く胸元で手を合わせる。


「素敵ですね」

「意味わかんない」


 ヴィクトルは表情を消し去って罵った。褒めていますのにとわざとらしく唇を尖らせてみせたが、慣れきったヴィクトルの顔には細波すら立たない。


「それで選びましたから」


 微笑んで答えると、ヴィクトルは胡乱げに口答えした。


「あんたは一日に吐くべき嘘の割合が決まってるんですか?」

「あなたは案外わかっていませんよね」


 ヴィクトルは敏い方ではないので、時々、何故命令が通ったのか不思議になるときがある。今がそれだった。


「誰でもよいのなら、それこそ周りが納得しませんよ」

「壮大でしたね」


 一年以上かけて広めてきた恋物語を、ヴィクトルはどうでもよさそうに評する。ヴィクトルからすれば、ユーディットが命じた時点でそれは決定事項だから、周りがどう受け止めるかには関心が向かないのだろう。


「嘘ではありませんのに」

「どこが?」


 ヴィクトルはいよいよ薄気味悪そうにした。






 十年近く前の話だ。


 ユーディットの母が生まれたリッベントロップ侯爵家は、ローゼンミュラー王国の西方派閥を取りまとめる名家で、権力欲に取り憑かれたギレスベルガー公爵も懇意にしている。本邸のある王都からはかなりの距離があったけれど、普段娘の外出を嫌う公爵がリッベントロップ侯爵領でのお茶会にユーディットを連れていくほどのズブズブっぷりだった。義実家なのだから当然かもしれない。


 王弟であるギレスベルガー公爵はその場で一番の身分を誇り、西の重鎮であるリッベントロップ侯爵家も王族との縁を強調し鼻高々にする。西に領地を持つ貴族ばかりが集まるお茶会は、右に倣えとばかりにユーディットを〈姫〉として存分に祭り上げた。


 大人に連れられてきた同年代の子どもも例外ではない。彼らも親にユーディットの機嫌を損ねないように言い含められており、一緒に遊んでもお喋りしてもこちらを主役にする。まあ「手加減していらっしゃいますでしょう」とか「私だってあなたたちのことを知りたいのに」とか拗ねてみせれば後はどうにでもなるので、子どもたちとは楽しくやっていた。おかげでギレスベルガー公爵家への支持基盤を早期に固めてしまったのは反省している。


 ヴィクトルは、その中にいた一人だった。


 西方派閥の中でも地位の低いグラーツ男爵家の、しかも妾腹の甥っ子だったから、公爵令嬢であるユーディットと関わることはまずなかったけれど。初めて喋ったのも何の話題だったか忘れてしまった。


「あんたは結局、自分の思い通りにしますよね」


 おそらく褒め言葉ではない。まだ前髪で隠れていなかった頃の両目は半眼で、怪我をした手を庇っていた。


「嘘つき」


 どうしようもないと罵るような言葉が、たぶん、ずっと欲しかった。



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妖精王の悪戯 橘花かがみ @TachibanaKagami

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