第2部 第5章

 抱え席の御家人、元町奉行所与力の娘である真乃が訪ねることのできる御目付はただ一人、神保半左衛門だ。

 半左衛門は四十過ぎのがっちりした体格の、みるからに武芸に秀でてそうな人物で、真乃の剣術の師匠の弟弟子になる。その縁で半左衛門と真乃は知り合い、半左衛門は真乃の剣術の才を師匠同様に愛でていた。

 めったに訪ねないが、訪ねれば鷹揚な半左衛門はいつも気さくな物言いで真乃と剣術談義に花を咲かせる。


 半左衛門は大和守御領分の一件に関わりがないかもしれないが、目付方が動いているならば全く知らないとは考えにくい。糸口はそこしかなかった。

 もちろん、目付の探索をただ教えてくれと頼んで教えてくれはしない。なんらかの証か、確証に基づく推量をぶつける必要がある。

 昨日から今日にかけて起こった出来事で、真乃の頭に今回の企みの構図が見えてきたからこそ、訪れる甲斐があるのだ。

 そして、大きな手掛かりとなったのは、あの忍びあがりらしい男の言葉だ。

 ――『虫けら』の最後の意地だったか……


 ただ、神保屋敷に着いた時点では、あの男が仕えた家老がどこの家老か、まだ真乃に絞りこめてはいなかった。

 御三家、御三卿の中では、見当をつけられたのだが、老中、若年寄といった公儀の重役側が全く絞り込めない。何かと賄賂を求めてくるという話を聞く御仁が何人かいるが、別の言い方をすれば、黙っていてもあちこちから賄賂が入ってくる立場なのだ。わざわざ仕掛ける必要がない。といって、絶対に企みに関わらないとは言いきれない。


 真乃がおよそ一年ぶりに神保屋敷を訪ねると、半左衛門は下城直後だった。

 若党にいつもの座敷で待つように言われた。

 半左衛門を待つ間に奥方が自ら茶と干菓子を持って現れた。

 実は半左衛門の奥方は小太刀の名手で、真乃と武術談義ができる。真乃に教えを乞うてきたこともある。

 半左衛門からも頼まれたため、真乃はこの屋敷の庭で半刻ほど立ち会いながら小太刀を教えたことがある。なかなか筋がよかった。

 夫婦揃って剣術の腕は確かだ。


 着流し姿で現れた半左衛門に真乃は不躾ながらと、これまでに自身が見聞きしたこと、経緯をまとめたうえで、本多大和守に関わる目付方の動きについて端的に尋ねた。

 半左衛門は少し考えた後で真乃の目を真っ直ぐ見つめながら答えた。

「儂の管轄ではないが、動きがあることは承知している。そなたの推量どおり、目付も迂闊に動けぬ御家が絡んでおる。相すまぬが、これ以上は儂の口からは言えぬ」

 昨夜の出来事の後始末ぶりから推測したとおりである。真乃は心身を引き締めた。

 そして、半左衛門は「御家」と言った。

 老中や若年寄といったお役目についている御仁が絡んでいるならば、「御家」とは言わないだろう。

 この時、真乃は相手を絞り込めたと思った。


「御目付方は迂闊に動けぬ御家に対して、どうなさるおつもりなのでしょう?まさか見逃すつもりはございませんでしょうね」

「もちろんだ。表沙汰にはせぬと思うが、きちんと始末はつけさせる」

「大和守様はいったいどちらの御家の何に巻き込まれたのでございますか?何か手懸りを教えていただくわけにはまいりませぬか」

 半左衛門は湯呑みに手を延ばした。次いで小皿の上の落雁を摘まんだ。

「ほれ、そちも食べぬか。この落雁も白雪羮はくせつこうもうまいぞ」

 半左衛門は美味しそうに湯飲み片手に干菓子を次から次へと口に入れた。

 半左衛門の甘いもの好きは本物である。神保屋敷を訪れる度に真乃は嬉しそうに甘いものを頬張る半左衛門を見ている。

 真乃も砂糖をたっぷり使った干菓子は大好きである。しかも目の前にあるのは色目からして、高い白砂糖を使った落雁と白雪羮だ。だがここで一緒になってパクパク食べてしまっては、誤魔化される気がして控えていた。

「これからわたくしが申すことをお聞きください。もしも間違っていたら、違うと一言、仰せ願います」


 半左衛門は部屋のすぐ外に控えている若党を呼んで小声で何か命じた。指で湯呑みと小皿を指していたから、また茶と落雁を持ってくるようにと言ったのだろう。それからゆったりと真乃に向き直った。

「そう急くな。新しい茶と落雁が来るまで待て」

「事は急くのでございます。これまでは命を狙っていたのです。思惑があって連れ帰ったのでしょうが、その思惑が済めば……」

「拐かした連中は大和守様の御家中だと考えているのだな?」

「殺された二人の斬り口から、そう考えます。御目付様も迂闊に手が出せない御家中は、引き続き後ろに控えていると考えております」

「あくまでも大和守御家中の騒ぎにするため、だな」

 半左衛門はため息をついた。

「いったいどちらの御大家が大和守様の後ろに潜んでいるのか、すぐには絞り込めませんでした。御老中のお一人かとも考えました。しかしあの騒ぎが起きた場所に、御屋敷、御領分の所在地から、ある御家が頭に浮かびました」

 そう、あの御家は例の騒ぎを起こした御門近くに上屋敷があるだけでなく、下屋敷は大和守上屋敷の近くにあり、播州の領分は三崎領分の近くにあるのだ。しかし、ただそれだけなのかと言われれば、それだけだ。真乃も確信はもてずにいた。


 半左衛門は脇息に肘をついた。

「それ以上は申すな」

 半左衛門は苦笑いを浮かべた。

「御家としては、そなたの推測は当たっておる」

 半左衛門のこの一言に、真乃はここへ来て良かったと、自身の判断の正しさを心底から喜んだ。

「但し、そこの御屋形様が指図したわけではなさそうでな。そなたも知っていると思うが、その御家中に長くお仕えしている者はおらぬ。なかなか難しい内情がある」


 若党が戻ってきた。今度は小皿に落雁だけでなく綺麗な色をした練り切りも三つずつのっていた。

 さすが千五百石の御役につく御家である。色味からして、その練り切りも、国産の太白砂糖ではなく、高価な白砂糖を使っていると思われた。

 五年くらい前から白砂糖の値段が高騰し、真乃には全く手が出せなくなっている。高騰の大きな理由は白砂糖を運んでくる阿蘭駝船の来航が国許の戦乱で途絶えたためと聞いていた。

 この時代、白砂糖は国内でまだ生産できず、真乃やるいが口にする砂糖はもっぱら薩摩産の黒砂糖、たまに讃岐、阿波で生産される黄色味のある太白砂糖だ。

「おお、これはの練り切りではないか。こんなものを隠しておったか」

 半左衛門は練り切りに目を輝かせ、若党が前に小皿を置くやいなや、練り切りの一つに手を伸ばし、パクリと口に入れた。


 真乃は今度は練り切りに話を折られたと思ったが、焦っても仕方がないと自分に言い聞かせた。

 大きな情報は得られたのだ。これ以上半左衛門から聞き出すのは半左衛門の立場を危うくするかもしれない。

 ではご相伴と、真乃も小皿に手を伸ばした。

 久方ぶりの練り切りだ。添えられた竹楊枝で四半分に切って口に入れた。黒砂糖と違ったすっきりした甘さが身体に染みた。どっと疲労を感じた。

 だが大事なのはこれからだ。疲れている場合ではない。

 練り切りを二口、三口と食べるうちに砂糖の甘さが疲れを癒し、頭がすっきりしてくるのを感じていた。

 ――薬種問屋が砂糖を扱っているのはこういうことだな。

 砂糖専門の問屋が出てくるのはこれより十数年後の天保に入ってからである。

 視線を感じて目をあげると、半左衛門が優しい目で真乃を見つめていた。


「うまいだろう?これも食べなさい。相当疲れておるようだ」

 半左衛門が身を乗り出し、自身の小皿を真乃の方に差し出してきた。真乃は慌てて手をかざして断った。

「とんでもございませぬ。そのようなことはできませぬ」

 すると、半左衛門は更に膝行で近づき、真乃がかざした手を掴んでその手に練り切りをのせた。不思議に思ってその練り切りを見ると、上部に文字が刻まれていた。「ねごろ」と読めた。


 はっとして真乃は半左衛門を見返し、練り切りを押しいただくと、そのまま丸ごと口に入れた。噎せそうになり、急いで茶を口に含む。

 半左衛門は元の上座からにこにことそんな真乃を見守っていた。そうして真乃が練り切りを胃の腑に流し終えたところで、笑みを消した。

「真乃、くれぐれも気を付けるのだぞ。そちの剣術の腕が素晴らしいのはよく承知しておるが、もしも多勢に無勢、権勢ゆえの攻めを防ぎきれないと思ったならば、すぐにこの屋敷へ駆け込むのだ。それから水際に気を付けてな。よいな。決して無理するでないぞ。それは決して逃げではない。無茶や無謀こそ愚か者のすることだ。儂に約束してくれ」

 半左衛門の目は心の底から心配していると告げていた。

 真乃は教えてくれた内容の重さといい、自分を気にかけてくれる心持ちといい、言葉で感謝を表しきれないと思った。両手をつき、無言で長く深く頭を下げた。

 相手の大きさ、多勢に無勢は既に痛感していたことだが、半左衛門の目に相手の大きさが更に一回り大きくなった。同時に真乃の肚も据わった。


「さぁ、今宵は夜食に付き合ってくれ。奥もそちが訪ねてくるのを待っていたのだ。今頃張り切って料理の指図しておるぞ」


 半左衛門自身は決して口にしないが、本音をいえば、真乃を手元に置いておきたいらしい。剣術の指南役といった、剣術に生き甲斐を見いだしている真乃が望む形で、である。前に訪ねた時に奥方が真乃に打ち明けた。

 ありがたい話だが、双方にとって良い結果にならないと真乃は思う。

 出る杭は打たれる世の中だ。ましてや真乃は女である。必ず家中に波風が立つ。

 半左衛門もわかっているから、じかに言ったことはないのだろう。


 半左衛門が口にした「水際に気を付けてな」が真乃の中で大きく膨らんだのは、奥方も同席しての夜食を急いで食べ終え、神保屋敷を辞して早足で下っていた黐木もちのき坂の途中だった。



 大貫屋の寮に戻ると、片岡と万蔵が真乃の帰りを待ちうけていた。

 互いに労をねぎらう言葉のうちにも、真乃は片岡の気持ちが重くなっているのを感じた。

 片岡も真乃の様子に同じことを感じたようで、まずは真之助様が掴んだことをお話くださいと言ってきた。

 波及具合からは確かに真乃が得た情報の方が大きいはずだ。

 真乃は声を潜めて片岡と万蔵に半左衛門が匂わせたことを告げた。

 片岡が束の間絶句した。


「田安様御家中が抜け荷に大和守様を利用していると……しかし、それで伊勢九と繋がりました。伊勢九は田安家の御用達でもあります。正しくは、田安家お抱えの御医師の、ですが」

 そこにも手掛かりはあったのだ。真乃は一本ずつ糸を手繰り寄せている気分だった。

「真之助様が嘉兵衛に伊勢九を探るよう指図してくださったそうですな。伊勢九の主、九右衛門は、一見では人当たりの良い、付き合えばかなりしたたかな五十手前の男だそうです。これまでのところは特に悪事に手を染めている風は見えないのですが、色々な御仁と面会してはいるようです」

「では、おるいさんと松三郎が見た大店の旦那風は、伊勢九の主かその番頭だった公算が大きいですね。ただ……抜け荷は神保様の水際というお言葉からの私の推量です。絶対ではありません」

「水際、商人とくれば、抜け荷でまず間違いないでしょう。公儀を通せば、競り落とす手数料と高い掛物かかりもの(関税)を払わないといけないのですから。商人らは手を変え品を変え、抜け荷に手を出してきます」

「もう一つ大事なことが。田安様御家中が関わっていると申しても、正確には田安家御家老のお一人が、のようです。万が一、御屋形様が承知していたとしても、手を染めたのは御家老一人だと目付方はするでしょうけどもね……ここへ戻る途中、貸本屋で武鑑を繰ったところ、今の二人の御家老のうち、根来伊予守様を御目付方は怪しいと見ているようです」


 八代将軍吉宗が設けた田安家、一橋家と九代将軍家重が設けた清水家の通称御三卿は、御三家と違って主は江戸城内に住み、家臣は幕臣が交代で就任している特殊なお家である。

 御三卿の家老というのはあくまでも幕府要職の一つで、二千石から三千石の旗本が就任し、役料も二千俵つくという恵まれた御役だ。つまり、御三卿の用人や家老は町方が受け持つ陪臣ではなく、目付方が担当する幕臣なのだ。


 そんな御役に就いている根来伊予守茂実しげざねは、録高五百石の旗本だった。寛政の終わりに小納戸頭取から田安家の家老になっているから、十年以上勤めていることになる。

 悪い噂は聞かないが、必ずしも実務能力だけで五百石から二千俵も御役料のつく役職に付けるわけでもない。

 十年以上勤めているということは、次の要職就任を狙って色々画策しているのかもしれない。


「根来……真之助様に昨夜成敗された男は忍びの術を使っていたと申されましたが、根来衆ということですかな。繋がりそうですね」

「御旗本の根来様はとうに根来衆との繋がりが切れていると聞いていますが、こうなるとなんとも言えません」

 片岡は唸り声をあげた。

「田安様の下屋敷は水に囲まれています。抜け荷をやろうと思えば、他の御家の助けなど借りずとも、し放題だと思いますがね……」

「そこにはまだ我々の知らない事情があるのだと思います。片岡さんの方はどうでしたか?」

 片岡は姿勢を正した。


「何年か前に火事で大工が焼け死んで、若女房とその母親が生き延びた話について教えてくれ……など、果たして思いだしてもらえるかと行く前は案じておりましたが、板倉さんはその件をよく覚えておいででした。おるいさんが大工の庄吉と所帯を持っていたのは寺町の金八長屋だったそうです。今はもうありません。板倉さんがよく覚えているのは、火事のあと厄介なことが起こったからです。いつの間にやら謂れの無い誹謗中傷が広まり、おるいさんは金八長屋にいられなくなったそうです」

 片岡は膝に置いていた拳をぐっと握りしめた。陰口を叩いた連中に対して怒りを覚えているらしい。

「どのような誹謗中傷が広まったのですか?」

「最初は庄吉を見捨てて逃げたというものだったらしいのですが、そのうち実は庄吉を殺していたという噂が流れ始めたそうです。酷すぎる!」

 片岡のるいへの肩入れぶりが真乃にはほほえましかった。しかし、事実は冷静に読み取らないといけない。

「火事に使うのは気が引ける比喩ですが、火の無い所に煙は立たぬと申します。庄吉の焼死に、陰口の種になるような何かがあったのではありませんか?」

 真乃の質しに片岡は頷いた。


「確かに庄吉は逃げ遅れたのですが、おるいさんは見捨てたわけではありません。板倉さんが金八長屋の差配、善兵衛から聞いた話では、おるいさんは母親を抱き抱えるようにして日除け地まで逃げた後に、庄吉が見当たらない、まだ長屋に残っているのかもしれないと、長屋に戻ろうとしたそうです。善兵衛が慌てて止めたと。おるいさんは泣きながら焼け落ちる家々を見ていたそうです。女一人で母親と旦那の二人を一時に支えて逃げられるわけがない。金八長屋は風下であったためにあっという間に火が広がってしまい、庄吉の他にも逃げ遅れた住人が二人いました。一気に焼け落ちたようで、三人とも路地で焼け崩れた屋根や柱の下敷きになっているのがみつかったそうです」

 ここで片岡は大事な点だと、少し間を置いた。

「路地なのですよ、庄吉の骸がみつかったのは。路地で殺したなら、逃げる住人が骸を見ているはず。殺したのが家なら、骸が路地で見つかったことと合わない。るい殿が受けたのは、全く事実無根の誹謗中傷です」

「庄吉が逃げ遅れた理由は何だったのです?酔っぱらっていた?」

「その通りです。あの日も足元が覚束無ないほど酔っぱらって帰ってきたのを、ちょうど木戸脇で話し込んでいた善兵衛と長屋の住人の一人が見ていました。おるいさんが板倉さんに話した仔細では、火事だという声に寝込んでいた庄吉を起こそうとしたが、なかなか起きなかった、やっと呻いて起き出す風があったので、あとは自分で逃げ出すだろうと母親を抱えて外に出た、ということです。ところが後ろについてきていなかった。それに気付いたおるいさんが暫く呆然としていたのを善兵衛だけでなくそこに居合わせた数人が目撃しています。不幸は全て火事が起こったことです。庄吉は自業自得でしょう。いやもう、聞けば聞くほど私は庄吉に腹が立ちましたよ」

 片岡は庄吉と金八長屋で陰口をたたいた住人への怒りから、いつもより雄弁だった。真乃が口を挟む間もなく、話は続いた。

「板倉さんはおるいさんの陰口を言い始めたのが同じ金八長屋に住む、年も近い若女房だったから、おるいさんへの妬みからだろうと申されました。御存知のように、おるいさんはかなり器量が良い。差配の善兵衛は庄吉の酒癖の悪さに気づいていたこともあり、なにかとおるいさん母娘を気遣っていたそうです。その辺りのこともその女房は誤解して常日頃から妬んでいたのだろうということでした。結局、火事の二月後におるいさんと母御は浅草寺裏の長屋へ移ったのだそうです」


 陰口を言い始めた女房がタチの悪い女だったのは間違いないが、誤解していなかったかもしれないぞと真乃は思った。手は出していなかったろうが、もしもるいがそのまま金八長屋に居続けていたら、善兵衛の後添いか妾になっていたかもしれない。

 そう言う片岡もるいに少なからぬ思いを抱いている。

 それはともかく、当時のそんな誹謗中傷をあの浪人がどこかから仕入れ、また悪い噂を広めるぞと、るいを脅したというのが一番あり得る展開だ。あの浪人が考えることなど、そんなものだろう。

 自分に落ち度がなくても、悪い噂が勝手に広まること、その恐ろしさが身に染みていたろうから、るいが脅しに屈するのも無理はない。


「私に打ち明けてくれていたら……」

 真乃と片岡が全く同じことを同時に言ったものだから、それまで黙って二人の話を聞いていた万蔵が盛大に吹き出した。

 二人に一斉に顔を向けられた万蔵は慌てて笑いを止め、早口に捲し立てた。

「ホントにね。なんで打ち明けてくれなかったんでやしょうね。お二人に話すのが気後れしたなら、あっしっていう、気楽に話せるのもいやしたのにね!」



 〈女を連れ戻したくば、必ず一人で暮れ六つ(午後6時頃)に久右衛門町蔵地の船宿、へ来られたし〉


 翌朝早く豆腐の振売りが届けてきた文を真乃は片岡の前で読み上げた。

 振売りは通りがかりの町人に駄賃付きで頼まれたという。

「船宿ヘ来いとは……」

「船に乗せるためでしょうな。船宿は何も知らないことでしょう」

「では嘉兵衛の下っ引きを河岸に潜ませ、私は船で待機しておきましょう。二艘用意した方が良いな」

「それには及びません。片岡さんにはもっと大きなことに備えていただきたい」

 片岡は怪訝な顔をした。

「当初は命を奪おうとしたおるいさんをここへきて拐かし、私を誘き出すのには何か裏があると思うのです。物事全体からすれば、そちらが中心で、おるいさん拐かしは目眩ましではないかと私には思えて仕方ありません。そう考えないと、やつらが方針を変えた説明がつかない。利用できると思えばこそ、拐かしたのです」

「おるいさん拐かしは囮だと申されるのですか!」

 真乃は頷いた。

「町方を拐かしの方に目を向けさせ、人手を割かせるのが一番の狙いだと思います。その間に奴らは何事かを成し遂げるつもりなのですよ」


 昨日のうちに大貫屋が奉行所に届け出て、今やるいの拐かし、或いは行き方知れずに町奉行所は本腰を入れて取り組もうとしている。

 探索はこれまでの経緯から片岡が中心となり、平同心二人がその補助をする命を受けたという。相手方の動き次第では、さらにあと何人か応援を頼めることになっていた。片岡が上司を口説いたせいもあったろう。

 それこそが相手方がるいを拐かした狙いだと、真乃には思えてならない。

 その推測の裏付けとなるのが、きさから聞いた内藤家老の言葉だ。裏付けというには漠然としているが、近々運命を分けるような大きなことが起こると、内藤家老が考えていたことだ。


「なんという連中だ!」

 片岡は言葉を吐き出した。

「肝心の企みが船に関わるのは間違いありません。目付方が企みに気づいて動いているのも間違いないでしょう。だからこそ、おそらく連中は町方にはおるいさん拐かしを、目付方にも何らかの目眩ましを図っているのではないかと思うのです」

「真之助様、あなたというお人は……」


「あの、おつねを拐かした頭の言葉が連中のやり口を考える大きな助けになっているのですよ。私も相当なワルになれるということかもしれませんね」

 後半を真乃は苦笑いしながら言ったのだが、片岡の深刻な顔つきに変化はなかった。

「しかし真之助様、あなた一人で行かせるわけにはまいりませぬ。相手はおそらく大勢ですぞ。いくら強くても、数十人という大勢には勝てますまい。ましてやおるいさんを助けださないといけないのですぞ」

「だからこそ、先方の求めどおり一人で行くのです。待ち受けている連中を安心させるために。いや、油断と言った方がいいな。無論、何の策も無しに乗り込むことはしませんよ」

 片岡が当然だというように頷き、真乃に続きを促した。


「嘉兵衛親分の下っ引きを一人……いや、二人貸していただきたい。その下っ引きと万蔵に私が何処へ連れて行かれるか見届けてもらいます。片岡さんにどこへ連れて行かれたかはすぐに知らせます。ですが、その知らせに直ちに助けに行こうとはなさらぬように。大本の企みを潰せば、おるいさんも私も用がなくなる。雇われ連中の気概は無くなるのです。私を待ち受けているのは企みの中心にいる連中ではない。本筋の詳細は知らされていないと思います。万蔵、いいな。今度は巻かれるなよ」

 急に振られた万蔵は、慌てて背筋を伸ばして頷いた。

「今度は絶対に巻かれません。見失いやしませんよ!」

「しかし大本の企みを潰すといっても、何をどうすればよいのか。府内の水際は広すぎる……」

 事態の逼迫具合に頭が固くなっているらしい片岡に真乃は更に手懸りを与えた。

「伊勢九、大和守御家中、田安様御家中。この三つだけですよ。見張らないといけないのは。町方と目付方が手分けすればそう難しいことではないのではありませんか?」

 片岡がハッとした顔つきになり、大きく頷いた。

「お奉行にも御注進してその三家に関わる場所を見張り、大きな網を張れるようにします」

 片岡は庭へ降りた後で今一度真乃に振り向いた。

「真之助様、御武運を心から祈っております。真之助様とおるいさんにここでまた笑顔で会えますようにと」

「私も片岡さんの町方としての御武運を祈っております」

 真乃は穏やかに返礼した。

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