第1部 第2章
微かに土を踏みしめる音がした。
そっと刀に手を伸ばしつつ、真乃は全身を研ぎ澄まして足音と気配の数を数えた。
五人もいた。近くに来るまで気配を消していた技といい、人数といい、この前とは大違いである。
しかも一人はかなりの腕前だと感じた。
五人は奥へ向かおうとしている。るいの寝屋の場所を把握しているようだ。
真乃は静かに立ち上がり、腰高障子をそっと開けた。
丸みを帯びた月の光が降る中に全身黒づくめらしい男達の後ろ姿が見えた。
「待たれい」
濡れ縁から真乃は侵入者に声をかけた。もしもまだ岩五郎が気がついていないなら、この声で目覚めてくれと願いながらの声がけだった。
五人は一斉に振り向いた。全員が頭巾を被り、目しか出していない。すぐにさっと濡れ縁に飛び上がってるいの寝屋へ向かう輩と、真乃に対峙する輩との二手に分かれた。全く逡巡の無い慣れた動きだった。
真乃はわざと音をたてて濡れ縁を走り、三部屋先のるいの寝屋に向かう男どもを追いかけた。
途中で真乃に対峙しようとした一人にはすれ違いざま、抜刀から相手の腕を切り裂き、もう一人は返す刀で肩を斬りつけた。
るいの寝屋の障子が開いたのは、刺客の三人がその前へ着いた時だった。
開くと同時に部屋の中から刀が飛び出したが、先頭の男は軽々と避けた。避けながら鋭く自身の刀を下から振り上げた。
うっという短い悲鳴が聞こえた。
その間にも真乃はるいの部屋に向かった三人の内の二人にそれぞれ一刀で怪我を負わせていた。
最後の刺客はかなりの遣い手だ。
相手も真乃の腕前を感じたらしく、ぎろりと真乃を睨んできた。
「斎藤様!」
るいの声だ。
岩五郎の怪我が軽いことを祈りながら、真乃は刺客の一番の遣い手と睨みあった。
男は正眼に構え、真乃は右の下段に構えていた。
二人の間は約二間(4m弱)。月明かりの中で睨みあったまま、どちらも微動だにしない。
先に動くのはやりたくない。双方そう思っているだろう。
その剣士同士の緊迫感を破ったのは、そんなことに無頓着なるいだった。狙われている当人だというのに、のこのこ部屋から顔を出してきたのだ。
部屋から頭が覗いた時、真乃はまさかという思いだった。
「馬鹿者!」
思わず罵りながら、真乃は刺客とるいの間に割って入った。刀がるいめがけて振り下ろされたのを間一髪、下から鎬を当てて逸らす。
刀を逸らした動きから次の相手の動きを読んで動く。傍目からは一瞬の攻防だ。
真乃が刀を斜め上から振り下ろしたのと、刺客が下から斬り上げたのはほぼ同時だった。
半身になって相手の刃を避けた分浅くはなったが、僅かに早く真乃の刀が相手の腕を斬りつけた。
刺客は怯むことなく次の一手を出してきた。
真乃はその突きを鎬で切り落とし、瞬きの後には相手の喉元に切っ先を突きつけていた。ちっと舌打ちが聞こえた。
「誰に頼まれた?」
真乃は突き付けた切っ先越しに刺客に尋ねた。
「知らねぇ奴だ」
刺客の方は真乃を刃越しに見下ろしながら嘯いた。
「知らない奴から人殺しを請け負うとは初めて聞いたぞ」
「小判を積み上げてくれりゃあ、相手のことなんざ気にしねぇさ」
直後に刺客は後ろも見ずに飛び退いて、濡れ縁から庭へふわりと片足で降りた。と思いきや、くるりと反転して一瞬で闇に消えた。
――身軽な奴だ。忍びか?
真乃は斬りつけた侵入者達を振り向いた。
倒れている者はいなかった。
頭格の刺客と真乃が対峙している間に逃げた奴もいたが、頭格が逃げ去ったのを見て、残りも素早く退散していた。
パタパタと体格に似合わない軽い足音が遠ざかっていく。
濡れ縁や地面には血が黒っぼいしみとなって残されていた。
深夜に叩き起こされた近所に住む金創医は不機嫌この上なかったが、名医の噂通り手際は頗る良かった。
岩五郎は右肩を斬られていた。傷は浅く、半月程で治ると医者は請け合った。とっさに身を引くことはできたらしい。
大貫屋から寮の緊急対応を請け負っている惣兵衛長屋の差配、権右衛門がすぐにこの辺りが縄張りの岡っ引きに知らせた。
その岡っ引きは真乃の顔見知りだったから話は早く、大貫屋と相模屋へは夜が明け始めた頃に使いが知らせに走った。
しかし夜が明けてから現れた肝心のこの辺りの定町廻りである北野伊右衛門は、真乃の姿に自分は御役御免、あとは宜しくというように、一通り話を聞いただけでさっさと次の御用へと去ってしまった。寮に四半刻(約30分)もいなかった。
齢五十半ば、来年には息子に家督を譲って致仕するだろうと噂されている北野は、元々揉め事の仲裁を得意とし、刃物沙汰が苦手ではあった。
相模屋の五郎右衛門は苦い顔で自ら駕籠を急かせてやって来た。寮に着いたのは大貫屋の主人とほぼ同時だった。
真乃の姿を目にするなり「さすがでございますな、青井様」と、蛙を連想させる横に長い口になったのは、笑ったつもりだったのだろう。その間も汗がたらたら二重顎からしたたっていた。真乃にしたら早朝は涼しいが、駕籠に揺られるのも、五郎右衛門にはこたえたようだ。
依頼主と人宿の主人が急いでやってきたのは、岩五郎が完治するまでの間、代わりをどうするか、るいの希望も確認した上で決めるためだった。
――本当にるい殿のことが大事なら、ご本人のご意向どころじゃないだろうにな。
真乃は欠伸を連発しながら、三人が話し込んでいるのを濡れ縁から眺めた。
今後の方針が決まったら一寝入りするつもりでいた。るいの希望に沿うような代わりがすぐに手配できるとは思えず、今夜も不寝番をしないわけにいかないだろう。
なにせ昨夜の襲撃犯の数と質から、るいの命を狙っている人物はかなりの金持ちか、裏の世界に顔が利く人物、またはそうした人物とつながりのある人物と考えられるのだ。連日襲ってくることはないと言いきれない。
大貫屋の主は五郎右衛門と同年代の、だが五郎右衛門と違って品のよさを感じさせる男だった。体格は中肉中背。町中で目を引くような人物ではないが、よくみると、その目に油断はない。
るいは大貫屋の旦那の前では涙ぐみながらしとやかに、且つ熱心に、長々と話していた。昨日とは大違いである。
真乃は馬鹿らしくなってきていたが、一度引き受けた仕事を自分から途中で投げ出すわけにはいかないと、なんとか気持ちを宥めていた。
大貫屋、相模屋、るいの三人の話し合いの結果、岩五郎がいなくなった代わりは、るいの希望をのんで、昼間は真乃、夜は棟割長屋の一番寮よりの店で二人の不寝番を置くことで決着した。
誰と誰が割り当てられるのか、真乃の気になるところではあったが、結局のところは大貫屋の財布と相模屋の判断の兼ね合いだ。
大貫屋と相模屋が帰った後、るいはぼうっと部屋の奥にある襖を見つめていた。
まさか大貫屋から見切りを仄めかされたわけではないだろうと思いつつも、真乃は気になって濡縁から声をかけようと思った。だが心を和らげることができるような言葉は思い浮かばず、口にしたのは用件だった。
「今夜も寝ずの番はする。だがそなたに守ってもらいたいことがある」
るいが驚いた顔で真乃の方に振り向いた。
「外で何が起ころうと、決して障子を開けたり顔を覗かせたりしないように。よろしいな」
真乃はるいがむっとして言い返してくるだろうと予想していたのに、真乃を見つめる目が潤んできた。
「どうして、こんなことになったのかしら……ほんとに何にも覚えがないんです」
るいはまた真乃から襖に視線を戻した。
「ずっと真面目に一生懸命働いてきたのに、なんでこんな目に遭うの?世間にはもっと悪いことやずるいことしてる連中がいくらでもいるっていうのに……。妾奉公しててなにが真面目かって思うかもしれないけど、きっかけになった水茶屋へ働きに出たのも母さんのためだったのよ。そこで大貫屋の旦那様に気に入られて……母さんと一緒でいいし、お医者様も紹介してくれるっていうから、話に飛び付いたわよ」
るいは袖口から引っ張りだした襦袢で顔を覆った。声をあげて泣きたいのを必死に我慢しているようだった。
「母君のため、か……」
るいにまっすぐな母親への愛情を感じ、真乃はつい呟きがでた。
この男尊女卑の時代では側妻や妾を囲う男が多く、妾は後の時代ほど僻目で見られてはいなかったが、表店のご内儀のように大手を振って町を歩けはしない。「妾奉公」と呼ばれるとおり、扱いは手代や女中と同じであり、いつ縁を切られても不思議のない不安定な立場だった。
もしも真乃がるいのような立場に追い込まれたとしても、同じ選択はできなかっただろう。
「水茶屋で働いていたのはいつの話だ?いや、いつ辞めたのだ?」
「もう二年も前の話ですよ」
「二年前か……水茶屋にいた頃に気になる話を耳にしたとか、怪しげな者を目にしたといったことはなかったのか?」
「お客にお茶とお団子を持っていっただけですもの。話を聞く間なんか、ありませんでしたよ。お客には色んな人がいましたけど、馴染みになったお客に怖い人はいなかったし……何か変わったこと、あったかしら」
るいは眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、ため息とともに首を横に振った。
「ダメ。こんな目に遭うようなことは、やっぱり何も思い浮かばない」
「そなたはどうということはないと思っていることが、実はそうではないということだな」
再び真乃に向いたるいの目は、疑いの目だった。
「覚えてもいない、どうということもないことが実はそうじゃないって、そんなことあるんですか?」
「ありうる。例えば、盗賊が符牒に使っている物を見せあっている時にそなたが偶然茶を持ってきた、或いは側を通ったなら、盗賊どもは警戒する」
「もしそんなことがあったって、少し様子見てたら、あたしが気がつかなかったってわかりそうなものよ」
るいは納得していない。言葉遣いも武家相手仕様ではなくなった。
「悪いことをしている連中ほど疑心暗鬼になるものだ」
「なんで狙われるのかわからないうちは、次から次へと殺し屋がここへ来るってことですか?」
「わかっても暫くはそうなるだろうが、ま、そうなる」
るいの顔に絶望したような色が浮かんだ。
「ここから引っ越すのは?」
「暫くは大丈夫かもしれないが、いずれは新居を見つけられるだろう」
「そんな怖いこと淡々と仰らないでくださいよ!これだからお武家様は嫌なのよ!」
その嫌なお武家を頼らないと命が無いことに、るいは絶望を感じたらしい。青ざめた顔で肩を震わせた。……と、突然しゃきっと立ち上がった。
「いつ殺されるかわからないんだったら、楽しまないとね」
真乃は無表情を取り繕ったが、内心では瞬時の変わりように呆気にとられていた。
「明日は予定どおり菱屋へ行くわ」
るいはくるりと真乃に向いた。
「青井様はもちろんついてきてくださるわよね」
「ついて行かないわけにいかぬが、菱屋へは何しに?」
菱屋は湯島天神近くにある待合茶屋兼引手茶屋である。大貫屋がわざわざ囲っている妾を連れて出かける所ではない。
るいは両手を口許で合わせ、嬉しげに言った。
「綺麗な男の子と逢うの。ふふふっ」
「はあっ?」
思わず間の抜けた声を出してしまった真乃だった。
相模屋の手回しは早かった。
八つ過ぎ(午後2時頃)に素振りと薪割りをしようと真乃が庭へ出たら、棟割長屋の一番手前の店から、五郎右衛門に続いて色褪せぎみの単を着た浪人二人が出てきた。一人は顔馴染みの楠田義右衛門だった。
楠田は真乃に片手を上げる軽い挨拶をし、見知らぬ三十過ぎと見える男は一礼をした。長身で幅も厚みもある楠田と並ぶと細身に見えたが、さりげない身のこなしから、剣の腕は楠田と変わらないか、むしろ上ではないかと真乃は思った。体格は真乃と同じくらいで、落ち着いた風貌をしている。
五郎衛門が手短に第二の男を紹介した。
「こちらは八代清三郎様です。二日前に手前どもへお見えになられまして、このお仕事が初のご紹介になります」
「用心棒稼業は初めてゆえ、青井殿には宜しくお引き回しのほど、御頼み申す」
八代は先ほどより更に深い辞儀をしてきた。
「昨夜襲ってきた連中に忍びがいたというのは誠か。今夜も現れるかな」
楠田がのんびりとした口調で尋ねてきた。日頃は何をしてものんびりしているのに、いざ事が起きると猪突猛進に豹変するのが楠田の特徴だ。八代殿が驚かなければ良いがと真乃は思う。
「わかりません。忍びらしき者以外にはかなりの手傷を負わせたので、同じ面々が来るとは思いませんが、新たな刺客が来ることを考えないわけにはいきません」
「昼間は青井殿、夜に我等がこの店に潜んで番をするということでよいかな」
真乃は楠田へは答えず、二人の後ろに潜んでいる五郎右衛門を見遣った。
「昼間は近くにいる必要がありましょう。外出にも同道しなければ。その任は青井様にしかお任せできません。夜なら側におらずとも、ここで張れますので。ひとまずはこの布陣で参りましょう」
五郎右衛門が手拭いで汗を拭きながら早口で捲し立てた。
枝折戸から離れると、真乃は奥のコの字の先、厠の脇にある納屋へ行って斧を取り出した。
かよに尋ねたところ、女二人のうえに風呂もないため、この家では薪をあまり使わず、必要な量は僅かだった。
――物足りぬな。長屋の住人にも分けるか。
薪割りは真乃にとって、身体を鍛える意味もないではなかったが、実益を兼ねた一番の趣味、気晴らしである。
幼い頃から青井家の男の奉公人達が庭で薪を割っている様子を眺めるのが大好きで、まもなく自分でも割りたくなった。しかし幼いお嬢様に薪割りさせる奉公人がいるわけもなく、真乃が初めて薪割りをやったのは十二歳の、当時薪割り担当だった奉公人二人が揃って他用で庭にいない奇遇のことだった。
何故幼い頃から薪割りを面白い、楽しいと思えたのかは、真乃にも不思議だった。子どもには年長者がやることを真似したがる傾向があるが、真乃の場合、それが何故母親が得意だった裁縫や料理ではなく、剣術や薪割りだったのかは自分でもわからない。好きこそ物の上手なれなのか、向いているから好きになったのか。鶏が先か卵が先かの堂々巡りである。
今も屋敷に一日中いる時には薪割りを日課としている。たいてい多めに割って一部を隣の榊家に持って行く。榊家の奉公人夫婦は今ではすっかり真乃が薪を持ってくるのを当てにしていて、御礼にと漬物や菜を分けてくれる。真乃の方は榊家の美味い漬物や菜を食べられるのだから、一石二鳥の気分である。
あっという間に割り終えて薪を一所に集めていると、視線を感じた。そちらを見ると、るいが桃色の布を手に濡れ縁から呆然とした顔で真乃を見ていた。
「まさか、そのようなことをなさるとは……」
「私の一番の気晴らしだ。この屋にも都合が良いであろう」
「気晴らし?薪割りが、でございますか?」
「そうだ。我ながら実益を兼ねた良い気晴らしだと思っている」
真乃は気負いも卑下もなく答えた。
「薪割りが気晴らしとおっしゃるお方、初めてでございますよ……」
るいはこめかみに両の手を当てた。布が真乃の目の前に広がった。よく見たら無地の桃色ではなく、白地に赤い小紋を散らした高そうな布だった。仕付糸が見えた。
「そなたは裁縫が気晴らしになるようだな。そんな可愛らしい着物は誰が着るんだ?」
「難波屋さんからはどなたのお着物か聞いてませんの。あ、難波屋さんの仲立ちであたくし、仕立物をしてますの。裁縫は得意なんですのよ。今着てるこの着物も布を買ってきて自分で仕立てましたの」
るいは袖を広げてくるりと回った。
「仕立物で小遣い稼ぎか」
「いつまでも囲われてるわけありませんから、少しずつでも貯めておかないと。元々縫い物は好きですし。仕立物だけで食べていければいいですけど、なかなかそうは……」
そう言いながらるいは遠い目をしたが、いつまでも囲われてるわけがないと言った時に悲壮感はなかった。
「斎藤殿に薦めていたように、どこかへ嫁ぐということは考えていないのか?」
「全く考えたことがないわけじゃありませんけど……あたくしで良いと言ってくれるお方がいたら……いえ、いえ。もう誰かのところへ嫁ぐなんてごめんだわ」
ただの遊び好き、男好きではないようだ。
「与力のお嬢様は裁縫なんてなさらないでしょうね」
るいは濡れ縁に座って仕立ての続きをしながら言った。
「いや、そんなことはない。大身の御旗本や御大名にでも嫁がない限り、御新造も奥方も、家の者の着物や布団を縫っているよ。娘が生まれたら十になる前から縫い方を教えている」
「では青井様も?」
「ああ、母上に教えられた。全く身に付かなかったがね。裁縫に才があったらこんな格好してないさ」
真乃は片手に斧を持ったまま軽く腕を広げた。
「お裁縫はお嫌いですの?」
「嫌いだ。やってると苛々する。それで母上とよく喧嘩した。私が言うことを聞かないと父上に泣きついておられた」
「まぁ……でも剣術の才は素晴らしかったのですから、お武家様としてはご自慢の娘でございますね」
「そうでもないな。父上は私の剣術への焦れ込みを、少なくとも悪いこととは思っておられなかったと思うが、母上にとって私は出来の悪い娘だった」
るいが着物を縫う手を止めた。
「そんな、お裁縫がお嫌いだからって、そこまでは……」
「女として身に付けないといけないことが何一つ身に付かないとよくこぼしておられた」
「お料理もお嫌いですの?」
「そっちも苦手でな。適当に切って煮たら食えるじゃないかと思うしな」
るいが吹き出した。
「仰るとおりですわ。適当に切って火を通したら食べられますものね」
真乃は呆れられると思っていたのが、笑って賛同され、戸惑った。
「ちょっと安心しましたわ。剣術も薪割りも、お裁縫もお料理も、なんでも素晴らしくお出来になるのかと思ってましたから」
そう言ったるいの顔は明るい笑顔だった。お世辞でも慰めでもなく、本気の言葉らしかった。
真乃はふっと肩の力が抜けるのを感じた。力を入れているつもりは無かったから、驚いた。
この日の夜も真乃は寝起きする枝折戸寄りの六畳間で一人食事をした。るいやかよの詮索から逃れるためもあったが、そもそも真乃は喋りながら食べることに慣れていなかった。それなりに団欒しながら食事を取る武家も少なくないが、青井家の食事はいつも静かなのだ。
黙々と丼飯を胃の腑に入れている真乃の耳に台所の方から女二人の楽しげな声が聞こえてきた。
台所は真乃のいる部屋からは縦長の八畳程の板間を挟むだけなので、物音がよく聞こえる。
少し前には長屋の住人が売れ残りを安くするから買ってくれとやって来て、るい、かよと話し込んでいた。その時も終始楽しげだった。
話題はもっぱら近所の出来事や噂話である。ネタは簡単には尽きないようだ。
るいは食事をいつも台所の板間でかよと一緒に食べているという。
「おかよもその方が楽だし、あたくしも一人で食べるより二人で食べた方が楽しいですから」
だんだんわかってきたのは、るいのかよへの言動は従姉か姉への言動に近いということだった。かよの方は下女としての立場を守っていたが、るいは食事作りや掃除をかよに任せきることはなく、いつも気さくに言葉を交わし、二人で仲良さげに仕事を分かち合っていた。
「身寄りがない者同士、助け合ってますの」
二人は仲のいい従姉妹みたいだと言った真乃に、嬉しそうに返ってきたるいの言葉だ。
「……で、明日は蔭間遊びなのか」
真乃はそう呟いた後に、うーむと頭を抱えそうになった。
一言でいうと、面白い。
真乃はるいという女にしだいに興味が沸いてきていた。これまで真乃が出会ったことのある女に似た人物はいない。
一見では、昔嫌々通った武家の子女向けの塾にいたふじという少女に似ていると思ったのだが、ふじなら下女にるいのような接し方はしないだろう。武家育ちと町家育ちの違いではない。町家育ちにも偉そうに言える相手にはとことん偉そうな言動をとる人物がいる。
話し声が止み、こちらに近づく気配があった。
るいだと真乃は見当をつけた。
気配の主は障子の外から声をかけてきた。
「青井様、お食事は終えられました?」
るい自ら膳を下げに来たと思ったら、他に言いたいことがあったからだった。障子を開けて部屋に入ってから、るいは言葉を続けた。
「あたくし、明日の朝、行水するのですけど、青井様もなさいます?もちろん長屋のお二人が帰った後ですよ」
蔭間遊びする前の身嗜みであろう。真乃は淡々と答えた。
「私が入れるような盥はあるまい。外の二人が帰らぬうちに近くの湯屋へ参るから、気になさらぬよう。そなたが行水する間は一段と気が抜けぬしな」
「朝も気が抜けないって仰いますの?」
るいの顔色が沈んだ。
「用心棒としては、だ」
真乃は単刀直入である。
「あのお二人、大丈夫なのですか?青井様や斎藤様とは大違いですけど」
るいも単刀直入だった。
「剣術の腕ならば、斎藤殿より当てになりますな。見張り番としては最適ですよ」
るいは暫くの間真乃の顔を見つめていた。何か聞きたそうだったが、真乃の様子に躊躇われたらしい。お休みの挨拶をしただけで膳を抱えて台所へ戻っていった。
るいが何を聞きたかったのかは翌朝に判明した。
着流しで湯屋へ出かけようとした真乃を、るいはわざわざ見送りに現れ、こう言った。
「青井様、この近くの湯屋は男湯と女湯に別れてますのよ。どちらにお入りになりますの?」
余計なお世話だと返したいところだったが、
「女湯だ。当たり前だろうが」
言葉使いは荒くも、真乃は素直に返した。
「八丁堀の湯屋では早朝は女湯も男湯になっているが、そこの更級ノ湯の女湯はいつも女湯だと聞いている。違うのか?」
「仰るとおりです。青井様は何から何まで殿方のように振る舞っておられるのではないのですね」
目も口調も不思議そうなるいだった。
「男にあるものがないし、男にないものがあるのだから、当たり前だ」
「『当たり前』ですか。でも『当たり前』で片付けられない人を知ってるんだもの……」
るいがぼそぼそと言ったのを真乃は聞き逃さなかったが、聞こえない振りをして湯屋へと向かった。
更級ノ湯の女湯は狭かったが、行水で済ませられる夏場なことと早朝は女達が家事で忙しいため、終始真乃一人の貸し切りだった。
入口に陣取っていた老婆は男帯を締めた着流し姿の真乃が女湯に入るのに驚きもしなかったが、女客が誰もいなかったせいかもしれない。……と、暗い湯船にのんびり浸かりながら真乃は思った。
早朝の湯屋が貸し切り状態ならば、今回の用心棒稼業、もとい、「人助け」はそう悪いものではない。
湯屋から戻ると、かよが井戸から手桶に水を汲み、せかせかと土間へ運んでいた。
真乃が安堵したことに、行水の場所は庭ではなく土間だった。
庭での行水は覗かれないように屏風や幕を張ったり片付けたりと、準備や後片付けも面倒だが、なにより用心棒として守りづらい。
念のため、るいが行水をしている間、真乃は土間寄りの濡れ縁に座り、万が一に備えた。
ふと遠くからの視線を感じてその元を見やると、向かいの山崎屋の二階から手代二人と丁稚一人が身を乗り出してこちらを見ていた。
山崎屋にこの前と一昨日の騒ぎが聞こえていないわけがないから、野次馬が出てきて不思議はない。
一昨日の襲撃犯は山崎屋脇の路地から入り、逃げる時もその道を使っていた。路地の入口に木戸はあるのだが、必ずしも毎晩閉じてはいないらしい。
大貫屋を通して今後は必ず木戸を締めるよう頼んではいる。さて、どこまで守られるか。
今後のこともあるので、真乃は小石を窓近くに当て、二階から好奇心丸出しで口を忙しく動かしながらこちらを見ている連中を牽制した。小石片手に睨みつける真乃に、三人は慌てふためいて頭を引っ込めた。
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