第2部 第7章

 地下牢は思いの外冷えた。隅にある蓋付きの用足し用の穴の様子からして、土の上に板を敷いただけの造りらしいが、薄い板の下は石ではないかと思うような固さと冷たさだった。

 そして寝具は誇張無く煎餅並みの厚さの布団一組しかない。

 真乃は誰か来たらもう一組布団を寄越せと言うつもりだったが、誰も現れないまま夜が更けていった。

 全くの放ったらかしだ。


 仕方なく真乃とるいは板壁にもたれて二つ折にした煎餅敷き布団の上に二人並んで座り、煎餅掛け布団にくるまった。

 るいが首まで布団にくるまってまもなく、楽しげに小声で喋り始めた。

「昔ね、おっ母さんとこうやって一つ布団にくるまって寝てた時期がありますの。その日にあったことや聞いたことをなんでも話して、笑ったりホロリと泣いたりしてるうちに寝入って……」

「そうか。この格好は良い思い出に繋がってるのか」

「町奉行所与力のお嬢様にはこんな貧乏くさい思い出ありませんわよね」

 るいの問いかけに、真乃も思い出を語った。

 幼い頃の話となると、源二郎の名前が出てくる。

 そこから話は自分は料理が苦手だが、源二郎は料理好きなこと、殉職した源二郎の兄のことへと流れた。


 周りに乳兄弟の真乃と源二郎は、二人とも変わり者と見えているだろう。似ている所もある二人だ。

 だが二人を育てた芳乃にとって、源二郎は「良い子」で真乃は「悪い子」だった。

 真乃は頭に甦りかけた母親の姿を追い払った。


「……では、源二郎様はお兄様がお亡くなりになって、お家を継がれることになったのですか」

「押し込まれた家の者を庇ってのことだった。同心が捕物に所持するのは刃引きした刀だから、相手に致命傷を与えることができず、防ぎ切れなかったのだ」

「なんてこと……そんなお優しくすぐれたお方が……いえ、そんなお方だからこそ、ですわね。嫌な世の中。松三郎といい、神様は何をご覧になっているのかしら」

「全ては人の問題だ。私なりに僅かでも、善良に地道に生きている人々の手助けができたらと思っている。烏滸がましいかもしれないが」

「そう言ってくれるお武家様が一人でもいらしてよかった……」

「私だけではないぞ。片岡さんも悪事を黙って見過ごせない武家の一人だ」

 真乃が気を利かして言った一言にるいの返事はなかった。すぐに寝息が聞こえてきた。


 劣悪な環境の割にはすっきりした気分で目覚めた真乃は、すぐに辺りの気配を窺った。

 淡い光が格子の向こうに幾筋か差し込み、微かに鳥の声が聞こえた。

 灯火はとうに消えていたが、幾筋かの光でも暗闇に馴れた目には十分様子が見て取れた。

 るいは真乃の肩に凭れてまだ眠っていた。前夜はほとんど眠れなかったというから起こすのも気がひけ、真乃は身動ぎもせず、気だけを研ぎ澄ませた。

 不思議なほど辺りに人気ひとけがない。

 ――昨夜から今朝にかけて何らかの動きがあったはずの、某家の家老と大和守家中の企みはどうなったのか。読み違ったとは思わないのだが……

 肩にかかっていた重みが消えた。

 横を見ると、るいが不思議そうな顔をして真乃を見ていた。それから「あ」と口を開けた。

「嫌ね。寝ぼけてここはどこだろうって思ってしまったわ。青井様、おはようございます……ですわよね?」

「おはよう。とっくに朝になってるよ。さて、何時頃に粥をもってくるかだ。昨日は何時頃だった?」

「五つの鐘が鳴った後でした」

「五つか……微妙だな。食器を取りに来るのは?」

「四半刻くらい後です」

「そっちでやるか」


 できるだけの身支度をしようと、二人は蒲団から出て用を足し、髪のほつれや着崩れを直した。

 隅には蓋付きの桶があり、中に水が入っていたから、二人はそれぞれ手と顔を洗い、口に水を含んだ。

 人質に対し、それなりに気をつかっているようだ。

 寒いので、朝粥が来るまで二人はまた蒲団に潜り込んだ。

 その格好で朝粥を待つ間に、真乃は脱出する策についてるいに説明した。

 るいは目を丸くした。

「本当にそんなことができるんですか?それでここから出られるんですの?」

「この格子の中から出ることはできる。その後はかなりの騒ぎになるだろうが、昨夜見た連中程度なら、多少増えてもなんとかなる」

「あの切れ長の目のお侍が出てきたらどうするんですか」

「向こうに殺気があれば、戦う」

 迷いも躊躇いも無い真乃の言葉にるいは苦いものを口にしたような顔をした。

「怖くありませんの?相手が強かったら、もしも卑怯な手を使ってきたら、こ、殺されてしまうかもしれないのに……八代様のように……」

 るいが布団の中で震え始めた。

「全く怖くないといえば、嘘になる。だが、なんのための剣術だ?こんな時に使える者が使わなくてどうする」

「あのお方は強かった……あっという間にお二人は斬られたんです。もしも青井様の身に何かあったら……」

「いざと云う時の覚悟無しに用心棒稼業はしていない。第一、あんたではないか。松三郎の仇を打ってほしいと頼んできたのは」

「それはそうですけど、もっと敵討ちらしく、一対一で……こんな敵地の中じゃ絶対に不利じゃないですか」

「意外に古風だね」

「古風とかの話じゃありません!」

「しいっ」


 真乃はるいの口を塞いで耳を澄ませた。

 足音が幾つも聞こえた。上に人が集まってきている。何人もが小声で話しているようなざわめきが聞こえてきた。何かあったとみえる。

 るいも上の様子に気づいて天井を上目で見た。

 真乃はそっと立ち上がった。僅かでも何か言葉が聞き取れないかと思ってのことだ。目付という声が聞こえたと思った。

「……御家老お一人が?」

「……そんな!……」

 はっきり聞き取れたのはそれだけだった。

 間違いなく昨夜何かあったのだ。

 真乃は読みどおりだったことにほくそ笑んだ。騒ぎになっているということは、良い結果ではなかったということである。

 ――片岡さん達、うまく仕留めてくれたろうか。

 邪魔はできても、尻尾を捕まえ損ねることはありうる。

 昨夜と同様、鐘がはっきりと聞こえた。五つの鐘だ。

 上のこの様子では粥を持ってくるのは後回しかもしれない。忘れられては困る。そう思った直後に足音と気配が近づいてきた。

「粥が来るぞ」


 真乃の言葉にるいが急いで布団を畳み始めた。

「そのままでよいのではないか。どうせすぐにここを出るし」

「駄目ですよ。きっちりしてると見せないと。お武家様に守るべきものがあるように、あたしのような下々にも守るべきものがあるんです」

「さようか。どうやら『お客』はまだのようだな」

 るいはピタリと動きを止めた。少しの間を置いて真乃に振り向けた顔は安堵の顔だった。

「大丈夫です。よかった……」

 この時、上の物音が静まった。

 一部の人は残り、大半の人が移動していったようだった。どこへ行くのかと動きの先を窺ったが、この屋の外へ出たらしいとしか、わからなかった。

 るいがきっちりと四隅を揃えて布団を畳み終えたと同時に引き戸が開き、燭台を持った侍一人と膳を持った小者二人が入ってきた。膳の上には木製の湯飲み、椀に小皿が乗っていた。

「粥に漬物付きか。まぁまあだな」

 侍が燭台を取り替えてから、鍵を出して戸を開けた。四つん這いにならないと通れない大きさの戸だ。

 小者二人は交互に素早く膳を中へ入れて再び戸を閉めた。まるで獰猛な野獣がいるかのような緊張感と素早さだった。

 その間、真乃は片胡座に片肘をついて三人を眺めていた。そそくさと三人が出ていくのを横目に膳へ手を延ばした。椀の中の匂いをかぐ。小皿の上の漬物へも鼻を近づけた。

「ま、こんなもんだろうな」

 湯飲みの中も白湯だと確認し、真乃は膳をるいの方へ動かしながら言った。

「念のため私が口に入れるまで食べないように」

 るいが目を丸くした。

「あたしたちを毒殺するかもしれないと?」

「外の成り行きによっては、それもあり得ると思うのでな」

 真乃はもう一つの膳の上の物も一通り匂いを嗅いでから、粥を一口、口に入れた。

「大丈夫だ」

 るいに向いてそう言うと、残りを一気に喉へ流し込んだ。

「青井様、いくらお粥だからって飲んでしまわれるとは……」

 箸を持ったるいが呆れた顔を見せていた。

 真乃は一向に気にせず、漬物、白湯と膳の上の物を全て胃の腑に納めると、おもむろに立ち上がった。


 格子の前まで行くと、上を手で触った。格子は壁にはめてあるのだが、上に枠が少しばかり内側にはみ出していた。

 そこから天井までは立板が張り巡らされており、格子の横には巾一尺くらいの柱があった。その部分もまた少し出っ張っている。

 その柱から部屋の隅までは三尺ほどだ。

 これならいけると踏んだ真乃は振り向いた。るいはまだ粥を啜っている。

「もう少ししたら私は上へ上がるからな」

 るいが箸を置いた。

「どうやってそんな掴む物もない所に上がって落ちないでいられるんですの?」

「これならやりようがある。力はいるがね。あんたの演技も大事なんだ。先程注意したこと、頼んだぞ」

「決して上を見ないこと、でしたわね」

 真乃は耳を澄ませた。何か聞こえたと思ったからだ。そろそろ外で何か起こることを期待してもいた。だがはっきりとしたことはわからなかった。

 ――大丈夫だろう。

 真乃は心を決めて時を待った。

 やがてまた微かに木が軋む音がした。人が段を降りてくる。

 真乃は縦格子の中程にある横木に足をかけて枠の上にあがった。僅かに出ている柱を掴んで横へ移動する。足を広げると枠と隅と柱でなんとか自分を支えることができた。下を見ると、るいが口をあんぐり開けて真乃を見ている。

 真乃は来るぞと声をかけた。

 るいは慌てて口を閉じて視線を下に向けた。


 途端に戸が開く音がした。二人分の足音だ。

「あれ?」

「どうした」

「侍姿の女がいません」

「なにいっ!」

 ばたばたと音がした。

「こら、そこの女!もう一人はどこへ行った!」

「『そこの女』って、あたしにはちゃんとるいって言う名前がありますのよ。最初にも申し上げたじゃありませんか。物覚えよくないのかしら」

「なにをっ!どこかにいるはずだ。お前入って確かめろ」

「確かめるも何もこっから見渡せやすよ。いませんぜ」

「鍵がかかっているのだぞ。どこから出たっていうんだ!」

 ぎいと潜り戸が中へ押され、小者が四つん這いで中へ入ろうとした。その頭をるいが椀で叩いた。

「何しやがる!」

 腹を立てた小者が潜り戸を大きく開けて一気に中へ入ってきた。

 その刹那、真乃はその首から肩の辺りに飛び降りた。

 ぐえっという声をだして小者は伸びた。

 侍が慌てて刀を抜いた時には、もう真乃は小者が背中に指していた木刀を潜り戸から侍に突きつけていた。


「言うことを聞くなら、命だけは助けてやる」

 頭を低くして潜り戸を外へ抜けながらも真乃の木刀はびくともせず、侍の喉元へ狙いを定めていた。

 侍が構えた刀は切っ先が震えている。

「ぼ、木刀で何をほざくか!」

 ゆっくり立ち上がる真乃に侍が斬りつけてきた。が、次の瞬間には真乃の木刀が侍の首の付け根を打っていた。

 侍の刀は真乃の左側へ素通りしている。その刀がゴトッと床に落ちた。

 真乃は素早く落ちた刀を拾い上げると、刃筋を確認して軽く振った。侍が倒れていったのに目を向けることもなかった。

「まぁまぁだな。使えないことはあるまい」

 振り向くと、るいが潜り戸を出て立ち上がるところだった。

「死んでしまいましたの?」

 侍の方を見ながらるいが言った。

「気を失っているだけだ。急ごう」


 真乃は手際よく倒れている侍から脇差を鞘ごと抜き取って自身の袴の帯に差した。

 抜き身を右手に、先に立って引き戸の外へ出る。

 左手に階段がある。足音を忍ばせて上がる。階段の上は廊下だった。

 見える範囲に誰もいないのを確かめ、真乃は階段から出た。

 廊下の両側とも襖で中の様子がわからない。

 位置から考えて、左側が罠が仕掛けられていた部屋だ。四半刻前に人が集まっていた座敷である。この時には人の気配が全くなかった。逆に廊下の先の方から微かに話し声が聞こえる。

 真乃は僅かばかり襖を開けた。気配どおり、中には誰もいなかった。向こう側は昨日と同様に障子が開け放たれていて、灌木や小山が見えている。

 真乃はすぐ後ろにいるるいに囁いた。

「一気に向こうの端まで行く。襖を閉めてついてきてくれ」

 るいは頷いた。覚悟が決まったのか、落ち着いた顔つきだった。

 真乃は襖を人が一人通れる分だけ開けて素早く中へ入った。音を忍ばせた小走りで広縁側まで行く。後ろに真乃の二倍速の畳をする音が続いた。

 障子の陰から広縁の様子を窺う。

 下屋敷の出入口は表門だけだと聞いていた。その門の方向に人が何人か集まっている。相当な騒ぎを起こすのは避けられそうにない。

 万蔵に指図した件はどうなったかと、真乃は庭の気配を窺った。少し離れた辺りに人の気配はあったが、いたって静かだった。

 ――まさか、善作爺さんのように実行する策を間違ってはいないだろうな……仕方がない。行くか。

 真乃はるいに振り向いた。

「残念ながら、門に辿り着くまでにかなりの刃物沙汰になる。難しいかもしれないが、私の後ろから一間以上離れないように」

 るいが青白い顔で頷いた。

「用心棒として、あんたの命はなんとしても守る。その代わり惨たらしい光景を目にするかもしれない。耐えてほしい」

 るいがぎこちなく大きく頷いた。

「これはお守りだ」

 真乃は腰から脇差を外してるいに渡した。

 るいは両手で脇差を受け取りながら顔を強張らせた。

「こんな大きなお守り、使ったことありませんわよ」

「鞘ごと振り回すだけでも相手は迂闊に近寄れなくなる。ただし、私に当てないでくれよ。それから相手の急所にうまく当たって向こうがひっくり返っても動転しないように」

 るいはまた大きく頷いた。

「小娘じゃありませんもの。大丈夫です」

 だが、その声は震えていた。

「む、む、武者ぶるいとかいうのですわよ」

 真乃はじっとるいの目を見つめながら、震えているその肩に左手を置いた。

 震えが止まり、るいは目を伏せて息を吐き出した。

「大丈夫です。大丈夫ですとも」

 るいがきっと顔を上げ、脇差を胸にしっかりと抱えた。


 真乃は静かに広縁を歩き始めた。ここへ来た時の記憶から、式台の位置と門の方向はわかっている。

 広縁の下を潜り抜けることも考えたが、広縁は途中で無くなる。そこから先のこの御殿の床下の造りがわからない以上、部屋の中を抜けた方が確実であり、早い動きが肝要だと考えた。

 すぐに地下牢から抜け出したことを連中は知る。その前に行けるところまで行くという作戦だ。腕に覚えのある真乃ならではの判断と言えた。

 人が集まっているのは式台脇の詰所だと思われた。そこまでに何人と出会うかだ。

 広縁の第二の曲がり角でばったりと若い侍と出会った。昨日、真乃と船に乗った五人のうちの一人だ。

 真乃は若侍の姿を目にするや否や、首筋への峰打ちで相手を昏倒させた。

 後ろで逃げたぞという声が聞こえた。


「走るぞ」

 真乃は後ろも向かず、るいに知らせた。

 前方の詰所がある辺りから侍が五人出てきた。真乃達に気づいて四人がこちらに向かってくる。一人は後ろへ向いて中にいる仲間へ告げたようだ。

 幅四尺の広縁は刀を振るうには狭い。四人の侍は刀を抜いては一列になるしかない。

 真乃は先頭の侍とすれ違いざま刀を一閃した。

 侍の片腕が飛んだ。

 悲鳴が上がったのはその後だった。

 二人目は今起きたことに怯むことなく真乃に上段から振り下ろしてきた。

 真乃は難なくその振り下ろしを鎬で反らす。次の瞬間には侍の右肩を斬りつけていた。

 二人の呆気ない倒され方に残る二人はたじろいだ。

「お前達に恨みがあるわけではない。お前達も我々に遺恨はあるまい。この御家に雇われているだけだろう。余計な殺生はしたくない。道をあけなさい」


 真乃は血糊のついた刀を二人につきつけながら、ゆっくり前へ進んだ。

 二人は刀を正眼に構えたまま、ゆっくり後ずさった。

 と、後ろから近づく足音があった。ちょうど横には誰もいない座敷がある。

 真乃は後ろ手にるいに座敷へ入るよう指図した。るいの前に立ちはだかる。

 後ろからの追っ手が斬りつけてきた。

 真乃は下段からその小手に斬りつけ、返す刀で前方から迫ってきた藩士の肩を斬り裂いた。一瞬に終わった早業だった。

 襖が開いて新手がるいに迫る。

 残る一人の追撃をまた下段から弾く。

 今度の相手はこれまでの相手よりかなり強かった。双方飛び退く。

 真乃はるいに叫んだ。

「脇差を振り回せ!」

「はいっ」

 元気の良い返事をしてるいは両手で柄を握った脇差を鞘ごと振り回し始めた。目は瞑っていた。

「おい、目を開けないと……」

 横目でるいの様子を見ていた真乃だったが、言い終える前に相手が斬りつけてきた。鎬で反らしながら攻撃に出る。

 相手は真乃の切り落としを間一髪避けた。腕が伸びた分隙はできる。相手の狙いはその隙だった。

 相手の突きを飛び退いてかわす真乃。


 その時、真乃の横を長さのある何かが飛んでいった。

 真乃は思わず「え?」と声が出たくらい驚いたが、相手も驚いた顔で慌てて身体を捻り、それを避けた。

 真乃は相手が自分から目を離したわずかの隙を逃さなかった。峰で相手の腹を薙ぐ。

 相手は納得がいかないという顔つきのまま、背中から庭に落ちていった。

 落ちたのを見届けて真乃は横を向いた。飛んできた物が何か分かったからだ。


 予想通り、るいが「来るなー!あっち行けー!」と叫びながら、抜き身を無闇矢鱈に振り回していた。

 無茶苦茶過ぎてるいを囲んだ二人は刀を正眼に構えたまま、右往左往している。なにせ今や抜き身である。迂闊に近づけば斬られる。

 ――おるいさんは武道の筋が良いかもしれない。

 真乃はるいの脇差の振り回し方が一定ではなく複雑で読みづらくなっていることについ感心してしまった後で、そんな場合ではないと、広縁に追っ手がいないのを確認し、るいの横へ回った。

「おるいさん、ここはもういい。今度は広縁の方を見張ってくれ。抜き身を構えてな」

 真乃の声にるいはやっと振り回すのを止めて目を開けた。

「ひえっ!鞘……軽くなったと思ったら!」

「古い脇差をあれだけ振り回せば鞘も飛んでくさ。私に当たらなくてよかったよ」

 真乃は侍二人に顔と切っ先を向けたまま、るいに返した。

 二人は真乃の睨みと構えに既に戦意を大きく喪失して見えた。

「余計な殺生はしたくない。ここから立ち去れ。我々を放っておけ」


 二人のうち、年上の方が刀を下ろした。

「儂には嫁とまだ小さい子供がいるんだ!あとは頼んだ!」

 いきなり頼まれた若い方は、呆然とした表情になった。

「ま、前坂さん、そんな!」

 若侍の正眼に構える切っ先が震え始めた。

「先輩は処世術に長けてそうだ。貴公も見習ったらどうかね?」

 真乃は軽く自分の刀の切っ先で相手の切っ先を制した。

 相手が切っ先を動かす。

 直ぐに真乃は余裕でその上手をとる。

 また若い侍はかわそうとしたが、真乃は動きを読みきっていた。

 まだ二十歳前と思われる若侍の頬が紅潮してきた。

「悪いが、貴公では私の相手にならぬ」

 若侍は唇を噛み締めた。

「命は大事にするものだ」

 若侍は迷っているようだった。

「昨夜、大きな動きがあったのではないか?芳しくない結果に終わった動きが」

 若侍の顔色が白くなった。

「貴公はまだ若い。贅沢を言わなければ、他の御家に中小姓で幾らでも奉公することができる。下屋敷勤めに命を賭けることはない」

 若侍の視線が落ちた。刀も下がった。

「卑怯と言われませぬか?」

「今のご時世ではこのようなことに命をかける方こそ、愚か者と笑われる。本多家中の企ては、失敗に終わったのだからな」

 確証はないのに、真乃はそう言い切った。

 若侍はまた唇を噛み締めた。

「……地下牢に閉じ込められていたのに、何故そのことを存じておられるのです?」

「ここへ来る前にそうなるよう、少しばかり手伝ってきたからだ。公儀を舐めないことだ。その気になったら、集められる人手は本多様やどこかの御大家とも桁違いだ。私は公儀の手の者ではないが、町奉行所とは深い関わりがあるし、顔が利く」

 若侍は顔を上げた。と思ったら、深く一礼して踵を返し、出てきた襖から出ていった。

「門へ急ごう。新手が来るぞ」



 豊之進は五人の藩士を引き連れ、下屋敷へ急いでいた。

 山岸用人の中小姓に過ぎない豊之進だが、傑出した剣術により、暫定的に剣術に定評のある大和守が直接抱える家臣、五人のかしら扱いになっていた。

 そして、上からは地下牢に閉じ込めている二人をいざという時の人質にして、今夜、隠している例の荷を再び沖へ持ち出すという計画を聞かされた。

 あの八丁堀の女用心棒が丸一日地下牢でおとなしくしているとは思えない。

 下屋敷へ本多家中で五本の指に入るほど腕のたつ者を三人行かせていたが、他が大したことないだけに心許ない。至急、増員する必要があった。

 気持ちは急くが、走って人目を引くわけにはいかず、六人は町を本所に向かって闊歩していた。

 昨夜起きたことを豊之進は予想できていただけに、上つ方の人々の甘い判断に罵声を浴びせたい気分だったが、ぐっと堪えた。まだ取り返せると思っていた。

 ――こうなったら、あの荷をいただこう。それを元手にして一旗揚げるのだ。自分にあるのは剣の腕だけではない。……もっと早く決断するのだった……

 そう考えた時、理十郎の言葉が甦った。

「何故そこまで割りきれる?昔のお前はそうではなかった!」

 そう言う理十郎も昔の理十郎ではなかった。豊之進を石助長屋へ呼んだのも、士官の口聞きを相談してきたのも、間者かんじゃとしての謀だったのだから。

 ――あの時、俺はどうかしていた。

 理十郎の誘いに乗った夜を思い返す度、豊之進は自身に腹を立てていた。

 裏切られたと詰めよった豊之進に

「裏切ったのはお前の方だ。罪もない人をこれまでに何人手にかけた?」

 理十郎はそう言い返してきた。

 だが豊之進が裏切られたと思っていたのは、直近のことだけではなかった。

 何よりも、理十郎の家が幕臣であることを隠していたことに憤りを感じていたのだ。

 ――お前を同じ浪人の子だと思っていた俺はさぞ滑稽に見えていただろう。

 隠密は過酷な勤めではある。しかしいざという時には頼れる宛てがあるのだ。命令のない間は寝て暮らしても干上がることはない。

 ――山岸家への士官にもどれだけ苦労したことか。

 今の世では、剣術の腕や賢明さといった能力よりも、士官に必要なのはつてと金だ。

 侍として自分より遥かに能力が劣り、気質もいい加減この上ない輩が士官に成功するのを見て、豊之進は何度も悔しさと腹立たしさに拳を震わせた。自分の気持ちが捻れていくのを止められなかった。

 そして皮肉にも、捻れた気持ちで入り込んだ賭場で豊之進は漸く士官に繋がる伝を掴んだのだった。山岸家に採用されたのは、その伝、賭場で知り合いになった山岸家に十年勤めていた中間のおかげだ。

「今のお前は刀そのものだ。気持ちはわかる。だが、その危うさが人を遠ざける」

 理十郎の言葉に、譜代の御家人の家に生まれ育ったお前になにがわかるものかと、豊之進は更に腹を立てた。

 同時に幼い時に二人で遊んだり、剣術の稽古をした思い出がやけにくっきりと頭に甦った。それがまた悔しかった。

 昨夜、理十郎を斬り裂いた感触がまだ豊之進の手に残っていた。



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