第2部 第4章
ふわりと何かが上に舞う気配がした。
咄嗟に真乃はつねを突き飛ばした。
「逃げろ!このまま南へ走れ!」
叫びながら抜刀した。上から振ってきた刀を鎬で弾く。
相手は弾かれた勢いも吸い込んで、真乃の後ろの地面にふわりと降りたった。
振り向きざま、真乃が切り上げる。
前に出かけていた男は足捌き軽く、後ろへ飛び退いた。……と、何かが立て続けに飛んできた。
真乃は刀で払った。一つはこめかみを掠めた。棒手裏剣だ。
直後には僅か一間ほどの先に刺客がいた。真乃は刺客の鋭い突きを辛うじて鎬で反らし、そのまま突きに出た。
男は軽やかに半身でかわした。と、思いきや、捻り返して刀を振り上げてきた。
真乃は刃を避けるのに後ろではなく横へ跳んで間を空けた。じわじわと通りの端へ追い詰められている感があったからだ。
――この男には尋ねたいことがある。倒してしまう前に聞き出さねばならぬ。
「お主を雇ったのは、本多大和守様の御家老か?」
男は動きを止めた。
「……違うとだけ言っておこう」
「では、大和守様の御用人か?」
男は何も言わなかった。だが月明かりに見えた表情は図星という風にも見えなかった。
「お互い長生きはできねぇ性分のようだな」
「他の二人はどうしたのだ?追ってきたのはお主だけのようだな」
「あの屋敷に足止め喰らってるんだろう。あんたと娘を助けたあいつらは何者だ?只者じゃない」
あの二人はあの後も追撃を防いでくれたのだ。
「知らぬ。あそこで助けが入るとは思ってもいなかった。お主も知らない二人なのか?」
「……いや、全く知らないわけではない」
それだけ言うと、男は不気味に沈黙した。
「会ったことはあるわけか。何処で?」
「本当にあんたはあいつらを知らないのか?」
「くどいな。嘘をついてどうする。知らぬと言ったら知らぬ。大和守様の御紋のついた看板を着ていたように思ったが、私の知る限りでは大和守様の中間が私とおつねを助ける道理はない」
「……そうか。やはりそういうことだったんだな」
男は再び沈黙した。考え込んでいるのではなく、隙もない。
真乃は自分の考えを口にするのを躊躇った。
目の前の男もそう思っているに違いないと思えたが、口にすること自体が憚られる。
しかしここは黙っていては埒が明かない。
「お主のその口の重さからすると、彼らは公儀の隠密だと考えているのではないか。公儀隠密が大和守様御家中に二人も入り込んでいたと……」
――どんな悪事を働いたにせよ、それで御目付方が動いているなら、詰めは近いだろう。
そう考えたところで、真乃はハッとした。背筋に冷たいものが走った。
――今頃になって松三郎とおるいさんの口を封じようとした、そのきっかけは、もしかして御公儀の動きだったのでは……それを秘密が漏れたと……もし、そうなら……なんという……
「一月、いや、もう二月近く前になるだろうな。一体何が起こったのだ?何かが起こったが故にお主達の役目がおるいさん襲撃になったのではないか?」
真乃の問い詰めに、男は薄ら笑いを浮かべた。
「世の中には知らない方がいいこともありますよ、八丁堀のお嬢さん」
使い古しの嫌がらせに乗る真乃ではない。
「命まで狙われたというのに知らない方が良いと言うことがあるものか。それでは火元を絶つことができぬ。お主自身はそう言われて黙って殺されるのか?」
男の薄ら笑いが止んだ。
「もっともだ。虫ケラにも意地ってものがあるよな」
言い終えないうちに男は刀を斜め下から薙いできた。飛び退く真乃にすかさず左手で棒手裏剣を投げる。
間一髪、真乃は首を傾げて棒手裏剣を避けた。
相手の三の手は上段からの斬り付けだった。
真乃は素早く屈んだ。追いかけてくる相手の刀を立ち上がりながら鎬を当てて逸らす。
次の瞬間には真乃の刀が男の胸を貫いていた。
しまったと真乃は思った。もう少し急所から外したかった。悔やみながら刀を抜いた。
相手の胸から血が吹き出る。
男は血まみれになりながらニヤリと笑った。
「全てが攻めになってんだな、あんたの剣は……」
笑ったまま、男が崩折れていった。
「お前の主は誰なんだ!」
真乃は何か手懸りが欲しかった。思わず地面に横たわった男を揺さぶった。
「か、家老は家老でも、あ、あんたが思ってる家老じゃ……」
男は言い終えることなく事切れた。それきり動かなくなった。
開いたままの目を真乃は手で閉じた。短く念仏を唱え、手を合わせる。亡骸から目をそらさず、ゆっくり立ち上がった。自分の腕はまだまだ未熟だと悔やんでいた。
駆けてくる複数の足音がしていた。
「青井様!ご無事で……」
足音の方を見ると、つねが番屋の役人を従えて駆けてくる。その後ろには万蔵の姿もあった。
「さっきも思ったが、おつねは足早いんだな」
「虫ケラ」は真乃だけでなく、男自身をも差していたと真乃には思えた。
忍びの技を会得していたあの男は一体何を背負っていたのか。
番屋に運ばれていく男の亡骸を見送りながら、真乃は妙な感慨を感じていた。あの斜に構えた風に、どこか自分と通ずるものを感じたのだ。
そして、あの最後の言葉。真実を告げたのか、最後まで主の家老に忠義を尽くして、嘘を言ったのか。「虫ケラ」という自嘲……考えがまとまらなかった。休息が必要だった。
真乃は八丁堀の青井家の者だと名乗り、用があるなら、本郷二丁目にいると
夜遅いので、二人は足音を忍ばせて大貫屋の寮の枝折戸まで来たのだが、るいもかよもみねも、枝折戸を開けた途端に勝手口の引戸を開けて飛び出してきた。三人とも真乃とつねがいつ戻ってくるかと、耳をそばだてて待っていたらしい。
「おつね!」とみねが叫び、「おっ母さん」とつねが駆け寄るのを、るいもかよも目を真っ赤にしながら見つめていた。真乃も良い光景だと母娘の抱擁を眺めた。
「青井様、ありがとうございます。無事におつねちゃんを連れ戻してくださって」
声にるいの方を見ると、真乃に向いて深々と礼をしてきた。
「もしもおつねちゃんの身に何かあったら、ほんとにどうしようかと……良かった……元気に戻ってきて、本当に良かった……」
顔を上げたるいの目からはほろほろと涙がこぼれていた。
「おつねちゃんにもしもの事があったら、もうここにも居られなくなるんじゃないかと……」
「ここにも?前にもいられなくなったことがあるのか?」
るいの顔つきが薄暗がりでも解るくらい一瞬にして変わったが、首を横に振った。
「昔のことです。今から思えば大したことではないんですの」
翌朝、片岡が嘉兵衛、万蔵を従えて大貫屋の寮に現れ、つねが囚われていた屋敷を教えてくれと頼んできた。
武家地は目付方の管轄だが、様子を見るだけだからと、片岡は徒目付に話をつけたと言う。
誰かが確かめに来るのは予想していたことだ。
真乃自身も気になっていたから、昨夜往復した道をまた北へと歩いた。
更には悪い予想も当たった。
問題の屋敷の門は開いていて、昨夜、五人の男がたむろしていた離れはものの見事にもぬけの殻だった。
死体はなく、血痕も残っていなかった。
唯一の痕跡は、門扉下部の刀が突き刺さった跡だけだ。
つねが閉じ込められていた穴蔵は三畳ほどの広さがあり、植木鉢がいくつか置かれていた。昨夜は草木の匂いを感じた真乃だったが、土だけの植木鉢の中に枯木が植わった鉢が一つあるだけだった。
片岡達の近所の武家屋敷への聞き込みによると、その屋敷は一月近く前に空き家になったという。
空き家なら、勝手に出入りできないように竹矢来で門を塞ぐはずだが、何故かそうした対応をしていなかった。直ぐに誰かが越してくるはずだったらしい。
出入りしている者を見かけたことはないかと各屋敷の奉公人に尋ねたが、見かけたという者はいなかった。
昨夜の騒ぎについては悲鳴を聞いた者が何人かいたのだが、怖くて様子は見に行かなかったと、皆、事無かれの対応をとっていた。
「今の世はこうですよ。隣で何が起こっていようと知らぬ存ぜぬです」
「お武家様のお屋敷は町屋と違って広いし、高い塀に囲まれて外から様子が分かりにくいですしなぁ」
片岡と嘉兵衛は聞き込みの結果を渋い顔で真乃に告げた。
門の外にいた二人が頭以外を食い止めたことからして、片付けたのもあの二人か、その仲間と思われた。
離れにいた連中の生き残りが血痕を片付けるとは思えない。
あの忍びのような頭がどこの家老の指示で動いていたのか、昨夜の時点では選択肢がありすぎて突き止めるのが大変だと思っていた真乃だが、この見事な修羅場の片付け様に、一気に絞り込めた。まさかという思いと、おののきとともに。
「目付方が片付けたというのですか!そうすると、目付方が公にしたくない騒ぎだったということになる」
「頭だった男が内藤家老以外の家老の配下だったのは間違いありません。昨夜の時点では、大和守様のもう一人の家老、御国家老ということも考えられましたが、大和守様御家中のことなら、公儀がわざわざここまで隠蔽しないでしょう。公儀が放っておけない大物が絡んでいるということですよ」
「厄介なことを申される」
片岡は顔を強張らせた。
「公儀が気にするのは僅かな御家ですぞ。尾張様、紀州様、水戸様。それから御三卿。いずれにしても我々からは遥かに遠い方々だ」
「……大和守様の御家中は昨春、問題を起こしましたな。そのせいで大和守様は三月程差し控えになったはず」
「ありましたな。なかなか厳しい御採決でございました」
「その取り成しを大物に頼んだということは……」
「間違いないでしょう。頼む相手は御老中辺りになると思いますが」
「そうですね。御三家や御三卿よりも御老中ですね……」
公儀が隠蔽するような人物との結びつきは、あの田安御門の件で始まったと考えるのが、真乃にわかっていることからは一番ありうる話である。
公儀としては、御三家、御三卿に加えて、老中の不祥事も表沙汰にしないだろう。老中自身が自分の保身に走っているのかもしれない。
いずれにしても厄介である。るいの命など、そんな連中にしたら「虫ケラ」だ。そんな連中にとっては真乃や片岡も「虫ケラ」だ。
頭が言った「虫ケラ」という言葉が真乃の中で大いに引っ掛かっていた。
「万蔵、今日は嘉兵衛親分に助けてもらいながら、本多大和守様御用人の山岸様とその奉公人、特に志水豊之進という中小姓を探ってくれ」
欠伸をしかけていた万蔵は、急に真乃に指図され、しゃっくりのような音をたてて頷いた。
銀蔵の死は、夜のうちに豊之進の耳に入った。銀蔵の仲間、例の家老の配下が夜道を駆け抜けて知らせてきた。
――あの銀蔵が一対一で殺られるとは、八丁堀の女用心棒は、確かに相当な遣い手らしい。
剣士を自負する豊之進の中に好敵手を得たという高揚感が湧いていた。どうお膳立てが成されるかわからないが、自分が引導を渡してやると思った。
「我が上様は手を引きたがっておられるが、あちらの御方がどうにも聞いてくださらぬ。二言目には改易になっても良いのか、だ……」
豊之進の主が泣き言を言っている。この前までの強引な姿勢は何処へ行ったのか。しくじる可能性は決して低くはなく、そうなった時の覚悟をしていたのではなかったのかと、豊之進は呆れた。
――半年前のあの段階ならば、まだ引き返せたろうにな。
愚痴をこぼしている相手は内藤家老だ。こちらはとうに腹を括っていたようで短い答えは一貫している。
「ここまできたら、乗り切るしかない。最後まで貫き通すしかない」
豊之進は勝之助の顔を思い浮かべた。
――お主は良い主に仕えていたのにな。
予定どおりに事は進んでいる。次の策も既に動いている。今度は豊之進の進言を上つ方が受け入れた。
御先手組空き屋敷での事件であり、頭の死ぬ間際の主はどこかの家老という言葉からも、町方はつねの拐かしの件について、目付方へ報告と問い合わせを行うことになる。
さすがに何も返してこないことはないだろうが、目付方が片付けて隠蔽したらしいのだから、どこまで事実を町方に伝えてくるか疑問だ。
真乃は、同心達には全く事実が聞こえてこないだろうと思った。
拐かしの頭だった男の亡骸は、おそらく身許不明のまま、小塚原の回向院に埋葬される。念のため、身内や身元を問う触れを三日間張り出すだろうが、あの男に指図していたどこかの家老が名乗り出る訳がない。家族がいても、名乗らせる訳がない。
そもそも罪人となると、身分の上下は関係なく、わざわざ名乗り出る身内や知り合いはめったにいない。
真乃はふと自分の最期を考えた。死んでしまえばわからないだろうが、長く屍を晒されるようなことだけは避けたいものだ。本郷へ戻る道を歩きながら、そう思った。
真乃が肴町まで戻ってきた時、前方からつねのすぐ下の弟、藤八が走ってくるのに気がついた。
藤八も真乃に気がついたらしく、真っ直ぐ真乃に向かって走り始めた。
真乃も歩を早め、藤八が二間程先まで近づいたところで声をかけた。
「どうした?何があったのだ?」
「ご、御家老のお嬢様が、総州屋に……」
「御家老のお嬢様とは、内藤様の御息女か?」
藤八はこくりと頷いた。
「そんな名前も言ってた。きさっていう名前だって」
真乃は呆気にとられた。総州屋には広瀬を通して事情を話してあるが、まさか昨日の今日で総州屋にやってくるとは思っていなかった。
総州屋は日本橋南の通二丁目にある。
真乃はそのまま向かおうとして、はたと思い出した。昨日は眉墨を少しつけていたのである。
急いで大貫屋の寮に戻ると、渋い顔をしたるいに昨日と同じように眉墨をつけてもらい、慌ただしくまた出掛けた。
本郷二丁目から通二丁目まで徒歩で半刻くらいかかるのを真乃は四半刻ほどで走破し、総州屋に駆け込んだ。
店内を見回すと、泣き腫らした顔をしたきさの姿が目に入った。側には吉もいた。
昨日と違って侍姿の『真吉』に、きさも吉も軽く目を見開いた。
「きさ様、どうなされた。泣いておられたのか」
真乃は刀を外しながら上げ床にあがり、吉には会釈で挨拶を済ませてきさの真正面に正座した。
「昨日、言付けをお願いした勝之助が……」
そこまで言ったところで、きさの目から涙が溢れた。
「か、勝之助が亡くなったと……父上が仰るのを聞いてしまったのです。昨夜……」
きさはそこで声をつまらせ、袂で顔を隠した。肩が小刻みに震えている。
「ち、父上は詳しいことを教えてくださらないのです。わたくし、どうしても本当のことが知りたくて……でも、政右衛門も驚いておりましたし、誰にお聞きすれば本当のことを教えてもらえるのかわからなくて……そうしたら、お吉があなた様なら伝をご存知かもと。御家人の御家ですし、総州屋に寄宿されているなら、色々とご存知ではないかと……」
そこまで言ってきさは袂から真っ赤な目を上げた。
大人びて見えたが、真乃を見つめる目には幼さを感じる純粋さがあった。大人を戸惑わせる純粋さだ。
きさの泣き腫らした顔と純粋な眼差しに、最期は悲劇に終わったが、勝之助の生き方は間違っていなかったのだと真乃は思った。そんな他人の解釈が勝之助の救いになるかどうかはわからない。
真乃は静かにきさの目を見返した。頭の中では様々なことが展開していたが、きさに告げられることは限られている。知らずにいられたらと思っていたが、知ってしまったのではやむを得ない。
「昨日、お屋敷を出たあとで、半月ほど前に左頬に傷のある侍の水死体があがったという話を思い出しました」
きさの顔色が一瞬で青白くなった。
「その死体が勝之助殿とは限りませぬ。左頬に傷のある侍は、多くはいないにしても、勝之助殿お一人ではありませんからな」
真乃の言葉を聞きながら、きさは祈るように両手を合わせていた。
「その亡骸を真吉様はご覧になったのでございますか?」
「いえ、人伝に聞いただけです」
嘘は辛い。顔がひきつりそうだった。
「その亡骸が身に付けていたものがどこかにありはいたしませぬか?」
「某の知る限りでは何も。ですが、念のため、町奉行所の御役人に確かめてみましょう。繰り返しますが、その亡骸が勝之助殿だったという確かな証はありませぬ」
きさは祈る手を口許へ持っていった。
「三日前に勝之助が夢枕に立ったのです。振り返ってみますに、父上の言うことを鵜呑みにしていたわたくしに真実を教えるかのように……」
勝之助の彷徨える魂がきさの枕元に立ったというよりは、きさが勝之助を気にかける心が見せた幻だろうと真乃は思ったが、きさには頷いてみせた。
「勝之助殿もきさ様のことが心配だったのでしょう。そもそもお父上はなんと仰ったのでございますか?聞いてしまったということは、きさ様にお告げになったわけではありませんね。どなたに話しておられたのです?」
「相手は政右衛門でございました。なにやら始末や用意をしておくようにと」
「始末や用意をする……すぐに、でございますか?」
「そこまでは。いつ何があるかわからないから、準備だけはしておくように。そのようなお言葉があったと思います」
近々大きな動きがあるのだ。るいと真乃、かよまでまとめて始末しようとしたのはそのせいかもしれない。
総州屋からきさ達を上屋敷近くまで送り、蕎麦屋でかけ蕎麦を掻き込んで真乃がるいの渋い顔で出迎える姿を想像しながら鎌倉河岸まで戻ってくると、またしても藤八が走ってくるのが見えた。
既視感に思わず真乃は瞬きし、目を擦った。
間違いなく藤八が駆けてくる。二刻ほど前に見た時より更に必死の形相だ。
真乃に気づいた藤八は、一段と必死の形相で駆けてくる。
「藤八、どうした。今度は何があったのだ?」
真乃も駆け出した。
「青井様!おるいさんが……」
真乃の目の前で立ち止まり、はぁはぁと荒い息で言葉が途切れながらも、藤八は続けた。
「お、おるいさんが……い、いなくなりました!用心棒してた人は斬られてて……」
真乃は愕然とした。
「大貫屋の寮に刺客が押し入ったというのか?」
「ち、違います!おるいさんがいつの間にか出かけてて……用心棒さんが見つかったのは真光寺の門前町の裏路地なんです」
「八代殿が真光寺門前の裏路地で斬られていた?よく知らせてくれた」
真乃は予想外の展開に頭の整理がつかないまま、真光寺に向けて走り出した。今朝も往復した道だ。
――あれほど勝手に出歩くなと言っていたのに!
真乃が南北を走る大通りから門前町のある西向きの通りに入ると、こちらを向いている万蔵が見えた。真乃の到着を今か今かと待っていたようで、すぐに大きく手を振りながら、叫んできた。
「真さん、てぇへんだよ!八代さんが殺られちまった!もう一人、知らねぇ浪人さんも転がってるんでやすがね」
「なんだと?もう一人?」
真乃の頭に昨日惣兵衛長屋の入口ですれ違った浪人が浮かんだ。
そして、万蔵は何故この辺りにいたのだと訝しみながら、その後について門前町を奥の方へと進んだ。
門前町を進む途中、万蔵は青ざめた顔でちょっと一休みするつもりが、さっきまで本郷の番屋で眠りこけていたと平謝りしてきた。こんな時間まで眠りこけていたとは、大失態だ。
しかし、これまでの万蔵の聞き込みで見せた粘りと昨夜も遅くまで走り回っていたことを考えると、責めるのは心苦しかった。
――これが多勢に無勢ということだ。
真乃は奥歯をぎりりと噛みしめた。
真乃達はすべてのことに対処しないといけないが、向こうは人を総入れ替えし、次々に仕掛けられる。そして、肝心のるいが密かに寮を出たらしいことが何よりも腹立たしかった。
二階屋と並木に挟まれた幅二間弱の路地に入ると、すぐに地面に横たわる二人の侍が見えた。果たして、もう一人はあの貧相浪人だった。
二つの骸の側には本郷が持ち場の定町廻り、北野の姿があった。うんざりした顔だ。
この場所ならば、ギリギリ町方の管轄である。
真乃にはホッとする気持ちが湧いた。
被害者の身分と経緯から現場が境内でも結局は町方に御鉢がまわってきただろうが、すぐに動ける、動けないの違いは非常に大きい。
真乃は北野に会釈して無言で二つの亡骸に近づいた。短く手を合わせ、二人の傷を確認した。
八代も貧相浪人も体を真っ二つに割く恐るべき袈裟懸けで殺られていた。八代は多少抵抗できたようで、腕にも斬られた傷があった。
――間違いなく松三郎を斬った奴だ。
相手の流派や特徴を考えている真乃に北野の場違いにのんびりした声が聞こえた。
「無精髯を生やした浪人の懐には二朱銀や銭が三両分も入った巾着がありました。金目当てではありませんな。何者の仕業ですかな。真之助殿は見当がついておられるんじゃありませんかな」
三両分の貨幣が入っている巾着はるいが渡したのではないか。この前からのるいの様子といい、毒殺されかかった直後に黙って出かけなければいけない用など、脅しに屈して金を渡すためぐらいしか考えられない。真乃はそう思った。
「おるいさんの姿は?」
真乃は北野の問いには答えず、立ち上がりながら自身が知りたいことを口にした。
「簪が落ちてましたが、
北野は路地に裏口を見せている二階屋の一つを簪で差しながら言った。
その簪は確かに今日もるいが差していた日常使いの玉簪だった。
簪はおそらくわざと落としたのだ。襲った連中にすれば、いざというときの武器になるものは取り上げるつもりだったろうし、ここにるいがいた証拠にもなる。
目眩ましに騒ぎを起こしたとしたら、敵は用意周到である。
――貧相浪人は例の連中と別口だと思っていたのは間違いだったのか。
「二人を斬った下手人は一月ほど前に柳原であった若衆殺しと同じ奴ですよ。片岡さんには知らせたのですか」
「ええ、ええ、すぐに小者を走らせましたとも。大貫屋の寮絡みは片岡が張り切って探索しておりますからな」
北野の口調には皮肉が入っていた。
真乃が皮肉を返そうと口を開きかけた時、駆けてくる雪駄の音が聞こえた。振り向かなくても真乃には誰かわかった。
「お、おるいさんは?」
切羽詰まった声に続いて真乃の視界に入ってきた片岡は、長着を尻端折りにして顔にも腕にも足にも汗が光っていた。定町回りとしてはあられもない姿で、持ち場の神田東から駆けつけたらしい。
御用箱を担いだ中間も留吉も見あたらない。
真乃の視界の隅で北野がニヤけていた。
「どこにも見当たらないそうです。目撃した者もいない。敵は喧嘩騒ぎを起こして人々の眼をこの場所からそらしたようです。下手人は、松三郎を斬殺した奴です」
「お、おるいさんは……」
真乃の言ったことが聞こえなかったかのように同じ言葉を繰り返した片岡は、またしてもそこで言葉につまった。顔色は青黒い。
「命を奪うなら、ここで奪っているでしょう。二つも骸を残しているのです。何があったかはわかりませんが、おるいさんは逃げおおせたか、奴らが方針を変えたかしたらしい」
真乃の答えに片岡の顔にいくぶん赤みが戻った。るいに抱いている気持ちは本物のようだ。
片岡だけでなく、真乃も安堵していた。用心棒稼業初の大失敗になるところだ。
一刻も早くるいを見つけ出し、連れ戻さなければいけない。猶予は無いと感じた。八代が時間稼ぎしている間に逃げたのなら、もう見つかっていて良い頃だ。
問題は例の奴らに囚われている場合である。いずれ命を奪われるだろうが、わざわざここから生かして連れ帰るわけとは何か。
狙いは自分かもしれないと、真乃は思った。真乃は奴らにとって、今ではるい以上に知りすぎている危険な人物だろう。
相手の出方を待つのも焦れる。
真乃は目付方が何をつかんでいるのか、自ら聞き出すことにした。御目付を訪ねるのだ。
だがその前にもう一つ確かめたいことがあった。
「万蔵、おるいさんはいつ頃出掛けたのだ?おかよさんはなんと?」
「それが、おかよさんによると、気がついたらどこにもおるいさんの姿が見えねぇもんで、驚いて八代さんがどうしてるか見に行ったら、八代さんもいなかったそうでやす」
急いで大貫屋の寮に戻ると、真乃はかよを証人にして、るいの部屋で探し物をした。
探し物とは浅田喜左衛門から真壁勝之助のことを聞き出した日、真乃の姿に慌てて袂に隠した何かだ。嵩張るものではなかったので、真乃は文だと思っていた。
それらしいものはどこにも見つからなかった。
「おるいさんは最近こそこそと何か燃やしてなかったかい?」
真乃の問いかけにかよは首を傾げた。少し間をおいて、「あ」と短く声をあげた。
「そういえば、あたしが土間へ来たら、竈の前に立っていらしたことが」
真乃は頷いて先を促した。
「三日前のことです。すぐには竈の前からお動きにならなかったので、少し変に思ったのですけど、あれは何かを火にくべて、燃えてしまうのを待っていたのかも……けど、一体どんなことが書かれていたんでしょう?」
かよはまた首を傾げた。
「私が聞いた限りでは、辛い思い出がありそうなのは、酒乱の旦那と暮らしていた頃なんだが、他に何か聞いてないか」
「あたしもその長屋のことぐらいです。わかってくれる人がいなくて辛かったと聞いただけです」
昨日ポロリとこぼした、「いられなくなった場所」とは、まず間違いなく酒乱男と所帯をもっていた長屋だと真乃は思った。
――すると、いられなくなったのは火事で旦那が死んだからか?旦那の死に不審な点でもあったのだろうか?そんなものがなくても勝手に想像を膨らませて陰口を叩く悪い奴はいる……
「おかよさん、おるいさんが住んでいた長屋がどこの何長屋か聞いてるかい?」
かよは深川の方としか聞いていなかった。
火事の多い府内だが、奉行所に記録を残すために、その地域を担当している同心は一通り調べているはずである。
深川掛かりの同心は二年前に交代があったと、真乃は記憶していた。それまで十年近く深川を見回っていた同心はそれを機に家督を養子に譲り、今は八丁堀で隠居暮らしをしているはずだ。
真乃はその元同心にすぐに話を聞きに行きたかったが、目付の動きの確認もしなければいけない。
今日のうちに両方を一人でこなすのは無理だと判断し、八丁堀の方は片岡に任せることにした。間違いなくるいに「ほのじ」の片岡だから、熱心に抜かりなく必要な情報を聞き出すだろう。ひょっとしたら良くない話も知ることになるかもしれないが、それでるいへの気持ちが変わるようなら、今の時点で知っておいた方が良い。
真乃は板の間の上がり框に待機していた万蔵に片岡への言付けを頼み、自身は飯田町へ向かった。
九段坂の上に真乃を快く迎えてくれる唯一人の御目付の御屋敷があるのだ。
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