第1部 第8章

 浅田喜左衛門はいそいそと三味線堀側にある桑名藩中屋敷の潜り戸を出た。この日も近くの浅草ではなく、深川の富ケ丘八幡裏の岡場所へ行くつもりだった。遊ぶ場所は藩邸に近過ぎてはいけない。それに深川の方が何かと手頃でもある。

 勤番侍はどこの遊郭でもしつこいくせに金払いは悪いと嫌がられるものだが、十日ほど前に初めて行った店のという女郎は喜左衛門を嫌がらなかった。顔立ちは喜左衛門の好みではなかったが、気性と床あしらいに喜左衛門は大満足した。

 今日も富ケ丘八幡の門前で軽く腹拵えしてから行こうと考えた。


 喜左衛門はこの前と同様、小さな蕎麦屋に入った。

 かけそばに燗一本つけて食べていると、隣の縁台にお高祖頭巾を被った女が座ってきた。着物や帯から商家の娘だろうと喜左衛門は思った。

「あたしにもこちらの旦那と同じものを」

 座る仕草も店の者に頼む掠れ気味の声音にも色香があった。

 こっそり喜左衛門は女の様子を窺った。なんと、女もこちらを見ていた。化粧は濃かったが、浅田が間近に見た中では群をぬいて美形だった。心の臓が跳ねた。

 ――これは縁起が良いぞ。

 喜左衛門は慌てて顔を戻して蕎麦を口に入れた。

「不躾ではございますが、お侍様もこれから富ケ丘八幡様へお詣りに?」

 窺い見たのがばれていた。

 女が心持ちこちらに身体を寄せてきた。縁台は間に人が行き来できるだけ離れているが、香の匂いが蕎麦の汁や酒の匂いを取っ払った。

「う、うむ。まぁな……」

「それはようございました。あの……ご一緒にお詣りさせていただけませんでしょうか。後ろを歩かせていただくだけでございます。ご覧の通り、本日は一人で参ったのですが、この人出では、少々心もとなく……」

 八幡様へ詣る間だけでもこのような美形と一緒にいられるなど、喜左衛門には飛び付きたくなる話だった。後ろといわず、横に並んで……と、さっそく頭の中では妄想が沸いた。

「某で良いのであれば、ご同道いたそう」

「まぁ嬉しい。お人柄の良いお方とお知り合いになれて本当にようございました」

 女はにっこり笑った。

 年は二十歳くらいだろうか。このような年頃の娘を独り歩きさせるなど、親御はどうかしておるぞと思いつつ、化粧の濃さといい、これはいわゆる蓮っ葉な娘なのかもしれない。

 そうならば、なおさら喜左衛門にとって嬉しいことが起こるかもしれない。

 いやいや、世の中そんなに甘いものではない。

 そう思い直しつつも、喜左衛門は心が浮き立つのを抑えられないでいた。

 蕎麦と酒ののった膳がくると、女は「そちらに移っても構いませんでしょうか」と断りを入れ、喜左衛門のあやふやな仕草に了承を得たと横に座り直して自分の膳の酒を喜左衛門の盃に注いだ。

「お詣りにご一緒させていただけるお礼でございます。さ、どうぞ」

 その後、喜左衛門は女が気になって味がわからないまま蕎麦と酒を胃の腑に入れ、自身が食べ終わった後は女が食べているのをちらちらと眺めた。

 女は上品に蕎麦を小口で食べた。時々喜左衛門を見る。その度に笑みを浮かべた。化粧の濃さに似合わぬ屈託のない笑みだった。

 蓮っ葉というのは誤った思い込みだったかもしれないと思い直した。


 そこからはもう喜左衛門は夢見心地だった。この美形に絡む破落戸がいたら蹴散らさねばと思いつつも、すぐ後ろから香る匂いに酔い、ふわふわした心地でお詣りを済ませた。

 再び門前町の人混みに揉まれていると、女が「あ」と声をだして喜左衛門の腕を掴んできた。喜左衛門の心の臓の鼓動がはねあがる。

「申し訳ありませぬ。少し眩暈がいたしまして……人混みに酔ったのかしら」

「それはいけませぬな。どこかで少し休みましょう」

 喜左衛門は辺りを見回した。ちょうど目の前に茶屋があった。葦簾張りではなく、二階建ての高そうな茶屋だ。

 一瞬懐を考えて迷ったが、ここで情けない姿は見せられぬと、喜左衛門は女を支えて茶屋の敷居を跨いだ。

 連れが眩暈を起こしたので少しの間休みたいと喜左衛門が言うと、店の者は愛想よく「では静かな場所へ」と奥の間へ二人を案内した。

 奥の間に入ると、女中は躊躇いなく布団を敷き、お高祖頭巾の娘はそこへ崩れるように横たわった。

 思わず喜左衛門は手を伸ばしかけたが、触れるのは憚った。

 女中がお茶をお持ちしますねと奥の間を出た。後ろ手にしっかり障子を閉めた。

 静かな部屋で二人きりなど、またしても喜左衛門の心の臓は早鐘のようになる。

 娘が苦しそうな声を出した。

「大丈夫か?」

 喜左衛門は女の背中を擦った。

 眩暈で背中を擦るとは珍しい対応だ。とうに喜左衛門に冷静さは無かった。

「あの、胸が苦しゅうて……」

 胸というのには、喜左衛門も幾分我に返った。胸元へ延びかけた手を引っこめた。

「すぐに店の者が茶を持ってまいるゆえ、もう少しの辛抱じゃ」

 はぁはぁと女が喘ぎながら、喜左衛門を見上げた。

「お侍様……」

 女が手を伸ばしてきた。

 喜左衛門は思わずその手を握ってしまった。

 と、女は思いの外強い力で喜左衛門の手を胸元へ滑りこませた。

 喜左衛門があっと思う間もなかった。

 次の瞬間には障子の開く音と声が部屋に響いていた。

「不義者め!証を見たぞ。そこへ直れ!」


 喜左衛門が声に振り向いた時には鼻先に刀が突きつけられていた。

 刀の向こうに入ってきた方とは反対側にあった障子が開いているのが見えた。

 そうして目の前には袴をはいた二本差しが立っている。

「ち、ち、違う!この娘が苦しんでおるから……」

「苦しんでおれば、胸に手を入れて良いと申すか」

 喜左衛門ははっとして己の手を見た。まだ女の胸元に入っていた。

 女はしっかりと胸元に喜左衛門の手を抑えたまま、顔を背けている。

 胸元がこれまでに触れた女達と違うと気づいたのはこの時だった。

 喜左衛門は混乱した。ともかくも必死に誤解を解こうと、鼻先の刀を避けつつ侍の顔を見上げた。

 侍は大柄だった。頭巾で目の辺りしか見えなかったが、眉と目だけでも秀麗という印象を受けた。

 こんな男前な旦那がいながら、俺のようなのに……と思ったところで、喜左衛門は漸く噂に聞く「美人局」だと気づいた。時、既に遅すぎた。



 真乃は喜左衛門の鼻先に突きつけた刀を軽く揺らした。

「許して欲しければ、こちらの尋ねることに正直に答えて貰おう。嘘偽りは聞かぬぞ。嘘を言えばすぐにわかる」

 喜左衛門は金を強請られると思っていたのだろう。質問に答えるだけで許されると聞いて、安堵と不信の色を同時に浮かべた。

「ねぇ、この手を離してもいいかしら」

 お高祖頭巾が真乃に聞いた。

「もういいだろう」

「あなたがこうやってくださったなら、ぜーったいに離さないんだけどなぁ。あ痛っ!」

 真乃は目にも止まらぬ早さで脇差しを左手で抜き、峰でお高祖頭巾の頭をポンと叩いていた。

「そ、そなたがこの女の亭主か?」

 喜左衛門が震える声で尋ねてきた。

「そう、あたしの愛しいつよーい旦那様!あ痛っ!」

 今度の真乃のお高祖頭巾の頭への峰打ちは先ほどより強かった。

「いったあ~いぃ!酷いわ~、何もここをぶたなくたって」

 お高祖頭巾はぶたれた箇所を手で念入りに擦った。相当痛かったらしく、涙ぐんでいる。

「余計なことを言うからだ。これ以上、口を開いてみろ。血を見るぞ」

 お高祖頭巾は口を閉じたが、真乃を見る目が拗ねている。

「に、女房にこんなことをさせるなんて、そ、そ、それでもそなたは、さ、侍か。さ、更には今の所業。そ、そもそもだな、に、に、女房なら、女房らしくお歯黒を……」

 震えながら、喜左衛門は抗議してきた。

「どんな事情があろうと、人のモノに手ぇ出したら泥棒だよ、浅田の喜左衛門殿」

 真乃はペチペチと刀の腹で喜左衛門の頰を叩いた。

 喜左衛門は口を閉じた。目は完全に怯えている。

「お主は左頬に傷がある侍と知り合いだそうだな」

 真乃の質しに喜左衛門はまさに鳩が豆鉄砲喰らったような顔になった。

「その侍の名とお主との縁を教えてもらいたい」

「な、何故なにゆえ?」

「聞いてるのは此方だ。答えろ」

 真乃は素早く刀を喜左衛門の首筋に当てた。

「お……いや、き、貴公が知りたいのは、勝之助のことなのか。左頬に傷のある、某が知っている侍は、真壁勝之助だ」

「お主との関わりは?」

「お、お、幼馴染みだ。勝之助の家も我が家も桑名の松平家中の徒士の家で……」

 そこから喜左衛門は首筋に刃を当てられているのも忘れたように、真壁勝之助との昔話を滔々と語った。


 父親が同役で屋敷は二件隣だった浅田家と真壁家のつきあいは古く深く、同じ年に生まれた喜左衛門、幼名、吉太郎と勝之助は一緒に塾や道場に通った仲だった。

 頬の傷は十一の時の喧嘩沙汰でついた。勝之助は喧嘩を止めようとしたところが、激昂した相手の刃が頬を掠めた。

 掠めたといっても刃で柔らかい頬についた傷は出血も多く、勝之助は半月近く寝込んだ。傷痕については迫力が出て良いと、勝之助も家族も気にしなかったという。

 その件以外は特に事件らしい事件は起こらず、両家とも慎ましく穏やかに日々を過ごしていた。

 ところが急転直下、勝之助の父親が上役と揉め事を起こし、家族を連れて脱藩する。時に勝之助、十三歳。

 上司に逆らった罪を問わず、脱藩を許したのは恩情だと言われたが、勝之助の父親の人柄と揉めた相手の噂から、浅田家の者達は非は上役にあったに違いないと憤慨した。しかし家を守るためには口を閉ざすしかなかった。

 その後、真壁の家族がどこでどう過ごしたかは知らずにいたが、喜左衛門は家督を継いで初めて江戸へ殿様の御供でやってきた時に、偶然勝之助と再会する。四年前のことである。

 その時に勝之助から聞いたのは、桑名を出て間もなく父親は病死したこと、勝之助、母君と妹君の三人は、江戸に流れ着いてひっそり暮らしたということだった。江戸に着いて暫くは極貧の生活だったが、幸いなことに勝之助は満十五才の時に中小姓としてとある家中に士官できた。


 中小姓とは、主の外出時に供をする侍である。昔は信頼のおける譜代の家臣が勤めていたが、武家の困窮からこの頃には抱える家臣の人数自体が大幅に減り、人宿や知り合いの紹介による短期の奉公が増えていた。


「その士官の先は?」

「それが口を濁しましてな。さる小藩の御家老の中小姓とだけで。某はまた会いたいと思うたのですが、勝之助の方はそうではなかったようでして……」

 父親の上役と揉めての本意ならぬ脱藩から病死、一家窮乏の展開は、頬とは比べ物にならない大きな傷を勝之助の心に負わせたことだろう。

 某家老家に士官できたことを勝之助も、母親や妹も、心から喜んだに違いない。

 十月前に大事な相談の供として叶屋に現れている事実からは、忠義を尽くして勤め、主の信頼を勝ち取ったと思われる。

 それとも、十月前の奉公先は四年前とは違っていたのだろうか。四年未満で主の信頼を勝ち得るものだろうか。

 奉公先が変わっていた可能性を考えに入れないわけにはいかないが、喜左衛門の語る勝之助の気性からして、十五才の時から四年前まで仕えた奉公先をその後に変えたとは考えにくい。真乃はそう思った。

 そうすると、あの頭巾の侍は某家中の家老で、勝之助は最後は心を尽くして十余年仕えた主に裏切られたか、裏切らざるをえなかったか。

 ともかくも、結果としては、父親と同じ道を辿ったことになる。


「四年前の再会時に、仕官先の手懸りになるような事を本当に口にしていなかったのか?何か漏らしたのではないか?」

 真乃の質しに喜左衛門はじっと考え込んだ。

「某が勝之助を見かけたのは、本所の本多大和守様の下屋敷前で御座った。某と話した後、勝之助はそのまま歩いて行ったのでござるが、今から振り返ると、ちと動きに妙なところがあり申す。大和守様の下屋敷に戻るところで某に会ったために、道を変えたのかもしれませぬ。歩いて行った勝之助を名残惜しくて振り返ると、勝之助も某を見ておりましてな、その時は勝之助も某同様、名残惜しかったのだろうと思うておりましたが、あれは某が立ち去るのを待っておったのかもしれませぬ」

「その時に着ていた着物に紋はなかったか?」

「御座いました。下り藤に見えました」

 播州三崎藩主、本多大和守の在府家老の家紋が下り藤かどうか調べるのに時間はかかるまい。

「その真壁勝之助とは最近また再会したであろう。その時のことを詳しく知りたい」

「そんなことも存じておられるのか!……勝之助に何かありましたのか?」

「くどいな。尋ねているのは此方だ」

「あの時はあまりの変わりように、人違いかと思ったくらいでござった。ですが、あの頬の傷は間違いなく勝之助の傷。思いきって声をかけたところが……」

 初めのうちはけんもほろろだった。人違いだと言い張るのを、その傷は誤魔化せぬと喜左衛門が詰めよった。お主のことを心配して尋ねているのだ、そこで飲みながら話そうと、喜左衛門は勝之助の肩に手を置いた。


「その時の勝之助の目も言葉も忘れられませぬ。勝之助は悲しいような、酷い痛みに耐えているような目をして、『何が起ころうとも、どんなに惨めな結果になろうとも、後悔しない生き方などあるのだろうか?あるとしたら、どのような人生であろうか?お主には答えがあるか?』と、申したのでござる。某には何も申せませんでした。勝之助が尋常ならぬ苦境にあることだけは分かりましたが、事情を話そうとしない以上、某にかける言葉は浮かばず、この近くに住んでいるのか、近々また会おう。そう言って別れたのでござる。勝之助は某のまた会おうに薄笑いを浮かべただけで、頷きませんでした」


 喜左衛門は途中から下を向いていた。膝に置いた拳が強く握られている。

「勝之助は強い男だから、苦境に陥ってもきっと抜け出せる」

 独り言のように喜左衛門は言った後で顔を上げ、真乃に尋ねてきた。

「勝之助が何かしでかしたのですか?」

「勝之助殿と知り合いであることは当分他言せぬが良い。今、江戸にいる松平様の御家中に勝之助殿のことや、お主と勝之助殿の間柄を知っている者はどれくらいいる?」

「さぁ……下級の家ですし、御父君のことも十五年も前の話ですから、覚えている者は多くはないと存ずるが……」

「では我々のことを含めて他言無用だ。命が惜しいならば、必ず守ることだ」

 喜左衛門の不信の色が濃くなった。

「真壁勝之助殿は、先日殺害された」

 真乃はゆっくりと言った。

 喜左衛門の顔色がみるみる白くなった。

「何故殺されたかは我々も知らぬ。容易ならぬ秘密を握っていた故なのは、確かだ」

 沈黙した喜左衛門の肩にお高祖頭巾が後ろから手を置いた。

「あたしで良かったら、いつでも慰めてあげるわよ。お代は一回一朱でどう?痛えっ!」

 お高祖頭巾が頭を抑えてのたうち回った。

「中剃りを狙うなんてあんまりだよう!」

 涙声は先ほどまでの声より低かった。真乃の三度目の脇差しの頭への峰打ちで、遂にお高祖頭巾は素をさらけ出したのだった。


「真さんとあたしで美人局やったら、鬼に金棒よ。幾らでも稼げるわね」

 心身ともにぼろぼろになった喜左衛門を見送って四半刻後、喜左衛門を陥れた茶屋の奥座敷で真乃は万蔵、紫帽子で中祖りを隠した清吉と共に飯を胃の腑につめていた。

「誰がてめぇと美人局やるか。今度金や金目の物を脅し取ったら、獄門だぞ」

 真乃はすっかり崩した言葉遣いである。

「前だって脅されてやってたんだし、今度だって真さんに頼まれたんじゃない。自分から話を持ちかけたことはないわよ。お芝居振って真さんの企みに付き合ったんだから、お礼はこれだけじゃあないわよね?」

 さっきからがつがつ飲み食いしながらお喋りも止まない清吉だ。真乃が一言言うと三言くらい返ってくる。

 真乃は万蔵と清吉を前に根っからお喋りな奴は、女より男の方が多いのではないかと思い始めていた。

 恩着せがましいことを言ったが、今日は宮芝居はなかったのだ。だから清吉は真乃のこの話に乗ってきたのだ。

 真乃はどこまで面の皮が厚いんだと呆れなから、そこは返さずにいられなかった。

「嘘ももう少し頭使って言え。どのみち狸か馬の脚なんだから、代わりにゃ事欠かねぇだろうがな」

「ひどいわ!狸は大事な役だったのよ。撃たれてころりと倒れるのだって、コツがあるの。素人にはうまくできないんだから」

「あ、清吉さんはあの狸役だったんでやすか。どうしようもねぇ悪戯狸で、猟師に撃たれて鍋にされて、悔しさに猟師んとこに化けて出るはずが隣ん家の坊さんとこに化けてでてお経唱えられて甲斐無しって奴でやすね」

「……もう少し言い方無い?」

 万蔵のまとめ方に、清吉は物がいっぱい入った口を尖らせた。

「あっしはあの芝居、気に入りやしたよ!最初から最後まで笑いっぱなしで顔が痛くなりやしたからね。今度はどんな役やるんです?」

「煩いわね」

 素直に答えないということは、今度は馬の脚かなと思いながら、真乃は立ち上がった。

「ええ?真さん、もうお帰りになるの?」

 清吉が急いで白飯を二口、口に掻きこんんだ。

「お前たちはゆっくりすると良い。私は先に帰る。用心棒稼業があるんでな。万蔵、後は頼んだぞ」

「へい!……って、何をどう頼まれるんでやすか?」

「こいつが余計なことを言わないように、よおーく言い聞かせながら、座元に送り届けてくれ」

 万蔵は納得していない顔つきのまま「へい」と頷いた。


 本郷へ戻る途中、真乃は寄り道をして柳原の南の町地を巡っている片岡を見つけだし、歩きながら頬に傷のある侍の名前がわかったことを告げた。

 片岡は嬉しさ半分、悔しさ半分だった。

 家中者となると、主の大名や旗本の権勢で、陪臣は町方の管轄であるにも関わらず、迂闊に手が出せないからだ。

 各大名屋敷に出入りしている町方の与力や同心がいるものの、浅田喜左衛門のような下級武士の勤務予定くらいならば聞き出せないことはないが、窓口は狭く、相手方が全てを町方に見せるわけもない。

 真壁勝之助が浪人になった理由を探るのが困難を極める。しかし簡単に諦めたくもない。

 別れ際の片岡の顔には覚悟が見えた。


 真乃が大貫屋の寮へ戻ると、るいが青ざめた顔をして濡れ縁に座り込んでいた。庭に現れた真乃に慌てて何かを袂に隠した。

「今、隠したものを見せてもらおう」

 真乃は刀を外して濡れ縁に上がりながら、きつく言いはなった。

 るいの肩がびくっと動いたが、真乃の方は見ずに答えた。

「な、なんでもありませんわ」

「隠し事をされては守りきれぬ。最初に言ったであろう。そなたの命を守れるかどうかは、そなたの心がけしだいだと」

「ええ、覚えてますとも」

 るいはやはり真乃の方を見ない。膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。強く握りすぎて、指の色が白くなっていた。

「先日浅草から後をつけてきた浪人が気になっている。あれは襲撃してきた連中とは別口だ」

 真乃はるいをじっと見つめた。

「そなたが浪人に恨みを買っているとは思わない。だが巡り巡って、奴がそなたの何らかの弱みを握っていることはあり得る」

 るいの横顔に動揺が微かに見えたが、一瞬で消した。

「今のあたしに弱みなんてありませんわ」

 るいが漸く真乃に顔を向けた。

「本当に。何もありませんから」

 るいの顔は青ざめたままだった。無理に笑うようなことはしなかった。ただ毅然と言いきった。

「青井様の方のご首尾は如何でございました?」

 大きな何かを隠している。真乃には明白過ぎたが、無理にこじ開けようとすれば、却って口を噤むものだ。浅田喜左衛門に問われた真壁勝之助もそうだったように。

 しかしこの期に及んでるいが真乃に隠そうとするのは、並大抵のことではない。それだけに真乃は尚更気掛りだった。



 同じ頃、とある船宿の二階の窓際に腰かけ、川面を眺めている男がいた。

「銀蔵、いつになったら、大貫屋の寮に仕掛けるのだ?仲間を揃え直して何日経つのだ」

 川面を眺めながらかけた男の言葉に、部屋の真ん中辺りで胡座をかいて煙管を咥えていた銀蔵と呼ばれた男もまた、窓際にいる男に顔は向けず答えた。

「あの八丁堀の用心棒は只者じゃねぇんですよ。慎重にいかねぇと。もう少しの間おとなしくしてりゃ、気が緩んでくる。そこが狙い目で。もうひとつ手を考えてるんで、そいつを先に試してもいいかもしれません。ちゃーんと考えてるんですぜ。そもそもあんたの指図を受ける筋合いはありませんや」

「相手はたがが女一人に男二人だぞ。そこまで気を使うのか」

「女だからって、侮っちゃいけねぇ。あんたは刃を交わしてねぇから、そんなことが言えなさるんだ。あれはとんでもねぇ代物ですよ。いったいどこでどんな修行を積んだら、あんな技を身につけることができるのやら。この侍の大勢集まる御府内に、まともにやりあえる奴は片手と居やしませんよ」

「人を斬り殺したことがあると申したな」

「介錯もやったことがありますよ。気になったんで、ちょいと調べたんですがね。逡巡なく、見事に首の皮一枚残して斬ったらしい。太平の世が二百年も続いた近頃ではめったにお目にかかれねぇ凄みがあります。旦那のコレとは全く違いますぜ」

 銀蔵は「コレ」で小指を立てた。「いや、こっちか?」と今度は親指を立てた。

「ま、どっちでもいいやな」

 銀蔵は煙管を煙草盆にぽんとあてて吸殻を落とし、新しい煙草を詰め始めた。

「あの子は綺麗でやしたねぇ。女にしか興味無ぇあっしも、ちょいと下腹にきましたよ。気性も純だったし、まだまだ楽しめたろうにね。もったいねぇこった」

 銀蔵は嫌味な笑みを浮かべ、漸く横目で窓際に座る男を見た。

 男は銀蔵へ見返しも言い返しもしなかった。冷めた目で川面を眺め続けていた。

「俺は悔いの無いように生きる。それだけだ」

 暫くして一言、そう呟いた。

「そういや、あんた、譜代家臣の家に婿養子に入るんだってね。どんな手を使ったんだい?」

 銀蔵の言葉が聞こえなかったかのように、男は川面を眺め続けていた。

「それにしても、遅いね。あんたの今度の連れ」


 ――確かに遅い。

 今日は何をしていたのか、今、何をしているのか、窓際に座る男も気になっていた。

 今度の連れ、理十郎に、、この船宿の近くで約十年ぶりに再会した時、男には懐かしさと安堵の気持ちが沸いた。

 ただの偶然だと思っていた。

 その日も仕える主が住む屋敷に戻りたくなかった男に、理十郎は長屋の狭い店だが、うちに来るかと誘ってきた。

 男は素直にその誘いに乗った。

 それが間違いだったかもしれない。

 そう思い始めていた。


 男が五歳の頃、両親と姉の四人で暮らしていた棟割長屋の隣の店に、理十郎は父親と越してきた。

 父と子の二人暮らしなのに、父親がよく留守にしていたから、男の母と姉が何かと面倒をみていた。

 ずいぶん後になって、理十郎の父親に子守り賃をもらっていたと知った。

 満十五歳で二人は元服した。わずか半月違いだった。

 元服して間もなく、父子は棟割長屋を去った。

 男が理十郎と再会したのは、それから五年後だ。

 男が師範代になっていた道場に突然現れた。

 男はこの時、剣術にはかなりの自信があった。なのに、三本勝負で手合わせしたら、一本取られた。

 心底驚いた。

 そのときに感じたのは悔しさと共に好敵手を得たという、張り合いだった。

 この前の再会は、それ以来の、八年ぶりだった。

 ひとつひとつ取り出してみればどうということのない些細なことが、今から振り返ると、妙に引っかかってくる。

 ――幼い頃は親父と同じ浪人だと思っていたが、あの理十郎の父親は、本当に浪人だったのだろうか。本当は何者だったのか。理十郎はこの八年間何をしてきたのか。


 川を登ってきた屋根船が眼下で向きを変えようとしていた。この宿の桟橋につけるのだ。

 船には商家の若旦那らしい男と芸妓が乗っていた。

 窓際に座る男の胸に苦い感情が起こった。

 しかし、すぐに押さえ込んだ。進むしかないのだ。

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