第1部 第6章
引き続き大貫屋の寮で過ごすにしても、月の「お客」を迎えるためには屋敷に取りに行かないといけないものがあった。
紙と古い布切れに下帯、つまり褌である。
町屋の女達が馬の腹帯に似ていることから「
またこの時代、紙は安くないから、そこまでるいの世話になりたくなかった。安売りがあった時に大量に買って箪笥にしまってある。
古い布切れはるいの世話になっても大したことはないが、ついでに、である。
叔母と鉢合わせないことを願いながら、真乃が八丁堀に向かって十軒店を南へ歩いていると、「真さん!」と叫ぶ聞き覚えのある声がした。
思わず真乃は走り去りたくなった。だが下手をすると、余計に大騒ぎになる。
観念して立ち止まって振り向くと、思った通り、清吉がこちらに向かって走ってくる。紫帽子をつけた女形姿にも関わらず、裾を端折っている。今日の着物は留袖だ。
「良かったぁ、気づいてもらえた!真さんは歩くのが早いから捕まえるのが大変」
真乃の目の前に来た清吉は、大して息を切らしてはいなかった。なにかと大げさだ。
「私に何の用だ?」
二人は道のほぼど真ん中に立っていた。
清吉は辺りを見回し、路地を指差した。
「ここじゃ話せないわ。あっちに行きましょ。真さんのお耳に入れたいことがあるの。とっておきの話よ」
真乃はこいつの「とっておき」ほど当てにならないものはないと思ったが、次の小声での一言に、ともかくも聞こうという気になった。
「松三郎を請け出した相手じゃないかっていうお侍を見かけたって話なんだから」
真乃はじろりと清吉を見た。
「本当か?何故お前が知っているんだ?」
清吉はえへへと悪戯小僧の笑顔を見せて路地へと歩いていった。路地を少し入ったところで振り向くと、えへんと軽く咳払いをした。
「さっさと言わんか」
真乃は脇差の柄に手を掛けた。「お客」を目前に、一段と気が短くなっている。
「まだ見つかってないんでしょ?」
「だから、早く言えと言っている」
「あのね。あれは二日前のことよ。あたし、ご贔屓の伊勢屋さんに誘われて浅草寺へお参りに行ったの。あたしを贔屓にしてる伊勢屋の旦那は連雀町で筆や硯を商ってる旦那よ。この旦那がちょいと最近うるさくて……」
「要点をさっさと言わんか」
「もう、せっかちかなんだから。順序だてないとわからないでしょ」
「お前の話は一言で済む。どこで見かけたんだ」
「だから、浅草寺へ行ってね、お詣りして……」
元々短気という自覚があるから、日頃は苛立ちを抑えられている真乃だが、こいつには無駄だと冷たく睨み付けながら、鯉口を切った。
「あ、境内に最近良いお店が出たのよ。今度一緒に行きましょうよ。ヒッ」
首筋に刃を当てられては、さすがの清吉も顔色が変わった。
「どこでそれらしい侍を見たんだ?もう一度同じことを言わせたら、その贔屓にしてくれてる伊勢屋の親父に会えなくなるぞ」
「き、菊屋橋……」
「お前達とすれ違ったのか、それとも前か後ろを歩いていたのか」
「す、すれ違ったのよ。笠被ってたけど、背が高いからすれ違うときに顔が見えたの。そしたら、見たことある顔だったのよ」
「見えたんじゃなくて、助平心でお前が下から覗き込んだんだろ。しかし、そもそもどうしてお前が松三郎を請け出した男を知っていたのだ?」
清吉は急にしらけた顔になった。隠し事がある時によく見せる顔つきだ。
「ま、色々とね」
「……松三郎に金持ちらしい旦那がついたという噂を聞いて、おこぼれに預かろうと張り込んだことがあるんだな?」
清吉はしらけた顔のままだ。
「……図星らしいな。張り込んだはいいが、手を出せなかったということか」
「……」
「かなりの遣い手なんだな。どんな侍だ?」
「……この刀どけてよ」
「聞きたいことを聞けたらどける。どんな侍だ?顔立ち、背格好を言え」
「二刀差してる人って、どうしてこうも気が荒いのかしら」
「お前が余計なことをするからだ」
「……そうね……背丈は真さんより三寸は高かったと思うわ。面長で目は切れ長のきりりとしたいい男。ほら、大事な話だったでしょ」
清吉は自慢気だ。
確かに、そんな風に形容される侍が江戸に何人いるかはともかく、何もわからなかったことを思えば大いなる前進である。
「年はいくつぐらいに見えた?」
「真さんより少し上ね。三十手前くらいかしら」
「前に茶屋で見かけた時と二日前では様子に違いはあったか?例えば顔つきが変わっていたとか、着物が薄汚れていたとかだ」
「うーん……もともと無愛想だったし、特に変わった感じはしなかったわね。着物もくたびれた感じはなかったし」
真乃は清吉の話を頭のなかで整理した。背丈は六尺前後の面長、切れ長の目のきりりとした印象を与える侍。二日前に新堀川にかかる菊屋橋を西から東へ渡っていた。
様子からすると、左頬に傷があった男のような大きな変化はなかったと考えられる。
「その侍の顔を覚えているな?」
「もちろん」
「その侍のこと、他の誰かに話したか?」
清吉はかぶりを振った。
「真さんだから話したのよ」
「では他言無用だ。数日のうちに万蔵がお前の所に行くから、万蔵にだけ話してくれ。誰にも聞かれぬように気を付けてな」
「万蔵って、真さんの幼馴染みの腰巾着の、あの抜け作?」
「お前に言われちゃ万蔵も気分悪いだろうな。今は私の指図で動いている。万蔵が訪ねてきたら、誰にも気付かれぬよう、隠れて話をするのだぞ」
清吉ののほほんとしていた顔が引き締まった顔に変わった。
「あのお侍があたしを殺しに来るかもしれないってのね。面白いじゃないの」
「そんな威勢のいいことを言ってられるのも今のうちかもしれんぞ」
青井屋敷にそろりと裏門から入った真乃は、叔母の気配がないことを確かめてから、音をあまり立てずに庭を駆け抜けて濡れ縁へあがり、そっと自室の障子を開けた。
身重の義姉は兄の勧めで実家に行ったままのようだった。このまま臨月まで実家にいるのかもしれない。その方が良いだろうと真乃も思う。実家にはお産と子育てを経験した実母と祖母が健在なのだ。
真乃の部屋は女中達が時々掃除してくれているようで畳の上にも箪笥の上にも埃は積もっていなかった。
ささっと必要なものを風呂敷にくるんで部屋を出た途端に声がした。
「真乃、戻ってきたのではないのか」
濡れ縁に父親、真右衛門の姿があった。さすがである。見事に気配を消していた。そこまで来ているのに気が付かなかった。
「まだ当分向こうにおります。事は単純ではありませぬゆえ」
「この度の仕事は大貫屋の妾の警固ということだったな」
真右衛門はため息をついた。
「真佐江がうるさくて仕方がない。お前にとても良い縁談があるそうだ。相手にとっては後添いになるが、前妻を病で亡くして子はおらず、人柄も良い徒目付の惣領だそうだ。まだ家督を継いでおらぬが御父君は後添いを迎えたら、家督を譲って隠居しようと考えておられるらしい。徒目付の録高は我が家の半分だが、なんといっても譜代席だ。抱え席の家から嫁を取るのはなかなか無いぞ。
真乃は父親が話している間に濡れ縁から庭へ降りていた。通常ならば叱られる行動であるが、真乃がよく使う聞こえない振りだ。
「では父上、行って参ります。この度の給……もとい、礼金も仕事が完了した後で一部お渡ししますゆえ、お待ちください」
真乃は風呂敷包みを片手に丁寧に礼をすると、さっと踵を返した。
「こら、待たぬか。少しは家でゆっくりできぬのか。この前お前と差しで飯を食うたのは一体何月前になることか」
なんとも情けない、敏腕で鳴らした元与力とは思えない声だった。
さすがに真乃もその呼び掛けを無視することはできなかった。
「父上ともあろう御方が大袈裟な。大貫屋の寮に出向く前夜に晩酌の御相伴に預かったではありませぬか。こうしている間にも何かあるといけませぬ。お聞きになっておられませぬか?今度の仕事は先日の柳原での若衆殺しと佃島沖で亡骸が見つかった浪人に関わりがあると思われるのです。大事になりそうです」
「静馬から聞いておる。どこかの武家が関わっているというではないか。お前もよく承知しているはずだが、相手が幕臣では下手人であっても町方は手をだせぬぞ。もしもお前がどこかの家中の揉め事に巻き込まれたら、儂にも静馬にもどうにもできぬ」
「自分の身は自分で守りまする。父上はそれだけの技をわたくしに身につけてくださったではありませぬか。父上にも兄上にも御迷惑はかけませぬ」
真乃が毅然として答えると、真右衛門の顔に複雑な感情が現れた。
「いくら強くてもだな……そ、そうだ、御奉行もお前の事を心配してくださっているそうだ。お前を見たこともない永田様がだぞ。誰が御耳に入れたか知らぬが……」
「誠に身に余る、ありがたいことですけれども、御奉行様には心配御無用と御伝えください。では」
真乃は大股に庭を横切りあっという間に裏門から外へ出た。
父親が「なんでこうなってしまったのか。儂は間違ったのだろうな」と後悔を口にするのが微かに聞こえた。
これまでに何度も聞いた科白である。だが真乃は父親に娘に剣術を教えたことを後悔してほしくなかった。
剣術は真乃の生きる術になっているのだ。
剣術の道を開いてくれたことに真乃は感謝しかない。それがどうしてわからないのだろうともどかしい。
結局は母親だけでなく父親も自分をわかっていないのだと、近頃真乃は結論する。人はそうした干渉を愛情と呼ぶ。だが、真乃にとっては足枷でしかない。
師匠の声が頭の中で聞こえた。
「自分を大切にするのだよ」
師匠の元で武芸の修行を積む間、事あるごとに言われた言葉だ。夏場だけだったが、十二歳から十七歳までの六年間、師匠に鍛えてもらった間、ことあるごとに、である。その時の師匠はいつも穏やかだった。
真乃には師匠が何故その言葉を繰り返すのかわからなかった。
自分を大切にしていないとは思っていなかったし、今も思っていない。むしろ自分の感情に正直過ぎて、我が儘なくらいの言動をしていると思っていた。
今も真乃に解けていない謎である。
本郷一丁目にある貸本屋であまり動けない間に読んで暇潰しするための読本を三冊借り、団子屋で団子を六本買って真乃は大貫屋の寮に戻った。
寮ではるい、かよ、みねとつね母子にやすという、みね一家の向かいに住む老婆が台所に集まり賑やかだった。
「あ、青井様、お帰りなさいませ」
真乃に真っ先に気付いたのはるいだった。明るく声をかけてきた。
かよが素早くすすぎの用意をし始める。
「忠蔵さんが卵を安く分けてくださったんですよ。明日は卵焼きを作りますね。この前弦好先生が時々卵を食べるのは身体に良いと仰ってましたの。高くてめったに買えませんから、大事に食べなくっちゃ」
るいはそう言いながら立ち上がり、勝手口へと歩いてきた。
弦好先生とは隣町に住む漢方医で、貧乏な長屋の住人も快く診ると評判の医者だ。
ちなみにこの時代の鶏卵の相場は一個四文(約300年後の150~200円)である。
「ずいぶんお早いお戻りでしたけど、お父上様とはお会いになれました?」
いくぶん小声である。
「こっそり用事を済ませてくるつもりが見つかってしまった。気配を消す術は衰えていない」
「青井様がお帰りになるのを待っていらっしゃったのでしょうね。ここへお引き止めしたのは良くなかったかしら」
「月水の間に父上と喋ったことなど無いのだから、気にしなくて良い。それに最近は父上と顔を会わせてもろくな会話にならないから、会わないに越したことはない」
るいが眉をひそめた。
「親不孝者だと思うのであろう」
「色々と事情がおありなようですし、お武家様のお家は
「そなたなら大丈夫だ。縫い物好きで武術に興味がないではないか。土産だ。そこで買った団子だがな」
真乃は手に持っていた団子の包みをるいの目の高さまであげて見せた。
その日の夕方、万蔵が聞き込みの進捗報告にやって来た時、真乃は清吉の面長、切れ長の目の侍目撃談を教えた。だが万蔵自身に探れとは言わなかった。
「片岡さんに伝えて捜してもらうのだ。それらしい人物がみつかったら、清吉に確認させる。それらしい人物が見つかるまで清吉の名を出すのではないぞ」
「それじゃあ片岡様にはどこからネタを仕入れたと言うんです?」
「嘘を言う必要はない。訳あって名は明かせないが、前に茶屋で松三郎といる侍を目撃した者の証言だと言えばよい。名を明かせない訳は私に聞くよう言ってくれ。片岡さんのことだから、すぐに察しがつくと思うがな」
「すると、あっしは引き続き叶屋でやすか?」
「そうだ。なんとしても例の武家か商人がどこの何者か探り出すのだ。それから明日から三日ほどはお前が来ても会えないかもしれぬ。留守だと言われたら、るい殿かおかよさんに伝言してくれ」
「わかりやした。……三日もどこへ行きなさるんで?」
「あちこちだ」
翌日から真乃は例の部屋に籠った。毎月嫌で嫌でたまらない五日間だ。冬より夏はまだ楽ではあるものの、真乃の場合、初日と二日目は腹痛と倦怠感に耐える二日間である。頭痛がしてくることも多い。
真乃が痛みに耐えているのを知ったるいは、こんな時には冬と同様に腰を暖めるとよいのだと、間もなく季節外れの
「母に教えてもらったんです」
「汗をかくではないか」
るいは布団のうえに横向きに丸まって腹痛に耐えている真乃の腰に湯湯婆をあてながらこう言った。
「ほら、汗をかくほど熱くはございませんでしょう。もしもたらたらと汗をかくようでしたら、少し離して……夕暮れ時にお湯と手拭いをお持ちしますよ。それでさっぱりできましょう」
少しすると、確かに楽になってきた。眠気もくる。真乃は素直にるいに礼を言った。
目が覚めたら御天道様の位置が先ほどから随分変わっていた。一刻以上寝ていたらしい。
喉が乾いていたが、かよが置いてくれた急須に白湯は僅かしか残っていなかった。起き上がったら布切れと紙帯を持って、速やかに厠へ行かねばならない。台所へ行って白湯を飲むのはその後だ。
真乃が厠から出ると、濡れ縁を歩いて台所へ戻るかよの後ろ姿があり、籠り部屋に戻るとるいが湯湯婆の湯を変えたところだった。
その脇には急須と湯飲みが二つのった盆が置いてある。湯飲みのひとつには白いものが見え、甘酒の匂いが漂ってきた。
「おかよが甘酒を買ってきましたのよ。弦好先生によると、こんな時には甘酒を飲むのが身体に良いとか。どうぞお召し上がりくださいな」
「ちょうど白湯をもらいに台所へ行こうと思っていたところだ。ありがたい。色々世話をかけるな」
「これくらいどうということはありませんよ。白湯も甘酒もあたくしたちも飲みますし」
やはり屋敷に戻らなくて良かったとしみじみ思いながら、真乃は甘酒を啜った。
叔母の小言を聞くこともなく、屋敷内の男達に気を遣う必要もないうえに、るいもかよも実に欲しい時に欲しいものを持ってきてくれる。
思えば義姉とは月水の話をしたことがない。
屋敷では二十年近く青井家で働いている下女が何かと気遣って世話をしてくれるが、それは主従だから、である。
その点、るいの世話の焼き方は少し違うと真乃は感じていた。武家と町人という身分の違いを越えた人として、同じ女としての好意からだと感じるのだ。
叔母同様、お節介で口喧しいところはあるものの、るいは真乃の日頃の格好や言動に少なくとも非難めいたことは言わない。用心棒として関わっているのだから当然かもしれないが、叔母のような人物ならば警護してもらっていても、余計なことを二言三言、言わずにいられないだろう。
真乃の月水痛が強い方だと知った叔母は、男の成りをしているからだと揶揄する。どんなに頑張っても男になれるわけがないのだからと、勝手な思い込みで言いつのる。
男の格好をしていない女にも真乃以上に月水痛の酷い者がいるし、何より真乃は男になろうとしているわけではなかった。
――月水の無い男を羨ましいとは思うが、こうして毎月女であることを思い知らされているのだから、勘違いしようがないだろうが!
真乃は叔母の言い草にいつも心底から腹が立つが、何を言っても無駄だとこの頃はひたすらだんまりを続けている。
父親や兄に理解してもらえないのはまだ仕方ないと思えるが、昔から同性である母や叔母に無体なことを言われる度に苛立ちと悲しさを感じていた。
結局、自分はどこにも属せず、誰とも違うことを痛感するのだ。その思いが更に剣術、武術への専心に拍車をかけてもいた。
そうしたむしゃくしゃしたり苛々する気持ちが今回は起こっていない。
湯湯婆が効いたのか、ゆったりと過ごせているのが良いのか、二日目の痛みはいつもより軽かった。
無論、怪しい気配を見逃すようなことはしない。その点は自信がある真乃だった。
毎夕の万蔵の報告は、表向きはるいが聞いて真乃に言付けるとしながら、籠り部屋から真乃が密かに聞くことにしていたのだが、真乃の予想外に三日目の報告には片岡が万蔵と共にやって来た。
何か進展があったのだと真乃は察した。
万蔵と違い、日頃の片岡はあまり大きな声で話さない。聞き取れないかもしれないと真乃は心配したが、片岡が一言ぶつぶつと挨拶した後に聞こえてきたのはよく通る万蔵の声だった。
「松三郎さんの『思い人』じゃねえかっていうお侍の目星がつきやしたよ!」
真乃は驚いた。
さっそく明日には清吉に顔を確認させるという。待ち伏せて確認するのは浅草寺の南だった。……ということを話したのも万蔵である。
――さすが嘉兵衛親分だな。三日足らずで見つけ出すとは。しかし、片岡さんは何しに来たんだ?
籠り部屋で真乃が訝しんでいると、片岡の声が短く聞こえた。
好奇心を抑えきれず、真乃は障子を少し開けて様子を窺った。
片岡は濡れ縁に腰かけ、湯飲みに手を伸ばしていた。万蔵は立ったまま湯飲みを手にしている。
いつも片岡に付き従っている御用箱を担いだ奉行所雇いの中間の姿はなく、片岡家の奉公人、留吉だけが枝折戸脇に立っていた。
――私用で来たということか。
「たった三日で見つけるなんて、皆さん凄腕ですのね」
「あっしは叶屋の方を言いつけられたからなぁ」
万蔵は不服そうだった。
「あら、叶屋の方を万蔵さんに任せてるのは、青井様が万蔵さんの聞き込みの腕を信頼してらっしゃるからですよ。とっても難しいからこそ、万蔵さんなのですよ。期待に応えないと」
るいの煽てに万蔵はそうかなと照れながらも嬉しそうだった。
「ま、明日は叶屋の元奉公人への聞き込みは一休みでさ。清吉ってヤツの守りしねぇと」
るいとぺらぺら喋る万蔵を横目で見る片岡の目つきに真乃は吹き出しそうになった。
二人が帰ると、すぐにるいは籠り部屋にやってきた。
「万蔵さんはちょっと悔しそうでしたよ。嘉兵衛親分に手柄をとられたと感じているのかも」
「長年片岡さんの御用聞きをしてきた嘉兵衛親分と万蔵では、岡っ引きとしての差が月とすっぽんどころではない。嘉兵衛親分は下っ引きやつるを相当抱えているはずだ」
「つる?」
「密告屋のことだ。片岡さんが定町廻りとして挙げてきた手柄は実のところほとんどが嘉兵衛親分の手柄だ」
侍の面体確認に付き添いたい気持ちが真乃に沸いたが、明日はまだ待ち伏せに付き合うのは難しい。
嘉兵衛親分がついているのだから大丈夫だ、無事に終わると、自身を納得させた。
「片岡さんは何か申されたか?」
念のため真乃は聞いてみた。
「それが、ご挨拶だけでしたの。最初とお茶をお出しした時と、お帰りになる時に一言ずつ。どうしてわざわざお見えになったのかしら。万蔵さんが勝手なこと言わないように見張るため?あ、青井様にお会いになりたかったのかしら」
真乃はるいの顔をまじまじと見た。わざと気がつかない振りをしているのではないかと疑った。
「おるいさん、あんた……」
言ってから、真乃は気安く呼びすぎたと気づき、慌てて言い直した。
「るい殿、そなた、気がつ……」
「あら、あたくしは『おるいさん』で構いませんけど。その呼ばれ方の方が好きですもの」
「呼び名を崩すと他も崩れたりするんだがね」
「御町の旦那みたいに?あたくしは気になりませんわ、あ、あたしもあたくしなんて止めて『あたし』でいきますわ。いけませんか?」
「好きにしてくれ。こちらは『く』があろうと無かろうと気にしていない」
真乃は何を言おうとしたのか忘れた。
四日目には降りてくる量も落ち着いたので、真乃は万蔵の報告をじかに聞くつもりでいた。
身体も鈍ってきているし、心を落ち着けるためにもと、万蔵を待つ間、籠り部屋前の庭で着流しに脇差を差した姿で薪割りをかんかんやり始めた。ほんの十本程割ってやめるつもりだったのだが、やり始めてすぐにるいもかよも庭に飛び出してきた。
「青井様、なんとまぁ!薪ならまだございますよ。今日一日はまだ休んでおられた方が……」
るいの言葉が途切れた。じいっと真乃の腰から下を凝視している。
「青井様、まさかと思うのですけど、腰巻きはつけずに、褌つけた上に襦袢と単を着ただけの着流し姿で薪を割っておられます?」
「そうだ。何か不都合があるかい?」
薪割りの手を止めずに真乃は答えた。
沈黙があった。
手を止めてるいとかよの顔を見ると、二人とも口を開けてこちらを見ていた。
「……ひょっとして、ひょっとしなくても万蔵さん、青井様のそんなお姿を見たことがあるのですね?」
「……あったな。一々覚えておらぬが、おそらく何度か」
るいはふうと息を吐いた。
「万蔵さんを責められませんわね。無理ないわ」
「褌をこのようにつけておれば、少々足を開こうが裾が捲れようが内腿を曝すことがないのだから、実に便利だ。月水の時の唯一の利点だな」
真乃はペラリと単の裾を捲った。ちらりと赤い布切れが見えた様子は、町方の同心が颯爽と歩く時にちら見せする風と全く同じである。
かよが慌てて口を押さえて後ろを向いた。
るいの方は真乃に向いたまま呟くように言った。
「便利かもしれませんけど、それじゃあどこから見ても男にしか見えませんよ。まさか二十歳過ぎの女があれの時にそんな格好をしているとは誰も……」
「思わないから都合がよいのさ。面倒が省ける」
「そ、そ、そうですか?違う面倒が起こりません?この前も十三、四の町娘が二、三人、青井様の後をついて歩いてたって聞きましたよ。ここを覗きに来た娘もいましたし」
「娘達は暇なのだな」
「気づいていらっしゃなかったのですか?」
「全く気づいていないわけではないが、殺気がない者はあまり気にしない」
そう答える間にも真乃は薪を二本割っていた。
「来たな」
そう呟くと、真乃は薪をもう一本割って斧を肩にかけた。
長屋の住人の話し声や物音に混じって軽い駆け足の音が近づいてくる。
「今日は真さんいる!良かった!」
枝折戸に手をかけながら万蔵が叫んだ。
「万蔵、待っていたぞ。首尾はどうだった?」
真乃は斧を肩にかけたまま尋ねた。
「当たりでやした!清吉が間違いねぇと」
「地獄耳の嘉兵衛親分、渾名は伊達じゃねぇな。名前や住んでる所もわかったのかい?」
「へい。つい最近、浅草は真砂町の石助長屋に現れるようになった『
「……面体を確かめたのは何時頃のことだ?」
「えーと、朝の四つ半(11時)頃でやす」
「確かめてから二刻も経つではないか」
真乃の不機嫌な声音に万蔵が戸惑いを見せた。
「嘉平親分が差配や近所に聞き込むのを横で聞いてたもんで……」
真乃には嫌な予感がしていた。
「清吉に警固はついているだろうな」
「え?へぇ。片岡さんが嘉兵衛親分に指図して、芝居小屋へは親分の下っ引きの茂助さんと徳太郎さんが送っていきやした」
「さすが片岡さん、よくおわかりだ。万蔵、その能勢という侍が転がり込んでいる真砂町の長屋へ案内しろ。すぐに用意するから表で待っててくれ」
「これからすぐに、でやすか?」
万蔵が目をぱちくりさせた。
「そうだ。かなりの遣い手なだけに気になる」
真乃は万蔵に手で早く表へ行けと促すと、斧を濡れ縁に立て掛けて一蹴りで濡れ縁に飛び上がり、次の一歩で籠り部屋へと入った。
紙と布を掴んで厠へ行くと、紙帯を取り変え、少々暴れてもずれたりしないようにこよりを二重にして結び、その上に褌をしっかり閉め直した。
部屋に戻ると念のため懐紙を多めに懐に突っ込み、刀を差しながら濡れ縁から飛び降りた。
るいに指図しようとそちらに向いたら、呆然とした顔のるいが先に口を開いた。
「青井様、お袴は?」
「こんな時に履いていられるか。下帯をつけているから問題ない。万が一刺客が来てはいかぬから、私が戻ってくるまでおかよさんとおやす婆さんの所にいなさい。もうそこまで楠田殿と八代殿が来ているはすだ。良いな!」
真乃は大股に走りだした。
「待って!そんな!お袴を……」
るいの声が遠ざかり、あっという間に表に出る。
万蔵は惣兵衛長屋の木戸を出たところで待っていた。
「浅草まで走るぞ。遅れずについてこい!」
「へい!」
万蔵が返事をした時、真乃はもう走り出していた。
「し、真さん、待ってくだせぇ!」
元からの素質、体質に加え、十二から十七まで真夏に山々を駆け、川を泳いで身体を鍛えてきた真乃は、そこら辺の男達より走力も体力も桁違いに強くになっている。
道行く人は、裾振り乱して走る侍とその後ろを尻端折りで喘ぎながら走る小者の只ならぬ雰囲気に、慌てて端へ避けていった。
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