第2部 第1章

 三崎藩主、本多大和守の江戸家老、内藤家の家紋が下り藤だということはすぐに判明した。

 問題はそこからどう探索を進めるかだった。

 まず、一月前まで真壁勝之助が仕えていたのが内藤家だったかどうかから確認しなければいけない。四年前から主家が変わっているなら、それを突き止めるのがまた大変だ。

 一月前まで内藤家に仕え続けていたとしても、浪人となったのが自らの意思による出奔だったのか、家老の逆鱗に触れての放逐だったのか、真実を突き止めるのがまた簡単ではない。

 かなり手間も時間もかかるかもしれないと覚悟した真乃だったが、第一の問題は、三崎藩上屋敷に出入りしている広瀬という与力から、片岡が絞り込める重要な話を聞いてきた。


 広瀬と繋ぎを取っているのは、江戸に二人いる御用人の一人、片桐とその奉公人なのだが、これまでのやり取りからすると、在府の家老や用人の家にここ何年も侍の奉公人に入れ替わりは無いというのだ。

 藩の上役が町方と懇意にするのは、陪臣が町地で揉め事を起こした時に便宜をはかってもらうためだから、主だった藩士やその奉公人の動向は、よく話題にしているのだった。

 武家に限らず、奉公人が半季もたずに入れ替わることが多いこの頃にしては、かなり珍しい、それだけ居心地がよいのだろうと広瀬は言う。

 それが本当ならば、十五歳から一月前まで真壁勝之助が仕えていたのは、まず内藤家に違いない。


 内藤家老の中小姓に最近まで真壁という侍がいたということまでは確認できなかったが、広瀬から聞いた内藤家老の人となりが真乃達に意外なものだった。

 現当主の内藤勘左衛門は、切れ者ではないが、いたって実直な人物だと言うのだ。


 内藤家は代々三崎藩の用人か家老を勤めてきた家で、勘左衛門は部屋住みのうちから藩政に関わり、父の隠居で家督と家老という重職を三十五歳で同時に継いでいた。三崎の領分には部屋住みの頃に藩主の参勤交代の供で行ったことがあるだけの、江戸生まれの江戸育ちである。

 広瀬も数度会っただけだが、内藤勘左衛門には好感を持っているという。

「あの御仁が悪事に加担するとは思えぬ。もしも加担したならば、それは上意、殿様の命で致し方なく、でしょうな」


 その内藤が仕える藩主、本多大和守忠熾ただおきが問題だ。色々悪い噂が囁かれている。名君だった先代肥後守と違い、身体も頭も弱いというのだ。

 実は、浅田喜左衛門の口から「本多大和守」が出たとき、噂を耳にしていた真乃には、さもありなんと思うところがあった。

 表向きは病気のためとなっているが、数ヶ月前に大番頭を致仕した本当の理由は、昨春の田安御門での騒ぎだけでなく、他にも不始末があったからだとか、藩の財政も先代が苦心して建て直したのをあっさり元通りの大赤字にしたという噂話が真乃の耳に入っているのだ。

 しかも数年前には先代の忠克ただよしがその能力を見込んで家老に抜擢し、財政建て直しの立役者だった工藤善五右衛門という老武士が大和守の目の前で藩士に斬りつけられ、三日後に亡くなるという事件も起こっていた。

 藩政問答から口論になり、若い藩士が工藤に斬りつけたらしいが、二人の口論も刃傷も大和守の眼前で起こっただけに相当きな臭い。

 これだけ揃ったなら、百年ほど前なら改易になっていただろう。


 三崎藩は播磨の山間に位置する一万石の小藩だ。

 藩主の本多家は分家ながら、遡れば徳川四天王の一人、本田忠勝に遡る譜代の大名で、江戸、二条城、大坂城を警固する頭格の役、大御番頭の役職に代々就いていた。

 その上参勤交代も課せられているのだから、藩主が倹約しない上に不始末が重なれば、金策に苦労していないわけがない。

 しかし、どの藩も財政難に喘いで商人や豪農から大金を借りているから、単なる金の貸し借りだけならば、盗み聞きを心配するとは思えない。そこに何が絡んでいるのか。


 広瀬によると、これまでのところ、三崎藩上屋敷できな臭い雰囲気を感じたことはないという。藩士が起こした揉め事も、あの田安御門での騒ぎくらいとのことだった。

「ただ、その一度の騒ぎが大き過ぎたな」

 酔っぱらいが田安御門を警固していた三崎藩士に絡んできたという騒ぎで、最終的には抜刀した酔っぱらいを、足軽が一人、軽い怪我をしただけで取り押さえたのだが、場所と日時があまりに悪すぎた。

 よりによって、将軍家斉が清水館への御成りで近くを通った直後に発生したのだ。

 数ヶ月後、騒ぎに巻き込まれ、沈静に当たった藩士達は町奉行の根岸肥前守より江戸払いや五十日以上の押込(屋敷に軟禁状態)を言い渡され、藩主には世子ともども老中から当面差し控え(謹慎)が言い渡された。

 先述したとおり、大和守は今年に入って御役を到仕したのだが、本当に病気が理由なのかと、口さがない連中は色々なことを囁いている。

 武士というのは支配階級であるが故に、不祥事を起こせば下る処分は町人や農民より重いのだ。

 ――それだけに、領分内で完結するような年貢絡み以外の悪事にはそうそう手を出せないはずだが……


 真乃はわかっていることを起きた順に並べて考え直してみた。


 昨年の長月 叶屋での会合。出席者は頭巾の侍、商人、真壁勝之助、他三、四人。

 半年ほど前 能勢豊が松三郎の客として現れる。

 三月ほど前 松三郎、請け出される。

 一月ほど前 真壁勝之助、東仲町の棟割長屋に移り住む。

 三十二日前 るい、浪人に襲撃される。

 二十九日前 るいへの二度めの襲撃。

 二十七日前 松三郎、斬殺される。

 二十五日前 能勢豊、真砂町の石助長屋、田中理十郎の店に現れる。

 十五日ほど前 真壁勝之助、殺害される。

 五日前 能勢豊、田中理十郎、行き方知れず。


 一月前から二十日前に大きな動きがあったことになる。

 真壁勝之助の出奔か放逐、るいへの二度の襲撃と松三郎の斬殺。

 真壁勝之助がるいや松三郎から話が漏れたと勘違いするような失敗をして放逐されたとも考えられるが、幼馴染みの浅田喜左衛門に残した言葉からすると、るいや松三郎への仕打ちに反対したのではないかと真乃には思えた。何も知らないかもしれない人間を問答無用で口封じのために殺してしまうという、その強引なやり方に疑問を持ったのではないか、と。

 真壁勝之助とは、子供の頃に喧嘩を止めようとして、自らが大怪我をしたほど道義心のある人物なのだ。黙って指示に従うことができなかったとしたら、真壁勝之助が浅田に残した言葉も頷けると真乃は思う。

 主のやり方が自身の信ずるところと合わなくなった時、人はどういう道を選ぶのか。自身の信条を棄てて主の指図に従うのか、貧しくとも、否、それ以上の悲劇に見舞われようとも、己の信条に従って生きることを選ぶのか。

 父親の最後を見ているだけに、その時の勝之助の葛藤はどんなに激しかったろうか。


 翻って、自分ならばどうするだろうと真乃は考えた。

 主や親のために己の信条を曲げるなど耐えられない。

 叔母が父親に言っていた台詞が思い出された。

「兄上は真乃を甘やかし過ぎです!」

 端からはどう見えようと、自分の始末は自分で付ける。真乃が剣で生きることを選んだ時に自身に誓ったことだ。

 「能勢豊」はどうなのだろう、これまでは主の指図に従っているように見えているが……と、ふと思った。


 この時点でわかっていることからすると、叶屋に真壁勝之助を供として頭巾を被って現れた武家は、年格好からも内藤勘左衛門だと思われる。

 では、商人は誰なのか。


「江戸での大和守様御用達の一番手は両替商の備前屋、二番手は材木商の播磨屋ですが、どちらも大和守様の御用達なのは周知のことです。顔を隠して会う必要はありません。叶屋で会っていたのは、最近になって大和守様御家中と取引を始めたか、始めようとしている商家が相手でなかったかと考えております」

 わざわざ大貫屋の寮まで出向いてきて片岡が真乃とるいに教えた。

「そのような商家に心当たりはあるのですか?」

 真乃の問いに片岡は首を横に振った。

「今のところは、まだ何も」

「本多様御領分の特産は材木と木綿、それから薬草も、でしたかね」

「はい。当帰の産地として知られております。どれも大坂で捌いておりますので、江戸に直接扱っている店はありません。大坂で売り払った為替の大半を取り扱っているのが備前屋ですから、結びつきは備前屋が抜けて一番強いでしょうね」

 当帰の産地と聞いた時、真乃の頭に「伊勢九」の看板が浮かんだ。直接でなくとも、伊勢九は三崎藩と関わりがあるのかもしれない。その辺りのことは嘉兵衛親分が探りだしてくれることだろう。ただ……


「最近になって本多様に取り入ったとしたら、商人側の利は何でしょう?」

 真乃は商人達の利益をめぐる嗅覚の鋭さに一目を置いていた。今の世は商人達の戦の世だと感じていた。身分は支配層である武士だが、実情は豪商の助けが無くては何事も進められなくなっている。

「材木であれ、木綿であれ、本多様の御領分から利益をあげる……動機として充分ではありませんか?」

「それができれば利には違いありませんが、新しく御用達になるのは容易なことではありませんよ。相当な金子もいる」

 当帰の産地は他にもある。その程度では伊勢九が現状三崎藩と取引きしている商人達に割って入るのは利が薄いと真乃は感じる。

 ――新たに商人が関わろうという、一体どんな魅力が三崎藩にあるというのか。


 片岡は真乃から庭の方に顔を向けた。濡れ縁に腰掛けてから、一度も座敷の方を見ていない。

 座敷の側にはるいが正座して片岡と真乃のやりとりを見守っている。

 ――片岡さん、これではせっかくここまでやって来た甲斐がないではないか。まさか三十過ぎのやもめたる片岡さんがこんなにうぶな態度を見せようとは……

 真乃は喉元まで出掛かっている言葉をかろうじて押さえた。

 人の心の一筋縄ではいかない襞を感じた。しかしあまりにもどかしい。

 無論、今は大貫屋の妾だから手を出してはいけない。だが気持ちを示すくらいは問題のない話である。どちらも婚姻歴のある、相手に死に別れた大人だ。

 そもそも、そのために来たのではないのか。

 だが探索の話をつけるのが先だ。真乃はもどかしく思いつつも話を進めた。


「内藤勘左衛門の様子を探るのに良い手蔓はありませんか?奉公人の入れ替わりはないということですが、真壁勝之助がいなくなっているのです。本当に他に暇を取った奉公人はいないのですかね?」

「広瀬様は、最近のことはお声がかりが無く、御屋敷に出向くこともないので、よくわからないと申しておられて……」

「最近というと、この前お声がかりがあったのはいつだったのですか?」

「それほど前でもありませんよ。一月半ほど前とのことでした」

「上屋敷には?」

「上屋敷には半年以上行っていないということでしたが……」

 言いながら、片岡も「半年」というのに引っ掛かりを覚えたようだ。半年前。最近何度か耳にしている。


「では、内藤様の御家族はいかがですか」

「数えで十二の御嫡男に、十五と八つになる御息女がおられるそうです。妾はおらず、三人とも御正妻の御子様だそうで」

 片岡はそこで言葉を切った。真乃の顔を見つめた。


 片岡が口を開こうとした時、それまで黙って二人のやりとりを聞いていたるいがとうとう口を挟んできた。

「青井様、十五歳の御息女をたぶらかすおつもりですね!」

 出し抜けにきつい言葉をかけられ、真乃はむっとしてるいに顔を向けた。

「誑かすとは心外だな。内情を教えてもらうのにちょうど良いと思うだけだ」

「ちょうど良いって、なんという……青井様は美男子として近づくおつもりでございましょう?それが誑かすのでなくて、何なのでございますか!」

「確かに余計なことを言うつもりはないが、会って話を聞くだけだぞ。何をそんなに目くじら立てるのだ?」

「も~う!そんなお堅い御家老様の御息女が純情でないわけがないじゃありませんか!」

「お堅い御家老の御息女だからこそ、私がちょうど良いのではないか。万蔵や下っ引きにやらせるわけにはいかない。うまく聞き出せるかということもあるし、それこそ危ない。向こうも警戒するだろうしな」

 何処に不都合があるんだという真乃の平然とした返しに、るいは顔をしかめてこめかみに手を当てた。


「るい殿はその御息女が恋患いにかかるのではないかと、心配しているのでしょう。実のところ私の知る限りでも、真之助様が女とわかっても諦めきれず、嫁ぐならあのような御方と、なかなか縁談がまとまらない娘が二人おりますからな。一人は御旗本の娘で、もう一人は大店の娘です。御旗本の娘の方はまだしも、大店の方は一人娘なだけに厄介なことになっているようですよ。無理強いしたら家出するだの、自害するだのと騒ぎ出し……」

「片岡さん、まさかそんな話を真に受けてはおられますまい。嫌な相手との縁談を逃れる口実にしているのですよ」

「いやぁ、少なくともあの御旗本の御息女は縁談を断る口実では……」

 片岡は面白がっているが、片岡の話にるいの表情がすっかり険しくなっていた。

「探索を止めて良いのか?松三郎の仇を打つのであろう?」

「そ、それは……お願いしたことですけど……」

「ならば、御家老の御息女のことは気にするな。端緒に過ぎないしな」

「……でも、落ち着いて考えてみたら、御家老のお年頃のお嬢様はめったにお出掛けにならないわよね」

 るいが自分を納得させるように頷きながら小声で呟いた。

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