白南風—八丁堀の女用心棒

空木弓

序 ~ 第一部 第一章


 屋根船の右舷から星空を見上げていた若者が、ふっと振り向いて笑顔を見せた。男が自分を見ているのを確かめたようだった。

 ゆったりとした水音と船の揺れが眠りを誘う。

 両国の花火はとうに終わり、大川の水面に今も揺られている屋根舟はこの舟だけになっている。

「そろそろ帰るか」

「御意のままに」

「その言い方は止めろと言っているだろう」

「わたくしは旦那様に仕える身ですから」

「お前は俺の奉公人ではない。……伴侶だと思っている」

奉公人を雇える身ではないと、男は内心自嘲しながら言った。

若者は男の心を揺さぶるほどの艶やかな笑顔を見せた。

 背丈は五尺七寸(約170cm)近くにもなり、とうに元服していて不思議のない年齢だが、若衆髷がよく似合っている。それどころか、島田すら似合うような、性を越えた美を見せ続けている。この日は敢えて藍鼠の単に灰色の袴と地味な色を着せたのに、その渋みがまたいっそう肌を輝かせていた。

 綺麗どころを見慣れているはずの今宵の船頭も暫く見惚れていたくらいだ。

 若衆髷に後差しにした桜の平打ち簪のなんと似合っていることか。

 姉と慕う女への贈り物にしたいと若者が小間物の屋台で手にした簪を、男はふざけて若者の髪に差したのに、似合い過ぎていて笑えなかった。

 若者はその時も今のような笑顔を見せ、男は人目を忘れて抱き寄せそうになった。そのような気持ちが起こるとは思っていなかった。

 男は思わずその笑顔から目を反らした。頭の中に昨日の会話が甦る。

「猶予はならぬ」

 なんと身勝手な。そう思いながら、男はその命令に逆らいはしない。

 男は膳の上の酒に手を伸ばした。同時にさりげなく左手で腰の脇差に触れる。

 夜も更けてきたというのに、川風は生暖かった。

 同じ頃、とある町家の垣根の影でも腰の差料に触れる男がいた。ほろ酔い加減の女の声が近づいてくる。

 ――やっとお帰りか。結構なご身分だな。

 男は昼間のうちに確認した女の姿を思い浮かべた。いそいそと囲われている旦那と両国の花火見物に出かける様子に、初めて見た相手なのに男はむかむかと腹が立ったものだ。

 ――この仕事、引き受けて良かったぜ。

 その時心底からそう思った。

 こっそり相手を下見した後には飯屋へ行き、腹拵えをしてから再びここへ戻ってきた。

 それからもう一刻(約2時間)近く経っている。

 獲物がこの屋に戻ってきたところで仕留めるつもりだった。

 それにしても蚊が集まってきて煩い。ここに潜み始めてからというもの、顔の前をうろつくのは掴み殺し、腕や足を刺してきたヤツは力を入れて口が抜けないようにしてたっぶり血を吸わせた上でピシャリと叩き潰すということを延々繰り返している。

 さすがに我慢も限界に近づいてきた頃に聞こえてきた女の声だった。

 ――前金三両、後金三両。

 まじないのように今夜の仕事の報酬を唱える。

 女が一人でないのは予想通りだったが、一緒に戻ってきた相手は「旦那」ではなかった。路地に見えた連れの身のこなしは明らかに若い。昼間旦那の後ろに付き従っていた手代のようだ。

「ちょっとだけ飲み直しましょうよぉ。旦那様なら大丈夫だからぁ」

 女が甘えた声を出している。

「ですから、また今度に……」

 若い男の声は戸惑っている。

「今度っていつよ?」

 声も姿も次第に大きくなってくる。

 手代の持つ提灯の横揺れが大きい。

 女はかなり酔っていて足元が覚束ず、手代に寄り掛かって歩いているのだ。

 男はそっと鯉口を切った。

「あんたが旦那様のお供をするなんて、めったにないじゃないの」

「めったにということは……」

「さぁ、着いたわよ」

 女が手代に凭れかかったまま枝折戸を開けた。その直後、手代が女の手を止めて叫んだ。

「そこにいるのは誰です!」

 手代が言い終えないうちに男は抜刀から女に斬りつけた。

 だが斬ったのは提灯だった。

 手代は素早く女を庇いながら枝折戸の中へ移動していた。

 抜刀で女を、二刀めで手代を斬るつもりだった男は手代の動きに面食らい、二刀めを出すのに一瞬間が空いた。

「ど、泥棒!誰か!誰か来てぇ!」

 女が叫んだ。

 男はしくじったと思ったが、ともかく先にこいつを……と手代に斬りつけた。

 手代は微妙に男の刃を狂わせ、またしても仕留められなかった。しかも手代は肩を斬られながらも懐に入り、男の手首を掴んできた。

「お前めぇ、命が惜しくねぇのか!」

 意外な手代の動きと力の強さに思わず男も叫んでいた。

「泥棒だって?」

「奥の大貫屋さんの寮だよ」

 寮の目の前にある長屋の住人が起き出したらしい。複数の声と物音がした。

 男は慌てて手代の顔に肘鉄、腹の辺りに蹴りを立て続けにくらわせ、手首を掴む手が緩んだところで更に激しく蹴りを入れた。どこに蹴りを入れたかもわからなかった。

 手代は動かなくなった。

 男は後ろも見ずに垣根を突き破り、長屋とは反対側へ逃げた。そこに聳え立つ表店の塀に沿って狭い路地を走った。

「弥吉!弥吉ぃ!誰かお医者様を呼んでぇ!弥吉が大怪我を!」

 後ろで女の声が響いていた。

 頬被りしているから、提灯の灯り程度では男の顔はよく解らなかったはずだ。

 男は教えられた逃げ道をひたすら音を忍ばせて走った。

 このしくじりでは前金も返さないといけないのだろうか、このまま江戸をずらかろうと男が思ったのは、隠れ家に辿り着いた時だった。

 ともかくここに朝までいようと引戸を開けた。中に人が潜んでいることに男は気づかなかった。

 無理もない。相手は気配を消すのを得意としていた。

 男が日の光を見ることは、もはやない。






第一部 第一章


 青井真乃しんの大貫おおぬき屋の寮を初めて訪れたのは、文化九年水無月(西暦1812年7月)の半ば近く、夏の盛りの昼下がりだった。

 日本橋近く、本石町にある諸国銘茶問屋、大貫屋が本郷二丁目に構える寮は、ちょうど惣兵衛長屋と酢醤油問屋の山崎屋に挟まれて建っており、入口は長屋側の枝折戸一つとのことだった。つまり、寮へ辿り着くには長屋二棟の間の路地を通るか、酢醤油問屋脇の路地から入り、寮の周囲を半周するかの二択だ。

 寮の周囲を確認するため、真乃は酢醤油問屋側から入った。

 見えてきた寮は敷地が十間四方近くもある大きな裏店で、そこにコの字形に平屋を建てていた。

 寮を囲む垣根の外郭には幅一尺弱の溝が掘り巡らされ、枝折戸の前にだけ踏板が置かれている。

 垣根は、この時代では大柄な、背丈が五尺七寸近くある真乃の腰くらいの高さしかない。一部は躑躅だった。花の季節が終わり、濃い緑の壁を作っている。

 垣根の内側には灌木が所々植えられていた。垣根の低さを補完する目隠しだろう。

 南向きに口を開けたコの字形平屋の前は空き地になっていて、渇ききった土が強い日差しに白く輝いていた。水捌けを良くするためか、砂を混ぜているらしい。


 枝折戸を目の前に、真乃は右手を額にかざして日の光を遮りながら、真っ青な空を見上げた。いつものように髪を後頭の高い位置でひっつめて後ろへ足らし、縹はなだ色の木綿の単に藍地白縞の木綿袴、腰に二刀を差した浪人風の格好をしている。

 本材木町の人宿、相模さがみ屋が用心棒名、青井真之助こと、真乃にしてきた今度のは、大貫屋の主人、忠兵衛の妾であるの用心棒だ。この枝折戸のある寮で暮らしている。


 真乃は静かに枝折戸を開けて庭へ入り込んだ。

 戸口は枝折戸側にある勝手口だけで、日頃はコの字の内側に巡らされた濡れ縁から出入りしているから、濡れ縁から声がけするようにというのが、相模屋の主人、五郎右衛門から聞いた依頼主の指図である。

「御免。どなたかおいでではござらぬか。相模屋の紹介で参った者でござる」

「はーい」という高い声とペタペタという軽い足音がして、三十半ばくらいの茶縞の着物を着た女が濡れ縁に顔を見せた。美人と思う人は少ないだろうが、人柄の良さそうな暖かみを感じる風貌をしている。

 相模屋は下女が一人、住み込みでるいの身の回りの世話をしていると言っていた。名はだという。

 女は真乃の姿に目を丸くした。

「おかよさんですな?」

「は、はい……」

「私は青井真之助と申す。相模屋からもう一人来るはずだが、お見えか」

「は、はい……」

「安心なされ。こう見えても剣術には自信がある。私は腕っぷし要員だ。用心棒の仕事も初めてではない」

 真乃はにっこり笑った。

「は、はい……あ、いえ、その、ど、どうぞお上がりくださいませ。るい様があちらのお部屋でお待ちでございます」

 かよは慌てて真乃に手で上がり場所を示しながら、顔ではこの屋の女主の居場所を差し示した。

 刀を外しながら、真乃は踏み石から濡れ縁へと上がった。かよが慌てて先導する。

 かよの狼狽えは真乃の予想通りである。先に来た用心棒は容姿重視の、かなりの男前だったろうから、二人目は腕っぷし重視で選ばれた、がさつな髭を蓄えている大男が来ると思っていたのだろう。


 かよが案内した座敷には、海老茶の着物を着た二十五、六と思われる細面の女と、同年齢に見える納戸色の着物に憲法色の袴を身につけた痩せ気味の侍が向かい合って座っていた。

 るいと顔重視の用心棒だ。

 二人ともかよに案内されてきた真乃を見ると呆気にとられた顔をした。

 真乃の方は二人を見るなり、それぞれの気性や技量をある程度見抜いてしまい、内心では前途多難かもしれないと思っていた。

 というのも、真乃が守らなければならないるいは、良く言えば物怖じしない、悪く言えばきつい性格をしている。真乃が用心棒として注意をしても素直に従わない気がした。

 一方、容姿重視で選ばれた相方の用心棒は、確かになかなかの男前だが、用心棒としては役に立ちそうにない。

 襲ってくる相手が大したこと無ければよいのだがと、真乃は思った。

「もう一人は腕っぷし重視と聞いてましたけど、あなた様が?」

 るいは不満そうである。

「青井真之助と申す。相模屋を信じられないのなら、試しますか?」

 真乃は無愛想に提案した。この相方が相手では大した試しにならないが、他に刀を振るえる者がいないのだから、仕方がない。

「……あなた様は男の方?」

 予想した質しである。

「女ですよ。腕っぷしが強ければ、誰でも良いということでしたが、男でないといけませんでしたかな?」

「だって女じゃ、男の腕っぷしの強いのには……」

「太平が二百年も続いた今の世では、鍛えた腕っぷしの強い女を上回る腕っぷしの強い男は非常に少ない。詳しいことは相模屋に聞いていただこう。私では不足だと思われるなら、それも相模屋へ」

「おるいさん、こちらの御方は相当な遣い手です。某それがしなど全く歯が立ちません」

 容姿重視の用心棒が怖い目に遭いたくないからか、るいが真乃の言った「試し」に乗る前に断ってきた。

「申し遅れました。某は斉藤岩五郎と申します。身につけた流派は直心影流です。腕前はお恥ずかしい限りなのですが。宜しくお頼み申しまする」

 優男の用心棒は、見た目と違って硬い名前の持ち主だった。

「第一の主流派ですね。私は、流派としては一刀流です。亜流になりますが」

 岩五郎の目が好奇心に輝いた。そこはやはり剣士なのだ。

「……と、申されますと?」

「話が長くなるので、いずれまた……」

 真乃は岩五郎からるいに目を戻した。

「どうされる?私は一向気にせぬから、お好きなように」

 るいは不貞腐れた顔つきから挑むような顔つきになった。

「旦那様は相模屋さんを信用していらっしゃいますから、お手並み拝見いたしますわ」

「では、るい殿に尋ねたいことがある。一昨日、襲われたのは夜の九つ近く(午前零時頃)ということでしたな」

「ええ。あの日は旦那様と両国の花火見物に出かけて、ここへ帰ってきたら、頬被りした浪人が庭に潜んでいて……。ここまで送ってくれた手代の弥吉さんが気づいてくれて……」

 るいは嬉しそうな、悔しそうな、なんとも複雑な表情を浮かべて答えた。

 その様子から、単なる送りで済ませず、手代とここで暫し戯れるつもりだったのではないかと真乃は直感で思った。


 相模屋からあらましは聞いていた。

 その手代はるいを庇って大怪我をし、命は取り留めたものの、店に復帰できるのはかなり先になるという。

 大貫屋の主人が柔術の心得がある弥吉にるいを送らせたのは通常の用心だったらしいが、弥吉以外の店の者が送っていたなら、るいは助かっていなかっただろう。

 襲ってきた浪人の顔はよく見えなかったが、体つきも振る舞いも、るいは全く見覚えがないという。また浪人は無言で刃を向けてきたというから、るいに怨恨を抱いているとは考えにくい。

 そうして、いくら柔術の心得があったとはいえ無腰の手代と女を片付けるのに手間のかかるはずはないから、相手の力量は大したことがなかったのだと、真乃は結論づけていた。

 状況からして、浪人は金で雇われた可能性が高いが、その通りならば、女一人片付けるのに大した腕は要らないと考えて安上がりに下手な奴を雇ったか、雇われた浪人が大口を叩いて自身を売り込んだか、いずれにしてもお粗末な襲撃である。

 それだけに相手がまた襲撃を企てるならば、同じ鐵てつは踏まないだろう。

 大貫屋の主もそう考え、相模屋に依頼したのだろうが、これまでの様子では、肝心のるいに浪人に襲われたことに怯える風も不安がる風も見えない。


 いったいどういう女なのだ。大馬鹿なのか、これまでに危ない目を何度もすり抜けて腹が据わっているのか。

 真乃は考えていることを顔には出さず、淡々と説明した。

「一昨日のように、夜の方が襲撃には向いている。かといって昼間を疎かにもできない。つまり、本気で昼夜見張るなら、二人は少ないということだ。四人はいる。それとも二人でできる程度の見張りでよいのか」

 真乃が説いている間、るいはぽかんとした顔で真乃を見ていた。

「旦那様にお任せしてるんです。旦那様にお聞きして」

「……一人は容姿重視というのは、そなたの希望と聞いているのだが、違うのですかな?」

「それは、まぁ……何人ものむさ苦しい男にこの辺りをうろつかれるなんて嫌ですもの」

 るいはけろりと言ってのけた。

「自分の命が狙われていると、本気では思っていないようですな」

「だって、思い当たることがないんですもの。一昨日の浪人だって、物取りじゃないかとあたくしは思ってますのよ。旦那様は物取りだったら、庭に潜んでいないと仰るんだけど、たまたま庭に入り込んだ時にあたくし達が帰って来たってことじゃないのかしら」

「その襲ってきた時の様子を詳しく話してもらいたい」

「なんか町方に調べられてるみたい」

 真乃は自分でも同心が取り調べで言いそうな台詞だと思っていたから、苦笑いがでた。

「八丁堀育ちなものでね」

「え?ほんとに?青井様は御町の旦那の御息女ですの?」

「ま、そんなところです。あの枝折戸から庭へ入って、すぐに刀が振ってきたのですかな?」

「ねぇねぇ、御町の旦那を紹介してくださいましな。なかなかお近づきになれなくて……」

 何を言ってるんだ、やっぱりただの大馬鹿なのか、こいつは……と真乃は思い、今度は顔にも出したが、るいは一向に気にした様子がなく、「御町の旦那の囲い者なら箔もつくし、守ってもらえて一石二鳥でしょうね」と、勝手なことを口にし続けた。

 礼金の良い仕事とはいえ、るいと顔を会わせてからの真乃はやる気が減る一方だった。

「随分余裕があるようだから最初に言っておくが、そなたを守れるかどうかはそなたの心づもり次第ですぞ」

 真乃はるいの顔を冷たい目で見据えながら言った。

「どういうことですの?」

「そなたが気を引きしめていないと、いくら私と斉藤殿が頑張っても守りきれぬということです」

 るいの頬が軽く膨らんだ。白粉を薄くはいている頬が少し赤くなったということは、相当むっときたのだろう。

「先の話の続きをしてもらいたい。そなたと手代が帰ってきて、枝折戸を開けた。賊はどこから現れたのです?」

 るいは不機嫌な顔のままだったが、真乃はもちろん気にしない。

「賊は枝折戸近くにいたのか、それとも母屋近くにいたのか」

「どっちだって一緒じゃないですか」

「母屋近くにいたのなら、盗賊の線も考えねばならぬが、枝折戸の側に潜んでいたのなら、狙いは間違いなくそなたの命だ」

 るいの顔色が今度は一気に白くなった。

「枝折戸の側にいたのですな」

「で、でも、なんであたしが命狙われなきゃいけないのよ!」

「そなたに覚えがなくても向こうには捨て置けない確かな覚えがあるということです。じっくり考えて思い出すことですな。長生きしたいのならば」


 真乃も岩五郎も当分の間住み込みでるいを守る。

 用心棒の二人が用心棒らしく、どう交代で仮眠をとりつつ不寝番をするか話し合おうとしたら、るいは能天気に大丈夫だろうと言ってきた。更に真乃と岩五郎の身上を色々尋ねてきた。

 真乃はなんとかるいの言動を押し留め、不寝番をする覚悟を決め、これから暫く自室となる勝手口近くの六畳の部屋に早々に引っ込んだ。夜食もそこで食べた。

 岩五郎が寝起きするのはるいの寝室の隣だ。用心棒としてはあまり役に立たないであろう岩五郎だが、盾くらいにはなるはずである。

 岩五郎を見るるいの目に好意と甘えが見えたから、夜食の晩酌でしなだれかかったかもしれない。もっとも岩五郎は気乗りしない風だった。


 るいが真乃に見せた好奇心は珍しいことではない。真乃はあしらうことに慣れている。しかし、悪い予想どおり、しつこかった。

 真乃の家は曽祖父から北町奉行所の与力を勤めている。父親は昨年隠居し、今は兄が北町の与力だ。

 幕府から禄を受けている町方役人の家族となると、副業は基本的には禁止、男性の女装、女性の男装も咎められる。それを真乃は堂々と人宿の仲介で浪人姿となって用心棒をしているのである。疑問を持って当然だ。へたすると依頼した方も罪に問われかねない。

 自分がやっていることはあくまでも人助け、浪人風の男装も人助けしやすいから、その方が公序良俗に反しないという真乃の言い分を先の北町奉行、小田切様が認めたこと、今の御奉行は何も言ってこないから、認めてくださっているのだろうということだけは告げて安心させた。

 るいのお喋りで岩五郎が小普請という、無役でも幕府から禄をもらえる譜代の御家人の家の三男だということもわかった。

 なかなか養子先がみつからず、兄が主となった家に厄介者として片身狭く一生暮らすことになるのは嫌だと、岩五郎は家を出て人宿の寄子となったという。

 真乃もいずれは家を出るつもりでいる。他人事ではない。

ただ、るいがお節介に言ったように、岩五郎の場合は武士という身分を捨てる気があれば、商家で良ければ、婿養子先を探すのはそれほど難しくはないだろう。そこにはやはり微禄でも譜代の御家人の家に生まれたという誇りか拘りがあるようだ。


 かよが準備していた夜具は清潔でふかふかしていたが、真乃は宵のうちの一刻半(約三時間)眠っただけで押し入れに夜具をしまった。それからは柱にもたれて片胡座で座り、目を瞑って静かに時の過ぎるのを待った。脇差は左腰に差したまま、刀は手を伸ばせば届く。

 ――何事も起こらなければ良いが……

 そう願う真乃の剣士としての勘は、よからぬことが起きると告げていた。

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