2.〈聖女〉エルナ




 そっと手に触れた、少し温度の低い指先に、エルナの肩がびくりと震える。


「あの人、優しいの?」

「はい」

「嫌なこと、されていないかしら。優しくても、されて嫌なことはありますわよ」

「されていません」

「そう。あの人ね、優しいのですけれど、優しすぎるの」


 フランツィスカがエルナと手を繋ぐ。ぎゅ、と指同士が絡まって、手首が持ち上がった拍子に顔が上向いた。


 切なげな、後悔の混じったフランツィスカを見る。


「私はだめでした。婚約者としてあの人の隣に立つと、自分の性格が悪いように思えて、みじめな気持ちになるの。それにあの人、私がそう思っていることに気づいたら、優しくするのをちょっとやめますのよ。優しいから。私……優しいあの人を好きになったのに、優しいあの人でいさせてあげられなかった」


 ふ、とフランツィスカがかすかに笑う。堂々たる淑女の振る舞いをしていた彼女は、今はとても儚く見えた。


「あの人を……私の幼なじみを、よろしくお願いしますわ」


 次期王妃であるフランツィスカが、真剣な表情で平民に頭を下げる。そっと手を離されて、わずかに残る感触に呆気にとられた。


 大貴族のお嬢様に、聖女としてではなく、ただのエルナとして頼まれることがあるとは思わなかった。エルナは知識も経験も身分も意欲も能力も足りなくて、ジークハルトの婚約者として適切な振る舞いはできていない。彼に助けてもらうばかりで、むしろお荷物になっている。


(……ジークハルト様の、ためにならない)


 愛想笑い一つできないのだ。人払いしてあるとはいえ、彼女の立場で平民に頭を下げるほどの想いに、エルナが応えられるとは思えない。


「エルナさん?」


 返事をしないエルナを、フランツィスカが呼ぶ。体中に冷や汗が止まらず、誤魔化すようにティーカップを取ろうとした指が空振りした。はっと後ろを振り返る。


「差し出がましく申し訳ございません。このままでは、お召し物にかかると思いまして」


 今まで口を挟まず見守っていた護衛官が、ティーカップを取り上げていた。護衛官はエルナとフランツィスカに謝罪すると、丁寧な仕草でティーカップを元の位置に戻す。フランツィスカは穏やかに首を横に振った。


「折角のドレスが汚れたら、お茶会を中断しないといけないところでした。エルナさん、優秀な側仕えをお持ちね」


 フランツィスカは護衛官の変則的な対応を無作法と咎めることなく、認めてくれた。馴染みの護衛官は、恭しく一歩下がった隙に、さりげなくエルナの背中に触れる。エルナは頷いた。


「……はい。もったいないくらいです」

「初めてお会いしましたけれど、新しく雇われた方?」

「いえ、勤続十二年と伺いましたけど……」


 ジークハルトがエルナの専属としてつけてくれた護衛官レオノーレは、元々ドレッセル伯爵邸の警護を担当していた一人である。ドレッセル家の跡継ぎの婚約者だったフランツィスカが、顔を見たこともないというのは不思議だ。


 困惑している二人を見かね、「失礼ながら」とレオノーレ本人が口を開いた。


「私はフランツィスカ様がお邸にいらしていた頃は新人で、重要な業務には就いておりませんでした。フランツィスカ様が私をご存じないのはそのためかと思われます」

「それだけですの?」


 フランツィスカが追及する。若干、拗ねたような雰囲気があり、彼女の侍女がわずかに表情を動かした。


「それだけでございます」


 レオノーレは、控えめながらきっぱりした口調で言い切った。


「そう。ありがとう」


 フランツィスカは話を終わらせてレオノーレを下がらせると、エルナに向き直る。


「側仕えは何人いらっしゃるの?」

「専属の護衛官は、彼女含めて三人です」

「少ないですわね。心配性のジークハルトらしくないこと」


 お茶をすすり、フランツィスカがかすかに眉をひそめる。エルナは首を傾げた。


「そうなのですか?」

「そうですわ。エルナさん、あなたは聖女です。先代は当時の王太子と結婚されて国母となられたほどの立場ですのよ」


 懸念の色が宿る目で、じっと見つめられる。エルナは所在なくされるがままになった。


 側仕えは増やせない。この人数にもやっと慣れてきたばかりで、息が詰まるのだ。教会でも王宮でも、世話する者は皆監視役だったから。


「身分の高い者ほど、信頼の置ける人材を早く見つけることが重要なのです。ジークハルトは何をやっているのでしょうね」


 フランツィスカが溜息混じりにぼやく。


「誰の紐付きでもない専属は、本当に重宝しますのよ。いざというときに他人の命令を優先されては、立てこもることもできませんもの」

「……え?」


 貴族のお嬢様から発されたと思えない言葉に、エルナはぽかんと間抜けな声を出した。フランツィスカの侍女がしれっと頷く。


「お嬢様は非常に活発な方ですので、お淑やかに育てたい旦那様と衝突されては、部屋に閉じこもって抗議するなどは度々ございました」

「あのときは世話になりましたわ、フリーダ」


 侍女が少しだけ微笑む。エルナはつい、レオノーレを振り仰いだ。エルナの専属護衛官は、目が合うと肯定するように目尻を緩める。


「我々はエルナ様の御心のままに動きます。現在はジークハルト様のご指示に従っておりますが、エルナ様がご命令くだされば、必ず」

「……あ」


 思わず、小さく声が漏れた。


 レオノーレたち護衛官は、普段ジークハルトやドレッセル伯爵家の警護官長の指示に従うか、各自の裁量で仕事をこなしている。エルナは新たな側仕えに慣れるのに精一杯で、自身の要望など出したことがなかった。


 主として護衛官に命令を出すべきだったことにようやく気づく。フランツィスカが心配とあきれの混ざった調子で、「思った以上に過保護ですわね」と呟いた。


「エルナさん、せっかくですから、一緒にアップルパイを食べましょう。先達として、私の知恵と経験をできる限りお教えしますわ」

「ありがとう、ございます……?」


 話の流れについていけず、微妙に尻上がりになってしまったが、なぜか意気込んでいるフランツィスカは気にも留めない。あっという間に貴族社会を生き抜く心得や主の心構え、淑女としての毅然とした対応、ジークハルトの扱い方などの話が始まった。


 最初は講義のようだったフランツィスカの話はだんだん脱線していき、ジークハルトの恥ずかしい思い出だの、過去に受けた王子の意地悪だの、グートシュタイン公爵領や王宮のことだの、気安いお喋りへと変わっていく。エルナはほとんど聞き役に回り、喋ることができなかったが、彼女はそれで構わないようだった。






 予定していたお茶会の終わりの時間になる頃、王宮魔術師の制服姿のジークハルトが、ガゼボまで迎えに来てくれた。


「ご歓談中、失礼。ずいぶん盛り上がったみたいだね」


 身軽に一人で現れたジークハルトは、邪魔が入ったと言わんばかりのフランツィスカと、エルナの顔色を見て、安心したように微笑んだ。エルナもちょっと笑い返す。


 第一王子と婚約したフランツィスカは、王族としての教育を受けるために王宮で生活している。妖精王の悪戯による混乱が落ち着いていないこともあり、彼女は王宮を出るのを許されていないから、今回のお茶会は王宮の中庭で行われた。ジークハルトは、フランツィスカからの招待はエルナのためにも受けるべきとしつつ、会場が王宮であることはずいぶんと心配していたのだ。行きは出勤の時間をずらしてエルナと一緒に登城し、帰りは昼休みを抜け出して、エルナを王都のドレッセル伯爵邸まで送るという甘やかしぶりである。


「ジークハルト様」


 たどたどしく、エルナはジークハルトの袖を引いた。長身のジークハルトが椅子に座るエルナに合わせて「ん?」と腰を屈める。


「フランツィスカ様が、またお茶会をとおっしゃって。お受けしても、いいですか」


 ジークハルトの翡翠色の瞳が驚いたように瞬く。フランツィスカが「まぁ」と口元に手を当てる。


 優しい婚約者は微笑んだ。


「今日は楽しかった?」

「はい」


 エルナが頷けば、ジークハルトはそっと髪を撫でた。


「わかった。日程は俺が調整するよ」

「……ありがとうございます」


 慣れた温もりにほっとする。まだ邸に戻っていないというのに、気が抜けそうだ。気合を入れ直すエルナをよそに、ジークハルトとフランツィスカが話し始めた。


「可愛らしい婚約者ですわね」

「そうだね。フランツィスカも、順調そうでよかった」

「どこが順調ですか。相変わらず意地の悪い方ですわよ」

「でも、俺といるより生き生きしてる」


 フランツィスカは気まずげに目をそらす。ジークハルトがくすくすと笑うと、フランツィスカは混ぜっ返すように矛先を変えた。


「それよりもジーク、あなた、エルナさんのことを一人で抱えすぎですわ。エルナさんが元気になる前にあなたが壊れますわよ」

「そう?」


 指摘されたジークハルトは、意外そうに目を丸くする。エルナの淡い金髪をくるくると指先で弄びながら、彼はちらりとエルナを見やった。


「今だけだよ。こうやって甘えてくれるのは」

「そんなことはないと思いますが……」


 エルナは渋い顔で情けないことを言った。


 今回、改めて痛感したが、エルナがジークハルトに助けられている範囲は多岐に亘る。ある程度一人でできるようになるだけでもかなりの時間がかかるだろう。彼の優しさに甘えなくなる日は一生来る気がしない。


「俺じゃわからないこともあるから、フランツィスカがエルナを気にかけてくれるのは嬉しいよ。ありがとう」


 ジークハルトは髪で遊ぶのをやめて、フランツィスカに頭を下げた。正面に向かい合ったフランツィスカは「全くこの人は」とばかりにあきれた顔をしている。


「面倒な関係だけど、今後ともよろしく。フランツィスカ」

「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。ジークハルト、エルナさん」

「今日はありがとうございました、フランツィスカ様。また」


 別れの挨拶をして、ジークハルトのエスコートでエルナはガゼボを後にした。馬車を待機させているという王宮の南門までの道すがら、エルナはおずおずとジークハルトに話しかける。


「あの、私の、専属のことなのですが」

「? うん」


 話題が意外だったのか、ジークハルトがきょとんとしながら耳を傾ける。


「護衛官の方と、一緒にお食事などは、できますか」


 後ろを歩くレオノーレが驚いた気配がする。ジークハルトはぱちくりと一度瞬きし、わずかな間にエルナの問いを正確に理解して熟考した。


「基本的に、仕事中の側仕えが主と同じテーブルに着くことはないけど、食事会の主催者と招待客の関係であれば、問題ないよ」

「……お食事会を、主催しないといけない……?」


 邸の中なら他に警護官もいるし、少しくらいなら一緒に食事しても許されるかと思ったが、そう簡単な話ではないようだ。招くのがほぼ身内とはいえ、伯爵家の一員として食事会を主催するというのはエルナには荷が勝ちすぎる。


 ジークハルトは苦笑混じりに頷くと、ちらりと背後を見やってエルナにこっそり耳打ちした。


「レオノーレたちは護衛官だけど、護衛だけが仕事じゃないから、エルナが頼めば聞き入れてくれることもあると思うよ。お喋りとか」


 その囁きに、ぴく、とエルナの肩が跳ねる。思わずジークハルトの方を振り向けば、婚約者はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


 後ろを振り返れば、普段は穏やかで冷静沈着なレオノーレが、何かを期待するような顔をしている。「あ」と緊張で少しだけ声がかすれた。


「レオノーレさん」


 名前を呼ぶと、はい、と専属護衛官が微笑んだ。



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