第1部 第5章

 寮の厠近く、コの字の奥側の棟に、昼間はいつも障子を開けている四畳半の部屋がある。柱に一輪挿しを飾るその小部屋が月水の時の籠り部屋だった。

 農漁村には月水の時に女達が籠って内職をする小屋があるというのを真乃は思い出したが、この籠り部屋に血を忌むような意味は無い。女達が心安く過ごすための部屋だ。農漁村の小屋も当初は純粋にそうだったのかもしれない。

 翌日からつねが籠り、その翌日にはるいも籠った。

 辛い月水の間を少しでも明るく過ごそうとしているのか、部屋からは香の匂いがこぼれ、つねとるいの話し声や笑い声が時々聞こえてきた。

 かよが三度の食事の他に、日に何度かお茶に団子や真桑瓜といった甘味のある食べ物を運んでいる。運んでそのままかよも話し込んでいることがあった。

 つねの母親のも時々様子を見にやって来て、かよが食事の支度をするのを手伝っていた。

 みねのほかにも長屋の女房連を台所で何人か真乃は見かけていたし、長屋に住む振売りの男たちも時々顔を見せる。残り物を安く売りに来るのだ。

 るいが最初に刺客に襲われた時に悲鳴を聞いた長屋の住人が駆け付けて難を逃れたというのは、日頃のこうした付き合いからだったのだ。るいには味方が大勢いる。

 真乃は自分がいない間、最悪の場合には彼らを頼る策を取ろうと考え始めていた。一方で、るいの命を狙う黒幕と松三郎殺害の下手人探索のために、ある男の手を借りようと決めた。

 るいが籠り始めて三日目の朝、八代に昼まで残る承諾を得た後で、真乃はかよに告げた。

「私はこれから八丁堀へ行く。八代殿が長屋に控えているし、そうそう昼間にこの屋を襲ってくるとは思わぬが、万が一のことがあるから油断せぬようにな。二刻内には戻る」

 かよは少し心配そうな顔になったが、余計なことは言わずに真乃を見送った。


 真乃は八丁堀に着くと青井屋敷の冠木かぶき門前を通り過ぎ、隣家の簡素な木戸を叩いた。そこが乳兄弟でもある幼馴染み、榊源二郎の家だ。

 長く榊家に奉公している老婆は喜んで真乃を迎え入れたが、真乃は源二郎と万蔵への伝言を頼むとすぐにまた木戸を出た。


 真乃が探索を手伝わせようと思ったのは、源二郎の押し掛け御用聞きの万蔵だ。

 源二郎はまだ北町の平同心で、御用聞きを使うような役目についていないから迷惑だと断ったのに、しつこく付いて回っている、

 従って、たいていは暇なのだが、時々源二郎が探索を手伝うことがあり、その際には万蔵も張り切って御用聞きの任についているから、状況を確かめないわけにいかないのだった。

 幸い、今、源二郎は探索には関わっていないという。

 一日に一度は榊家に顔を見せるというから、遅くとも明日には万蔵が大貫屋の寮に現れるだろう。


 ついでに青井の屋敷に顔を出そうかと思った真乃だったが、榊家を出て青井家の冠木門前に立った途端、中から叔母、真佐江まさえのキンキン声が聞こえてきた。父親の名前にある「真」と母親の芳乃の「乃」を組み合わせた「真乃」の読みが「まの」ではなく「しんの」になった由縁の人物だ。

 よくいえば面倒見が良いのだが、真右衛門と真乃父娘にとっては、なにかと余計な世話を焼いてくる人物である。

 そう、母親が「まの」と読ませるつもりだったのに、「真」を「ま」と読むのはダメだと父親が頑として首を縦にふらなかった理由とは、口煩い妹のようにならないようにという願いからだったのだ。

 それを知ったとき、真乃は誇張なく脱力した。


 門の外まで聞こえるとは、叔母は一体どんな大声を出しているのか。真乃は驚いた。

「兄上は真乃を甘やかし過ぎでございます。あの年ではもう初婚の相手は望めませぬ。ですが、後添いならばなんとか……兄上!兄上!」

 兄上と呼ぶ声が小さくなっていった。

 のらりくらり、屋敷内をあちこち歩き回って叔母から逃げ続ける父親の姿が真乃の頭に浮かんだ。

 それが「北の青井」と悪党に恐れられ、良民達に敬われた男の隠居後の姿である。

 真乃は青井屋敷を素通りして北へ向かった。


「真さんがあっしに用があるたぁ、嬉しいじゃねぇですか」

 万蔵は伝言を頼んだその日の夕刻に大貫屋の寮に現れると、真乃の姿を見るなりそう言った。それから濡れ縁に腰かけ、かよが出した茶を一息に飲み干した。伝言を聞いてすっ飛んで来たらしい。

 自称「今年で二十歳くれぇ」の万蔵は、見た目は敏捷そうな若者であるが、少し抜けているところがある。そこは気になるものの、しぶとく粘り強いところもあるから、使いようによってはかなりの働きを見せる。それが真乃の万蔵評だ。

「喜んでお手伝いいたしやすよ。……で、何をすりゃあいいんで?それにしても真さんが大貫屋のお妾さんの住み込み用心棒たぁ、大貫屋の旦那は心配にならねぇんですかね」

 万蔵は辺りを見回してニヤついた。


 源二郎が真乃を「しんの字」と呼ぶから万蔵の真乃の呼び名は「しんさん」である。そこまではいいとして、万蔵は真乃を男だと思い込んでいる。

 真乃も自分から女だというのが面倒くさくて、万蔵の思い込みは出会ってから二年半継続していた。

 たいていは髭の剃り痕がないことや線の細さでそのうち気付くから、こうまで気がつかないのは大変珍しい。


「柳原での若衆殺しのことは聞いているだろう?片岡さんが掛りだ」

「へぇ、聞いてやす。真さんと張り合えるくれぇの美貌の若衆だったそうでやすね。なんとももったいねぇ。あ、もちろん男振りは真さんの方が上でやすよ。背丈はあるし、キリッとしててね」

「その麗しの若衆が実はここにいるるい殿の弟分でな。しかも殺された理由が自身が狙われる理由と同じかもしれないのだ」

「ええっ?それは大事おおごとじゃねぇですか。下手人はかなり遣えるお武家だって聞いてやすぜ」

「そう、大事になりつつある。るい殿からは若衆の下手人探しを頼まれたしな。だが私は用心棒稼業があるから、迂闊に動けない。そこでお前の出番だ」

 万蔵は嬉しそうに頷いた。

「若衆殺しの探索でやすね」

「それと明日以降は片岡さんの探索の状況を私に知らせること、だ」

「片岡様が掛りってことは嘉兵衛親分が動いてやすね」

「今朝、番屋で片岡さんに聞いた話では、当夜の関わりがありそうな目撃談も出てこず、若衆を身請けした御仁もいまだにわからないらしい。……が、そっちは嘉兵衛親分に任せて、お前には芝の『叶屋』という料理茶屋に探りを入れてもらいたいのだ」

「芝の叶屋ですかい」

「知ってるかい?」

「名前だけは聞いたことありやす。庭が綺麗だって有名でやすよ」

「そこで去年長月(陰暦の9月)の二十一日に会合した商人と武家が誰か突き止めてほしいのだ。正面からでは埒があかない探索だ。お前の知恵と手管を注ぎ込んで突き止めろ」

「手管って……」

 万蔵は照れたような笑いを浮かべた。

「その連中が鍵なんでやすね?」

「鍵どころか、大元かもしれない。それ故、慎重にやるんだぞ。でないとお前の命も危ない」

 へらへらしていた万蔵の顔色が変わった。

「へい。目立たねぇようにやりやす。任せてください」

 やる気は変わらなかったようだ。


 万蔵が去った後にるいが籠り部屋から顔だけ覗かせた。低い顔の位置からして、四つん這いになっているらしい。

「大丈夫なんですか?威勢だけは良かったですけども」

「見た目よりはしっかりしているよ」

「青井様を男の方と思ってるような感じでしたけど、まさかそんなことはありませんよね」

「いや、その通りだ。私を男だと思い込んでいる」

 るいが口を開けたまま暫く動かなかった。

「大丈夫じゃないじゃありませんか!最初はわからなくても少し見てたら、たいていわかることですよ!」

「出会いが出会いだったからな」

「どんな出会いだったのですか?」

「憚りへ行かなくて良いのか?その体勢は楽ではないと思うが……」

「お気遣いありがとう存じます。まだ大丈夫です。一体どんな出会いをしたら、青井様をどこまでも男だと思い込むんですの?」

「あいつの目の前で源二郎と二人で破落戸の十人ばかりを倒しただけだが、源二郎が私を『しんの字』と呼ぶし、男相手と同じような口をきくから、まさかそんな対等に言い合い、喧嘩をやらかす幼馴染みが女と思わなかったのだろう」

「青井様にはそんな幼馴染みの方が……その時はそうなるでしょうけど……そんな荒っぽい出会いがあったのはいつのお話ですの?」

「二年半ほど前になる」

「二年半も前ですか!二年半もの間にはいつ見ても髭が生えてないし、剃り痕もないなとか、男にしては華奢だなとか思うのが当たり前じゃございません?相手が男だと思ったら、身体に触って気づくとか……」

「武家にはそうそう触れてこぬよ」

「あ、そうですわね。でも……」

「髭の剃りあとも、男はそれほど気にしないのかもしれない」

「そうですね。女の方が気にするのかもしれませんわね、でも……」

 るいはどうにも納得がいかないらしい。

「源二郎もその点であいつに手札を渡す気にならないらしいから、るい殿の疑問はよくわかる。だがあれで本当に結構役に立つのだよ。私を信じてもらいたい」

「もちろん青井様のご判断を信じておりますし、お任せしますけども……その、青井様の幼馴染みの源二郎様というのはどのようなお方ですの?」

 るいの興味は万蔵から源二郎に移ったらしい。

「北町の同心だ。今は平だが、もうすぐ何かの御役につくだろう」

「御町の旦那ですか。でも与力のお嬢様と同心の旦那が幼馴染みって、意外と聞きませんわよ」

「そもそもは祖父同士が上役と部下ながら妙に馬があったことに始まる三代に渡る縁だ。そのうえ、源二郎とは三月違いの同い年生まれでな」

 単なる幼馴染みではなく、乳兄弟であり、剣術の修行も一緒だったことを真乃は手短に説明した。

「そんなに濃い仲なのですか!」

「濃い仲」という言葉は真乃に違和感がありすぎた。勘違いしてないかと言おうとしたら、

「あ~駄目!いけない!」

 るいはそう叫んで頭を引っ込めた。と思ったら、勢いよく障子を開けて見事な高速摺り足小走りで濡れ縁から厠へ駆け込んだ。



 それから十日近く探索が捗らないまま過ぎた。

 片岡が岡っ引きに指図して色々探っても、何故か松三郎を請け出した人物が見えてこない。

 請け出す話は数人の商人を経由して近江屋に辿り着いたというのだが、蝋燭問屋の近江屋は「連雀町の丹波屋さんから文で頼まれた」と言い、その菓子問屋の丹波屋は佐久間町の醤油酢問屋、内田屋清兵衛から文を貰ったと言い、内田屋は金龍寺門前の薬種問屋、伊勢屋九兵衛から文を貰ったといい、伊勢屋は近江屋から文を貰ったと、近江屋に戻ってしまったのだ。

 ならば近江屋が嘘をついているのかとしつこく質しても丹波屋さんから文を貰ったの一点張りで埒があかない。これが証だと丹波屋の文を出してくるし、丹波屋も自分が書いたと認めた。

 では伊勢屋が嘘をついているのかとこちらを詰問したが、これまた証の文を出してきて、嘘はついていないと言い張る。そこでまた近江屋にこの文はどうしたと質せば、憶えはないという。

 誰かが嘘をついているのは間違いないのに、証しを掴めずにいた。

 また左頬に傷のある侍が関わっていそうだと、目付方に協力を要請したそうだが、何の返答もない。彼らにしたら、雲をつかむような話だ。予想通りである。


 一方、万蔵は十日間をこの半年くらいの間に叶屋を辞めた奉公人探しに費やした。勤めている間は口の固い茶屋の奉公人だが、辞めた後なら薬の効かせようで口を割るだろうという真乃の入れ知恵だった。

 万蔵が近所にも聞き込んで得た情報では、この半年の間に叶屋を辞めた奉公人は、季代わりがあったこともあり、少なくとも五人いた。

 万蔵はその五人に一人ずつ会って質していった。

 どの元奉公人も予想したより口が固かったが、口が固いだけでなく、そもそも問題の商人と武家のことは店のごく一部の人間しか知らない秘密のようだった。それらしい人物がいたことは覚えていても、どこの誰かは知らないという答えが返ってきたのだ。

 万蔵は持ち前の粘りで一度会った元奉公人に再度会い、漸く聞き出したのは、叶屋で見かけた頬に傷のある侍を最近町地で見かけたという話だった。

 万蔵は内心小躍りして、季代わりで芝の叶屋を辞めて今は富ケ岡八幡門前の料理茶屋に勤めるという四十手前の女に仔細を尋ねた。叶屋に不満があったのではなく、家族の都合で深川の長屋へ引っ越したのがみさの勤め替えの理由だった。


「十日くらい前でしたかね。今勤めているお店の前を通ったんですよ」

「連れはおありでしたかい?」

「いいえ、お一人でした。それが前にお見かけした時より随分お痩せになっていて、着ている物も薄汚れた感じで。初めは別人かと思ったんですけど、頬の傷といい、顔立ちといい、あんなに似たお方がこの世に二人いるわけないよねと……」

「どんな様子でやした?」

「とてもお疲れのようでした。歩き方も以前の颯爽としたお侍らしい感じではなく、ふわりふわりとした……あ、心ここにあらず。そんな感じで」

 みさの証言に基づき、万蔵は富ケ岡八幡の門前で聞き込みを始めた。聞き込みを始めると、すぐに何人かから目撃談が出た。左頬に傷のある痩せた侍は人々の目を引くものがあったようだ。見かけ始めたのは一月ほど前らしい。

「思い詰めたような、ちょっと気味の悪さがありましたからね」

 鮨の屋台の親父の話だ。どこの誰とわかっている者はいなかった。


 事態が大きく動いたのは、万蔵が富ケ岡八幡での聞き込みを始めて三日目のことだった。

 左頬に傷のある男の水死体が佃島の漁師の網に引っかかったのだ。

 この頃には水死体があまりに多く、海で見つけた場合にはそのまま放置されることが多かったのだが、網にひっかかったのを簡単にはずせなかったため、魚と共に陸揚げされた。

 更にはその船主が陸揚げした以上はと番屋に届け出、番屋に詰めていた町役人が町方が頬に傷のある侍を探していることを覚えていたという幸運が重なっての発覚だった。


 万蔵が息急ききって知らせた報に、真乃はるいを伴い、すぐに深川相川町の番屋に駆けつけた。

 死体は番屋の外に置かれていた。

 るいは鼻と口を袖で覆って臭気と吐気を堪えながら、男の顔を暫く見つめた。死体はそもそも不気味なものだが、死後数日たった水死体は見た目の変わりようが激し過ぎる。

「頬の傷痕のようなものは、叶屋で見たお侍の傷と同じように思いますけど……同じお人かはわかりません……」

「珍しい着物じゃありやせんが、叶屋の元奉公人が言ってた着物を着てやすね。背丈も、まぁ大体おんなじでやすよ」

 万蔵がるいの証言を補強した形になった。


 番屋には深川掛かりの同心、安藤茂兵衛だけでなく、柳原が掛かりの片岡も駆けつけていた。

 この日、片岡はるいの姿を見るなり、呆けた顔になって暫く見惚れていた。白粉を薄くはいて眉を整え、紅も差していたから、この前の化粧っけもなく、取り乱した姿とは一変していたのだろう。真乃の挨拶に我に返ると、確認するのが水死体であることをるいに詫びてきた。

 片岡は死体のあまりの醜い有り様にるいが気を失うのではないかと心配したようで、いつでも支えられるよう、すぐ後ろに立って確認を見守っていた。この前と違って随分親切である。


 片岡は五年前に御新造をお産で亡くし、その後はずっと独り身でいる。難産の末に妻と子を同時に失うという悲劇だった。

 後添いの話はいくつも持ち込まれてきたが、断り続けているそうだ。


 片岡は最初から暗い面持ちではあったが、るいと万蔵の言葉に一段と暗い表情になった。

「これで謎の武家と商人を突き止める手懸りが消えましたな」

「そうでしょうか」

 真乃の落ち着いた声に片岡も安藤も一斉に驚いた顔を向けてきた。

「この殺しで、連中に何かが起こっていることがはっきりしましたよ。動きがこれだけで収まるとも思えない。尻尾を捕まえられる見込みが出てきたと私は思います」

「事故ではなく殺しだと申されるのですな」

「供侍をしていて泳ぎの下手な者など、まずおりません。おそらく薬か深酒で眠らされたか、当て身で気を失ったところで無理やり水死させられたのだと思います。殺された場所も海ではないかもしれません。殺された理由も、松三郎殿と同じかもしれない」

「口封じ、ですか」

「十月前には供の中でも特に信頼されて大事な密談に隣席していた武士が一月ほど前に浪人になり、挙げ句にこのような姿を人目に曝す。只ならぬ物を感じませんか」

「ですが、真面目で一途な男ほどつまらぬことで身を持ち崩したりするものですぞ。この男も遊女にのぼせて勤めを怠った故の放逐だったのかもしれない」

 安藤はからりとした口調で意見を述べた。

「ともかくこの者がどこの誰か、住んでいた場所と最後にこの者がどこで見かけられたかを突き止めないといけませんな。勘六!」

「へい」と初老の男が後ろに若い男を従えて安藤の傍へ走りよった。

 安藤がなにやら耳打ちし、勘六は何度か頷いた。

 深川掛かりになったのは二年ほど前だが、安藤はこれまで本所、深川を担当する本所見回りの同心として三十年近く町地で起こる揉め事に対処していた。やるべきことは心得ている。

 勘六が若い下っ引きを従えて番屋から遠ざかるのを真乃は黙って見送った。

 先ほど安藤は万蔵からこれまで聞き込んだ富ケ岡八幡辺りでの頬に傷のある侍の目撃談を細かく聞き出していた。それを元に勘六に指示を出したことだろう。

 更なる聞き込みは長年安藤の御用聞きとして働き、この辺りを熟知している勘六に任せるのが一番である。


 何かわかったことがあれば、互いにすぐに情報を共有することを約束し、真乃はるいと万蔵を連れて本郷への帰路についた。

 片岡が別れ際にるいに何か言おうとして止めたのが真乃の視界に入ったが、るいの方はそんな片岡の素振りに全く気づかず、用が済んだら長居無用と三人のうちで真っ先に踵を返していた。

「嫌だ。まだあの臭いがする」

 鎌倉河岸まで舟で戻ってきたところでるいが顔をしかめながら言った。

「あの手の臭いはなかなか消えない。帰ったら、鼻の中を洗うことだな」

 真乃の当然という言葉の調子にるいが睨んできた。

「鼻の中を洗うって、どう洗いますの?」

「塩水を鼻から吸い込んで口から出すのさ」

 るいが青ざめた。どう考えても美しい姿ではない。

「青井様はお洗いになりますの?」

「洗うよ。でないと食べるものが不味くなる」

「そんな、あっさりと……」

「あっしも洗いやすよ。こいつは我慢できねえや」

 るいは万蔵の合いの手に、あんたには聞いてないと言いたそうな目付きを返した。

 ここが話を変える潮時と、真乃は万蔵に命じた。

「お前は引き続き叶屋の元奉公人から何でもいいから例の武家か商人に関わりそうなことを聞き出してくれ」


 そこからまた進展があまり無く、更に日が過ぎた。

 左頬に傷のある浪人がこの一月暮らしていた店はまもなく東仲町の壊れかけた棟割長屋に見つかった。水死体が見つかる二日前から姿が見えなくなっていた。

 やる気のない差配は、三月分の店賃の前払いで、ろくに名前も確認せず、男を住まわせていた。

「名前は木下とか言うとりましたなんてことを差配は言ってますが、ま、偽名でしょうな」

 勘六は呆れたという顔つきで片岡に知らせてきたそうだ。

 素性を示すような物は店内に何も見つからず、他に出入りしていた者がいたという隣近所の目撃談もなかった。

 そんな中、るいを襲う刺客が現れていないのは事態の膠着を示すように真乃は感じていた。嵐の前の静けさとも言える。


 真乃の困ったことに、もうすぐ「お客」が来てしまう。相模屋に岩五郎の容態を尋ねに繋ぎをとったらば、回復が今一つらしく、用心棒にはまだ復帰できないという返事だった。

 ――さて、どうしたものか。

 この体調と気分の変化からは明後日には始まるだろう。

 相模屋の使いに五日間の備えを催促した後で、ひとまず青井の屋敷に戻らざるをえまいと濡れ縁に腰掛けて考えていると、るいが茶と饅頭を盆にのせて現れた。

「大貫屋の旦那様からのお裾分けですの。青井様もお一つどうぞ」

 先ほど大貫屋の丁稚が勝手口に来ていたのは把握していた真乃である。

 大貫屋の旦那が寮に現れるのは一月に数度のようで、真乃が用心棒で住み込み始めてからはあの襲撃直後と五日前にやって来ただけだ。

 だが使いは三日に一度くらい現れている。

 商っているのが諸国銘茶だからか、寮でだされるお茶はどれも美味で、「お裾分け」のお茶のあてになる団子や菓子類が丁稚や手代の手でよく届けられる。

 今日は饅頭だったかと、真乃は遠慮無く饅頭に手を伸ばした。

「あのぉ……いったんお屋敷にお戻りになるのですよね」

 るいは真乃が相模屋の使いに話していたのを盗み聞きしていたらしい。

「うむ。前にも申したように用心棒として役に立たねばここにいても仕方がない」

「そんなことは無いと思いますけど、お屋敷の方が落ち着きますものね」

「そうでもない」

 真乃は素直に言った。

「叔母が煩いのだ。こっちがあまり動けないのを好機と、裁縫のことだの縁談だのを喧しく言ってくるからな。いつも鼻を摘まんで憚りに籠ることになる」

「叔母上様が、ですか。お母上様は?」

「数えの十二に死んだよ」

 るいの顔色が変わった。


「それはなんてお気の毒な……育ち盛りの娘を置いて逝くなんて、お母上様はどんなに心残りだったことでしょう……」

 るいの同情は母親の方に向いていた。

 真乃はくるりとるいに顔を向けた。

「そなたと違い、私は母と小さい頃から折り合いが悪くてな。実のところ亡くなった時にもあまり悲しくなかったよ。むしろほっとしていた」

 るいの表情は信じられないと言っていた。

「どうしてですの?お武家様は日頃のお世話は乳母かもしれませんけど、娘にとって母親は色々教えてくれて、なにかと頼りになるじゃありませんか。『お客』が来はじめたら、そうした身体のことを包み隠さず相談できる唯一の相手ではございません?」

 大抵の母娘はそうなのだろう。

 真乃は自分と母との軋轢をるいが理解できるだろうかと訝った。

「私が母と似た気性ならば頼ることもできたのだろうが、あまりに違いすぎた。残念ながら母の言うこと、母が私に期待することは、私にとって苦痛でしかなかった。残念ではあるが、どうしようもない。それだけだよ」

「そうしますと、初めて月の『お客』があった時は叔母上様がお母上様の代わりを?」

「いや。ちょうどその時は剣術の修行で父の古い知り合いである師匠の元にいたので、その師匠が近くの名主の御内儀に世話を頼んでくれた」

「まぁ……」

「その師匠は娘を二人育てておられたから、淀み無く対処を教えてくださったよ。赤飯を炊き、ささやかに祝いをして、これからはもっと自分を大切にするようにと申された」


 真乃は師匠の姿を懐かしく思い浮かべた。

 自身に起きていることに戸惑い、嫌悪し、赤飯を口にするのを躊躇う十三歳の真乃に、師匠は優しい笑顔でこれから真乃の身に起こるであろうこと、少年達のようにはいかなくなること、だが真乃には恐るべき才能があるから真乃ならではの剣術、戦い方があること、どんな時も自分を大切に、自分の心に耳を傾け、心を研ぎ澄まして生きていくようにしなさいと語った。それから十年近く経つ。


「父が師匠のように処せたとは思えないから、家で始まるより良かったかもしれない」

 真乃はるいの方は見ずに庭を向いたままそう付け加えた。言い終えた後にもるいに何の動きもないので、どうしたかと向き直ったら、その目が潤んでいた。

「そのお師匠様は青井様にとって、とても大切なお方なのですね」

「何故涙ぐむのだ?」

「なぜかしら……青井様のお顔を見ていたら、お母上様と叔母上様のことを仰っていた時と剣術のお師匠様のことを仰る時の様子があまりに違っていて……どうしてお母上様とそんなに折り合いが悪かったのかしらと不思議に思う気持ちと、お師匠様への暖かい気持ちが感じられて……うまく言えないわ……ひたすら剣術に打ち込んできたなんて、なんて殺伐とした人生かしらと思っていたのが違っていたんだと……ああ、うまく言えないわ!」

 るいは襦袢で溢れかけた涙をそっと拭った。それから襦袢を袖の中に戻し、姿勢を正して言った。

「ねぇ、青井様、お屋敷では叔母上様から逃げるために憚りに籠らないといけないのなら、このままここにいらしてはいかがです?あの小部屋は今誰も使ってませんし、あたくしもおかよもおつねちゃんも当分の間使いませんし。あたくし達には気を遣うこともございませんでしょう?」

「よいのか?食事やら何やらそなた達の世話になってしまうぞ」

「もちろん構いませんとも。お武家様には失礼かもしれませんけど、女同士、困った時はお互い様。男達が男向けに仕切る世の中なんですから、女達は身分を越えて助け合えるところは助け合わないと」

 るいは茶目っ気のある笑みを見せた。

 真乃は少し考えた後で、ここで籠れば叔母から逃げる必要がないし、かよがなにかと世話を焼いてくれて青井屋敷より楽に過ごせそうだと、るいの提案を受けることにした。

 それに刺客が襲ってきた場合にも、全く何もできないわけではない。長引いた場合の「後始末」が大変で嫌なだけである。


 るいが台所へ消えた後も真乃は暫く濡れ縁に座って昔を思い返した。

 るいが指摘したように、剣術の師匠は真乃にとって思い出すだけで暖かい気持ちになる人物だ。十代後半の真乃が師匠に抱いていたのは、今から振り返ると淡い恋心だったかもしれない。

 だがその時にも真乃に師匠の元でずっと暮らしたいという気持ちはなかった。母や叔母のような生き方に憧れがないどころか、考えただけで気鬱になったくらいだった。その時にも真乃には自身の剣術を極めることが唯一見えていた道だった。

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