第1部 第7章

 真砂町に入ったところで真乃は足を緩めて万蔵が追いつくのを待った。

「どこだ?」

「はぁはぁ……あ、あそこでやす。み、右手の筆屋と……蝋燭屋の間の路地を入った所で」

 万蔵が指差した先を確認し、真乃は辺りに気を配りつつゆっくり歩きだした。

 路地の入口につくと、上に掲げてある長屋の住人の名札に目を通した。田中理十郎の名札が右から三番目にあった。

 少しの間そこで佇んだ。気になる気配は何も感じられなかった。

 万蔵は真乃の様子を黙って見守っている。

「怪しい気配はしない。田中という浪人も能勢という侍も不在だろう。ともかく店を確かめよう」

「へい。いつもながら、榊の旦那も真さんも遠くから人の気配を感じ取れるのがすげえなぁ」

 万蔵は嬉しそうだった。

「田中という浪人の店は右手の三番目だな?」

「へい」


 三番目の店の前に来た時、奥の井戸端で話し込んでいた三人の女が余所者が入ってきたのに気づいて様子を見に首を伸ばした。

「田中様なら、いらっしゃらないですよ」

 三人の中で最年長と見える女が前掛けで手を拭きながら立ち上がり、真乃達の方へ歩いてきた。その後ろでは残る二人が目を丸くしてこちらを見ている。

「そうらしいな。ここへ最近転がり込んだという侍もか?」

 真乃の問いかけに、女は真乃と万蔵の顔を見比べながら答えた。

「お侍様はあの能勢様のお知り合いですか?」

「知り合いの知り合いだ。能勢殿にちょっと尋ねたいことがあってここへ参った。能勢殿も留守か?」

「あのお侍様、いつものようにお昼前に出掛けたと思ったら、一刻程で戻ってこられて、またすぐにお出かけになりましたよ」

 真乃の予想が当たったようだった。落胆を隠して万蔵に向いた。

「万蔵、差配に田中理十郎の店の中を見たいから立ち会うよう頼んでくれ」


 万蔵はすぐに白髪頭の男を連れて戻ってきた。

 その短い間に三人の女達は真乃に何か聞きたそうだったが、真乃は話しかけるなという気を放ち、女達を遠ざけていた。

 万蔵の後ろをついてきた差配は真乃の姿に一瞬ぎょっとしたようだったが、すぐに平静を装い、腰低く挨拶してきた。

「この長屋の家守をしております欽右衛門と申します。田中様の店をご覧になりたいとか」

「うむ。昼間に嘉兵衛親分がお主を訪ねたであろう。その繋がりだ。二人とも留守らしいが、ことは急がねばならぬ。勝手に戸を開けて後で色々文句をつけられても困るから、お主に一緒に中を確認してもらいたいのだ。なによりこの中を確かめるのはお主のためになると思う」

 真乃の言葉に欽右衛門は言わんとすることを察したらしい。硬い表情になって頷いた。

「畏まりました。あたくしが戸を開けますので、中をご覧ください」


 戸は軽く開いた。

 欽右衛門が最初に中を見回して土間に足を踏み入れ、その後ろから真乃と万蔵も中を見回しながら足を踏み入れた。

 店の中はいたって綺麗だった。

 土間の棚には鍋と薬缶が置かれているだけだったが、どちらもそれなりに使い込まれ、埃も積もっていない。

 上がり框にも埃はなく、框に続く畳敷きの四畳半の一方の壁沿いに箪笥が一つとその横に箱膳が二つ、反対の壁際に布団が二組重ねて置かれていた。

 確かに二人が寝起きしていたようだ。

 真乃は箪笥の一番上の引き出しを開けた。中には表に何も書かれていない封書が一つ置かれているだけだった。その封書に手を伸ばす前に他の引き出しの中を確めた。二段目も三段目も空だった。

 真乃の後ろから引き出しの中を見ていた欽右衛門が三段目の引き出しも空なのを見て、呻くように小声で呟いた。

「こ、これは……まさかお二人とも……」

「もうここへは戻らぬつもりだろうな」

 いくら荷物が少なくても、箪笥に着替えの一つくらいは入っているものである。そうして着物は古着でも安くはないし軽いので、急いで出ていく時にも残していくことはめったにない。


 真乃はもう一度一番上の引き出しを開けた。封書は手前に置かれていたのだから、見つけてくれといわんばかりだ。

 真乃は慎重に封書を取り上げた。中に固い何かが入っている。持った感じからは端に重みのある細い棒である。

 ――簪?

 真乃は欽右衛門と万蔵にも見せるように、二人に向いてそっと封書を開いた。中からはまた封書が出てきた。その表には「るいさまへ」と細い筆で書いた仮名があった。裏を見る。何も書かれていない。

「『るいさま』って、真さんが用心棒している、あのおるいさんのことですかね?」

 万蔵が昂奮した口振りで言った。

 真乃は中から出てきた封書を一段と慎重に開いた。中には一本の鍍銀の平打ち簪と文が入っていた。簪の先には桜が繊細な透かし彫で描き出されている。

 真乃は黙って文を読んだ。


 るいさま


 なかなかおあいできませぬけども、おかわりございませぬでしょうか。

 わたくしはそのごもおだやかにとてもしあわせにすごしております。

 せんじつやたいでねえさんににあいそうなかんざしをみつけました。じぶんでかうつもりだったのですけど、せわになっただいじなひとにおくるのだともうしましたら、だんなさまがかってくださいました。なかなかおあいできそうにありませぬので、このふみととともにおくります。


 このしあわせがいつまでもつづくとはおもいませぬけども、いちにちでもながくつづくことをねがっております。なにがおころうとくいはございませぬ。それだけはねえさんにしっておいてもらいたいとおもっております。


 まつさぶろう


 真乃は読み終えて珍しく目頭が熱くなった。

 松三郎は己の運命を察していたのだ。遠からず命を奪われることを覚悟していた。そのうえで「だんなさま」と暮らす日々を幸せだと言ってのける心の有り様に、真乃は強さと潔さ、これまでに松三郎が耐え忍んできた数々の苦労を思った。

 るいと違って例の茶屋での立ち話中にも何か気づくことがあったのかもしれない。

 請け出される前に勘づく何かがあったのかもしれない。

 この三月にも色々とあったのかもしれない。

 外出時には笠を被っていたろうが、あれだけの容姿である。 町地で暮らしていたら、もっと目撃談が出ているはずだ。とうに嘉兵衛親分が住み処を見つけているに違いない。

 となると、能勢豊の主が住む武家屋敷内にいたことになる。

 そこで何を見聞きしたのか。

 果たして本当に穏やかな日々だったのか。

 真乃はそれ以上考えるのを止めた。


 真乃と同時に文に目を通したであろう欽右衛門も万蔵も何も言わなかった。

「欽右衛門殿、この文は私が用心棒をしている女性へ宛てた文だ。私がその女性に渡す。異論はあるまい?」

「はい、それはもう異論ございません。しかし……」

 欽右衛門は首を傾げた。

「田中様も黙ってここから出られるとは……。この様子ではそういうことでございますよね?昨夜もお帰りになった時にご挨拶いたしましたが、そんな素振りは微塵もございませんでしたのに……」

「田中理十郎という浪人がここに越してきたのは半年ほど前だそうが、何を生計たつきとしていたのだ?」

「それが……存じません。ほぼ毎日お出かけになり、毎月ちゃんと店賃を入れてくださいましたから、あまり突っ込んだことは聞けませんで……」

 その時、えっほ、えっほという駕篭かきの声が石助長屋の前で途絶えた。と、女の声が路地に響いた。

「どいてください!通して!大事な用があるんですから、中へ入れてくださいな!青井様!万蔵さん!どこにいらっしゃいますの?」

 るいの声だった。真乃は思わず頭を抱えてしゃがみそうになった。

「ったく、あのるいという女は!」


「ええ、探しているのはそのお侍様と小者です。この店なんですね?」

 井戸端にいた女達がるいに真乃達の居所を教えたらしい。

「青井様!」

 戸は少し開けたままにしていたのだが、そこからぐいと大きく引かれ、るいが片手で胸元に布を抱えたまま、田中理十郎の店へ飛び込んできた。その勢いのまま、後ろ手で引戸を閉める。

 勢いが強過ぎて戸はまた少し開いた。

 真乃の姿を認めると、るいは両手で布を差し出した。

「お袴を身につけてくださいまし!そのようなお姿で町中を走りまわるなど、あたくし、青井様のお父上様やお母上様になんとお詫びしてよいか、もう……」

 見覚えのある布だと思ったら、るいが差し出したのは真乃の袴だった。真乃の方は文と簪を手にしたまま、黙ってるいを見つめた。

「どうかなさいました?」

 るいは真乃と万蔵の様子に戸惑い、差し出した袴を再び胸元に抱えた。

「松三郎からそなたへの贈り物の簪と文だ。万が一の用心に先に読ませてもらった。許せよ」


 真乃が差し出した簪と文をるいは暫くぼうっと見ていた。瞬きして我に返ると袴を上がり框に置き、簪と文に両手を伸ばした。手が震えている。

 震える手のまま、るいは食い入るように文を読んだ。何度か読み返し、また暫くぼうっと遠くを見る目をした。それからやっと簪に目をやった。

「松三郎……覚悟してたなんて……なんで逃げなかったのよ!あたしが匿ってあげたのに!盾になったわよ!大貫屋の旦那様に頼み込んで、用心棒をいっぱい雇って、絶対にあの子だけは守りぬいて……」

 途中からは涙声だった。るいは袂に顔を埋めた。

「松三郎にはそなたまで危険に晒すような、そんな真似はできなかったろうし、なによりその旦那に惚れていたのだろう」

 真乃は優しくるいに語りかけた。

「人の縁や相性とは面白いものだな。松三郎がそなたに何を見たのか私にはわからぬが、松三郎にとってそなたは誠の姉以上に姉だったのだろうな。この文は松三郎の旦那にとって出されては困る文だ。だがその旦那は破り捨てずに、見つけてくれというように引き出しの中に入れてあった。旦那にも僅かながら人の情はあったということだ」

 るいはきっと顔を上げて真乃を見た。

「どこが情ですか!少しでも情があるなら、松三郎を手にかけることなどできるはずが……あ。その旦那が自ら手にかけたとは限りませんわね。松三郎がこんなに好いて幸せを感じていたんですから、別の誰かが……」

 るいは自分に言い聞かせるようだった。真乃はその点については答えなかった。

「ともかくも、ここに転がり込んだ侍が松三郎の『思い人』なのは、これではっきりした」

「では能勢というお侍様が松三郎を請け出したお方なのですね?」

「ここで能勢豊と名乗っていた侍は身請けの金を払ってはいないと思うが、松三郎が請け出された後に一緒に暮らしていた旦那なのは間違いない」

 真乃の言葉にるいは身震いした。

「能勢様には後ろ盾がいらっしゃると?……そのお方が黒幕?」


 ここへきて真乃は外が人の気配だらけなのに気づいた。少し開いている戸口から何人かが中の様子を窺っている。殺気がないと鈍くなる時があるのだ。「お客」お迎え中のせいもあるだろう。

「万蔵、あの連中を追い払って戸を閉めろ。見世物じゃねぇ」

 真乃が軽い調子で万蔵に指図した。

 万蔵は「へい」と答えて上がり框から土間へ飛び降り、戸の外に向かって叫んだ。

「見世物じゃねえよ!てめぇの世話焼いてな!」

 ピシャリと戸を閉めた後で、万蔵が目を丸くしてこちらに向いた。

「真さん、外はえれぇことになってやすぜ。どっからこんなに沸いたんだってくれぇ、十四、五の娘っこが集まってやさぁ。お江戸にこんなにいっぺぇ若い娘がいたんでやすね」

「何を馬鹿なこと言ってるんだ。御府内に男が圧倒的に多いのは勤番侍のせいだ。村ほどでないにしても、町地では半々に近いよ」

「えー、あっしが言いてえのはそういうんじゃなくてでやすね……」

 万蔵の言葉にるいが用事を思い出した顔になり、真乃を睨んだ。

「青井様がそんなお姿で走りまわるからでございますよ。町娘達が勘違いして青井様を追いかけて集まっていて、あたしもこの路地へ入るのに一苦労しましたのよ!あの年頃の娘に青井様の赤褌ちらつかせて走る着流し姿は目の毒過ぎます!」

 るいが「赤褌」を口にするとは思わず、真乃は一瞬呆気にとられたが、顔つきからして万蔵も同じだったらしい。

「そんな娘達はすぐに諦めるさ。それよりその簪、差してみてはどうだ?松三郎がそなたに似合う、差してもらいたいと選んだ簪だ」

 るいは手にした簪を見つめた。

「こんな可愛い桜の簪、あたしみたいな年増に似合うかしら」

「似合うさ。松三郎の目は確かだよ。鏡がないから、私が差してやろう」

 真乃はるいの手から簪を受け取ると、髻の右側へあと差しに差した。

「本当に似合ってます?お世辞は言わないでくださいまし」

 るいは恥ずかしそうだった。

「似合ってるよ。なぁ万蔵」

 真乃はるいを万蔵の方に向かせた。

「似合ってやすよ。おるいさんはなんでも似合うと思いやすがね」

「似合ってますよ、おるいさん」

 欽右衛門も真顔で頷きながら言った。

 るいは二人に会釈で礼を返し、頬を染めて愛おしそうに差した簪に触れた。それからそっと呟いた。

「ありがとう。松三郎……」

 その間に万蔵は再び上がり框にあがって真乃の後ろへ回り込んだ。そうしてこちらも呟いた。

「真さん、都合悪くなった時に話をすげ替えるのうめぇや……」


 その後、真乃は万蔵を使いに出し、るいと二人で欽右衛門から田中と能勢という侍についてもう少し聞き込んだ。

 万蔵の使いは能勢豊が同居人共々姿を眩ましたことを嘉兵衛へ報せるためと、下っ引きを一人も石助長屋の見張りにおいていないというのは嘉兵衛親分らしくないから、ひょっとして見張っていた下っ引きが長屋から出た能勢を追いかけているのではないかと考え、親分が何か掴んでいないか確めるためだった。

 朝からあちこち走り回っている万蔵は、この度も息急ききって石助長屋に戻ってきた。

「嘉兵衛親分は確かに下っ引きの直吉に石助長屋を見張らせてたそうでやす。長屋に見当たらねえってこたぁ、例のお侍の後をつけたんだろうってことでやしたが、今んところ何の繋ぎもねぇそうです。親分も今こっちへ向かってやす」

 またしても真乃の悪い予感が当たりそうだった。

「直吉という下っ引き、無事だと良いのだが……」

 真乃の呟きに万蔵は顔をしかめた。

「嘉兵衛親分もおんなじこと呟いてやした……」

 元気者の万蔵にも疲労の色が濃く見えていた。

「お前はもう帰って休め。明日はまた叶屋絡みの聞き込みをしてくれ」


 欽右衛門と石助長屋の住人から聞き出せた情報はあまり無かった。

 満二十八という田中理十郎は、能勢と同じくらい背丈があり、押し出しの良い侍だという。しかし近所付き合いはあまりせず、長屋の住人にも何を生計にしていたか知っている者はいなかった。

 石助長屋に引っ越す前は芝の日陰町にある三太郎長屋に住んでいた。

 欽右衛門が三太郎長屋の差配から聞いた話では、三年前に御新造と三太郎長屋に住み始め、御新造は一年後に病で亡くなった。御新造が亡くなる前の三月ほどの間、田中は看病でほとんど長屋から出なかったにも関わらず店賃の滞納はなく、妻亡き後は四十九日を過ぎると、再びほぼ毎日昼間は出掛けるようになったという。

 時には一月近く戻らないこともあったが、そこの住人達も何を生計としていたかは知らないでいた。今年の初めの、何度目かの長期の不在から長屋に戻ってきた時、住まいを変えると三太郎長屋の差配に告げたそうだ。

 店賃や長屋の掛かりの滞納はなく、人柄も温厚だったため、石助長屋でも周囲の人達は気を利かせ、必要以上に詮索しなかった。

「お武家様ですからな。例えば人足などしていたとしたら、あまり人にお話になりたくないでしょうから……」

 欽右衛門も田中が御新造の位牌を箪笥の上に置いているのを見ていた。その位牌ももちろん消えている。

 田中の三太郎長屋以前のことも、よくあることなのだが、そのうちそのうちと人別帳変更の正式な手続きをしていないため、確かなことはわからなかった。


 田中から能勢という侍のことを探るのは難しそうだと思いながら、能勢豊が石助長屋にやってきて以降に何か変わった風はなかったかと尋ねた時、田中の隣に住む鋳掛屋の女房が、人前では田中、能勢と名字で呼びあっていたが、とよ、理十郎と呼び合っていたことがあると口にした。幼馴染みという田中の差配への言葉どおり、二人が話す様子はかなり気心の知れた風だったという。

「とよ?田中理十郎は能勢という侍を『ゆたか』ではなく、『とよ』と呼んでいたのだな?」

 真乃の質しに女は頷いて付け加えた。

「たったの二度ですけどね」

「能勢豊の本当の名は『とよ』から始まるのだろうな。豊之助、豊太郎、豊吉……」

「とよがつくお名前……」

「心当たりはあるか?」

「昔同じ長屋に豊吉さんて人が住んでましたけど、鳶の息子さんでしたから。他に身近には……」

 二人が以前に住んでいた場所やその手掛かりになりそうなことは、鋳掛屋の女房も耳にしていなかった。

 今朝、田中はいつものように長屋を出ていったという。荷物を持ってはいなかった。位牌は懐へ入れられるが、衣類はどうやって持ち出したのか。

 るいが首を傾げつつ言った。

「重ね着したとか」

「単だけでも汗ばむこの時期に下に袷や綿入りを重ね着したとしたら、ご苦労なことだ」

「青井様はどうしたと思われるんですか?」

「簡単だ。昨日か一昨日から少しずつ運び出していたのだろう」

「急に出ていったのではないってことですか?」

「そういうことになる」


 ひょっとして何か手懸りが残されていないかと、真乃は箪笥の後ろや布団の間をから箱膳の中まで調べてみた。畳も捲ってみた。埃や鼠の糞しか見当たらなかった。

 ――立ち退くこの手際の良さは、いつでも立ち退けるようにしていたからではないか?つまり追われていたか、追う立場であったかのどちらかだ。

 真乃は能勢豊が松三郎殺害後に田中を頼ったことに重要な意味があるのではないかと考えていた。

 松三郎殺害を探索するのは町方である。普通に考えれば、町方が手を出せない武家屋敷に逃げ込むはずだ。

 ところが現れた日付からしても、能勢豊は松三郎殺害の翌々日に田中理十郎の店に現れている。

 ――黒幕に裏切られたか、それとも別の思惑か、策があって……

 この手際のよい転居は、予定どおりだったのか、能勢が己の居所を探索されていると気づいたためだったのか。

 田中理十郎というのは、本当にただの幼馴染みだったのか、能勢達の一味だったのか。

 謎が増えていく一方である。


 苦い顔をした嘉兵衛親分が現れ、たむろしている娘達を追い払ったのを潮時と、真乃とるいは石助長屋を後にした。真乃が長屋の厠、惣後架で紙帯を替えようとしたのをるいが止めたせいでもあった。

 理由は長屋や町中にある惣後架は扉の上半分が開いているからだ。

 これだけ注目を集めているのである。万が一にも覗かれては大変だと心配したらしい。

「こんな所で入っちゃいけませんよ。なに考えてるんですか。この近くに大貫屋の旦那様と仲の良い信濃屋さんがありますから、そこでお借りしましょう」

 そう言って、るいは真乃の腕を脇に抱えるようにして白粉や紅、小間物を商う信濃屋へ連れていった。


 道のあちこちにまだ何人かの娘達がうろうろしていて、るいが真乃とくっついて歩いているのを見てなにやら囁きあっていた。

 るいは信濃屋に入ると、連れのお武家が袴を身に付けるから一間を貸してほしいと悪びれずに言い、信濃屋の番頭は心得顔で突然現れた二人を店奥へ案内した。

 るいは大貫屋と一緒に何度かここを訪れたことがあるらしい。

 真乃と交代でるいも厠へ飛び込んだから、信濃屋に連れて来たのは自分のためでもあったようだ。

 言わずもがな、真乃は袴くらい一人で履けるが、るいは手伝うと言い張った。履くとみせかけて逃げられては困ると思ったのかもしれない。

「ほんとに少しはご身分やお立場をお考えになってくださいな。いくら強くても、男勝りといっても、青井様は二十歳過ぎの娘ではございませんか。なのに、よりによってあれの時に素足を人前に曝して……」

「二十歳過ぎたら年増扱いだよ。武家は特にな」

「薄化粧して島田に結ってご覧なさいませ。今度は巷の男どもが後をついてきますわよ」

「……で、近くまできたら、背丈にたじろぐのだ。冗談ならばもう少し笑えるヤツを頼む」


 るいは真乃に袴を着せた後にもすぐには店を出ず、紅や櫛を眺めていた。小間物を商う店を持つのが夢ならば、この店には大いに興味があるだろう。

 真乃は一足先に外へ出た。そこで目に入った三軒隣の店の屋根看板にハッとなった。

 看板には「伊勢九」とある。松三郎を請け出す依頼を伝言したという商家の一つだ。

 ――そうだ。真砂町と金竜寺門前町は隣りだ。どちらも俗に森下と呼ばれている。これは偶然なのか、必然なのか。

 石助長屋の入口の木戸脇には嘉兵衛親分の若い下っ引きが見張りとして立っていた。

「嘉兵衛親分はまだ中かい?」

 真乃はその下っ引きに声をかけながら通りを横切った。

 その時、異様な視線を感じた。殺気はない。さりげなく視線の源を見た。

 約五間先の路地の入口から中背痩身のみすぼらしい成りの浪人がこちらを見ていた。体格からして明らかに田中とも能勢とも違う。殺気がないから刺客ではなさそうだ。油断はできないが、剣の腕も大したことはなさそうだった。

「青井様!」

 るいの声がした途端、男は真乃からるいに顔を向けた。顔つきに僅かだが変化があった。その顔つきは獲物を見つけた獣の顔だと真乃は思った。だが引き続き殺気は見えない。

 るいの方は男の視線に全く気がついていないようだった。まっすぐ真乃の方に歩いてくる。

 真乃は下っ引きに早口で囁いた。

「嘉兵衛親分のことだからもう手をつけてるかもしれないが、そこの伊勢九を探るよう伝えてくれ」

 真乃は下っ引きに片手を上げて別れの挨拶を済ませると、大股にるいに近づいた。

 また背中に浪人の視線を感じた。


「青井様は小間物にご興味ありませんのね。剣術と薪割りの他にご興味がおありなものはないのでございますか?」

 本郷へ帰る道を辿り始めてすぐにるいが口を開いた。浪人の視線はずっと追いかけてきている。

「簪も武器になるから、それなりに興味が湧くこともある」

「まぁ!簪も武器にしか見えないのでございますか」

「そうだな。簪も櫛も使いようで武器になるからな」

「簪は細い先を使うんでしょうけど、櫛はどうやって?」

「櫛の歯も首や手首の柔らかい箇所に勢いよく突き入れたら痛いぞ。目に入ったらかなりの痛手だ。傷を負わせるまでいかずとも時を稼ぐには役立つ。帯紐もピシリと相手に当ててみろ。一瞬相手は怯む。相手が好色者なら、帯紐に手をやっただけで隙ができることも多いから、その隙をついて簪で首の横をグサリとやるのが一番効くかもしれない」

 言いながら、真乃は首の横に手を当てて簪を突き入れる箇所を示した。

 るいは話の血生臭さに表情を歪めて言った。

「万が一のために覚えておきますわ」

「そなた、武家か浪人の知り合いはいるのか?」

「え?いませんわ。だから、最初に浪人が刀を振り上げてきた時も仰天してしまって……」

「長屋に済んでいた頃に近所に浪人は住んでいなかったのか?」

「同じ長屋にはいませんでしたよ。隣の長屋には、手習いを教えているご浪人さんがいらして、あたしも教えていただきましたけど、あたしが子供の頃に結構なお年でしたから、今お元気だとしてもご老人ですわ。その方に男のお子様はいらっしゃらなくて、一人娘は同じ長屋に住んでた彫り師のお嫁さんになりましたし」

「茶屋勤めの間はどうだ?客に武家や浪人がいただろう」

「そりゃ、お客様にはいらっしゃいましたけど、親しくお付き合いした方はいらっしゃいませんでした。青井様を前にこんなことを申し上げるのもなんですけど、あたし、お武家様が好きになれなくて……」

「嫌な目に遭ったのか?」

「小さい頃から無体を仰るお武家様を見てきたからですわ。もちろんお人柄の良いお武家様もいらっしゃるけれど、お金が無いのにご身分を嵩に着て、町人にお金を借りるのも偉そうに」

「では、あんな困窮浪人にも覚えはないか」

 るいが怪訝そうに真乃を見た。

「そっと後ろを見てみろ。十間ほど間を空けた右側に、食い詰めている風の浪人がいる」


 るいは通りかかった店の品物を見る振りをしながら、さりげなく後ろを見た。再び歩き始めてから、不満そうに真乃に囁いた。

「後ろを見ても女の子ばかり目に入って、そんなご浪人さん、見えませんでしたわよ。あの子達を引き連れて本郷へお戻りになりますの?」

 真乃の意識に娘達は入っていなかった。改めて振り返ると、適度に距離をおいて十人近くの娘が後ろを歩いていた。

 真乃が振り向いたのに、慌てて顔を隠したり目の前の店に飛び込んだりしたのは可愛げがあったが、そのうちの二人は足を早めてきた。身に付けているものからして、二人ともそこそこ裕福な商家の娘だろうが、供無しで出歩いている様からすると、大店の娘ではないようだ。

 真乃は近づいてくる娘達を冷ややかに見つめた。さすがの傍若無人な娘達も怯んだ。

「どこの娘御かは知らぬが、道に迷わないうちに帰れ。女衒に拐かされてどこかの岡場所に売り飛ばされても知らんぞ」

 真乃が本気で睨めば相当恐い。人を斬ったことのある凄みは、そこらの破落戸が足元にも及ばない。

 娘二人は真っ青になってこくこく頷いた。

 娘二人の後方には例の浪人が見えていた。真乃は娘二人から浪人に視線を移した。

 浪人は真乃の視線にふいと顔を反らし、そこにあった路地へと消えた。

 例のるいの命を狙う連中が寄越した見張りにしては、こうも簡単に見破れるなど中途半端である。殺し屋にも見えない。好色からとも見えない。一体何者なのか。

 真乃はこれ以上厄介事が増えないことを祈った。


 それから二日たっても、直吉の行方は知れなかった。丸一日何も繋ぎがなかった時点で、嘉兵衛親分は「殺られたな」と苦しそうに呟いたという。

 能勢豊と田中理十郎の行方もわからない。

 手懸りを掴みかけたところで消された格好が二つ続いたが、ここへきて万蔵の聞き込みに大きな進展があった。

 いつもは夕方に報告にやって来るのに、その日は朝の五つ過ぎ(午前8時頃)に意気揚々と大貫屋の寮に現れた。

「今頃んなって、鮨の屋台の親父がでぇじなこと言いやがったんですよ」


 頬に傷のある侍に親しそうに話しかけた羽織袴の侍を見たというのだ。姿が見えなくなる十日程前のことだった。

「話しかけられた頬に傷のあるお侍の方は迷惑そうで、羽織袴のお侍から逃げるように人混みに消えやしたもんですから、ころりと忘れてました。ですが、あのお侍がお亡くなりになったと聞いて、改めて思い返してやっと思い出したんでございやす」

 そこまでは調子よく喋った親父だったが、話しかけた侍の詳細を尋ねた途端に口が重くなった。顔つきももう忘れてしまったという。

 万蔵は表情や素振りから親父が何か隠していると感じたから、しつこく食い下がった。

「覚えてねぇっても、少しくれぇは覚えてるんじゃねえかい。顔つきにしたってよ、丸顔だとか、面長だとかよ」

「あ~そうでやすね。丸顔な方だったかな」

 尋ね方を変えてもすぐにまた「覚えてねぇ」を繰り返す。

「なかなかしぶてぇ野郎だもんでね、仕方なく屋台で何合も酒買って親父に飲ませて、口を滑らかにしやしてね。八つ(午後10時頃)を過ぎてやした。やーっと本音を言いやがったのは。親父、そいつにはそのめぇに岡場所で会ってたんでやすよ!そいつが頬に傷のある侍と会う前にね!近づかねぇでも、そいつの面ぁよっくわかってたんでい!」


 鮨屋台の親父が打ち明けたのは、こうだ。

 その日の昼間、親父が稼いで貯めた金で久しぶりに富ケ丘八幡近くの岡場所へ出掛けたら、みるからに国元から出てきたばかりとわかる勤番侍がうろうろしていた。親父を見るなり、この辺に慣れていると思ったのか、店の評判や仕来りを聞いてきた。

「この辺りの店は初めてでしてな」

 人の良さそうな三十くらいの男だった。親父もその田舎侍も話し好きだったようで、暫く女郎話に花を咲かせ、互いに名前まで名乗りあっていた。侍は伊勢桑名の松平忠翼ただすけ家中の浅田喜左衛門と名乗っていた。


「よくやった。よく聞き出してくれた。大手柄だぞ」

「ありがとうごぜぇやす。けど、こんなでぇじな話をもっと早くしてくれてりゃと、あっしは悔しくもありやしたよ」

「桑名の松平下総守様の御家中か。借金だらけではあるが、それくらいは今時珍しくない。特に悪い噂は流れてねぇな……無論、頬に傷のある侍は別の御家中ということもありうる。ともかくさっそく浅田喜左衛門という侍に会わねばな」

「へい。……真さんがお会いになるんで?」

「慎重にやらねばな。迂闊に会えば、その浅田という侍の命も危ない。頬に傷のある侍に話しかけた様子からして、浅田という御仁は殺しまで起きている企みとは関わりがない。少なくともその時点では何も知らなかったのだ」

 真乃はそれぎり黙考した。

「好色野郎なら、美人局でいくか」

 真乃が呟くように言い、万蔵に向いてにやりとした。

 万蔵は口がポカンと開いた。

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