第2部 第6章

 実のところ真乃に大した策があるわけではなかった。自分の勘と腕を信用するしかないと覚悟を決めていた。

 楠田が助太刀を買って出たのも断った。

 八代を失ったことは大きな痛手だった。八代ならば、真乃は助太刀を頼んだからだ。危険を承知の用心棒にあてはめるのはお門違いかもしれないが、松三郎の下手人は、今や真乃にとって八代の仇でもある。

 要求通り一人で行くのには、用心棒としての矜持もあった。

 ただ、片岡が言ったように数十人もの相手と戦うことにはならないと考えていた。るいの拐かしと同様、真乃の対応は、大和守家中が行うと思うからだ。

 一万石の小藩が抱える家臣の数はしれている。しかも、何かをやろうとする傍ら、である。

 そこに勝機があると真乃は思っていた。

 もちろん気にしないといけないのは、数より質である。松三郎と八代を斬った剣士を含めた複数名との対決となると、真乃一人で勝てる自信は無かった。

 それでも後へ引かないのは、剣士として生きることを選んだからだ。

 ――この難局を乗り越えることができなければ、私に生きる道はない。おるいさんはなんとしても救い出す。自分がどうなろうとも、最後まで盾になって逃してみせるさ。


 指定された時間になるまで、真乃はしっかり食事をとり、昼寝し、心静かに薪を割り、嵐に備えて自身の力を蓄えることに勤めた。

 ふとした時には、御屋形様の家老がわざわざ大和守家中を隠れ蓑にして船で運ぶ荷とは一体何なのかと、企みのことに思いをめぐらせたりもした。

 そうした心身の弛緩と黙考を繰り返し、いよいよ出かける準備をしようとした時、真乃の戦に向けた準備は思わぬ客人に邪魔された。


 かよに呼ばれて濡れ縁に出ると、そこに思い詰めた顔をして斉藤岩五郎が立っていた。怪我の療養の間、楽をしていたわけではなかったらしく、前よりやつれて見えた。

 そんなやつれた姿で今頃何しに来たんだと冷めた気分で訝しんだ真乃だったが、「これは斉藤殿。傷は治りましたか」と、当たり障りなく挨拶した。

 岩五郎は真乃の言葉になぜか顔を赤らめた。

「はい。ここに参った初日に受けた傷はとうによくなっていたのですが、その……」

 真乃は放っておくといつまでたっても話が終わらない気がして、話を促してさっさと切り上げることにした。

「せっかくお越しいただいたが、用心棒をするおるいさんはいませんぞ。私はというと、ゆっくりお話を伺いたいが、これから出掛けねばなりません」

「存じております。某の代わりに用心棒をしていた八代殿は斬り殺され、おるいさんは拐かされたとか。相模屋から聞きました」

 あのお喋りめと、真乃は心のなかで相模屋を罵った。

「それで?」

 ついぞんざいな聞き方をしたが、岩五郎は気にしなかったようで、

「その八代殿を斬った下手人は、ま、松三郎殿を斬った下手人と同じだと聞いたのですが、誠でございますか」

 と、切迫した顔と声で尋ねてきた。これには真乃も驚いた。

「斉藤殿は松三郎殿をご存知だったのですか」

 岩五郎はまた顔を赤らめ、今度は下を向いた。

「いえ、知り合いという程のことは……何度か見かけただけで……金がないので客にもなれず……」


 あ、そういうことかとやっと真乃は合点した。

 たまたま腕っぷしの強さでも真乃は相模屋の一番手だったからあまり気にしていなかったが、相模屋は昵懇の大貫屋の妾を守る用心棒に一番間違いの起こらない選択をしていたのだ。

 真乃は今まで気がついていなかった自分の間抜けぶりを内心で笑った。

「貴殿が婿養子に乗り気でないのは、そういうことでしたか。なるほど」

 岩五郎は耳まで赤くなって更に深く俯いた。

「松三郎殿の突然の訃報は堪えたでしょうな」

 岩五郎の肩が震えた。

 そうすると、療養が長引いたのは恋煩いかと、真乃は先ほどの岩五郎の言い淀みにも納得した。


「情けないことですが、暫くは物が喉を通りませんでした。何も食べる気がせず、毎日泣き暮らしておりました。挨拶しかしたことはありませんでしたが、置屋の者に好きな相手に請け出されたと聞いて、陰ながら幸せを願っていたのです。それなのに、あ、あんなことに……」

 この男に金があったら、松三郎の運命は大きく変わっていたのだなと、真乃は死に顔しか見たことのない若衆の人生を思いやった。しかし長く感傷に浸ってはいられない。

 岩五郎が顔を上げると、目が赤くなっていた。

「青井殿が立ち向かう相手が松三郎殿の敵ならば、微力ながら某、助太刀いたしたいと思い、今更ながらここへ参りました。どうか某に手助けさせてくだされ。この通りでござる」

 岩五郎はその場に土下座した。

「某にもう少し剣術の才があったなら、自分で松三郎殿の仇を打ちたいと思うところです。ですが、この腕では一矢も報いることができない。情けない……」

 岩五郎は手で目を擦った。涙が溢れたらしい。


「……わかりました。手伝っていただきましょう」

 岩五郎が顔を上げた。決意の漲る顔だった。これまで見た中で一番剣士らしい顔つきだった。

「忝なく存じまする。なんなりとお申し付けくだされ」

 岩五郎の決意に真乃はぼんやりと考えていたことが明確になった。それで行こうと決めた。

「では、まずは湯島へご足労願います。これから一筆書くので、それを持って湯島天神裏の宮芝居の役者達が住む小屋を訪ね、そこで寝起きしている『井筒のお清』こと清吉を捕まえて私の文を読み上げていただきたい」

「いずつのおせいことせいきち……ですか?」

「宮芝居で馬の脚とか狸をやってる自称名女形役者です。嘗ては美人局で荒稼ぎしていた奴ですが、一応心を入れ換えたことになっています」

「青井殿はそんな人物とお知り合いなのですか!……信頼できるのですか?」

 岩五郎が至極当然の疑問を投げてきた。

「仲間を売って自分だけ助かったような狡猾な奴ですが、父の青井真右衛門が命を助けてやった恩人なので、青井家の者の言うことは聞きます。聞かないと命が無いとわかってますからな」

 真乃の説明に岩五郎は半信半疑の風だった。

「斉藤殿を見たら、きっと小娘のような身振り手振りに言葉遣いをするでしょうが、くれぐれも騙されないように。中身はそこらの破落戸より遥かに肝の据わった油断ならない野郎ですよ」



 敵が指定してきたよねやはこじんまりとした船宿で、真乃が着いた時、客は一組いるだけだった。

 見張っていたようで、到着してすぐに身なりのきちんとした侍が五人現れた。

 五人とも相当緊張していた。中には元服間もない、まだ十代に見える若侍もいた。皆、大和守家中だと思われた。

 真乃はこの侍達と斬り合いたくはないと思った。間違いなく真乃の圧勝だ。読みどおりではある。頭にまたあの忍びあがりの男の言葉が浮かんだ。

 ――この連中も捨て駒なのだ。

 

「船でどこかへ連れて行くのだろう。さっさと案内してくれ」

 真乃は懐手で五人をねめつけながら言った。

 十代の若侍は真乃と目があった瞬間に震えだした。

 五人は船宿を出ると真乃から一間近く離れて前と左右に一人ずつ、後ろに二人の陣形で取り囲み、屋根船が待つ桟橋へと進んだ。

 腰の物を寄越せと言われると思っていたのにそんな素振りはなく、五人は真乃の前後に別れただけで屋根船に乗り込んだ。真乃はそのうち三人と共に小屋部分に腰を落ち着けた。

 弦側を塞いでいるのは武士用の障子ではなく町人向けの簾だった。灯をともす刻限では障子より簾の方が外側に中の様子を知られず、良いかもしれない。

 船尾で一行を待ちうけていた四十くらいの船頭は、丁寧に真乃と五人に辞儀をした。五人と知り合いのようだった。

 船はゆっくりと桟橋を離れ、やがて川を下っていく感覚があった。


 行き先は十中八九、本所にある大和守下屋敷だろうと真乃は考えていた。

 田安家下屋敷は船で乗り付けるのに一番都合が良いが、根来という家老が田安家所縁の場所を使うわけがない。

 大和守下屋敷は本所にあり、小名木川にも近い。その上、下屋敷には藩主のご家族や親族はおらず、常駐しているのは藩士だけと聞いていた。

 万が一悪事が発覚しても藩士だけなら、藩主は言い逃れができる。

 そう考えて真乃にはやるせない思いがつのってきた。

 これから真乃が対峙する面々は、上からの指図で動く駒に過ぎないのだ。なるべく穏便にことを片付けられればそれに越したことはない。

 水音はそんな真乃の気持ちに添うように、眠りを誘うような規則正しさと穏やかさだった。


 船は途中で向きを右、左と二度変え、桟橋を離れてから半刻近くたった頃に動きを止めた。

「腰の物をこちらに渡していただき、目隠しをしていただく」

 真乃と一緒に小屋内にいた三人の中で最年長の侍がやっと口を開いた。緊張のあまりか、声がひっくり返りかけていた。慌てて侍は咳払いをした。

 真乃はくすりと笑ってしまったのだが、同僚の二人は固い表情のままだった。それも無理はなかった。実際に二刀を受け取り目隠しする役は彼等だったのだ。

 一人が襷を懐から出し、膝行で真乃に近づいて目隠しをした。もう一人が真乃から二刀を受け取った。

「人質を取られているのだ。こんな所で余計な真似はせぬよ」

 真乃は目隠ししようとする手も、二刀を受け取った手も、震えていることに気づいてそう言った。

 真乃の武芸の腕前は相当高く評価されているらしい。噂の常として、色々誇張されているのだろう。


 船から上がり、一行は束の間歩いた。真乃は肘を押されて進んだ。

 やがてぎいと木が軋む音、門が開く音がした。

「お進みください」

 いたって丁寧な言葉遣いである。

 目隠しされていても、人の気配はある程度感じることができる真乃なので、辺りの様子が皆目わからないということはない。

「そこでお止まりください」

 真乃が歩みを止めると目隠しがはずされた。目の前に式台があり、視界の端から端まで平屋が広がっていた。

 屋敷の奥の方に人が集まっている気配がある。

 式台にぞろぞろと六人は上がった。

 屋根舟の中で声がひっくり返りかけた侍が先頭に立ち、一行は平屋の奥へと進んだ。


 広縁に出て二度角を曲がったところに一際大きな座敷があった。

「ここで暫しお待ちいただく」

 先頭を歩いてきた男はそう言うと、真乃の回りに四人残して更に奥の方へと幅四尺の広縁を進んでいった。

 真乃は座敷を見回した。

 襖には金箔を施した花鳥風月の絵が描かれていて華やかだったが、床の間を含めて部屋の何処にも飾りや調度類がない。

 あちこちに人の気配は感じるし、緊張感はあるが、殺気は感じない。不思議な感覚だった。

 予想外の状況に真乃は少し戸惑っていた。と、突然足元が傾いた。

 咄嗟に真乃は人のいない方の隣の畳に避けた。ところがその畳も足を置いた途端に傾いた。なんと、二重に仕掛けられた罠だった。

 畳の端を持とうと思えば持てたが、真乃は素直に下へ落ちていった。底に板が見えたからだ。さして高くはない。


 着地の衝撃を膝や足首でうまく吸収し、真乃は板の間に屈んだ体勢で降りた。上の方から「動揺していなかったな」、「某の方が慌てました」といった声が聞こえた。

 目の前には太い格子があり、その向こうに蝋燭に点された灯が頼りなく揺らめいている。

 斜め横にも四畳半くらいの広さの牢屋が見えた。

 見上げると、さっきまで立っていた畳の裏と思われる板張りの天井が目分量で五尺ほど上に見えている。

 問題は臭いだった。様々な臭いが混ざりあった悪臭が鼻をついた。


「あ、青井様!」

 後ろで悲鳴のような甲高い声がした。

「助けに来ると思っていたのが、捕まってがっかりしたか?」

 真乃は振り向きながら言った。振り向ききる前にるいがしがみ付いてきたから、真乃は大いに面食らった。

「ごめんなさい!あたしが勝手に出掛けたから……ごめんなさい!八代様は、八代様は……取り返しのつかないことに……青井様までこんな所に……」

 そこまでいうと、るいは床に崩れ落ちるように座り込んだ。

「全くだ。何故私に打ち明けなかったのだ」

「だって……」

 るいが顔をあげた。化粧はとうに剥げて、真っ赤な目と鼻をしていた。泣き腫らした顔だ。

「言えなかったんです。今度のことも身からでた錆と言われそうで。青井様だけでなく、これまで親切にしてくださってた皆さんに愛想尽かされそうで……」

 袂で顔を覆っておいおいと泣き始めた。

「こうなったからには、すべて私に打ち明けてくれ。何も隠さず、これまでにあったことを。いいな?」

 るいはこくりと頷いた。それから姿勢を正し、気持ちを落ち着けるように胸に右手を当てた。その手を膝に置いてからおもむろに口を開いた。

「あたし……庄吉を、旦那を殺してしまったんです」


 勢いよく言葉を吐いたるいは目を瞑り、何かに耐えるように唇を噛み締めた。

「どうやって?」

「驚きませんの?」

 るいがぱっちりと目を開けて真乃を見つめた。真乃に驚いた風がないのに驚いたらしい。

「何を使って殺したのだ?」

 真乃の方は変わらぬ態度で質問を繰り返した。

「な、鍋で頭を叩いて……」

「鍋の大きさは?」

「三人分のお味噌汁作るくらいですから、よくある大きさの……」

「どこで?」

「す、住んでた長屋の店で……」

「それはおかしいな。庄吉の焼死体は店の中ではなく、路地で見つかったということだ」

「ですから、あたしが鍋で頭を叩いて怪我させたから、逃げ遅れて……」

「それでは殺したとは言わない。怪我させただけだ。庄吉殺しの『下手人』は火事だ。鍋殺しというのもなかなかオツだが、その細腕で小ぶりな鍋でもって一回叩いたぐらいではそうそう死なないよ。木魚叩くようにポクポク何度も叩いたわけではあるまい?」

「茶化さないでください!」

 るいが睨んできた。

「茶化してなどおらんよ。ただもう少し順序だてて話してほしい。時はたっぷりあるしな」


「……そうですわね。たっぷり時はありますわね。でも、ここでのんびりしてて良いのかしら」

 真乃は辺りを上から下まで見回した。

「ここを抜け出す機会はすぐにやってくるさ。誰かが食事を持ってくるだろう?」

 るいは真乃の言葉に不審の目で答えた。

「食事はつい先ほど片付けられました。今日は朝と夜の二回。どちらもお粥だけでしたから、青井様はきっと足らないと仰るわ」

「では明日の朝の食事時に決行しよう。外でもっと食べごたえのあるものを食べるためにね。あんたの籠り日も近いしな」

「そうでした!ああ嫌だ。明日か明後日には……だからかしら、馬鹿なことばっかりして、自分で嫌になっちゃう」

 るいは情けなさそうな顔になった。

「懐紙はこれだけあるから、もし明日の朝始まってもここを出るまでなんとかなるさ」

 真乃は懐から紙の束を取り出してるいに見せた。

「いつもそんなに持ち歩いてらっしゃるんですか?」

 るいが驚いていた。

「なにかと便利なのでな」

 実のところ、るいの「お客」が近いから万が一のためにと多めに懐に入れたのだが、そのことは伏せておいた。端切れも数枚、袂に入れていた。


「さ、金八長屋が火事で焼けた宵の話を続けてくれ。庄吉は性懲りもなく泥酔状態で帰ってきたと、金八長屋の差配、善兵衛が語っている。鍋で頭を叩こうと思うに至った経緯を教えてくれ」

「……善兵衛さんにお確かめになったのですか?」

「片岡さんが当時深川掛かりをしていた板倉さんに尋ねた」

「片岡様が……そうですか……」

 るいはほつれた髪を整えようとしたが、その手が震え始めた。ぐっと息を詰めた。


「前にも言ったと思いますけど、あの人、酔っぱらうと手がつけられなくなったんです。あたしだけが殴られるならまだ我慢もできたけど、あの日、あたしを庇ったおっ母さんにまで手を上げたんです!具合の悪いおっ母さんを平手打ちして、足で蹴ったんです!我慢できなかった……思わずそこに置いてあった鍋を掴んで、おっ母さんを足蹴にするあの人の頭を後ろから……」

 るいは鍋を掴んでいるかのように天井に向けて両手をあげると、その手を一気に振り下ろした。顔は手から背けていた。それから震える手で顔を覆った。

「そんな光景を目撃したら、真っ当な女は大抵そうするよ」

 真乃の合いの手が耳に入ったようには見えなかった。るいは震える手を膝に戻した。手の下から現れた表情は固い。

「あの人、ばったりと倒れました。頭の所から板の間に血が流れて、あたしもおっ母さんも呆然として……そしたら、火事だっていう声が。あたし、慌てて庄吉を揺すったんです。でもぐったりしていて動かなくて、てっきり殺してしまったかと……おっ母さんは落ち着いてました。庄吉の口と鼻に手をかざして、息してるから死んでないって。それ聞いてあたし逃げなきゃって。火事から逃げようと思ったんじゃないんです。あの人から逃げなきゃと思ったんです!息を吹き返したら、きっとあたしもおっ母さんも半殺しの目に逢うと思って……火事は好都合だって……」

 るいは当時の自分に怯えている。真乃はそう思った。


「おっ母さんを抱えて外に出たら煙たかったし、火がそこまで来てるのがわかりました。けど、火よりあたしは庄吉から逃げることしか考えてませんでした。必死に火除け地まで逃げたら、善兵衛さんに庄吉はどうしたと聞かれて、その時になって『しまった』と思いました……」

「……それで?」

「それで……誤魔化さなきゃ、そのためには探しに行かなきゃと、金八長屋に戻るふりをしました。誰かが止めてくれることを願ってました。本当に探しになんか行けません。見つかったらあたしが殺されるかもしれないんですもの」

 るいの目は遠くを見つめていた。

「願ったとおり、善兵衛さんが無理だと引き留めてくださいました。その時には何で泣いたのかわからなかったけど、あとから振り返ると、ほっとしたからです。庄吉は死んだと思って……あたしがやったこともばれないと思って……」

 るいはそこで額に手の甲を当てた。頭痛がしてきたのかもしれない。

「火事のあと陰口を叩かれたこともお聞きになってますよね」

 真乃の方は見ずにるいが尋ねてきた。真乃はただ頷いた。

「あの陰口が聞こえてきた時は、生きた心地がしませんでした。誰かが一部始終を聞いてたんだと思いました。あたし達が住んでた店の片方は空いてて、反対側に住んでる人はいつもいない頃合いだったから、そんな人、いないだろうと思ってたんですけど、運悪くあの時に限って誰かが近くにいたのかなって……善兵衛さんが優しい言葉をかけてくださる度にいたたまれなくて、もう……」

 またるいの目から涙がこぼれ始めた。

「陰口を言いふらしてた同じ金八長屋に住むおちよさんと喧嘩したのだって、おちよさんに腹をたてたからじゃなくて、あとから思えば、あたし自身が自分のしたことを悔やんで苛立ってたから、なんです。人って不思議ですね。なんで自分に腹をたててるのに、相手に腹をたててるって思ったのかしら。あたしだけかしら」

 るいは独り言のように呟いた。


 真乃はるいの言葉に昔を思い出していた。

 自分をわかってくれないと母親に腹をたてていた自分。あの腹立ちには母親の思うような子供になれない自分への苛立ちもあったと、今では解っている。

「あんただけじゃないだろう。ひとは皆、そんなものかもしれない」

 真乃の後押しにるいは少しほっとしたようだった。


「引っ越そうと思ったのは、隣に住んでた三治さんが陰口の元だとわかったからです。三治さんは毎日八つ過ぎ(午後2時頃)にお蕎麦の屋台引いて出掛けてたんですけど、あの日に限って出かけるのが遅かったんですって。あたしったら、いつもいない頃合いだから、てっきりいないと思い込んでて……。今回とおんなじで、脅されました。陰口を黙らせるから一緒になってくれって。庄吉みたいな乱暴者じゃないとは思いましたけど、脅されて一緒になるなんて耐えられなかった。毎晩、火事の夢を見そうで……それですぐに善兵衛さんにお願いして浅草寺の方へ引っ越しました。三治さんには少しでしたけど手持ちのお金を渡して、これきりにしてくださいと言い置いて。それから一生懸命働いて、松三郎と出会って、大貫屋の旦那様と出会って……おっ母さんは死んでしまったけど、ちゃんとお医者様に診てもらうことができて、最期は眠るように息を引き取って、供養もできて。あたしにとって大事な人たちと出会えて、穏やかな毎日を過ごせて……すっかりいい気になってた……」

 るいは途中からぼうっと格子の外の灯火を見ていた。真乃も灯火に目をやった。


「おるいさん、打ち明けた相手が悪かったな。そんな程度で因果だの悪運がついて回ると言うなら、私はとうに地獄に落ちてるよ」

 るいがやっと真乃を見た。

「でも青井様はお武家様ですし、お斬りになった相手は罪人や悪人でしょう?」

「すまんが、そなたの嘗ての旦那も私には悪人に思えるぞ。根っからの悪人でなくとも、酔っぱらった時だけといえども、自分の女房と義理の母親に正当な理由無く暴力を振るうのは私に言わせれば、立派な罪人だ」

 るいの目がまた潤んできた。

「あの貧相な浪人はどこまで知っていたのだ?」

「あたしが今言ったことのほとんどです。三治さんからあたしがまだ茶屋勤めしてた時に聞いたんだそうです。今頃になって脅しに来たのは、旦那に囲われて良い暮らししてると思ったから、ですって。引っ越しして暫くはびくびくしたり身構えてたけど、あれから五年もたって、もう大丈夫だと思った矢先ですよ。天網恢恢……とか言うんでしたっけ?」

「それを言うなら『天網恢恢疎にして漏らさず』だが、この場合、それはちょっと当てはまらないぞ。繰り返すが、あんたは庄吉を殺していない。直後に火事が起きたのが庄吉の不運だ。ま、私からしたら、自業自得だがね。庄吉は店から自分の足で出ている。動けたのだ。あんたが気に病むことはない。それどころか我慢していたら、そのうちあんたか『おっ母さん』が大怪我を負うか、殴り殺されていたかもしれない。これは剣術の師匠の受け売りだが、大抵のことは起こるべくして起こるものだ。一つ条件が違っていればこんなことにならなかったのに、どうしてこんな廻り合わせになったのかと思うような物事は、起こるべくして起こっているのだよ。個々の人の思惑とは別にね」


 るいがすがりつくような目を真乃に向けてきた。

「あの火事で亡くなった方が何人もいたのに、あたし、火事が起きてよかったという気持ちがあるんです。それでもそんなお言葉をかけてくださいます?」

「すべての元凶は庄吉にある。例えあんたに非があったとしても、明らかに自分より弱い人間に暴力を振るうのは卑怯者のすることだ」

「我慢してたのが馬鹿ってことですよね……」

「身一つならまだしも、病気の母親を抱えていては逃げ出すのも難しかったろう。何より思うだけなら罪にならないぞ。そんなことで罪に問うていては、この世に罪に問われない人間がいるかどうか怪しい。それにあんたは自分の心を突き放して見ることができている。なかなかできないことだ。それが出来ているなら、例え過去に過ちをおかしていたとしても、二度と繰り返さないさ」

 るいは泣き笑いの顔になっていた。

「そんなお言葉、嬉しくて、嬉しすぎて……女とわかってても惚れるじゃないですか」

 るいは本当に泣きながら笑っていた。

「前にも同じことを言われたことがあるな。私が女ゆえ、女がかけてほしいと思う言葉をかけられるのだろう。皮肉なものだな」

「……そうですわね。そういうことですわね」

 るいがいつもの笑顔を見せた。

 地下牢で真乃が初めて見たるいの心からの笑顔だ。全て打ち明けたことで、少しでもるいの心が軽くなったことを願う真乃だった。


「嫌なことを思い出させるが、八代さんと貧相浪人を一刀両断にした奴の顔は見たか?」

 途端にるいが首をすくめて身震いした。

「頭巾を被っていたので、見えたのは目だけですけど、切れ長の目でした。冷たくて厳しかった。見据えられただけで震えました……」

 言いながら、るいは自分で自分の肩を抱いた。

「そうか。真光寺へは貧相浪人に金を渡すために行ったんだな?いつそんなやり取りをしたのだ?場所を指定したのは奴か?」

 るいは最初は頷き、次に首を横に振った。

「やり取りは一度だけです。日時も場所も決めたのはあたしです。それなりに人が集まってる方が目立たないと思って……一昨日の、青井様がお出掛けになった後で、文を小さく畳んで垣根に忍ばせたんです」

 大和守上屋敷から戻ってきた時にすれ違った浪人の様子を真乃は思い出した。機嫌が良さそうだったのは、るいの返事を手に入れたからだったのだ。あの浪人が垣根に隠していた文を取ったことに、八代は気づかなかったということだ。

 仕方ないといえば、仕方のないことである。

 八代が気にしていたのは刺客であり、真乃もあの浪人のことを事前に話してはいなかった。


「八代さんはあの場所へあんたについて行ったのか?」

 るいの顔が苦しそうに歪んだ。

「追いかけてくださってたなんて知りませんでした。枝折戸とは反対の、垣根が脆くなってる所からそっと出たんですもの」

 真乃はそもそも垣根の高さが防犯の役に立たないと、細かく調べていなかったことを悔いた。同時に八代の用心棒としての力量に感じ入った。真乃には何も言わなかったが、あの浪人が垣根でしたやっことには気づいていたのかもしれない。

「あの薄汚い浪人にお金を渡した直後にあの連中が現れて、同時に八代さんも姿を見せて、あたしの前に立ちはだかってくださって……」

 るいはそこで言葉を切り、両手で顔を覆った。手の下から嗚咽が洩れてきた。

「あんたを拐かした連中は切れ長の目の侍の他に何人いたのだ?」

 少し間をおいて真乃は尋ねた。

「全部で五人です。二人は駕籠かきで、後の三人が頭巾を被ったお侍。あの……あの刀を抜いたお侍が、ひょっとして松三郎の?」

「おそらく」

 るいが唇を噛み締めた。

「あたしったら、松三郎の仇を目の前にして気づかないなんて!」

「そもそも会ったことが一度もなかったではないか。それになにより、あんたが敵う相手ではない。仇討ちは私に任せろ」

 さらりと請け合った真乃にるいが目を輝かせた。手をついて深く礼をした。

「ありがとう存じます。あたし、手伝いますから、できることがありましたら、なんでも仰ってくださいまし」

「そやつらは真光寺門前で貧相浪人とあんたが会うことを事前に知っていたとしか思えないんだが、貧相浪人はどんな様子だった?五人の内の誰かを知っている風はあったか?」

「あたしと同じように驚いてましたし、『何の用だ』と言ってましたから、あの中に知り合いがいたとは思えませんわ」

「では、あんたに絡む気配にあの浪人を見張っていたのだろうな……」

 鐘の音が三つはっきり聞こえた。宵の五つ(午後八時頃)を知らせるための捨て鐘だ。

 本所横川の鐘の音だろうと真乃は思った。間違いなくここは本所浜町にある大和守下屋敷である。


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