3.〈魔術師〉ジークハルト
ジークハルトの職場は、正式名称を魔術省防衛部王宮警護課結界管理室という。ローゼンミュラー王宮の防衛結界を始めとする防衛魔術を統括する部署で、王族の身辺の安全に密接に関わるため、信頼の置ける実力者しか在籍を許されない少数精鋭の組織である。形式的には魔術省に属しているが、その職務上、王族の意向や命令が優先される部署であり、独立した権限を持っていた。
ジークハルトが生まれたドレッセル伯爵家は魔術師の名門で、その実力と忠誠心の高さから、代々結界管理室を任されている。かく言うジークハルトも、数年前に祖母から室長を引き継いだ。
「室長、おはようございます。早速ですが二、三報告が」
「おはよう、ベルタ。続けて」
王宮内にある結界管理室に出勤すると、宿直担当のベルタが眠たそうな顔で立ち上がる。ジークハルトは奥の室長机に向かいながら上着を脱ぎ、ベルタの報告を聞いた。概ね問題はなかったらしい。
「とはいえ、襲撃未遂が四件目か。物騒だね」
「お馬鹿なんでしょうね」
ベルタは辛辣な台詞を吐くが、単調な口調に覇気がないのであまり毒は感じない。
王宮には、不審者の侵入を魔術で防ぐ防衛結界が無数に張り巡らされている。その結界によって多くの侵入者が未遂のうちに衛兵に捕えられているのだが、妖精王の悪戯以降、特に警備の厚い王族居住区を狙って侵入しようとする不届き者が急増していた。
ろくな根回しも告知もないままに、王族を含む複数の上流階級の縁組が結び直されたのだ。政治的な影響力は絶大であり、他部署との関わりの少ないジークハルトですらよく苦言をもらうほどである。不満を爆発させて、強硬手段に出る者がいても不思議には思わない。
「四件とも、狙われているのはフランツィスカ嬢ですね。警護を厚くしますか? 王太子が文句を言いますけど」
「ヴォルフは放っておいていい」
傲岸不遜な乳兄弟への配慮を、ジークハルトはぺいっとその辺に放り投げた。
第一王子ヴォルフラムの婚約者フランツィスカは、現在は王族居住区にほど近い貴賓室に滞在している。まだ未婚で王族に数えられないため、最も警備の厚い王族居住区には入れないのだ。彼女の身の安全を考えるなら、実家のグートシュタイン領に里帰りさせるのが最も効果的なのだが、様々な理由からヴォルフラムが却下しているのが現状である。
彼は生まれついての為政者だ。個の感情より大勢の理想を優先し、真実より実利を取る。王太子としては非常に頼もしいのだが、個人的な付き合いには人を選ぶ相手だった。
「簡易結界と反射の魔術式を追加しようか」
ジークハルトは数秒考え、フランツィスカに自衛用の魔術具を提供することにする。ベルタは「過保護ですね」と無頓着に言いながら、ぺたぺたと自分の席に戻っていった。
「簡易結界は作っておいてあげます」
「うん。頼むよ」
ジークハルトは上着を椅子の背にかけ着席する。魔術具の図案を考えながら無地の護符を引っ張り出し、特殊な魔術用インクでさらさらと幾何学模様のような魔術式を描き始めた。
(警護か)
仕事中だというのに、つい婚約者のエルナの顔が浮かんでしまった。
エルナは特別な力を持つ聖女で、その身分は時に王族を上回る。現在はドレッセル伯爵邸に住んでいるが、それ以前は今のフランツィスカと同等の待遇で王宮に保護されていた。邸には王宮と負けず劣らずの防衛結界があるとはいえ、一歩外に出てしまえば、彼女を守れる護衛官の数は圧倒的に少ない。
側仕えの存在に萎縮してしまうエルナに、どうやったら負担なく十分な護衛官を随伴させられるか。彼女と婚約する前に講義していた頃からの悩みだが、最近、少し解決の兆しが見えてきた。
エルナが、護衛官と雑談するようになった。このまま少しずつ慣れていけば、護衛される彼女の負担も減り、人数が多くても気にならなくなるかもしれない。
「できましたよ」
ベルタが簡易結界の護符を紙飛行機に乗せて、室長机にまで飛ばしてくる。ジークハルトはペンを置いて降下し始めた飛行機をつまみ、「ありがとう」と間に挟まった手のひらほどの護符を取り出した。
「どういたしまして。私は寝ます」
「仮眠室行ってね。また腰を痛めるよ」
寝相の悪いベルタが椅子から転げ落ちた過去を思い出して忠告すると、ベルタは「……はい」と面倒くさそうに席を立った。目をこすりながら、繋がっている隣の仮眠室へふらふらと歩いていく。
ベルタが扉に手をかけた瞬間、バン! と内側から開き、飛び出してきた人物がベルタに激突した。吹っ飛ばされて転んだベルタは呻き声を上げ、物凄い目で相手を睨む。
「ヨルン!」
なかなか聞かないベルタの大声に、呼ばれた本人は見向きもしない。藍色の目を爛々と輝かせ、ずかずかと大股でジークハルトの方へ突進してくる。その手には彼の半分ほどの大きさの筒のようなものが握られていた。持ち運びのため巻物状になっているが、彼がここ三か月解析にかかりきりになっていた護符だ。
ヨルンは興奮した子どもっぽい表情で、ジークハルトと向かい合うなり机に古ぼけた護符を広げようとする。
「これは素晴らしいぞ、室長!」
「ヨルン、その前に、ベルタに謝って?」
王宮魔術師ジークハルトはにっこりと微笑んで、怖いくらい無言のままのベルタを手のひらで示した。
「これが護符ですか」
それを一目見たエルナが無垢な目で尋ねる。彼女がドレッセル伯爵邸に滞在するようになってすぐの頃のことだった。
魔術省開発部遺物研究課の研究員が、古代遺跡の発掘調査でとある護符を発見した。若干の黄ばみはあるものの、製作から何百年と経っているはずなのに形が残っており、魔術式らしき模様も見られたという。明らかに重要そうな古代の未知の魔術式を発見した研究員は喜び、課を挙げて研究に取りかかった。しかし、全くわからないので、魔術式の解析を得意とする結界管理室の天才、ヨルンにお鉢が回ってきたのである。
そのため、ヨルンの上司に当たるジークハルトも現物を見る機会があって、その魔術式を写させてもらい、邸に持ち帰っていた。夕食の時間にその話をしたらエルナが興味を示したので、私室で写しを見せたのだ。
「【共有】と……【複製】? 【保存】かな……」
机いっぱいに広げられた写しに、わずかに眉をひそめてエルナが呟く。ジークハルトは唖然として聞き返した。
「わかるの?」
「読むだけなら、わかります」
エルナは気負いなく頷く。ジークハルトは絶句した。
魔術式とは、特定の効果を発動させる絵や模様のようなもので、その魔術式を描いた特殊な紙を護符という。護符は日常生活の様々なところで力を発揮しているが、護符を作れるのは専門的な知識を学んで修練を積んだ魔術師だけで、【種火】や【浄水】のような簡単な魔術式ですら、一般人には理解できないというのが常識だった。
――これが、聖女。
ローゼンミュラーの国母となった先代の聖女は、百発百中の予知夢を見る力があり、陰日向に民を導いたという。その前はあらゆる傷病を癒す力で、わずかな手勢とともに各地を旅し、民を癒して回ったそうだ。
今代のエルナは、全ての言語を操る力を持っていた。
「ジークハルト様?」
言葉を失っている婚約者を見て、エルナが不安そうに手を引っ込める。まずいことをしたかと心配する彼女を気遣う余裕はなく、ジークハルトは急いた動作でペンを掴んだ。赤、青と何種類かの色を用意する。
「エルナ」
「はい」
「それ、どこがどれだか、わかる? 大体でいいから」
魔術師ドレッセル一門の知識も王宮に勤める優秀な魔術師たちも、手も足も出なかった魔術式だ。それを解き明かす手がかりが見つかったと思えば、興奮が抑えられない。ジークハルトの珍しい勢いにエルナはちょっと目を丸くしたが、悪いことではないとわかったのか、緊張を解いた。
「書いても構いませんか」
「大丈夫。写しだから」
エルナはわずかに微笑んで、写しに向き直る。エルナの握る赤色のインクが迷いなく写しの黒線をなぞっていった。最終的に、三つの魔術式が折り重なって描かれていることがわかり、二割の線が用途不明で余っていた。
「ありがとう。助かったよ、すごいね」
弾んだ声でエルナの頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに相好を崩す。翌朝、ジークハルトはエルナが書き足した写しを持って出勤し、解析に勤しむヨルンに情報を伝えた。
ジークハルト以上に興奮を露わにしたヨルンは、写しを引っ掴んで仮眠室に引きこもり――巨大な護符を広げられる場所がそこしかなかったのだ――、ろくに家にも帰らず解析に没頭して、今である。
「悪かった。魔術史に残る大発見だ、許せベルタ」
「……眠気が吹っ飛びましたよ」
大男に激突された衝撃か魔術師としての性か、どちらともつかない調子で、ベルタが立ち上がりこちらに戻ってくる。今すぐ話したくてうずうずしているヨルンに、ジークハルトは書類を退けて机の上を空けた。障害物が消えた瞬間、ヨルンが例の護符を机いっぱいに広げる。さらに何色かで書き分けられた写しを重ねると、薄紙の下が透けて見えた。
「結論から言いますが、これは【通信】の護符です。【保存】【共有】【再生】、三つの魔術式を組み合わせて、指定の魔術具を介して遠距離の会話を可能とする護符だったようです」
「は?」
ぼんやりしたベルタの糸目は、びっくりしてもあまり変わらない。ジークハルトは顎に手を当てた。
「遠距離の会話ね。初めて聞くけど、できるの?」
「というか、魔術式を組み合わせるなんて、二つでも相当厄介ですよ。古代人の頭はどうなっているんです?」
ヨルンが薄紙の線を指でなぞりながら話を続ける。
「【通信】の護符は、おそらく二つで一対です。片方に保存された音声を両方で共有し、もう片方で再生するという過程を繰り返して会話を成立させている。面と向かって話すようにはいきませんが、早馬より迅速で、狼煙より詳細に情報共有できます」
「そういえばこれが見つかった遺跡、元は要塞でしたね」
ベルタはもう、あきれたような口ぶりだった。
迅速で確実な通信手段は、どの国も喉から手が出るほど欲しいだろう。たとえば国境の領主が何らかの理由で王家に頼み事をしたい場合、馬でどんなに急いでも中央部にある王宮まで行くのに半月以上かかる。さらに王家の返事を領地まで持ち帰ることを考えれば、結果が出るまで二か月程度を覚悟した方がよいから、事が手遅れになる可能性が高い。その時間を大幅に縮小できる【通信】の護符は、あればあるだけ便利なはずだ。
「同時代の要塞なら、今までも調査してたけどね。魔術式が高度すぎて量産できなかったのかな」
「そうだと思いますよ。簡単に複製できないよう、目眩しの無意味な魔術式が大量に仕込んであります。護符の【劣化防止】や【認識阻害】も混ざっていますが」
ベルタは何も言わなくなった。ジークハルトもここまで来ると苦笑いになってしまう。これは間違いなく、来年の教科書に載る。
「こちら、報告書です。室長、どうしますか」
一人では到底抱えきれない話を喋って、少し気分が落ち着いたのだろう。ヨルンは分厚い紙束を手渡し、冷静な眼差しでジークハルトを窺った。ジークハルトは溜息をつく。
「魔術式って、言語だったんだね」
正直、線画のようなものだと思っていた。ジークハルトですらそうなのだから、他の魔術師も同じだろう。
魔術は日々の生活や国防に大きく貢献している。魔術研究は終わりのない急務だ。魔術式を絵ではなく言語として研究すれば、その実態の解明も大きく進展するかもしれない。
「この魔術式を一瞬で読み解かれた方には、ぜひ魔術研究に協力していただきたい。私を含め、魔術の恩恵を受ける全ての者が望むことです」
「わかってるよ。ヴォルフラム王子と話をしてくる」
多大な実績を作った以上、エルナの出仕は免れないだろう。ジークハルトが席を立つと、ベルタが警戒するように顔をしかめた。
「室長、聖女様は出仕できる状況なんですか? 彼女の能力からして、実務の結界管理室には来ないでしょう。室長しか頼れる相手がいないと聞きましたが」
本当にエルナが魔術研究に参加する場合、一番可能性が高いのは、魔術式の研究を業務とする開発部のどこかだ。結界管理室とは繋がりが薄く、対人恐怖症のエルナを知り合いのいない集団の中に放り込むことになる。王宮にいい思い出がないエルナに適した環境ではない。
ジークハルトは制服の乱れをざっと確認して、あくまで優雅に微笑む。
「大丈夫、当てはあるから。ヨルン、悪いけど、しばらくここを頼むよ。緊急案件以外は戻ったら処理するから。ベルタはお疲れ様」
二人に指示を出し、ジークハルトは結界管理室を後にした。
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