第1部 第4章

 るいはいつもの化粧はせず、大急ぎで外出着に着替えただけで小吉について寮を出た。足元がどこか怪しい。だが、駕籠に乗ろうとはしなかった。

 真乃はいつもの袴姿に二刀を差し、そんなるいのすぐ斜め後ろについた。

 番屋への道中、るいは両手を前でぎゅっと握りしめ、無言だった。心の中で間違いであることを祈っているのだろう。後ろ姿からも真乃にるいの祈りが見えた。


 番屋の前には人だかりがしていた。美貌の若衆の死は町衆の注目を集めているらしい。わざわざ和泉橋の番屋に運んだのは人目を避けるためだったのだろうが、あまり効果はなかったようだ。

 小吉が「ごめんなさいよ、仏さんの知り合いだからね」と、人だかりを掻き分けた。

 小吉の言葉に野次馬の目が一斉にるいと真乃に向く。

 真乃は野次馬を一睨みした。

 剣士である真乃が気を入れて睨むと大抵の者は怯む。

 るいの方は野次馬の視線など気にしていなかった。番屋の前で意を決したようにきっと頭をあげ、小吉が開けた入口に入っていった。

 真乃はるいに続いて番屋に入ると素早く後ろ手に戸を閉めた。


「これは、青井様の……」

 番屋にいた同心は片岡孫助という真乃の顔見知りだった。

 もっとも、八丁堀に固まって住んでいる町方だから、家族を含めて顔を知らない者はほとんどいない。

 町回りで日に焼けた片岡の顔は精悍というよりも木訥で、佃島に馴染んで見える風貌をしているが、一年前に三十二という若さで町方の花形、定町回りになった腕利きと評判の同心である。

 るいが亡骸に近づき、掛けられている莚を恐る恐る捲った。その手は途中まで捲って動かなくなった。震えている。

「嘘よ……そんな……なんでこんなことに……」

 るいはそれきり黙りこんだ。それ以上莚を捲るのは畏れ多いかのようだった。

 真乃はるいの後ろから亡骸を覗いた。

 莚に横たわる生気を失った顔は誇張無しに人形のようだった。整いすぎていると真乃は感じた。

 あまりにるいが動かないので、真乃はまさか正気を失ってはいまいと名を呼び掛けながらその肩に手を置いた。

 るいの全身がびくっとして、その手から莚が落ちた。

 真乃に亡骸の腰まで見えるようになった。右肩から袈裟懸けで斬られたらしい。後ろから、である。

 真乃には一目で相手の腕前が相当なことが分かった。即死だったろう。

 るいが手を伸ばして人形のような顔の頬を両手で包むように触れた。

「松三郎……何があったの?どうしてこんな……」

 言葉は沈黙を挟んで嗚咽に変わった。


 真乃がるいの傍を離れて片岡の側へ行くと、「あの女性にょしょうは?」と片岡が小声で尋ねてきた。

「今、私が用心棒をしている大貫屋の主の妾です」

 真乃も小声で返した。

「見つかったのは清水山と聞きましたが、そうなのですか?」

「はい。あそこは誰も草を刈らないため、年がら年中見通しの悪い所ですが、その草むらに俯せに倒れこんでおりました。ただ足先は草を刈られたばかりのところに出ていて、夜のうちに見つけられたのです」

「後ろからの袈裟懸けの他に傷はあったのですか?」

 片岡は首を横に振った。

「その一太刀だけです。揉み合ったような跡もありません。後ろから忍び寄り、一太刀で息の根を止めたと思われます」

「目撃した者は?柳原ならば、夜鷹が彷徨いていて、何か見てそうな……」

 片岡は軽く首肯した。

「亡骸を見つけたのも夜鷹とその客です。他に何か見ていないか、甚平達があたっていますが、今のところは何も」

 甚平とは片岡の御用聞き、嘉兵衛の下っ引き一番手である。

「すぐに身元が分かったのですね」

「容姿と身なりから蔭間か元蔭間だろうと見当をつけ、まずは近場の湯島と芳町の蔭間茶屋の者を呼び寄せて顔を確かめてもらったら、ここへ現れた二人目が三月前に身請けされた松三郎だと証言し、身請けした相手はわからないが、姉と慕っていた女がいると飛び出していきまして……」

「身請けされた相手がわからない?置屋は把握していないと?」

「あの小吉によると、置屋は神田明神下の近江屋幸右衛門を仲立ちにして証文を交わしたそうです。相手は武家だったから、珍しくはないと言うんですがね。本当かどうか、あとで置屋の主と近江屋に確かめるつもりです」

 真乃は納得のいかないものを感じた。

「そうだ、おるいさん、松三郎を身請けした御仁を知っちゃあいねぇかい」

 片岡はくだけた言葉でるいに問いかけた。

 るいはきっと片岡を振り向いた。目も鼻も真っ赤である。

「お顔もお名前も存じません。松三郎がこんなことになってもお見えにならないのですか?どこのどなたかお分かりにならないのですか?」

 怒りの声だ。

「仲立ちしたという近江屋に繋ぎをとるよう頼んだのだが、使いにやった者によると、近江屋も知り合いに頼まれたらしく、請け出した当人とは面識がないらしい」

 るいが大きく瞠目した。また顔が松三郎の方に向いた。

「もう暫くここへ置いておくが、もしも請け出した御仁が見つからなかったら……」

「ええ、あたくしが引き取ります。いえ、もう、すぐに引き取ります。この子をこんな所に寝かせておきたくないわ」

 るいが再び片岡に向いた。充血した目が強い怒りを放っていた。

「構いませんでしょう?もしも身請けされたお方がお見えになったら、本郷二丁目の山崎屋さんの裏手、大貫屋の寮にお出でいただくようお伝えくださいませ」


 松三郎の亡骸と共に寮に戻ったるいは、ポロポロ涙をこぼしながら松三郎の身体を清め、客間にかよに手伝わせながら通夜の準備を整えた。

 一通りやることを終えると、るいは松三郎の枕元に座った。その目からまたほろほろと涙が溢れ始めた。

 真乃も万が一弔問客に刺客が紛れていてはいけないと、客間の隅に陣どった。

 弔問客は少なかったが、その中に寛弥がいた。弟分らしい少年と、信じられないという面持ちで部屋に入ってきた。そうして二人ともに松三郎の死顔を目にしてからは一言の言葉もなく、ただ号泣した。

  その姿に松三郎は仲間に慕われる、恨みを買うような人物ではないのだと真乃は思った。そんな人物が殺される。残念ながらしばしば起こる悲劇である。こうしたことが起こるたび、真乃は世の理不尽さに腹を立てている。


 人の出入りが無くなった夜半になって、るいは独り言のように語り始めた。

「優しい子なんですよ、松三郎は。実の親に借金の形と口減らしで人買いに売られて、辛いことがいっぱいあったらしいのに、少しも恨みがましいこと言わないの。優しすぎたのね……最後にゆっくり話したのは身請けされる前日の、置屋の裏口でした。一段と綺麗だった……好きな人に請け出されるんだもの。当然よ。ちょっと羨ましかったぁ……」

「請け出した相手のこと、本当に何も聞いていないのか?」

 真乃は今聞くべきではない気もしたが、吟味方与力として名を馳せた父親の影響か、謎を解きたい気持ちを押さえることができなかった。幸い、るいの様子に変化はなかった。

「お武家様というだけです。もっと色々聞いておけばよかった……こんなことになるなんて思わないもの」

 るいは手拭いで顔を覆った。朝から何枚手拭いをびしょ濡れにしているか、真乃も覚えていない。


 本当に大事な、家族と思う人が死んだ時にはこれほど涙が出るのだなと、真乃は自身を振り返って複雑な思いにかられていた。

 母親を十一の時に亡くした真乃だが、母親は剣術に精魂かけてのめり込んでいることを諌めてばかりで、顔を会わせたくないとまで思っていたから、通夜でも葬儀でもほとんど涙は出なかった。

 幼馴染みの源二郎の方がぼろぼろと涙をこぼしていた。

 生まれてすぐに母を失った源二郎にとって、真乃の母が母親代わりだったとはいえ、実の娘なのにこんなに冷静でいられる自分は冷酷な人間かもしれないと、泣き腫らした目を十日近くも見せていた源二郎の姿に真乃は思ったものだ。

 今また大事な人を失い、泣き腫らした目の人物を見て、真乃は相手の心だけでなく、自分の心をも見つめずにいられなかった。


「横恋慕や逆恨みしている輩はいないのか?身請けされたことを妬んだり、勝手に裏切りと思うような……」

「いたかもしれません。でも松三郎から聞いたことはありません。そんな厄介なのがいたら、六兵衛あたりが知ってそうだけど……」

 るいは松三郎を見つめたまま答えた。

「ああ、もう……どんどん昔のことが浮かんできちゃう……」

 るいはまた手拭いで顔を覆った。

「身請けした武家は客の一人だったのだな?」

 手拭いで顔を覆ったまま、るいは頷いた。

「一目惚れしたって、あたしに教えてくれました。どこの誰だとも、どんな顔してるとかも言わなかったけど。そう言えば、松三郎とゆっくり話したのは、半年も前になるんだわ。その後も何度か会ったけど、あまりゆっくりできなくて……」

 姉と慕うるいにも相手のことを武家としか言っていないということに、真乃の中でまた警鐘が鳴った。

「身請けされたのは三月前だったな。半年近く前から身請けされるまで、そなたが松三郎を買うことはできなかったということか?」

「あたしの方もおっかさんの一周忌や何やらで余裕がなかったんですけど、身請けしたお武家様が松三郎をちょくちょく買いきってらしたみたいで……」

「かなりの金持ちか、或いは金持ちが後ろについているのだな……」

「どこかの御大名様とか、御大名の若様とか?それだったら、出てこれないのも無理無いけど……でも許せないわ。なにか方法があるはずだもの。あ、お武家様といえば、頭巾を被ったお武家様を見たことがあったわね……でもあの人は松三郎の好みじゃないから、絶対に違う」


「そのお武家に松三郎を気に入った風があったのか?」

「驚いてたんです。あたしたちを見て。あの人達の顔にこっちもびっくりだったわ」

「……順序だてて話してくれ」

「あれは、二人で芝の神明様へ出かけた日で……だらだら祭りの最後の日です。その帰りに茶屋で一息いれたんですけど、お庭が綺麗で!二人でお庭を見ながらお喋りしてたら、急に近くの障子が開いて、頭巾を被ったお武家様や大店の旦那風の人やら、五、六人出てきたんです。思わず誰だろうとそちらを見たら、向こうも驚いた顔してこちらを見ていて……」

「全員が驚いていたのか?」

「よく覚えてませんけど、大店の旦那風は間違いなく驚いた顔でした」

「五、六人ということだが、大店の旦那風にその手代、頭巾を被った武家とその供侍か?」

「……そうですね。そんな感じでした」

「それで?」

「それで……って、それだけですよ。目があったからとりあえず会釈して、話の続きしながら、こちらはあたしたちの部屋へ戻り、あちら様は表の方へ。そのままお帰りになったんだと思いますわ」

「いつのだらだら祭りだ?」

「去年ですよ。もう一年近く前になりますね……」

「松三郎が一目惚れした相手と出会ったのはその後だな」

「え?ええ。松三郎から聞いたのは半年くらい前のことですから」

 真乃はきょとんとしているるいに苛立ちそうだった。

「それだよ!それだ!そなたの命を狙っているのは、おそらくその連中だ!」


 るいはきょとんとした顔つきのまま更に口をぽかんと開けた。

「ま、ま、まさか……まさか……茶屋ですれ違っただけですよ?」

「向こうはそう思っておらぬのだ。お主達はそ奴らのいた部屋のすぐ近くで喋っていたのではないか?」

 るいは眉間に皺を寄せた。

「そうですね。でも大して長くなかったし、障子の真ん前にいたわけでもないし、松三郎もあたしも自分たちのお喋りに夢中で周りのことなんか気にしてなかったし……」

「そ奴らは何か、ひとに聞かれては困ることを話していたのだろう」

「ど、どんな?」

「それがわかれば解決したようなものだ。本当に何も聞こえなかったのか?」

「ですから、二人で楽しくお喋りしてたんです。何も聞こえてこなかったし、あの人達があのお座敷にいることも知りませんでしたよ!」

 るいは後悔と不満が混ざったような顔だった。

「ま、まさか、松三郎もそれで、あの人たちに殺されたと?」

 るいの顔色が真っ青に変わった。


「松三郎殿についてはまだなんとも言えぬ。そうかもしれないし、違うかもしれない。だがそなたが狙われる理由はまず間違いなく今の件だろう」

「一年近くも前のことなのに?どうして今頃になって?」

「そこが胆であり、それが解れば、そなたの命を狙う連中もわかる。その時以外に相手がそなたを見てぎょっとした、或いは驚いていたようなことはないのであろう?」

 るいは眉間に皺を寄せた。眉間に皺が寄るのは真剣に考える時の癖らしい。

「その時以外には覚えがありませんわ」

「もしもその連中でなければ、大貫屋絡みになる」


「まさか!まさか、そんなことは……」

 るいは大きく首を横に振った。

「お主もそう思うであろう。相模屋も大貫屋のご主人が依頼してきたときに思い当たることが本当にないのか、忌憚なく尋ねたらしいし、私もこの話を聞いてすぐに大貫屋について少し調べた。大貫屋自身かその子息を殺そうとするならともかく、妾を殺しても大貫屋に与える損害は大きくない。そういうことをしでかしそうな人物も見当たらない。主がここに入り浸っているわけではないからな。もちろん、全くないとは言いきれないが……」

「旦那様を苦しめるなら、あたしよりお子様方ですよ。おなつ様だって、あたしを殺そうなんて……そんなことするお方だなんて、とても……」

「おなつ様」というのが、大貫屋忠兵衛の内儀だ。


「その叶屋で見た連中のこと、もう少し覚えておらぬか?顔つきや背格好など特徴を……」

 るいは先ほどより更に深い皺を眉間に現した。

「……あ!頭巾を被ったお武家様の御供のお一人は顔に傷痕がありました。この辺りに」

 るいは自分の左頬を指差した。

「体格は?目は大きかったのか、細かったのか?顔に傷があるだけではなかなか見つけられぬ。何か他の特徴も思い出してくれ」

「目は……わりと大きかったと思います。体格は……青井様と同じくらいかしら……少し低かったかもしれません」

 真乃の背丈はこの時代には男でも数少ない高さだから、少し低いくらいならば体格は良い方になる。

「綺麗に月代さかやきを剃っていたのだな?」

「ええ、総髪の方はいらっしゃいませんでした。頭巾を被っていたお方の髪形はもちろんわかりませんけど」

「頭巾を被った武家と商家の主らしい男の年齢や体格といった特徴は?」

 るいは長い間眉間に皺を寄せて考えていた。熱々で出した茶が冷めてしまうくらいの長さだった。


「頭巾を被ったお武家様は五十手前くらいかしら。目しか見えませんでしたけど、大貫屋の旦那様より少し上じゃないかと思います。高そうなお着物をお召しになっていて……背丈はそれほど大きくはなかったと思います。商家の旦那さん風より少し高かったくらいで。お二人はお年も同じくらいに見えました」

「着物に紋はなかったか?」

 るいは今度はすぐに首を横に振った。

「紋は誰のお着物にもついていませんでした。屋号のようなものも何も。考えてみたらおかしなこと、ですよね?」

「私用にしても、どこの誰とわかりそうなものが供を含めて何もなかったというのは、只ならぬ意図を感じる。この前の刺客の質からもかなりの金か、裏の世界に力のある人物、或いはそうした人物に依頼できる者だ。その連中の用心具合と符号する。金や権力を握っている連中ということだな。繰り返して済まぬが、他に見知らぬ相手の顔色が変わったようなことはなかったのであろう?」


 いつの間にかるいの手が震えていた。

「松三郎は、松三郎は知りもしないことを知っていると思われて、殺されたかもしれないと仰るのですか?誤解で殺されたかもしれないのですか?」

「先程も申したように、蔭間として勤めていた間に厄介なことに捲き込まれてしまったのかもしれぬ。松三郎殿のことは請け出した人物を突き止めることが第一だろうな」

「もしも松三郎が何か厄介なことを耳にしてしまっていたなら、きっとあたしに打ち明けてたと思います。詳しいことは言わずとも、匂わせたと思うんです。それに、もしも十月前のあのことであたしが襲われたなら、松三郎が襲われないわけないじゃないですか!」

 言い終えた頃には肩までわなわなと震わせていたるいだった。

 真乃は声を一段と低くした。

「私の本音を言えば、松三郎を斬った下手人、或いはその雇い主……は、そなたを襲ってきた連中の雇い主と同じだろうと思う」

 るいの目に怒りの炎が灯った。

「酷い……酷すぎる……」


 真乃にはかける言葉が浮かばなかった。いたたまれない気持ちで庭に目を向けた。

 知りもしないことで殺されるなどあってはならないことである。そして相手方の用心の度合いが大きければ大きいほど、その企ても大きいということだ。

 一体何者がどんな企てをしていたのか。武家と商人の組み合わせ自体は珍しくもなんともない。双方の思惑であちこちで様々な綱引きが行われている。

 しかし昨秋以降に気になる噂は真乃の耳に入っていなかった。


 視線を感じて目を戻すと、るいが思い詰めた眼差しで真乃を見ていた。

 真乃が顔を向けたところで、るいは畳に額がつくくらい頭を下げた。

「青井様、お願いでございます。松三郎の仇を取ってくださいませ!どうして殺されたのか謎を解き、下手人を捉えてお仕置きしてくださいませ!」

 言葉がほとばしった。

「私はそなたの用心棒として雇われているのだぞ。その仕事を放っておいて、松三郎殿の仇を探せと申すのか?」

 るいがすっと頭をあげた。その目は怒りだけでなく強い意思を感じさせた。

「青井様はあたくしの命を狙っている連中と松三郎を斬った下手人とは関わりがあると思ってらっしゃるのでしょう?松三郎の仇を探し出せば、あたくしの用心棒もしなくてよくなるのではございませんか」

「相手が違うこともありうる。それに仇探しをしていてはそなたの命を守りきれぬ。二兎追うものは……だ。なにより町方も動いている」

 るいは真乃の言葉に下を向きかけたが、すぐにまた顔をあげた。

「お役人は当てになりませんわ。あの方達が松三郎のような子達のことをどう思っているか、あたくしが知らないとでも思っているのですか。前にもあったのですよ。請け出された子が殺されたことが。その時結局下手人は見つからず。お役人や御用聞きの方にお調べについてお聞きしたら、いつものらりくらりとかわされました。お役人に本気で下手人を探す気なぞあるものですか!」


 町方与力の娘として真乃には耳の痛い話だった。

 一番の問題は役人の数が足りないことだ。そのために同心は岡っ引きを使い、町火消や自身番など色々町民に自衛させてもいるが、そんな町の自衛を潜り抜けて起こる犯罪は、それだけ下手人を捕まえにくいということなのだ。

 そのうえ寺社や武家地は町奉行の支配外である。大名や旗本の家臣、陪臣は町奉行所の管轄だが、主人である大名や幕臣が御家の恥と秘匿することも多く、結局手が出せないことも少なくない。


「番屋にいたあの片岡孫助という同心は、殺されたのが誰であろうと下手人探しに取り組む姿勢は変わらんよ。昔から人となりを知る私が請け合う。そなたの命を狙う連中はかなりの大物だ。松三郎殿の仇探しでそなたの警固を疎かにすることはできぬ」

 るいの目にまた涙が溢れた。その目で松三郎を見る。

「この子の仇が取れるなら、あたくしは命も惜しくありません」

 るいは松三郎の死顔を見つめたまま、そう言った。二人が三年の間に築いた絆は、姉弟や親子の絆を越えたらしい。


「頭が痛くなってきたわ。こんな時に……」

 るいはこめかみを指で押えた。

「無理もない。少し休むが良い。私が番をしておく」

 るいは眉間に皺を寄せたまま、真乃を睨んだ。

「そんなことできません。青井様にお任せするなんて。それに、青井様はいつお休みになるのですか?」

「明日の朝、楠田殿か八代殿に昼近くまで残ってもらうよう頼んである。そなたは今しか休めまい。そなたが倒れては松三郎殿の供養ができぬぞ」

 るいは眉間に皺が入ったしかめ面でまた松三郎の死顔に向いた。

「明日はおっ母さんの月命日よ。これからは松三郎、おっ母さんと二日続けて月命日だわ……」


 真乃と違って母親と仲の良かったるいは、母親の位牌を寝室に置き、その前にはいつも何かが供えられている。

 るいによると、娘が九つの時に夫を亡くしたるいの母は、女手一つで娘を育てあげた。悪党に目をつけられることもあったが、世間の荒波から娘を守り抜いた母親だった。


 その時、微かに足音がした。そうして庭に人影が現れた。

「あのぉ……ここからお祈りさせてもらいます」

 おずおずと現れたのは色褪せた膝下までしか丈のない縞の着物を着た十二才くらいの少女だった。

 るいは少女の出現に一瞬はぽかんとしたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。

「ああ、そうね。もうそんな頃ね。あたしもたぶん明後日には籠るから、待っててね。そこからと言わずに、ここへあがって線香を上げてちょうだい」

 るいは立ち上がると濡れ縁へ行き、遠慮する少女を自らの手を添えて濡れ縁へあげ、座敷へと連れてきた。

 初見では年が十二くらいに見えたが、もう少し上かもしれない。手も足も棒きれのように細い。

 少女が松三郎の亡骸に見惚れている間、るいが小声で何か囁いていた。るいを振り返った少女の目には涙が溢れていた。

「おるいさん……」

 名を呼んだだけで、少女はるいに抱きついた。るいを慰める言葉が浮かばなかったのだろう。

 るいは「ありがとう。あなたも優しい子ね」と、少女の背を優しく撫でた。二人の仲の良さと互いへの信頼が感じられた光景だった。

 その後、少女は震える手で線香をあげ、長く手を合わせていた。

「青井様にご紹介しないとね」

 るいは少女が手をほどいたところで、真乃に向いた。

「この子はそこの長屋に住むおつねちゃんです。年は十四。おつねちゃん、こちらのお方は青井真之助様。あたしの用心棒をしてくださっているの」

 るいの用心棒のことは惣兵衛長屋の住人で知らない者はいないだろう。

 るいの言葉を受け、少女は深く頭を下げて自己紹介した。

「つねと申します。おるいさんには何かと助けていただいております。おるいさんのこと、どうかお守りくださいますようお願いいたします」

 真乃はまさか挨拶で長屋の娘からるいの用心棒を励めと言われるとは思わず、まじまじとつねを見つめ、それからるいの顔に視線を移した。


「この子は五人兄弟の二番目なんですけど、上も下も男の子ばかりで、女のきょうだいがいないんです。それで、半年前にめでたく大人のしるしの『お客』があった時に居場所がないと辛そうにしている、どうしたものかと、この子のおっ母さん、おみねさんがあたしに相談してきたから、ここで過ごせばいいと引き受けたんです。それ以来、『お客』が来たらうちの一間で過ごすようになっていますのよ」

「お客」とは、女達が使う月水(生理)の隠語である。

 顔を上げたつねの顔は赤かった。

「青井様も女の方だから、恥ずかしがることはないわよ」

 つねはるいの言葉に目を丸くした。

「毎月やってくる度に、私も嫌になっている。るい殿のことは私が守る。ここにいる間はそなたのことも守る。安心なさい」

 つねの顔色が一段と赤くなった。

「ここでこんな話するのもなんですけど」

 小声でるいが尋ねてきた。

「青井様はいつ頃に?あたくしは明後日くらいからですの」

「月水が始まったら用心棒はできなくなると心配しているのであろう。その点は相模屋もよく承知している。この前終わったばかりだから、当分問題はない」

 そう、ちょうど終わって二日後にこの話がきたから、引き受けたのだ。もしもこの話が十日早ければ、少なくともすぐに引き受けてはいなかった。


 ――女とはなんと面倒な。

 真乃の率直な思いである。

 初潮を迎えてからは長い間、男に生まれた兄の静馬や源二郎が羨ましくて仕方がなかった。

 毎日髭を剃るなど、数日動けなくなる月水に比べたらなんと容易いことか。

 今も羨ましくないわけではないが、文句を言っても仕方がないという諦めだ。


 この時代、経血を吸収して長く留めておけるような素材がなく、紙(楮こうぞや雁皮が原料の和紙)か布を何枚か重ねてこよりで簣褌状にしてあてがうしかなかった。遊女はもう少し違う対処もしたようだが、大した時間もたないのは同じだ。

 そのため経血量の多い間は頻繁に取り換える必要があり、あまり動き回れない。

 腹痛や頭痛に倦怠感もあるからたいていは寝て暮らし、起きたら厠へ直行する。モタモタしていると着物を汚すことになってしまう。

 若い女達の腰巻きに緋縮緬が多いのは、色の好みもさることながら、一番には経血が漏れても目立たないからだ。

 個人差はあるものの、三日目か四日目には経血が少量になり体調も上向き、少しずつ活動を再開できるが、完全に終わるまでには七日近くかかる。

 更には月水が始まる数日前から苛々しやすくなったり頭痛がしたりと、体調にも気分にも不快な前触れがあるのだから、結局一月ひとつき三十日のうち十日くらいは月水で辛い思いをしているのだ。


 真乃からしたらなんともやるせない。どんなに稽古を積んでも、日頃は負けしらずでも、月水の間は思うように動けなくなるのだ。

 大事な子孫は女しか産めず、家を守るという大事を任される一方で、何かと女が軽んじられ、貶められているのは、出血を穢れと考えるだけでなく、月水の間あまり動けなくなるせいもあるのだろうと真乃は思う。

 しかも武家に至っては女が産むことを「仮腹」とする考え方まである。

 女にとってお産は命懸けだ。やはりどうにもやるせない。


「問題はそなたの命を狙う連中がいつまでも諦めず、二十日以内に黒幕を見つけられなかった場合だが……」

 るいがまた眉間に皺を寄せた。

「それまでには斉藤殿が復帰できるだろうから、屋内は斉藤殿、私の代わりとして、長屋に控える人数を増やすことを相模屋に提案するつもりだ」

「その間、青井様はお屋敷にお帰りになるということですね?」

「用心棒として役に立たないのならここにいるわけにいかぬ」

「そんな……お屋敷の方が勝手がわかって良いでしょうけど、もしも……いえ、余計なことですわね」



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