第2部 第2章

 それから二日後の昼下がり、蛎殻河岸近くにある本多大和守上屋敷の潜り戸を叩く町人の二人連れがあった。

 中から響いた誰何の声に

「総州屋の善作でございます」

 小柄な方が答えた。

「おう、善作爺さんか。待ってたぜ。おもしれぇのは入ったかい?」

 そう言いながら潜り戸を開けた門番は、善作爺さんの頭の後ろに積み上がった貸本が見えないのに首を傾げた。もう一人の人物に気づいたのはその後だった。

 貸本は善作爺さんの背中ではなく、もう一人の頬被りしている人物の背にあった。

 その人物は門番と同じくらい背が高かったが、門番の視線に腰も低く頭を下げた。

「誰だ、そいつは?」

「真吉といいます。あたしの甥っこです。女房の妹の子で。二日前に腰を痛めましたので、昨日からこいつに手伝ってもらってるんです」

「腰をやっちまったのかい。それだけの貸本を背負って毎日歩き回ってるんだから、無理ねぇな。年だしな。養生しなよ」

 気の良い門番である。

「ありがとう存じます。枕本の新しいのが入りましたから、後でお見せしますね」

「お、絵師は誰だ?」

俊成しゅんぜいでございます」

「俊成かぁ。ま、贅沢は言えねえな。待ってるぜ」

 潜り戸を入って敷地の奥へ向かう善作爺さんと甥の後ろ姿に門番が感心して言った。

「顔だけじゃなく、体格も良い甥っ子じゃねぇか。これからずっと荷物持ちしてもらいな。稼ぎが増えるぜ、きっと」

 二人は門番へ半身に振り向き、会釈を返した。


「こんなにあっさり入れるとはな。番をしてねぇじゃねえか」

 重たい貸本の山を背負っても真乃の歩きはしっかりしている。歩きながら小声で呟いた。

 この日は町人髷に結った頭に頬被りをし、脚には浅黄の股引と黒の脚絆を付け、紺縞の単を尻端折りにしていた。るいに借りた眉墨でいつもより濃いめの眉にしているから、一段と男に見える。

「更には誰も見張りについて来ない」

 念のためさりげなく振り返ってもみたが、後ろをついてくる者はいなかった。

 そもそも敷地内にあまり人がいないようである。

 中へ入れなかった場合の策も考えていた真乃だったが、あまりに簡単に入れて拍子抜けしていた。

「いつもこんな感じなのか?」

「はい、だいたいこんな感じですよ。この前と変わった風は特にありませんね」

 悪事を働いているにしては無用心過ぎる。だが見せかけかもしれない。

 真乃は初めて見る大名屋敷の様子に好奇心でキョロキョロしている風を装いながら、冷静に敷地内の様子を頭に入れていった。


 大和守上屋敷出入りの草子問屋兼貸本屋、総州屋の世子である善作爺さんのことは広瀬から教えてもらった。

 五年前から十日に一度、大和守上屋敷に出入りしているという。

 会って尋ねてみたら、あっさり内藤家の家臣に真壁という侍がいたと認めた。案ずるより産むが易しとはこのことか。

 しかし、一月ほど前からいなくなっているとは知らなかった。

「お見かけしたことが何度かあったくらいで、ご利用いただいたことは、一、二度あったかどうかでございますよ。あたしのお客様はもっぱら女子おなご衆でして。はじめは門を入ってすぐの所で店開きしてたんですが、女子おなご衆が多いということで、今は内藤様の勝手口で店開きしとります。男衆向けには前とおんなじで門脇の縁台ですけども」

 それを聞いた途端、真乃は善作爺さんと一緒に上屋敷へ入ろうと決めた。真壁勝之助のことだけでなく、藩邸内がどんな様子か自分の目で確かめたいという気持ちもあった。

「勝手口で店開きということは、内藤家の御女中が始終見張りをしているな?」

「お吉さんという御女中が仕切ってくださってます」

「それは好都合だ」

 真乃は女中の吉から内情を知ろうと決めた。るいにご息女を「誑かす」などと心外なことを言われたからではない。家臣のことだけに、十五歳の娘よりも女中の方がよく知っていると考えてのことだ。善作爺さんは一刻ほど店開きしているというから、怪しまれずに色々聞き出せそうだ。

 善は急げと真乃は即座に善作に話をもちかけた。

 善作爺さんは重たい貸本を背負わなくていい上に、駄賃までくれるというのだから一石二鳥と、真乃の提案にすぐに応じた。


 小藩といえども譜代の本多家が拝領している敷地は三千坪近くある。町地ならば町一つ優に入る大きさだ。

 この日の目的地、定府家老、内藤家の拝領屋敷は、敷地のほぼ真ん中に建つ藩主とその家族が暮らす御殿の脇に位置する、間口十間ほどの庭と冠木門付き平屋だった。

 家老と言っても一万石の小藩だから、内藤家の録高は、青井家と同じ二百石である。

 しかしながら、三崎藩では通常より高い割合の六割を年貢として納めさせている一方で半知借上が行われているため、実際の収入は六十石ほどでしかない。

 善作爺さんによると、内藤家の奉公人は男が用人、中小姓、中間に下男一人ずつに、女中一人、下女一人いるはずなのだが、爺さんがよく顔を合わせるのは女中の吉、下女と下男だけとのことだった。

 ――中小姓が一人ならば、『能勢豊』は内藤家の用人なのだろうか?

 その真乃が考えた可能性は、これまた善作爺さんにあっさりと今度は否定された。

 内藤家の用人はこれまでに数度会っただけだが、かなり年配の侍だというのだ。そして、「とよ」という名のつく長身の侍に善作爺さんは上屋敷で見覚えがないという。

 それにしても、六十石でそれだけの数の奉公人は多すぎる。所帯は火の車ではないかと真乃は思う。

 しかも家老という立場は、見栄をはらなければいけないこともあるだろう。状況だけならば悪事を企んだり、良からぬことに加担しても不思議はない。


 善作爺さんは慣れた足取りで内藤家の裏へと回った。

「総州屋の善作でございます」

 裏門の外から声をかけると、「待ってましたよ。すぐに開けますから」と小さく声がした。

 裏門がまだ開かないうちに、目敏い女達が近くの長屋から次々と現れてこちらへやってくる。

 真っ先に駆けつけた十三歳くらいの娘は二間ほど近くまで来たところで急に立ち止まると、呆然と真乃の顔を見つめた。

 真乃は会釈した後で軽く微笑んだ。

 娘の頬がみるみる赤くなり、さっと下を向いた。

「おきみ様、今日は前々からご所望の本をやっとお貸しできますよ」

 善作爺さんは馴染みの客にいつものように声をかけたのだろうが、客はいつもと違った。返事はなく、俯いたままだった。


 その間に善作爺さんと真乃、もとい真吉は、老若の女達、二十人程にすっかり囲まれていた。

 武家の女達とあって騒ぎ立てる者はいなかったが、誰もが明らかに『真吉』を気にしている。妙な熱気があった。

「あっしの甥っ子でございます」

 善作爺さんとしたことが異様な雰囲気にのまれたのか、暫く無言でいたところから、やっと連れを紹介した。

 その声に被るように内藤屋敷の裏門が開く音がした。真乃が裏門に目を向けると四十くらいの女中が現れた。

 真乃はお吉さんだなと、女に一礼をした。

「あら、大変な熱気だこと。今日は一体どうしたんです?」

 言い終えてから、女は『真吉』に気づいたようで、目を見開いた状態から動かなくなった。

「お吉さん」

 善作爺さんの声に我に返った吉だったが、直後に別の方向から威圧的な男の声がした。


「内藤様の邸内に入れるのは善作だけだ。真吉とやら、お前はすぐに門の外へ出ろ。そこで善作を待っておれ」

 声がした方に目を遣ると、女達の壁の向こうに四十くらいの侍の渋い顔が見えた。

「この荷物はどうするんでやすか?今の叔父には担げねぇんですよ」

 真乃はいかにも困ったという顔で返した。

「ここにいる市蔵がお前の代わりに門まで担ぐから、安心しろ。そこに荷をおろして、こっちへ来い」

 侍の斜め後ろには善作爺さんより少し若いくらいのがっちりした体格の中間が立っていた。

 真乃は「へい」とおとなしく荷をおろした。

 ――ま、そうはなんでもうまく事は運ばないか。


「原田様、今さらそのようなことを……」

 善作爺さんと『真吉』を取り囲んでいた女の一人が言った。

「善作さんの甥御さんですし、人相からも悪い人ではございませぬよ」

「原田様も善作さんが来られるのをいつも楽しみにしておられるではありませんか。俊成さんをご贔屓になさっているとか」

 原田の嗜好を暴露したのは裏門に立つ吉だった。

「お疑いでしたら、原田様も中へお入りになり、お見張りになるとよろしゅうございますわ」

 吉の提案に女達の大半が頷いたようだった。

 原田という侍の渋い顔が一段と渋くなった。

「敷地内でこのような騒ぎを起こす輩を見過ごすことはできぬ」

 原田の言葉に女達は全員ムッとしたように見えた。


 予想していた展開の一つとはいえ、真乃も女の「端くれ」としてムッとした。

 勤番侍も外出に色々制限はあるが、それでも女達より気軽に外出して息抜きしやすい立場にある。

 月に数度の貸本屋の訪れに少々騒いだところで一体何の問題があるというのか。

 しかも実際のところ、いつもより一気に人が集まり、いつもと違う熱気があるかもしれないが、いたって静かである。

 この程度を騒ぎと呼ぶなら、大声を出しただけで戦だ。

 やはり何かあるからだろうかと真乃は考えた。


「真吉、すまねぇな」

 そう言った善作爺さんの顔は心配そうだった。そうして、さりげなく指を二本立てた。

 真乃は僅かに頷いた。

「一刻近くかかるよな?外で一服してるよ」

 真乃は善作爺さんの肩を安心させるように軽く叩き、原田の方へ歩き出した。

 女達は黙って道を開けたが、名残惜しそうな目で真乃、もとい、真吉を見つめている。

 近づいてみれば、原田は真乃より少し背が低かった。

「お前のような奴は油断ならない。わかっておるのではないか」

 原田の決めつけに真乃は呆れた顔を返した。

「お言葉を返して申し訳ありやせんが、そう簡単に決めつけられるってのが、あっしにはわかりやせんね」

 真乃は原田へ一礼して門へと歩きだした。原田が慌てて後を追ってくる。

「こら、待たぬか」

 原田の声に真乃は歩みを止めて振り向いた。

「すぐに門から外へ出ろと仰ったではありやせんか」

「すぐに」を強めに言った真乃に原田の顔色が赤くなった。


 真乃の持論では腹を立てた侍ほど処しやすい。我を忘れるほどの立腹で刀を抜けば、腕に自信のある真乃にしたら、こっちのもの。そこまでの立腹でない場合、大抵はそれ以上墓穴を掘りたくないと思い、喧嘩両成敗も恐れて、それ以上の関わりを断とうとするのだ。

 原田も関わりを断つ方を取った。


「確かにそう申した。二度と当屋敷へ入るでないぞ。さぁ、さっさと門へ行け。儂はここで見ておるからな」

 待てと言った直後に今度はさっさと行けときた。日頃ならば一言言い返したくなる真乃だったが、今は思惑がある。

 原田に再度黙礼をして、門へ大股に歩いていった。


 あと少しで門に着くという時、背中に張りついている原田以外の鋭い視線を感じた。そちらをさりげなく見ると、門に続く長屋の前で三人の中間が立ち話をしていた。

 視界に入った時にはこちらを見ていなかったが、真乃は三人のうちの誰かが自分を見ていたに違いないと思った。

 最初は無用心に見えた大和守上屋敷だったが、目端のきく奉公人がそれなりにいるようだ。


 気の良い門番は気の毒そうに潜り戸から外へ出る真乃を見送った。この後この者は原田にこっぴどく叱られるだろうなと、真乃の方も内心では門番を気の毒に思いながら辞儀をした。


 さてどこで時間を潰すかと、潜り戸を出たところで真乃は辺りを見回した。うまくことが運んでいるかもしれないから、遠くへ行くわけにはいかない。

 町地と接していれば楽に時間を潰せるのに、大和守の上屋敷は武家屋敷に囲まれていて、近くにある町地からは様子が全く見えない位置にある。

 視界の隅には番所も見えている。

 番所の連中に絡まれたら厄介だ。

 仕方がない、ここで気長に待つかと覚悟を決め、門脇の灯籠の影に回って真乃はぼんやりと向かいの雅楽守中屋敷の塀を眺めた。

 十五万石の酒井雅楽守の敷地は中屋敷でも一万坪を越える。目の前の塀は延々どこまでも続いているかのように北西へと延びていた。


 こうした事態は十分予想できたことなので、善作爺さんには『真吉』が門を入れなかった場合や途中で追い返された場合の対処法を教えていた。

 途中で追い返されたので、善作爺さんがこっそり指で示したように、第二の策を取ることになる。

 もっとも、善作爺さんが三本指を立てたなら、真乃は三番目の真吉が門内に入れなかった場合の策でいくつもりだった。大した違いはない。

 善作爺さんがこういう場合はこれだと思うところの策で良いと思っていた。

 二番目の策とは、吉を総州屋まで外出させる策である。

 ふと反対側の大川の方を向いた時、隣の旗本屋敷との間の路地から女が出てきた。顔に見覚えがある。内藤家の女中、吉だった。

 真乃は心の中で自身の策の成功を確信した。



「内緒でございますよ。善作さんを信じてのことでございますからね」

 吉は目隠しさせた『真吉』を再び上屋敷へ招き入れた。狭い路地に面した塀に隠し戸があるらしい。

 しかしこの展開は真乃の予想と違っていた。予想していたのは、せいぜい吉の真乃への質しだ。

 敷地内に入ってからも、吉は微妙にあちこち方向を変えた。匂いや音からして、林の中や畑の側を通ったようだ。

 しっかりと『真吉』の右手を握って先を歩く吉は、隠し戸に近づいて以降無言で通したが、途中、何度か立ち止まって様子を窺う風があった。

「着きました。ここで少しお待ちくださいね」

 再び口を開いた時にも小声だった。

 目隠しした『真吉』を残して吉が小走りで家の中へと入っていったのがわかった。

 真乃の目の前には家の気配がある。そこに新たな人の気配が加わった。


 吉が戻ってきて目隠しがはずされると、目の前に濡れ縁があり、そこに十代半ばの少女が姿勢よく座っていた。

 内藤家老の長女、だと真乃は思った。

 この展開は全く真乃の予想外で、善作爺さん、何をどう言ったんだろうと心配になったが、きさの姿にともかくも両膝をついて辞儀することにした。

「善作殿からあなた様は実は微録の御家人の御次男で、奉公先を探しておられるとお聞きしました。誠でございますか?」

 きさの数えの十五とは思えない落ち着いた言葉とその中身に、一瞬、真乃は動揺した。


 ――その策は二ではなく、三じゃないか!

 三であっても、いきなりきさと面通しするとは思っていなかった。

 真乃は内心では焦って善作爺さんに文句をつけながらも、表面は落ち着き払って武家風に片膝を立てた姿勢に変え、きさの質しに答えた。

「はい。実はこの前勤めた御家で色々ございまして、次の奉公先を決めるにあたっては御屋敷の中を下見できたらと、僭越ながらも考えたのでございます」

「あなた様のような御方は、お家によっては色々ご苦労がおありでございましょうね。お察しいたします」

 あっさり納得してもらえて真乃はここでも若干肩透かしを食らったが、良い方向に話が進んでいるのは間違いないので、相手の次の言葉を待った。


「当家への奉公を考えておられるのですか」

「実のところそこまではまだ考えておりませぬ。今は幾つかの御屋敷の実情を知りたいと思っているだけでございます。たまたま知り合いの善作殿が御当家に馴染みがあるというので、一緒に参ったしだい」

 下を向いていた真乃がちらと顔色を窺ったきさは、少し頬の赤みが強くなっていた。

「そうなのですか。でもちょうど良い時にお見えになったかもしれませぬ」

 真乃は顔をあげてきさと目を合わせた。きさは慌てて目を反らして庭の方を見た。


「と、仰いますと?御暇願いを出した御方がいるのでございますか」

「少し前にこの家を去った者がいるのです。わたくしが幼い頃から勤めていた、とても頼りにしていた者だったのですけども」

 きさの声音は悲しそうだった。

「そのような御方がお辞めになるとは、一体何があったのでございますか?」

「詳しいことは聞いておりませぬが、拠ん所のない事情で故郷へ戻ることにしたとか。生まれは三崎の御領分ではなかったのです」

「急に辞められたのですか?」

「はい。父上も驚いたようです。残念だと申されていました。用人の政右衛門や中間の半蔵も残念がっておりました。我が家で揉め事があったからではございませんの。そのようなことはわたくしが知る限り当家で起こったことはありません。その点はご安心なさいませ。あの……」

 そこできさは少し言いよどんだが、すぐに言葉を続けた。

「父は妾もおかず、母上一筋。そのような父ですから、家士達も実直で、堅苦しいと言われることがあるほどです。浮いた話は一つもございませんのよ」

 きさは真っ赤になりながら、一息に言い切った。


 真乃はしみじみときさの顔を見つめた。きさは真乃の視線に戸惑い、しまいには俯いた。

「御嬢様は御父上を大変尊敬しておられるのですね。御気持ちが伝わる御言葉でございました」

 きさにとっては意外な返しだったようだ。真っ赤な顔をあげて真乃を見つめ返した。

「その……少し前に御辞めになった御方ですが、どのような御役を?御嬢様が頼りにしておられたということは、御小姓をなさっておられたのでしょうか」

 暇を取る直前の役目は確かめておく必要がある。話の流れからも尋ねて当然のことだ。

 そのせいか、きさに落ち着きを取り戻した風があった。

「御役としては中小姓になりますが、父上はいずれ用人にしたいと思っておられました。政右衛門の娘婿にして後を継がせようという話がございました。ですから、最近は政右衛門の補佐もしておりました。政右衛門はその者が暇を取ったことに気を落とし、今は一気に十も年を取ったかのような有りさまです」

「そのような御方が御辞めになるとは、御父上もさぞ落胆されたこととお察しいたします。そこまでの御奉公がわたくしにできるかは心許ない処がございますが、当家が奉公人にとってありがたい御家柄なのはよく承り申しました」

「あ、いずれは用人と考えていたと申しましても、勝之助の表向きの御役目は中小姓でしたから、後任も中小姓でお探しになるはずです」


 慌てたきさの口から遂に「勝之助」という名が出た。

「その御方は勝之助と申されるのですか」

「はい。あの、もしも……」

 言いかけて、きさは口をつぐんだ。

「もしも、何でございましょう?わたくしごときにこうしてお会いくださった御嬢様に、御恩返しとして、わたくしにできることでしたら、どのようなことでもお引き受けいたします。遠慮なく仰せ付けを」

 きさの目が真乃の顔から庭へ、庭から真乃の顔へと、行ったり来たりした。

 真乃はきさの心の動きそのままだと黙って見守った。

 やがてきさの目がひたと真乃に向いて留まった。

「もしも勝之助に出会うことがございましたら、わたくしがこれまでの礼を申していたとお伝えください。それから、戻りたくなったらいつでも戻るようにと。わたくしだけでなく、弟の要も妹のなつも勝之助のことは大好きなのです。これからのことを案じております。勝之助は名字を真壁と申します。真壁勝之助という、左頬に古傷のある武士です。一見では古傷のせいもあって強面ですけれど、それは心の優しい、清廉な侍なのです」


 きさの熱のこもった訴えに、真乃はぐっと感情を圧し殺した。

 その勝之助がもうこの世にはいないこと、しかも父親によって殺されたかもしれないなど、どうして言えよう。

 このままこの姉弟達がその事実を知らずにこの件に決着をつけることができたら……その道が無いものか。


「真壁勝之助殿へのお言付け、承りました。もしもどこかで見かけることがありましたら、必ずお伝えいたします」

 もう勝之助を見かけることなどあり得ない。この伝言は真乃の心に仕舞っておくしかない。

「辞めた御方といえば、ひょっとしてこちらに『ゆたか』、あるいは『とよ』の付く御名前の御方が勤めていたことがありますでしょうか」

 話を変える意図もあり、真乃はこの家か三崎の御領分に関わりがあると思われるもう一つの名を口にした。

「『ゆたか』、あるいは『とよ』の付く名でございますか」

 きさは少し考えただけで答えた。

「当家にはおりませぬが、御殿様の御用人、山岸様の御家中に確か、志水豊之進という中小姓がいたと思います」


 きさの答えに真乃は目から鱗が落ちた気分だった。

 自分の頭が硬くなっていたと反省した。

 内藤家老が不本意ながらも松三郎とるい殺害を直接命じたのだと決めつけてしまっていた。

 藩内が一つにまとまっているとは限らない。むしろ、まとまっている方が珍しいだろう。

 内藤勘左衛門は娘が心から信頼し、出入りの町方の与力にも評判の良い実直な人物である。

 松三郎の旦那が志水豊之進だったならば、殺害を命じたのは内藤家老ではなく用人の山岸ではないか。

 山岸とその中小姓、志水豊之進を調べないといけない。


「その御方は今も山岸様の御家中におられるのですか?」

 真乃がこの問いに対し、最近暇をとったようだという答えを期待していなかったと言えば嘘になる。

「暇をとったというお話は聞こえておりませんから、おそらく。何故そのようなお尋ねを?」

「いえ、その……真壁殿のお話で思い出したのです。以前にも言付けを頼まれたことがあったのを。あまりにも漠然としていたので、すっかり失念しておりましたが」

「ゆたか、あるいはとよのつく名前の武士に会ったら……という言付けだったのですか?」

「はい。相手は病人でしたので、あまり詳しいことも聞けずじまいです。その上御嬢様のような心のこもった言付けではありません。ですが、頼まれたことを思い出しては尋ねないわけにもいかないと、余計なことを口にしてしまいました。お忘れください」

 とっさにの出任せに、冷や汗がでそうになっていた真乃だった。


 家の反対側からざわめきが聞こえた。その中に善作爺さんの声もあった。

「善作殿が店仕舞いしたようですな。門の外へ戻らねば」

『真吉』が暇を告げて立ち上がると、驚いたことにきさの目が潤んできた。

 その目に何かもっと言いたいことがあるのではないかと真乃は思った。父親や殿様の周りで何か起きていると感じているのではないか。勝之助への言付けを『真吉』に頼んだのも、故郷へ帰るというのは嘘で、府内にいる可能性が高いと思っているからではないか。

 だが聞き出すには時が無さすぎた。

「また……いえ、何でもございません」

 再び吉に目隠しされる直前に真乃に見えたきさは今にも泣き出しそうに思えた。

「もしも、御嬢様がお嫌でないならば、いつかまたお会いいたしましょう。わたくしは当分の間総州屋に厄介になっております」

 それが再び吉に手を引かれて歩き出そうとする時に、『真吉』がまだ濡れ縁に座っているきさへ投げた最後の言葉だった。


 吉が真乃の目隠しを外したのは、路地の入り口、寸分違わず目隠しした場所だった。

「忝ない。御面倒をおかけした」

 真乃が武家調で礼を言うと、

「その言葉遣いの方がしっくりしていらっしゃる。あなた様がお武家様なのは、お歩きになる後ろ姿でわかりましたのよ」

 吉はふふふと口許を袖で隠して笑った。

「後ろ姿でばれましたか。某、役者にはなれませぬな」

「ですが、そのせいで善作殿のお話に納得いたしたのです。それに、お礼を申さねばならないのは、わたくしどもの方かもしれませぬ。きさ様は嬉しそうでございました」

 吉の顔に安堵の色があった。


 真乃は元来率直にものを言う気性だから、吉の様子に思っていたことを口にした。

「このようなことを尋ねるのは無礼と承知の上で敢えてお尋ねいたす。ひょっとしてきさ様は御父上のことで悩んでおられるのではありませぬか」

 吉の目がふいと塀へ向いた。

「真壁勝之助殿への言付けも、本当は戻ってきてくれるよう頼みたいのではと、某は感じました。そうして御父上を助けてもらいたいと」

 吉は塀を向いたまま、呟くように答えた。

「勝之助殿はきさ様がまだよちよち歩きの頃から内藤家に仕えてこられた御方です。穏やかなお人柄で、旦那様もご自身の御供より御子様方の御供を頼んでおられました。政右衛門殿の御息女とも仲がよろしかったですし、暇願いはわたくしにも青天の霹靂でございました」


「では、御家老の御供をすることはあまり多くなかったということですか?」

「いえ、最近は専ら旦那様の御供をしておりました。中間の半蔵だけを供にすることもございましたが、御役目でお出掛けになる時は本来中小姓を二人連れなければならないお立場ですから」

「ではもう一人、中小姓を急遽お雇いになることもあったのですね?」

「いえ、そんな時は家中で手の開いている御方の中小姓をお借りするのです。お恥ずかしいことながら、半知借上もあり、当家中に余裕のある家はございません。ですから、家中の者同士で奉公人を遣り繰りしているのでございます。大抵は御用人様の中小姓をお借りしております」

「……真壁殿も内藤様以外の供をすることがあったということですか?」

「多くはございませんが、そのようなこともございました」

 話がややこしくなってきた。

「例えば、山岸様のお供をすることもあったのでしょうか」

 具体的に名前を挙げて追及するのは良くないと思いつつも、真乃は知りたい気持ちを抑えることができなかった。

「あったと存じます。山岸様だけでなく、江戸詰めの御用人様方のお供をしたことが何度かございました」

「つまらぬことを尋ねてしまいますが、ひょっとして、山岸様は、内藤様と同じくらいの御年令なのでしょうか」

 ここまできたら、もう聞かずにいられない。

「山岸様は旦那様より三つお若いだけでございますから、同じくらいの年齢と申せますね。背丈もほとんど変わらないので、後ろ姿では間違えた御方もいらっしゃいます」


 糸口を見つけたつもりが、手繰った糸の先が絡み合っている。

 真乃は考え込みそうになるのをなんとか堪えた。

「あの……山岸様に何か?お探しの御方が山岸様の中小姓、志水様ではないかと思っておられるのでしょうか」

「あ、いや、そのぉ……某は何事も細かく知りたがる質でして。良くないとわかってはおるのですが、なかなか直りませぬ。立ち入ったことをお尋ねし、誠に申し訳ありませぬ。では、これにて」

 吉に疑問を抱かせないために、今日はここで引き上げるべきだと真乃は判断した。背中に善作爺さんの視線を感じてもいた。

 考えていたのとは少々違う展開だったが、ともかくも大きな収穫があった。


 真乃が路地に入る吉を見送って振り向くと、灯籠の側で善作爺さんが背負子を守るようにして立っていた。真乃が近づくにつれ、善作爺さんの目の揺れ動きが大きくなっていった。

「そ、そこにいたのはお吉さんでしたね?」

 真乃は安心させるように頷いた。

「うまくいったよ。よくやってくれた」

 それを聞いた善作爺さんはその場にへたり込んだ。

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