第1部 第3章
一旦は押さえた好奇心をるいが抑えきれなくなったらしいのは、菱屋へ向かう道すがらだった。真乃への質問を再開してきた。
「青井様は女の身でありながら、なぜ危険な用心棒をなさっているのですか?」
真乃はそこから来たかと思った。
「私には剣術しか取り柄がないからだ」
迷いの無い真乃の即答にるいは大いに面食らっていた。
「嘘……そんなことないでしょう?」
「本当だ。そんなことがあるのだよ」
真乃は空を見上げた。この日も眩しい夏の青空が広がっていた。空の青い色は真乃の好きな色である。
「昨日も申したが、世間で女のやることと思われていることが悉く苦手なのだ。気がつけば剣術と薪割り以外できない人間になっていた。そなたには信じられぬかもしれぬが、私には剣術しかないのだ。全てはそれを軸に動いている」
「剣術が軸で動いている?」
「この格好も剣を振るいやすいからだ。別に男になろうとしているわけではない」
髪を結い直し、薄化粧にも昨日までより華やかさを感じさせるるいは、真乃の倍の歩数で歩きながら、口も動かし続けた。
「お化粧したいとか、綺麗な着物を着たいとか、思われないのですか?」
「これまでのところ、そのようなことを思ったことはないな。たまに島田髷を結い、花柄の着物を着ないといけないことがあるが、苦痛で仕方がない」
「たまには女の格好をなさるのですね」
「そんな時にはろくな目にあわない」
「がさつな男に絡まれたりするから?お武家様のご息女にはあまり絡んでこないでしょう?」
「そうでもないぞ。自分に絡んでこなくとも、絡まれている女子供を見れば、放っておけない性分だしな」
「破落戸に絡まれやすい女としてはありがたいお話ですこと。女の格好では助けづらいから、お嫌なのですか?」
「素手で倒す分にはさほど変わらぬが、やりこめられた相手がつまらぬ意地を張るのが面倒だ」
「つまらぬ意地?」
「簡単に投げ飛ばされたりすると、てめぇ男だな?男のくせに女の格好しやがって!などとぬかしおるのだ」
ぶーっと、るいは吹き出した。
こちらに向かって歩いていた町人二人がそんなるいを見て、それぞれ自身の成りを確認していた。
「あーっははは!はーはっはっは!ご、ごめんなさい!でも……くっくっくっ……武家女姿の青井様に投げ飛ばされた破落戸が泡食ってる姿が浮かんで……いいきみ!くっくっくっ……」
「そうした連中は男の格好をしていれば、大抵声をかけただけで退散する。この格好の方が手数が要らぬのだ」
るいの笑いが止まった。
「そうよね。あいつらときたら、女だけと見たらからかいにくるけど、そこへ男が現れたら、途端におとなしくなって、あっという間に尻尾を巻いて逃げていく……そうかぁ。青井様ほど強ければ、何処へだって何時だって、堂々と行けるわね。あたしも青井様のように強ければ、あんな男、投げ飛ばして懲らしめられたのに……」
「あんな男?」
「昔、夫婦だった男のことです。十八の時に長屋の差配さんの紹介で隣町に住んでいた三つ年上の大工に嫁いだんです。一見ではおとなしそうな人だったんですけど、これが大失敗!夫婦になってわかったのはとんだ内弁慶だったってことです。酒癖が悪くて、ちょっと気に入らないことがあると、すぐに手を上げて……」
るいが身震いした。
「そなたを殴ったのか」
「あたしだけじゃないんです。おっ母さんまで!離縁したいと思っても聞いてくれないどころか、ますます酷くなって……」
るいの顔が青ざめていった。
女から離縁することができなかった時代である。実家に力があれば男に離縁状を書かせることができたろうが、るいのような長屋暮らしの母娘では、そうした揉め事に頼りにできる仲介者がなかなかいない。
内弁慶ということは、周囲の人はるいの言うことを、その性質の悪さをなかなか信じなかったかもしれない。
「自分一人なら駆け込み寺へ駆け込むけど、おっ母さんを置いていけないし……で、もう殴り殺されるしかないのかしらと思った時に、あいつ、火事で死んでくれたんです。あの時は神様がいると思ったわ。操がどうのと言うけど、絶対に式を上げる前に一緒に住んで、酔っ払った姿や閨で相手がどんな風になるか確かめておいた方が良いですわよ」
るいの顔つきも口調もこれまでで一番真剣だった。
「月並みな返しですまぬが、苦労したのだな」
「火事のおかげで二年足らずの苦労で済んだんですけど、あの二年で五つくらい年を取りましたわ……おっ母さんが病にかかったのもあいつのせいですよ。死んじまってるけど、今でもあたしはあいつを許せない!子供がいなかったから、火事の後、あたしはさっさとあちらの家とは縁を切って、おっ母さんとの二人暮らしに戻って、茶屋で働き始めたんですの。それからは人との関わりも上向いて。大貫屋の旦那様はあいつと違って内でも外でも穏やかでいらっしゃって……大店の主ともなると、人の器っていうのかしら、それがあんなケチ野郎とは大違い」
大貫屋の名前が出たのを機に真乃は気になっていたことを尋ねた。
「今日のこと、大貫屋の旦那は存じているのか?」
「もちろんご存知ですよ。あたくし隠し事はしませんし、旦那様に囲われる前から松三郎と知り合いだったのですもの。松三郎はそりゃあ綺麗な子なんですよ。あたしの自慢の弟分!松三郎は三月前に身請けされて、今日逢う子は寛弥だけど」
真乃は立て続けに二人の名前が出たことに眉間に皺が入りそうになった。
「蔭間は高いと聞いている。仕立物の稼ぎもあるとはいえ、そなたは暮らしに余裕があるのだな」
るいははっきり言おうとしないが、どう考えても菱屋でやろうとしていることは「蔭間買い」である。
「青井様の口からそんな言葉を聞くと、ちょっと変な気分になりますわ。そのお姿では青井様は綺麗な男の子に見えますもの」
「その『かんや』とかいう者と並んだら私の方が男に見えると言うのであろう。松三郎というのは弟分だと?」
「ええ、とっても可愛いあたくしの弟。松三郎とは清い仲ですよ。勘違いしないでくださいね。茶屋で勤めていた時に出逢いましたの。お坊様に連れられて……」
るいの回想によると、その場にいた客も茶屋の者も松三郎に見惚れたそうである。
真乃はるいの話を若干割引きながら聞いていた。
「それが気分が悪そうで、少し休みたくてうちの茶屋へ立ち寄ったっていうから、気の毒に思って、あたしは店主に掛け合って、裏の小部屋で休んでもらえるようにしましたの。それが知り合うきっかけ」
後日、付人である金剛を連れただけで茶屋へ現れた松三郎は改めてるいに礼を言い、二人は少し世間話をした。
その他愛のない会話が弾んだのだそうだ。
兄弟のいないるいは松三郎を弟のように思い、姉のいない松三郎はるいを「姉さん」と呼び、気が合った二人はそれから時々町中や置屋の裏口で会うようになった。そうして三月ほどたった頃、松三郎がるいに頼み込んできた。
「姉さん、お願いだから今度の
訳を聞くと、どうにも嫌な客の相手をしないといけないからだという。先客がいれば断れるが、無ければ受けないわけにいかない相手なのだと。るいは快く引き受けた。本来なら蔭間買いのできる身上ではなかったが、困っている松三郎を放っておけなかった。近所で噂になるかもしれないことなど少しも気にならなかった。
問題の相手が宿下がりしてきた某大奥女中だとわかったのは、松三郎が指定してきた当日のことである。向こうは松三郎を大変気に入ったらしいが、松三郎の方は二度と御免だと思っていたのだ。
「あの子、女相手のつとめが苦手だったんです。元からそうだったのか、そうなってしまったのかわかりませんけど。……青井様はどちらがお好きなのですか?」
突然自分に向いた話の矛先に、真乃は冷たい目をるいに返した。
「そなたが好みでないのは確かだ。松三郎は年増相手のつとめ中心になる前に請け出されたわけだ。めでたし、めでたしだな」
「はっきり仰るわねぇ。ええ、請け出された相手が松三郎の想い人だったから、本当にめでたし、めでたし!請け出されてからは会えずにいるのが寂しいけど、身請けされる前の日のあの子の幸せそうな笑顔ったら!思い出すたび、あたくしも笑顔になりますのよ」
松三郎の笑顔を思い出しているるいの笑顔も底抜けに明るかった。
その時にはもう道の先に菱屋の看板が見えていた。
思い出の松三郎の笑顔に浮かべた明るい笑顔のまま、るいはその暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
出迎えた菱屋の女中はるいのあとから顔を出した真乃に目を丸くした。直後にはにこにこ顔になり、「青井様!よくお出でくださいました。ささ、どうぞ」と、るいそっちのけで真乃を案内しそうな風まで見せた。
「青井様は有名なのね」
るいがボソッと言ったのを目端のきく女中は聞き逃さなかった。
「前にここでの厄介ごとを片付けていただいたことがあるのでございますよ」
そこまではるいに向かって言い、そこで真乃に向いて「今度のお仕事はこのお方の?」と尋ねてきた。
真乃は頷いた。真乃もこの女中のことは覚えている。りんという名だ。
「当分の間、このるい殿の用心棒だ」
るいは主導権をとられそうなのが嫌だったのか、女中が更に真乃へ話しかけようとするのを遮るように口を開いた。
「青井様にあたくしの用が終わるまで待っていただくお部屋をお願い」
「あ、はい。青井様にはそこの小部屋でお待ちいただければ……」
「茶ぐらいは頼んでもよかろうな?」
真乃は小部屋へ足を向けながら、るいに尋ねた。
「一杯だけなら、あたくしが払いますわよ。申し訳ありませんけど、二杯目からは白湯にしてくださいな。ここはお茶もお酒も高いから。無駄遣いはできないの」
るいは真乃の耳元でそう囁くと、また松三郎に釣られたような笑顔を復活させ、二階へと上がっていった。
――蔭間買いは無駄遣いではないのか。ま、そうかもしれん。
「おりんさん、茶を頼む」
真乃の声がけにりんは心得顔で裏へ消えた。
るいと入れ替わるように、紫帽子をつけ、薄茶地に花鳥模様を散らした振袖を着た人物と隠居風の町人が階段を降りてきた。振袖の頭は野郎髷だ。
真乃は小部屋に入りかけてなんとなく気になり、その二人を見返った。蔭間を見るのも久しぶりである。百年ほど前には府内の六、七ヵ所にあった陰間茶屋も今では芳町、湯島と芝の三ヶ所だけになっている。一つの置屋が抱えている数も嘗ての半分以下らしい。
良い傾向だと真乃は思っている。残念ながら、遊女の方は減らない。
……が、はっきりと振袖を着た人物の顔が見えた時、真乃は唖然とした。厚化粧した顔に大いに見覚えがあった。
――清吉じゃないか!
真乃は慌てて小部屋に入り、戸を閉めた。
見つかると厄介だと真乃は思うのだ。
腕っぷしに自信のある真乃の唯一といっていい苦手な人物とは、口煩い人物である。清吉は、黙ると息ができないのかと思うくらい、おしゃべりだ。少なくとも真乃の前ではそんな感じだ。
「井筒のお
真乃の父、青井真右衛門が手掛けた吟味で密告と引き換えに罪を大いに減免した小悪党が清吉だった。美人局の片棒を担いでいた男だ。当時、二十歳手前だった。人足寄場で半年過ごした後は宮芝居で端役をしていると聞いていた。
まさか懲りずにまた美人局をしているのかと、真乃は訝った。
しかし、こっそりと小部屋の戸の隙間から窺った二人の様子は、いたって仲睦まじそうだった。少なくともこの時点では美人局になっていない。
――珍しい組み合わせだな。
隠居風の町人は着ている物も立ち居振舞いも地味だった。一見では遊郭や芝居とは縁遠く見える。
本当に気が合って仲睦まじくなっているのか、双方になんらかのいわくや思惑があるのか。ともかくも現時点では問題なさそうなので、二人のことは頭から追い払い、真乃は戸を閉め直した。
もしも清吉が懲りずに悪事を働いていたとしても、騙される方も騙される方だという気持ちが真乃にはある。
小部屋に入ると真乃は窓際に座った。
菱屋へ来るのは三度目だった。この六畳の部屋は前にも使ったことがある。身分の高い人物の供用控え部屋だ。中間、小者、丁稚や手代は主の用が終わるまで入り口の脇におかれた縁台に腰掛けて待つが、侍や腰元はこの座敷で寛ぐことができる。
誰も使っていないということは、今、そうした高貴な客は来ていないということである。
真乃は窓枠に肘をつき、様々な聞こえてくる音を聞くともなしに聞いた。
るいの用心棒はかなり長引くかもしれないと思い始めていた。なにせ本人が狙われる理由がわからないのだ。
一昨日襲ってきた連中は雇われか手下の類いで、るいの命を狙う理由がある張本人でないのは明らかである。
防戦する中で雇われた連中の
張本人は雇い主の、そのまた雇い主の、さらにその雇い主ということが大いにあり得る。
大元にたどり着くのに時がかかろうとも、辿り着くための糸がどんなに細くとも、ともかくどうにかして取っ掛りを見つけるしかない。
一刻(約2時間)後、るいの話し声が聞こえ、階段を降りる複数の足音がした。
真乃が障子を開けると、上がり框でるいが寛弥と思われる蔭間の髪飾りを直していた。
るいより二寸くらい(約6cm)背が高い寛弥の格好は紫帽子を着けた芸妓だ。二人の側には布団を背負った大男が立っている。寛弥の付人である金剛だろう。
付人は真乃を見るなり目を見張った。その直後、すっとんきょうな声が響いた。
「きゃー!真さんじゃないの!」
金剛もるいも寛弥も一斉に声がした方を向いたが、真乃は見なくても誰かわかった。
ソレが真乃の後ろにある廊下を駆けてくる。
真乃はギリギリまで引き付けておいて、さっと横へかわした。
目の前を野郎髷がつんのめりながら過ぎて行った。六方の出来損ないを披露し、もう少しで土間に落ちるところをなんとか止まった。
野郎髷はすぐに真乃の方に向きなおった。
やはり清吉だった。
真乃はまだいたのかと、ため息をついた。
「ひどいわ~、避けるなんて!」
清吉は拗ねた顔つきを見せた。
本人には気を引く自慢の顔つきなのかもしれないが、真乃にはいたずら小僧の成れの果てにしか見えない。
るいを促してさっさとここを出ようと、清吉を無視してるいと寛弥に目を移した真乃は、金剛が清吉をねめつけているのに気が付いた。
「ほう。あんたは清吉と顔馴染みなのか」
金剛は真乃を横目で見た。そうしてニヤリと笑った。
「アイツが裏切った孝三ってのが、あっしのダチでした。さんざんあくどいことやらかしやしたから、孝三が獄門になったのは仕方のねぇことでやすが、アイツがのうのうとしてるのは気に入りやせんね」
「あのね、あたしはアイツに脅されて仕方なくやってたの。一緒に獄門なんか御免だわ」
清吉が言葉だけでなく、身体も金剛と真乃の間に割り込ませてきた。金剛と真乃の両方が視界に入る位置取りと体勢だ。
「アイツとダチなんて、あんたこそ後ろに手がまわることやってんじゃないの?」
大男の金剛を恐れず歯向かっていく気の強さだか、無鉄砲さだかは、褒めても良いかもしれない。真乃はそう思った。
「真さん、勘違いしないでね。あたし、コイツとは知り合いじゃないから」
「そうかい?なら、首が胴体から離れねぇうちに、とっとと失せた方がいいんじゃねぇかい」
真乃は八丁堀言葉に崩して言った。
「ここで逢う約束がまだあるのよ」
そこへ二階から低めの女の声が聞こえた。
「お清はまだかい?」
清吉が間髪いれずに「あ~い」と明るく返事をした。
返事が始まった途端、真乃はまた素早く横へ動いた。真乃の後ろに階段がある。
清吉は真乃がさっきまで立っていた場所につんのめりかけたのをなんとか立て直し、階段を駆け上がっていった。その後ろ姿は完全に男である。
今度は相手が女だからそれで良いのかもしれない。それにしても、何か余計なことをしないではいられない奴だなと、真乃は呆れていた。
何を企もうと、真乃には見え見えだ。
「このお方がるい様の用心棒でございますか」
真乃が階段から声がした方に眼を遣ると、寛弥が信じられないというような顔つきをしていた。
「見た目に騙されてはいけませんよ。とてもお強いの。刀を抜かせたら、右に出られるお方が果たして何人おられるやら。お前さんよりずっと逞しいお方よ」
寛弥と長く別れの挨拶をしそうなるいの雰囲気に、真乃は先に土間へと降りた。その時表から怒鳴り合う声が聞こえてきた。
「なんだとぉ、もういっぺん言ってみやがれ!」
「おう、何度でも言ってやらぁ。おめえみてぇな腰抜けは初めてだよ」
「腰抜けはてめぇの方だろうがよ!」
「丹次郎、いいぞ!」
「思いきってやっちまえ!」
言い合いしている輩も二人を囃す声も、呂律が回っていない。明らかに酔っぱらいの喧嘩だ。
声の方向はるいの帰り道とは逆だった。さっさと帰れば問題無いと真乃が思ったところに、るいが慌ただしく土間に降り、真乃の腕に手をかけてきた。
「青井様、表の喧嘩を止めてくださいませ!」
真乃はお節介ぶりに驚いた。
「犬も喰わぬ酔っぱらいの喧嘩だ。帰り道は逆なのだから、わざわざ手を出す必要はない」
「寛弥の帰り道なんですよ!この子が通りかかったらきっと絡んでくるわ」
「そういう時のための金剛ではないか」
真乃は顎で大男の方を示した。
「六兵衛はあんな大きな荷物抱えてるんですよ。この騒ぎだと何人もいるじゃありませんか!守りきれないわ!」
大きな荷物を抱えていようと、あれだけの大男なら、目にしただけで大抵の酔っぱらいの酔いが覚めると思った真乃だったが、言い合いしている間が勿体ないと考えた。
「私はそなたの用心棒であって、蔭間の用心棒も酔っぱらい退治も請け負ってはおらぬのだがな」
ぶつぶつ言いながら、真乃は茶屋の戸を開けた。
七、八間ほど先に男が五人いて、そのうちの二人が取っ組み合っていた。残る三人は囃子方だ。
真乃は様子を見ようと思い、のんびり向かったが、喧嘩は思いの外展開が早かった。すぐに一人が懐から匕首を抜き、もう一人は包丁を出した。
真乃は道の端にあった小石を二個拾うと、二人の小手めがけて立て続けに投げた。
真乃の読み通りの動きを見せた二人は立て続けに「あ痛っ!」「イテッ」と声をあげて得物を落とした。
「邪魔しやがったのは誰でい」と一斉に真乃の方を向いた五人は、その姿に呆気にとられたらしく、動きが止まった。
「俺達に絡んだら、その綺麗なお顔が台無しになりやすぜ、おわけぇおさむれぇさんよ」
「狭い道の真ん中で喧嘩はやめられよ。邪魔になる。どうしてもやりたいなら、せめて大通りに出てやれ」
「けっ!なまぁ言うぜ」
言い終わらぬうちに一人が真乃に向かって匕首を突き出してきた。真乃は軽くかわすと、勢い余ったその男の腰を膝蹴りして塀まで転がした。
続いて向かってきた男が構えていた木刀は、蹴りあげた膝を下ろす動きでさらりと横へ移動してかわした。と、思ったら次の瞬間には男の上腕を掴んでくるりとひっくり返していた。
残る三人は一瞬ポカンとしてから、急いでそこにあった天水桶や背中に差していた木刀を手にした。
「相手の力量を見抜けねぇとは、てめぇら長生きできねぇな」
崩した言葉遣いでニヤリと笑うと、真乃は刀を鞘ごと抜いて足捌きも軽く、さっと振り回した。
直後に木刀を持った男がばったりと仰向けに倒れた。男の額には鐺の跡がついている。その横では先ほどまで手にしていた天水桶を頭に被って男が座り込んでいる。最後の一人は塀に顔をぶつけて倒れていった。
真乃はその様子を認めると、くるりと踵を返してすたすたと茶屋に戻ってきた。
るいはどうして一瞬で三人を倒せたのか、訳が分からないという顔をしていた。
真乃は寛弥達に告げた。
「今のうちに帰られるがよい」
六兵衛という名の金剛は、さすがに真乃が何をどうしたか見切っていたようで、「お侍様、おありがとうごぜぇやす。これで安心して通り抜けられやす」と、低く頭を下げてきた。
「さ、今のうちに」と寛弥を促し、一組の布団を背負った六兵衛は、倒れている男たちを一睨みしてその横を大股に通りすぎていった。
真乃に呆気なくやられた直後の大男の登場に、五人の酔っ払いは意識が戻った者も静かに二人を見送っていた。
るいもまた二人が五人組の横を無事に通りすぎるのを見送った。
「ありがとうございました。では帰りましょうか」
待たせておいて、それが当然というようにるいは真乃へ振り向いて言った。
真乃は余計な騒ぎを起こしたくなかったから、何も言わず、懐手でるいと並んで歩き始めた。
るいはすぐに一人で喋り始めた。
「寛弥はあたしの小間物屋に来てくれる気がするわ。寛弥が来てくれたら言うことなし。あの子、しっかりしてるもの。お金貯めないとね。うふふ」
「『あたしの小間物屋』?」
黙っているつもりだったのに、真乃はつい聞き返してしまった。
るいは楽しげに答えた。
「小間物屋を開くのがあたくしの夢ですの。間口二、三間の小さなお店を開くのが。大貫屋の旦那様にも少しずつ商いのことをお聞きして、そのためにコツコツお金貯めてるんです。仕立物を引き受けるのもそう。大きな声じゃ言えないけど」
るいは後半を囁いた。
「蔭間買いする金は別口なのだな」
真乃は口調に嫌味を入れた。
「将来のための費えですもの。金貸しとおんなじ。後々利ざやが返ってくるんですよ」
るいは真乃の嫌みに気がつかなかったのか、気がついてもどうということはなかったのか、にこにこ顔だった。
「利ざや?」
「あの子達、すぐに置屋を追い出されてしまうけど、その後の身の振り方をうまく見つけられない子が少なくないんです。新しい勤め先で元陰間と苛められることも。だから、そんな行き先に困るような子がいたら手代として雇いますの。小間物屋は女客が多いでしょ。器量の良い子が接待したら、喜ぶって寸法」
昔は役者の卵が多かった陰間だが、今では芝居との繋がりはほとんど無いらしい。彼らの行く末は真乃もほとんど知らないでいた。
「もちろん雇う子の人柄は見極めないとね。そのお店をお婆さんになるまで営むんです。お婆さんになるまでには手代の中から頼りになる子も出てくるだろうし、そうなったらあたくしは左団扇ね。そこまでうまくいかなくても、なんとかあたしと奉公人が慎ましく暮らせる分が儲かればいいんだけど……青井様は将来どうなさるおつもりですの?このままずっと用心棒をお続けになるのでございますか?」
るいの突然の将来質問に、真乃は一瞬意味もわからなかったくらい戸惑った。全く考えていないわけではなかったが、それほど先のことは考えていなかった。せいぜいここ数年のことだ。
「数年の内に家を出ようとは思っている。兄夫婦にとって、私のような者は邪魔になるだろうからな。用心棒で得た金子は一部は父上に渡し、残りはなるべく使わず貯めるようにはしている。いつまで用心棒で稼げるかということもあるし……が、実のところ、あまり先のことは考えていない」
「どうしてですの?」
「人生、いつ何が起こるかわからないではないか。火事や流行り病で毎年何人亡くなっている?それに剣術が強いということは恨みも買いやすい。腕が落ちた頃に仇だなんだと若い者に向かってこられては命を落とすことになる」
人生を悲観しているわけではない。誰もがいつかは死ぬ。それが早いか遅いかだ。
真乃が七つの時に生まれた妹は、二才で死んでしまい、母の芳乃が体調を崩したのは妹を産んだのがきっかけだった。
火事で逃げ遅れたり、労咳、中風、江戸患いと色々な病に襲われ、戦がなくても死はすぐ側にある。だから、真乃は自分の生き方をそれほど奇異とは思っていなかった。
「そんな……」
るいは少しの間絶句した。青ざめた風まであった。だがすぐに調子を取り戻した。
「ここ数年のうちにお屋敷を出るおつもりと仰いましたけど、義姉上あねうえ様と仲がよろしくないんですか?」
「そんなことはない。少なくとも今のところは」
「ならば青井様がお屋敷を出なければいけないなんてことはないと思いますけど……」
るいは言いながら首を傾げていた。
「出なくて良いとは、何故だ?」
真乃は思わず立ち止まってるいに向いた。るいも慌てたように立ち止まった。
「お会いしてまだ間もないお方にこんなことを申し上げてはご無礼かもしれませんけど、青井様が煩い小姑になるとは思えませんもの。義姉上様はずっといてくださる方が嬉しいのではないかしら。あたくしなら嬉しいわ、きっと」
義姉とるいの性格はかなり違うから、るいの言うことを真に受けるわけにいかないと思った。
だがそこで真乃ははたと気づいた。家を出なければいけないと思っていたのはどうしてなのかを。
――叔母のせいだ。叔母が前々から私のような者は兄夫妻の邪魔になると……
真乃は前に向き直りまた歩き始めた。
るいも真乃に合わせて歩き出したが、真乃と違って口も動かし続けた。
「ねぇ、もしも、もしもですけど、あたくしが小間物屋を開いたら、お店の用心棒になってくださいません?まだかなり先になると思いますけど、青井様なら、あたくしの小間物屋の用心棒にぴったりだと思いますの」
「その頃には剣術の腕が落ちてるかもしれないぞ」
「破落戸の二、三人を追い払えないくらいですか?」
「いやまぁ、それくらいは相当老いてもできるだろうが……」
「それじゃあ、その頃には少しお安い金子で用心棒を引き受けてくださるかしら。ふふっ。覚えておいてくださいね。いつかお店を開いたら、青井様を指名させていただきますから」
るいは更に小間物の行商をしてみることも考えたが、女の身では危険が多いと聞いて辞めた、行商の難しさは惣兵衛長屋の振売りをしている忠蔵に聞いた……と、延々寮に帰りつくまで話し続けた。
よくもまぁ次から次へと口が動いたなと真乃は呆れつつも、同時に感心する部分があった。このるいという女は実利的な思考の持ち主らしい。夢も地に足がついている。抜け目もなさそうだ。
真乃はるいの見方をまた少し改めた。
翌朝のことである。
「おるいさん!おるいさん!」
朝っぱらからバタバタと路地を走る輩がいると思ったら、目当てはこの寮だった。
殺し屋が大騒ぎしてやってくるわけがないが、ちょうど着替えかけていた真乃は少しだけ障子を開け、声の主の風体を確かめた。
着物を尻端折りした小柄な男がるいの部屋の前で手を膝につき、はぁはぁ言っている。
障子を開ける音がした。
「朝早くから誰かと思えば、小吉じゃないの。久しぶ……」
「お、おるいさん、松三郎が殺されやした!」
沈黙があった。
真乃は素早く帯を締めると、障子を開けて濡れ縁へ出た。
かよも何事かと前掛けで手を拭きながら勝手口から顔を覗かせている。
真乃が見たときには凍りついていたるいの横顔が、少しして笑った。
「嫌だ。そんな冗談やめてよ。なんであの子が殺されるのよ」
「なんで殺されたのかはわかりやせんが、今朝早くに柳原の清水山で、み、見つかったんでやす。バッサリ斬られて……あ!おるいさん!」
るいが目眩を起こしたように膝をつき、手をついた。
「嘘……そんなこと……何かの間違いよ……」
小吉と呼ばれた男は唇を引き結んで首を横に振った。
「あっしも信じたくねぇでやすが……変わり果てた姿を見ちまいやした……」
るいは顔を両手で覆った。
「今はもう和泉橋の番屋に移されてやす。親方がおるいさんは松三郎の姉さんのような人だから知らせてこいと……大丈夫でやすか?」
どうみても大丈夫ではない。真乃が後を引き取った。
「和泉橋と言ったな?和泉橋の東にある番屋だな?」
小吉は真乃を目にして驚いていた。声はなく、こくこくと二度頷いた。
柳原土手の清水山ならば筋違橋の方が近い。わざわざ和泉橋の方へ運んだということだ。
「るい殿、どうする?番屋へ参るか?」
るいは手で顔を覆ったまま、こくこくこくと三度頷いた。
「きっと間違いよ……そんなことあるわけないわ……あんなに幸せそうだったのよ。それがそんな……そんな……」
自分に言い聞かせるような小声が真乃に聞こえた。
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