第2部 第3章

 善作爺さんを総州屋裏の長屋に送り届けてから、真乃は大貫屋の寮へと帰った。

 わかったことは多いのに、却って肝心のるいと松三郎が叶屋で見た頭巾の武家が誰かわからなくなったことに頭に霧がかかった気分でいた。

 そんな気分のまま惣兵衛長屋の木戸口を入ろうとした時、貧相な浪人とすれ違った。

 驚いたことに、『能勢豊』が住んでいた長屋を尋ねた時に見た浪人だった。肩をいからせながら、悠々と表通りへ出ていった。頬被りした町の若い衆がるいの用心棒だとは気づかなかったようだ。


 るいに会いに来たのかどうか確かめねばと思いながら路地奥に向き直ると、ちょうどみねが自分の店に入ろうとしていた。

 顔色が良くないように感じた真乃は、町の若い衆姿のまま気軽に声をかけた。

「おみねさん、顔色が良くないようだが、具合が悪いのか?」

 みねは文字通り飛び上がった。真乃を見返った顔は真っ青だ。

「驚かせて悪かった。こんな格好をしているが、紛れもなく青井真之助だよ」

 真乃の言葉にみねは心休まるどころか、更に顔をひきつらせた。

「ま、まぁ、あ、あ、あお、あお、青井様でしたか。どこの男前の町の若い衆かと……」

 声も震えている。

「どうした?何があったのだ?」

「い、いえ、大したことは……ちょいと暑気あたり起こしたみたいなんで、うちのが帰ってくるまで少し横になろうかと……」

「それはいかんな。弦好先生を呼んでこようか」

 真乃の気遣いにみねは激しく首を横に振った。

「お医者さまなんて、とんでもない!しばらく横になってれば、治りますんで。それじゃ」

 最後は真乃の方を見ずに店に入ってピシャリと戸を閉めた。

 日頃の愛想の良さからあまりの違いである。腑に落ちない。

 るいかかよが事情を知っているかもしれないと、真乃はみねの店の前を通りすぎ、一番奥の店の引戸を声をかけながら開けた。


 今日は真乃がるいとは別行動で外出するため、八代に昼間の用心棒を頼んでいた。

 八代は人柄も剣術の腕も楠田より頼りになる。真乃は良い相棒を得たと思っていた。

 真乃は土間に立ったまま、八代に留守の間の様子を尋ねた。

 八代は大貫屋の主人がやって来ただけだと答えた。

 今ここを貧相な浪人が通らなかったかと尋ねると、

「確かにここまでは来ましたが、すぐに引き返したのですよ。隙だらけだから、刺客ではないと思いつつ、一応警戒はしたのですがね」

 るいに会いも話しもしていないと八代は断言した。

「あの男にも気をつけていただきたい。襲撃してきた連中とは別口だと思いますが、何か企んでいる風があります。きっとまた来ますよ」

 真乃の言葉に八代は承知したと頷いた。

 まもなく楠田がやってきて、八代と交代する。

 真乃は明日も出かけることになりそうだから引き続き昼間の用心棒を頼むと八代に別れの挨拶をし、やっと大貫屋の寮の枝折戸を開けた。


 台所からるいとかよの楽しげな話し声が聞こえていた。

 声に釣られるように真乃は勝手口を覗いた。

「お帰りなさいませ」

 同じ言葉を発しても、明るい表情のかよと違い、るいの顔は無愛想だった。

「本当にお吉さんに会っただけでしたの?」

 最初にそんな質しがくるとは思っていなかった真乃である。

「いや、それが……きさ殿にも会った」

 るいの目が厳しくなった。

「やっぱり……始めからそのおつもりだったのでしょう?」

「そんなつもりは毛頭なかったよ。吉殿から必要な話が聞けると思っていたからな。屋敷奥に案内されて、大いに面食らった」

 真乃はざっと経緯を話した。

「そうなんでございますか」

 るいは一段と無愛想に返してきた。目が疑っている。

「それで……何かおわかりになりましたの?」

「わかったことで、謎が増えた」

「あたしのような者にもわかるようにお話くださいません?」

「真壁勝之助は内藤家の人たちに心から信頼され頼りにされ、いずれは用人に取り立てようとまで思われていた中小姓だったが、供をしていたのは内藤家老だけではないのだ」

 真乃の端的なまとめに、るいも足湯を持ってきたかよも面食らっていた。

「小藩とはいえ、家老の御家だから、まさか家臣を使いまわしているとは考えていなかった。我ながら頭が固かったと悔いたが……固かったのは私だけではなかったようだな」

 真乃は目の前の二人の顔つきに最後の方はにやりとしていた。


「あたしが叶屋でお見かけした頭巾のお侍は内藤様ではなかったと仰いますの?」

「それがわからなくなったのさ。内藤様だったかもしれないし、内藤様でなかったかもしれない。松三郎の旦那が内藤家の家臣でないことだけははっきりした」

 るいが一瞬息を止めた。胸元に手をやってから、口を開いた。

「では、一体どなたの?」

「確かめるのはこれからだ。本多大和守様御家中ではあるだろう」

 色々な思いが駆け巡っているのだろう。るいは口を引き結び、じっと真乃を見つめてきた。


「ところで、おみねさんが店に戻るのを見かけたが、随分具合が悪そうだった。医者を呼ばなくて良いということだったが、何か聞いてないか?」

「ですよね。顔色悪かったですよね……あたし達も気になってどこが悪いのか尋ねたり、弦好先生に診てもらったらと言ったんですけど、一晩ゆっくりすればよくなると言い張って……おつねちゃんがおみねさんのご実家に行ってるというから、それじゃあ夜食の用意はあたし達がやりましょうと言ったら、もう用意は済ませてる、で……そうそう、おみねさんが田楽のお味噌を持ってきてくれましたのよ。夜食はなすとお豆腐で田楽にしましょう。お酒がすすむわね」

 るいは表情をくるくる変え、臨場感たっぷりに語った。

「おつねがいない?」

「ええ。おみねさんも自分で言ってたけど、こんな時に具合が悪くなるなんて、ついてないというか、間が悪いというか……」

「おつねはいつおみねさんの実家へ行ったのだ?おみねさんの実家はどこだ?」

「え?今朝って言ってました。おみねさんの実家は、確か砂川の方ですよ」

「昨日おつねに会った時、そんな話は出なかったがな……もうすぐまた籠りだと言っていただけで」

「おつねちゃんはまだはっきりしないけど、たぶん三十日ごとですから、次の『お客』が来るのは二日後ね。なんでも急に行くことになったらしいですよ。親戚の法事を忘れてたから、おみねさん、自分の代わりにおつねちゃんに行ってもらったって。無理しておみねさんが行ってたら大変なことになってたから、おつねちゃんを行かせてよかったのよねぇ」

 最後はかよに同意を求めたるいだった。

「……まさかな……まさか……」

 真乃は腹の底から浮かんできた不安を打ち消そうとした。なにかと悪い方に考えるのが悪い癖だと、自分に言い聞かせた。


 いつもの髪型と着流し姿になったところにるいが呼びにきた。夜食には少し早いが、真乃が気にしないならば、焼きたてを一緒に上がり框で食べようというのである。

 元来きさくな真乃である。気の張らない相手となら、上がり框でも土間でも庭でも断らない。

 真乃が上がり框に座ると、かよが焼きたての豆腐にみねが合わせたという味噌をたっぷり付けて小皿に乗せて出してきた。

「まずは青井様から、どうぞ」

「ありがとう」

 そう言って口許まで豆腐を持ってきた時、真乃の嗅覚が異常を感じ取った。

 口には入れず、味噌の匂いを嗅ぐ。

 微かだが、味噌や山椒とは異なる刺激臭がある。

 ほんの僅か、舐めてみた。微かにピリリときた。


 ――間違いない。

 真乃に続いて食べようと待ち構えていたるいが、真乃の様子にきょとんとしていた。

 真乃は厳しい目でるいとかよを見た。

「この味噌を口に入れてはならんぞ。おかよさん、急いで弦好先生を呼んできてくれ。もうすぐ万蔵が来るな。おみねさんは万蔵に呼びに行かせよう」


 万蔵に店から引っ張りだされたみねは、真乃、るい、かよ、弦好を前に倒れ込むように土下座し、泣きながら叫んだ。

「すみません!すみません!おるいさんにもおかよさんにもこれまでなにかとお世話になったのに、こ、こんなことしでかして……でもまさかトリカブトとは知らなかったんです!本当です!少し具合が悪くなる程度だって書いてあったから……」

 みねは号泣し、言葉は続かなかった。

 弦好も真乃と同じ結論だった。

 味噌の中には猛毒のトリカブトが入っている。

 弦好と真乃が話すのを聞いて、るいもかよも言葉が無かった。号泣するみねを前にしても、二人はまだ信じられないという顔つきをしている。


 わぁわぁ声をあげて泣くみねの肩に真乃はそっと手を置いた。土下座したまま、みねがびくりと肩を動かした。

「おみねさん、おつねはどうしたのだ?本当におみねさんの実家なのか?」

 真乃の声は穏やかだった。みねの方はがたがた震えている。

「この期に及んで隠しだてはやめなさい。すべてを打ち明けるのがお前とおつねのためだ」

 みねは土下座して俯いたまま、呻くように言った。

「おつねは……おつねは拐かされたんですっ」

 みねの告白に真乃だけが驚かなかった。

「と、十くらいの子が文を持ってきて、その中におつねの着物の切れ端と粉の入った包みが……」

「文には、娘を返して欲しくば、同封の粉を味噌に混ぜて大貫屋の寮へ持っていけ、といったことが書いてあったのだな?二、三日具合が悪くなる程度の薬だ、と……」

 みねは顔を伏せたまま頷いた。


「一体どうして、おつねちゃんを……あ、あたしのせいなの?そんな……そんな……そうなら謝らないといけないのはあたしの方じゃない!」

 るいが思わず出した甲高い声に、真乃がしっと口に人差し指をあてた。

「我々が相手にしているのは相当なワルだ。稀にみる冷酷な悪党だ。こちらも策を練るんだ」

「策って、どんな?おつねちゃんを探さないと!こうしていられないわ!そんな冷酷な連中に囚われているなら、どんな目に遭ってるか……」

 勢いよく立ち上がったるいを真乃は手で制した。

「策とは、おつねを早く取り戻すための策だ。連中の手先がきっと近くで成り行きを窺っている」

 真乃は土間にいる六人を見回した。

「それを利用するんだ」


 それから間もなく、万蔵が慌ただしく大貫屋の寮を出た。

 その直後には弦好が沈痛な面持ちで出てきて楠田がいる寮の手前の店を覗き、なにやら短く声をかけた。楠田は弦好と入れ替わるように寮へ入っていった。

 それから半刻程たった頃、今度は大貫屋忠兵衛が手代二人を連れ、やはり沈痛な面持ちでやってきた。

 忙しい夕暮れ時にも関わらず、長屋の住人が何事かと大貫屋の寮を覗き見る。

 だが勝手口も障子も全て閉められていて、濡れ縁にも人影はない。

 そうこうしているうちに、中年の僧侶が妙に艶かしい若い坊主を引き連れやってきた。

 やがて大貫屋の寮から読経が聞こえてきた。耳の良い人は読経に混じって「あ痛っ!」という声が聞こえたかもしれない。


 惣兵衛長屋の住人たちは何があったのか、誰が亡くなったのかと小声で囁きあった。

 そんな路地にたむろする住人の向こう、路地の入り口に、この界隈には見慣れぬ男が立っていた。町に溢れている藍色の縞の着物を尻端折りにした男は、静かに路地に入り込むと、長屋の住人の一人に声をかけた。


「何がありやしたんで?」

 声をかけられた女は振り向きもせず、小声で答えた。

「奥の大貫屋さんの寮で誰かがお亡くなりになったみたいなんですよ。でも一体誰だろうねぇ?今日の昼間は元気な声がしてたんだからねぇ」

「するってぇと、急な病ですかい」

「そうなんだろうねぇ」

「流行り病でなきゃいいんですがね」

「ちょっと、怖いこと言わないでおくれよ!」

 女はそこでやっと男に振り向いた。

「おや、見かけない顔だね?」

 男は女の言葉に肩をすくめた。

「たまたま前を通りかかったもんでね」

 男はすぐに惣兵衛長屋の入り口へ戻り、周囲を見回した。それから軽い足取りで大通りに出ると北へ歩き始めた。

 その男の後ろ、五間程離れて後をつけ始めた男がいた。万蔵である。

 御天道様は西に沈んだが、まだ明るさが残る町中は開いている店が多く、追跡は楽だった。


 男をつけている間に西の空が茜色から濃紺、漆黒へと変わっていった。

 途中で万蔵はちらと空を見た。満月に近い月が昇っているのを見て、安心したように頷いた。これなら灯のない場所に入りこまれても追跡できると思ったのだろう。

 男二人は無言で中山道を北へと歩き続けた。

 先を歩く男は、時々屋台に目を遣りながらも何処へも寄り道せず、淡々と歩いていく。


 突然、前を行く男が左に曲がった。

 万蔵は慌ててその角まで行き、そこから先を覗き見た。男の姿が消えていた。

「しまった!」

 思わず大きな声が出て、万蔵は自分で自分の口を押さえた。

 道の両側は武家屋敷だった。御先手組の大縄地だ。

 うろうろしていると見咎められかねないが、万蔵は両側に気を配りながら奥まで進んだ。

 例の男の姿が何処にも見えない。呑気に歩いているようで、つけられているのに気づいていたのだ。

「真さん、すまねえ!けど、真さんも後をつけてたはずだよな。真さんは巻かれてねぇよな……おいらとは違うからさ……」

 ぶつぶつ独り言を言いながら、万蔵は惣兵衛長屋から後をつけてきた男と、自分の後ろからつけていたはずの「真さん」を探し続けた。


 ――ここまでつけてこれたら上出来だよ、万蔵。

 万蔵の気配が遠退くのを感じながら、真乃は心の中で万蔵を褒めた。少しずつ着実に尾行がうまくなっている。

 真乃の斜め前方、五間ほど先に例の藍縞の男が歩いている。

 男は万蔵をやり過ごしてすぐに元の通りへ戻った。

 そんな便利な抜け道を知っていたことに少しばかり感心し、男の素性を考えたりもしながら、真乃は男の後を追った。二刀を差したいつもの袴姿に笠を被っている。

 この辺りは御先手組や大御番組の与力、同心の大縄地と寺が大半を閉めている。そのどこかを根城にしているのか。

 人を拐かして隠し留めておける場所といえば、一番ありうるのは廃寺である。寺社奉行の管轄だから町方は迂闊に手が出せず、普段から町地で悪事を働く連中の格好の隠れ家になっている。


 一刻近く歩いた頃、道の両側から匂う木や草の匂いが強くなった。植木屋の多い駒込に入ったのだ。

 ふいに前を行く男が消えた。

 消えたのは廃寺ではなく、縄地の武家屋敷の一つだった。

 真乃は男が消えた屋敷の入口を通り過ぎ、二軒先から様子を窺った。

 一見ではごく普通の与力階級の家である。塀に囲われて中は見えない。

 真乃は道に人の気配がしないことを確かめ、そっとその屋敷へ近づいた。塀の高さを確かめる。真乃の背丈より三寸ほど高いだけだった。

 これなら行けると、真乃は通りの反対側にある塀際まで下がり、再度辺りを見回して誰もいないことを確かめるやいなや、塀に向かって走りだした。

 塀の手前で飛びあがり、塀の屋根の上に手を置く。そこから一気に身体を引き上げた。塀の上に片膝ついた格好で中の様子を確かめる。

 満月に近い月が照らし出した敷地内に、ほぼ真正面に建つ平屋の建物と、その右手にぼんやりと低木の並木が見えた。

 植木屋が多い地域だが、この辺りに住む幕臣達にも花や盆栽を副収入源としている者がいると聞いていた。趣味と実益を兼ねているらしい。直接売るのは憚られるため、町人が営む植木屋を経由して自分達が育てた植木や盆栽を捌いているそうだ。

 さて、例の男はどこへ消えたのか。

 平屋は静まり返っていた。

 御家人の拝領屋敷の敷地は鰻の寝床のように細長い。

 真乃はともかくも奥へ進むことにした。

 ふわりと敷地内に飛び降りる。

 パキッと枝が折れる音が足の下でおきたが、他には何の物音も何かが動く気配もなかった。


 静かに歩を進めると、平屋の向こうに離れが見えてきた。格子窓から柔らかい灯が漏れている。桁行も梁行も三間くらいの小屋だ。

 真乃は格子窓の脇へ素早く移動した。そっと中を覗く。

 中は板間になっていて、そこに五人の男がてんでに胡座をかいて座っていた。

 一人は柱にもたれた後ろ姿の膝頭しか見えなかったが、袴を履いているところから、どうやら三人が武士で、あとの二人は町人の格好だ。

 そのうちの一人、手前の方に窓に背を向けてすわっている男が着物からつけてきた男だとわかった。奥に座る浪人二人に向かって話していた。

「うまくいきやしたね。なんのことはねぇや」

 楽しそうな声だ。

「あの娘はどうする?返すのか?」

 真乃に横顔をみせている浪人が柱にもたれている浪人に向かって言った。

 どうやら柱にもたれている、真乃には膝頭しか見えない男がかしららしい。

「さて、どうするかな。上は殺せと言ってきてる。ったく、ひでぇ奴らだ」

 頭らしい男の言葉に真乃は怒りがこみ上げた。

「娘を返さなきゃ、あのお袋が黙ってねぇでしょう」

 つけてきた男だ。

「人を殺しちまったんだから、娘が帰ってこねぇでもどこへも訴えられねぇと読んでなさるんだ。死に方に疑いが沸きゃあ、町方があのおっ母さんを調べてとっ捕まえ、死罪というわけだ」

 ――そこまで非道なことを考え、雇われに命じるのがこの企みの親玉なのか!

 真乃は怒りのあまり壁に蹴りを入れたい衝動に駆られた。

「このまま室に閉じ込めて放っておくかな。殺せば死体の始末も面倒だしな」

 頭が投げ遣りに言った。


 真乃は『室』と聞いて窓から離れた。

 室とは地下室、穴蔵のことだ。火事避けにどこの屋敷でも一つか二つ作っている。この辺りは土地が硬いので、敷地内の何処かに掘り抜き型の穴蔵を作っていることが多いと聞いていた。

 真乃は敷地内につねの気配を探した。見張りを置いていないのか、離れから奥に人の気配がない。

 簡単に見つからない場所ということかと、奥へ行きかけて真乃は考え直した。

 火事が起きた時に大事な物を入れる穴蔵である。敷地の奥にポツンと作るとは考えにくい。少なくとも一つは母屋の近くに作るだろう。

 踵を返して平屋と離れの間を探った。離れの様子を気にしつつ、素早く見渡す。


 真ん中辺りに大八車が置かれていた。

 真乃はその置場所に不自然さを感じ、車の下を手で探った。大きな板が置かれていた。板の大きさは四尺四方くらいだ。この下に室があるに違いない。

 しかし板とはいえ、その大きさでは動かすのに注意が必要だ。物音がしないかと耳を澄ませた。

 離れの話し声が微かに聞こえてくるだけで、地下の方からは何の物音もしない。

 他にも室を作っているかもしれないが、まずはこの室を確かめないわけにいかない。場所からもこの室につねを隠している公算が高いと、真乃は踏んだ。ここならば、わざわざ見張りをつけずとも離れから様子を窺えるのだ。

 少しずつ大八車を動かす。動き始めにギシと音がしたのに肝を冷やしたが、その後は静かに車は動いた。

 板が完全に車の下から出てくるまで一間近く車を動かした。

 その間離れから聞こえてくる話し声は途切れなかった。その調子で喋り続けてくれと願う。

 厚みと大きさのある板はかなりの重さがある。

 真乃は音を立てないようにそろりそろりとずらし、自身を滑り込ませられるのに十分な隙間を開けた。


 真っ暗で何も見えない室の中からは草木の臭いが立ちのぼり、微かに人の寝息が聞こえた。気配にも馴染みがある。

 つねに間違いない。

 穏やかに寝息を立てているのは、眠り薬を飲まされたからかもしれない。騒ぎ立てられては面倒だし、離れにいる実行班は雇い主ほど残酷ではないらしいから、それくらいの対処はするだろう。

 入口からは下へ降りられるように段が作られているはずだと手で探ったら、左側ではすぐに段に手が触れたが、五寸あるなしで途切れ、右側は手を伸ばしてやっと届くほど深かった。真乃が開けた口は段を横に見る向きだったらしい。

 真乃は笠を脱いで入り口脇の地面に置き、そっと入口へ左足から入った。

 左足を一番上の段、右足を二段目に下ろす。その間隔を保ちながら、そのまま橫歩きで段を降りていった。

 頭が室の中にすっぽり入ると漆黒の闇に包まれた。そこからさらに二段降りた時に右足が何かに当たった。室の床に着いたらしい。

 手で確認すると、素焼きの植木鉢だった。何も生えていなかったが、土は十分に入っている。

 念のために火打ち石を懐に入れていたものの、回りに燃えやすいものがあっては火事になりかねないし、離れの連中に見つかりやすくもなる。

 真乃は五感を駆使して室の様子を掴もうとした。それほど大きな穴蔵ではない。

 真後ろに人の気配があった。そっと振り向き、小声で名を呼んだ。


「おつね、おつね」

 寝息が止んだ。床にそって手をのばすと、少女の足に手が触れた。少女が身動ぎした。

「青井真之助だ。お前を助けに来た」

 少女が呻くような声を出した。猿轡をはめられているのだ。真乃は手探りで足を縛っている縄を解いた。

「余計なところを触っても許してくれ。構っていられない」

 真乃は足から胴へと手探りでつねが縛られている様子を確認した。胴と手をまとめて縛っている。

 真乃は小柄を使って素早く縄をほどいた。一刻も早くここを出なければいけない。

 室に入ってから離れの様子がわからなくなっているのだ。気づかれたかもしれない。

 漸く自由になった手で猿轡を外そうとつねが苦労しているのを感じた真乃は、その肩に手を置き囁いた

「ここを出るのが先だ。立てるか?」

 つねは真乃が肩に置いた手に震える手を重ねてきた。震えているのは手だけではなかった。

 無理もない。わけもわからず漆黒の闇の中に半日以上閉じ込められていたのである。長く座りっぱなしだったから、立ち上がるのも一苦労だ。

 真乃はおつねの両腕を自分の腰に回した。しっかり捕まるように指図し、つねを引きずりながら段を登り始めた。地上に目が出たところで辺りの様子を窺った。

 離れの格子窓に後ろへ振り向いた男の姿が見えた。離れがざわつく。見つかったようだ。


 真乃は板を下から肩で押し上げ、一気にひっくり返した。つねを引きずり、地上へ飛び出す。

 離れの引戸が開いたのと、真乃が地上に倒れ込んだつねを左肩に担いだのがほぼ同時だった。門へ向かって走る。

 つねが小柄でよかったと真乃は心底その巡りあわせを喜んだ。るいだったなら肩に担いで走れない。勿論るいの救出ならば、一人で乗り込むことはしなかったが。

 もう少しで門に辿りつくという時に男達が追い付いてきた。

 つねが真乃に危険を知らせようと呻き声を上げ、背中を叩く。

 振り向きながらの抜刀で、真乃は真っ先に追い付いた浪人が刀を振り下ろそうとする両腕を斜め下から薙いだ。

 刀を持ったままの両手首が真乃の横を飛んだ。

 刀が門扉に突き刺さる音がし、男の悲鳴が月夜に響いた。

 他の追っ手はその場に足を止めた。

 一瞬で両手首を失った男は地面を転がりながら呻き続けている。


「命が惜しくない奴はかかってくるがいい」

 左肩に担いだつねの腰をしっかり左手で抑えながら、真乃は右手の刀を正眼に構えた。片手構えでも刀はびくともしない。

 真乃と追っ手が対峙している緊迫した中、真乃の耳につねの声が聞こえた。動きが止まったことで、猿轡を解けたようだ。

「あたしを下ろしてください。青井様の邪魔になりたくありません」

 真乃はつねの言葉を聴くつもりがないことを、腰に回している手に力を込めることで伝えた。担いでいる限り奴らはつねに手が出せない。

 と、つねがごそごそと何かしようと踠いている。

「も、もう少しで閂に手が届きます。青井様、あと一歩、後ろへ下がれませんか」

 真乃は四人をねめつけながら、口を開いた。

「お前達の雇い主は誰なのだ?子飼いではあるまい。この子の拐かしと、私とおるいさんの殺しのために金で雇われたのだろう?」

 言いながら、僅かずつ退いた。あからさまではいけない。

「生きていたとはな。あんたの売った芝居にまんまと引っ掛かったわけだ」

 口を開いたのは四角い顔の浪人だ。

「策略はお互い様だ。しかもお前達は何も知らないおみね親子を巻き込むだけでなく、犠牲にしようとしたのだ。極悪非道にもほどがある」

 語気強く言い放ち、刀を突き出しながら、真乃はさらに後ろに下がった。

 その時、両手首を斬られ、呻いていた男の声が途絶えた。

 ひょろりと背の高い浪人が止めをさしていた。


 その男の背格好や雰囲気に真乃は見覚えがあった。るいの用心棒になった夜に襲撃してきた連中の一人、真乃と刃を交わし、忍びを思わせる動きで立ち去った男だ。

 手強い奴である。この男が先程膝頭だけ見えていた頭だろう。

「さっさと医者に見せれば命は助かったと思うがな」

 真乃は少しだけ顔を頭に向けて言った。

 頭は片手で祈る仕草をしてから、真乃に向いた。

「そんな金はねぇ。それに剣術しかない奴だったんだ。刀を振るえなくなったら、生きていく術がない」

 真乃は自分のことを言われている気がした。

 だが当てはまるのはたった今あの世へ旅立った男と自分だけでもない。

「お主もだろう」

 真乃の返しに、頭はくっくっと笑った。

「ああ。ここにいる奴は、今の世にゃまっとうにゃ暮らせねぇ奴ばかりだ。だがあんたも俺たちと紙一重あるなしじゃないかね?」

「否定はせぬよ」

 このやり取りの間につねが閂を外したと真乃に合図してきた。

 しかし門は内側へ開く。外へ開くなら蹴り倒して一瞬で開けることができるが、引くとなると、どうしても隙を生む。この間合いでは無理だ。

 真乃がどうしたものかと思案しながら、四人の男達と睨みあっていると、不意に微かに声が門外から聞こえた。


「青井殿、いち、にのさんで我々が門扉を押して開くゆえ、逃げられよ」

 声に聞き覚えがなかった。板についた武家言葉だから、万蔵であるはずもない。

 一体誰だと訝しみながらも、真乃は男の言葉を信じることにした。

「よし」と一声出しながら、真乃は大きく前へ出た。

 眼前にいた三人の男達が揃って怪訝な顔をしながら、慌てて後ずさる。

「いち、にのさん」

 門外の声の「さん」で門扉がぎっと短く大きな音を立てた。


「さん」で左足を引いて横向きになった真乃は、門が開くと同時に次の一歩で外向きになり、冠木の下を駆け抜けた。

 真乃の視界の隅に中間姿の男が門扉の外側に張り付いているのが見えた。

 通りに出た所で素早く振り返った。

 反対側にも中間姿の男が張り付いていて、二人は既に門をかなり閉めていた。

 追っ手の一人が挟まる。

 またしても恐ろしい悲鳴が上がった。

 二人はすぐに少しだけ門扉を開け直し、挟まった町人姿の男を足蹴りで中へ戻した。見事な連携である。


「忝ない」

 真乃が礼を言うと、一人が振り向き、軽く頷いて言った。

「さ、今のうちに早く」

 その顔に真乃は見覚えがあると感じた。しかし何処でと考えている間はない。

 真乃はつねを肩からおろして尋ねた。

「走れるか?」

 つねの全身が震えていた。真乃をすがるような目で見つめながらがくがくと首が縦に揺れた。

 真乃はつねの両肩に手を置き、その目を覗き込んだ。

「大丈夫だ。私が必ずお前を守り抜く。辛いだろうが走ってくれ。もうダメだと思ってもそこからもうひと頑張りするんだ。いいね?」

 つねは震えたままだったが、今度はしっかり頷いた。

 右手に持っていた抜き身はひとまず鞘に戻し、真乃はつねの手を引いて走り出した。


 人目を気にして抜き身を鞘に戻したのに、大通りに人気はすっかり無くなっていた。町地も静まり返っている。

 つねのはぁはぁという喘ぎが大きく響いて聞こえる。

 真乃はこのまま惣兵衛長屋まで戻れるとは思っていなかった。

 二人を助けてくれた中間姿の二人も気になる。

 思い返すに、あの二人の着ていた看板の背中にあった紋は、丸に立葵に見えた。三崎藩主、本多家の家紋である。

 そして、振り向いた男は善作爺さんについて潜り込んだ上屋敷で見た中間三人のうちの一人に似ていた。

 ――どういうことだ?何故本多様の中間が我々を助ける?何故このような刻限にあの場所にいたのだ?あの近くに大和守様が所有する御屋敷は無い。

 真乃の思考はそこで止まった。殺気を感じたのだ。

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