第2部 第9章

 本郷へ戻った真乃とるいは湯屋でさっぱりした後に、飯屋でそれぞれいつもの二食分近い量の食べ物を胃の腑へ納めた。

 それから真乃は新たな刀と脇差を手に入れるため武具屋へ出かけ、るいは真乃のための中食の拵えにかかった。

 真乃にしてやれることはそれぐらいだと、るいは真乃の好物を聞き出してかよと共に準備すると言いはった。鴨肉が一番好きな真乃だったが、この時期には手に入らないので、猪の肉と菜を煮た料理を作ることにした。

 るいもかよも獣の肉を扱ったことがなかったが、るいは必死の形相で万蔵が買ってきた猪肉に取り組み、かよはその気迫にのまれ、黙々と手伝ったらしい。十人分近く用意しようというのだから、かなりの量だった。

「相手はもう死んでるんだから、どうってことないわよ」

 るいのその言葉にかよは一体どんな目に目に遭ったのか知りたがったが、るいは口を閉ざしたという。

「ごめんなさいね。願かけてるの。全てが終わったら話すわ」


 真乃は新しい刀と脇差を差して寮へ戻るとすぐに横になった。一刻半程して目覚めた時には美味しそうな匂いが台所から漂ってきていた。

 匂いに釣られて台所の方に出ていくと、るいがどこから借りてきたのか、大きな鍋にいっぱいの煮物を椀に取り分け始めていた。

 万蔵がいそいそとるいから受け取った椀をずらりと並んだ膳に置いていく。

 かよは大きな飯櫃から丼に飯を盛り、みねがそれを膳に置いていた。つねは籠り部屋だ。

 金創医の治療を受けて晒しを腕や肩に巻いた岩五郎と女形姿に戻った清吉が板の間の隅に座ってその様子を眺めている。

 いつもなから、清吉の化粧の巧さは職人技だと、真乃は感心した。

 それぞれが真乃に挨拶の笑顔と会釈を寄越した。

 真乃はまず岩五郎と清吉に具合を尋ねた。

「ご心配をおかけしました。某は大した傷ではありません。清吉殿は少し深かったようで、医者の話では運が良かったと」

「違うわよ。あの医者、人を見る目が無いのよねぇ。運じゃありませんての。あたしの技なんだから。咄嗟に交わせるのよ。ウフフ」

「相変わらずの減らず口を聞けて安心したよ」

 真乃は二人の前に片胡座で座った。万蔵もそこへやって来た。

「片岡さんとは会えたか?」

 真乃の尋ねに万蔵は首を横に振った。

「直には話聞けやせんでした。けど、文をもらってきやした」

 万蔵が懐から封書を出して真乃に手渡した。

「首尾は?」

 文を読めば書いてあるのだろうが、気の急く真乃は文を開きながら万蔵に尋ねた。

「荷の一部は押さえたそうでやすが、大半を逃したそうでやす」

「それじゃ失敗に近いじゃないか。何故そんなことに……」

「回船の動きから、こちらの動きに気づいたか、向こうで仲間割れがあったからじゃねえかと、片岡さんは考えてらっしゃいやす」

 仲間割れと聞いて、真乃の頭に剣鬼が浮かんだ。だが、何かがしっくりこない。そんな単純な話ではないかもしれない。

 真乃は片岡の文に目を通していった。

 片岡が急いで認めたと思われる金釘流の文には、本多大和守上屋敷とその向かいにある田安様下屋敷を目付方が、伊勢九関係を町方が見張っていた昨夜の町方側の顛末について、簡潔に書いてあった。


 昨日の午後という間際になって町方は大きな手懸りを掴んだ。一見では何の関わりもないように見えていた山谷堀の船宿、常磐屋の金主が伊勢九の主、九兵衛の又従兄弟であることを突き止めたのだ。

 常磐屋の桟橋から小舟が一艘動き出した時、片岡率いる町方の見張りは同じく小舟で後を追った。

 小舟は川を下り、やがて佃島の沖に停泊している回船の脇につけた。そこには既に二艘の小舟がいて、ちょうど回船の脇から離れたところだった。

 周囲に小舟は町方の三艘しか見当たらなかったため、片岡は直感で一艘目を後輩の同心が乗る小舟に追跡させ、自らの舟は二艘めの小舟を追った。

 二艘目の小舟はなんと常磐屋の桟橋へつけた。

 小舟からは頬被りした人足によって俵が五つ下ろされ、その荷は全て船宿の土蔵に運び込まれていった。


 片岡は直後に荷改めだと常磐屋へ乗り込んだ。五つの俵からは木綿にくるまれた小振りな樽が出てきた。木綿は隠す目的ではなく、保護のためだったようだ。ひとつを開けてみると、中には白い粉が詰まっていた。

 片岡はすぐにその粉末を持って八丁堀の懇意にしている漢方医の元へ走った。

 医者の答えは砂糖だった。

 片岡はそんなに白い砂糖は長崎から運ばれてくる輸入物しか見たことがなかった。

 御大家の家老が大和守家中を隠れ蓑にして行っていたのは砂糖の抜け荷だったのかと、片岡は医者の答えを聞いた直後には思った。

 しかしそれにしては小ぶりな樽に粉末で入っているのが珍しい。大抵は分密時の形、円錐形の大きな塊なのだ。薬種問屋はそれを少しずつ崩して小売りしている。

 暫く白い砂糖を見ていた片岡は、三崎の御領内で作ったのではないかと思い始めた。少し舐めてみた。さらりとした甘さがあった。

 秘技とされている讃岐御領分内の製造法を三崎藩が盗みだしたのか、新たに製造法を見つけたのか。

 讃岐の砂糖より白くて細やかなのだから、薬種問屋も菓子屋も大喜びだろう。

 問題は採算が取れる程の量を生産できるかどうかと、製造法を御領分内で見つけられたかどうかだが、隠しているということは、後ろぐらいことがあるということだ。いずれにせよ、今後、伊瀬九の取り調べで判明することだろう。


 残りの二艘はどちらも常磐屋には来ず、最初に回船を離れた小舟は後を追った同心の染田によると、茅場河岸の東端に着岸した。しかし荷は下ろさず、乗っていた町人髷の三人の男は三々五々、散っていった。

 直後に思わぬ騒ぎが起こった。

 舟に残っていた二人の侍が舟から飛び降り、刀を抜いて向き合ったのだ。

 染田は思いがけない展開にすぐには動けなかった。二人とも大柄でかなりの遣い手と見えたうえに、仲間割れなら裏切った方に加勢したいところだが、どちらが裏切った側なのか分からなかったからだ。

 暫時見合った二人が交差した。

 その一瞬で決着はついた。

 倒れていく相手をちらと見返っただけで、勝った侍は闇に消えた。

 染田は追いかけたが見失った。

 殺された侍は身許のわかる物は何も身につけていなかった。

 舟を調べても何も出てこなかった。囮だったのかもしれない。


 常磐屋から出た小舟は中洲で姿を眩ました。小舟は途中で葦の繁る中洲の間を抜けたのだが、追っ手が中洲の間を通り抜けた時には何処にも見当たらなかった。

 状況からは中洲のすぐ下流にある御大家の広大な下屋敷へ入ったとしか考えられないが、確証を得ることはできなかった。

 御大家を見張っていたはずの目付方が何か掴んでいることを願うのみだった。

 回船は三艘の小舟に荷を移しかえただけで、新たに二艘の小舟が近づいたのは無視して沖へ出ていった。

 二艘のうちの一艘は町方が常磐屋同様に見張っていた伊勢九の寮から追いかけてきた小舟だったのだが、その小舟に乗っていた同心の早田は小舟ではなく、回船を追いかけた。船の喫水線の状態から、まだ何らかの荷を積んでいると思えたからだ。

 暗闇の中、少しでも船を特定しようと早田は粘った。沖へ出た船は北へ向かう進路をとった。小舟で夜の沖合の荒波の中を追うのは無理だった。


 後から来た二艘の戻り先を追えばよかったかもしれない、茅場河岸で斬られた侍の身許がわかったらすぐに知らせると片岡は文を結んでいた。


 ――砂糖か。しかも讃岐、阿波の白砂糖よりも白い砂糖とは……

 真乃は神保家で口にした落雁と練り切りを思い浮かべた。そうして練り切りの上の文字だけでなく、練り切りそのものも半左衛門が真乃に与えた手懸りだったのだと悟った。

 ひょっとしてと思わないでもなかったが、日頃口にしている砂糖は今や国内で賄えるだけに、危ない橋を渡ってまで抜け荷に手を出すとは思わなかったのだ。

 しかし考えてみれば、なかなか手に入らないとなると、余計に欲しがる人がいる。そうした人物は大抵金持ちだ。

 自身の領分内で生産した白砂糖ならば、隠す必要がないから、やはり抜け荷だろう。小振りな樽というのは、抜け荷を御領分内の生産と偽ろうとしたのかと、真乃は考えた。


 寛政期に公儀は砂糖の国内生産を促進するため、入手していた唐由来の製造法を公にしている。

 しかし何度も分蜜する製造の手間もさることながら、肝心の甘蔗が温暖な気候でないと生育しないため、今のところ利益を上げられるほど成功しているのは薩摩と讃岐、阿波くらいだった。

 その一方で需要の高まりと阿蘭駝船の来航停止による輸入量の激減で、出島砂糖や雪白砂糖と呼ばれる、国内で生産していない真っ白に近い砂糖の価格は五年前から高止まりしていた。昨年からは一斤(600g)八匁以上(300年後の20,000円近く)もしている。

 長崎会所を通した正規の手順で輸入品を手に入れるには、落札する手間と手数料を支払わないといけない上に、掛物が砂糖は十割もかかる。それら一切を省けるのだから、抜け荷による利益は確かに大変大きい。


 真乃は暗澹たる気持ちになった。

 藩と藩主の不始末の穴埋めに、三崎藩は根来家老と伊勢九の抜け荷の誘いに乗ったのだ。借金に苦しむ彼らは乗らざるを得なかったのだろう。

 しかし、どう考えても連中のやり方が真乃には疑問だった。

 三崎御領分で生産したと偽ろうとしていたのならば、堂々と三崎からの荷だと昼間に荷をおろせばよかったと真乃は思った。例え荷改めがあったとしても、漸く砂糖の生産に成功したのだと言い張れば、その場でそれを否定できる役人はいないはずである。それとも、目付の追及は領内の動きまで把握していたのか。そのうえで計画を遂行したならば、自殺行為とも言える。

 ――内藤家老の覚悟を思わせる「準備」という言葉は、そういうことだったのか?


 抜け荷発覚は最悪の場合、藩の取り潰しである。藩主は首謀者ではないという証を見せられれば蟄居で済むかもしれないが、それは代わりに家中の誰かの首が飛ぶことを意味する。それも一つでは済まない。

 下屋敷で耳にした「御家老お一人が」が真乃の頭に甦った。きさの顔が浮かんだ。

 大藩ならまだしも、一万石の小藩が家老や用人だけでこのような大事を進められるはずはないのだが、これまでも配下の独断による所業と、配下の首だけが飛んで藩主は転封や蟄居ですんだ例が複数ある。そして忠臣ほど御家のため、藩士とその家族のために犠牲となることを受け入れるのだ。

 真乃には祈ることしかできなかった。せめて正しい御裁きが行われるようにと。



 暮れ六つに剣鬼が指定した河岸に赴いたのは、真乃だけではなかった。るいと万蔵が付いてきた。

 まずは立会人として岩五郎が行くと名乗りを上げたが、怪我を理由にして真乃は突っぱねた。

 るいは自分は万が一負けた時の人質なのだから、行かないわけにいかない、立会人としても適任だと言いはった。

 そうなるとるいの面倒を見てもらう人間も必要になる。そこで「それじゃ、あっしが」と万蔵がすかさず名乗り出た。

 出かける直前の真乃達に、茅場河岸で斬られた侍は田中理十郎だったという報せが嘉兵衛親分の下っ引きによってもたらされた。

 真乃はその事実を受け止めただけだった。

 ――どういうことか考えるのは剣鬼を倒した後だ。


 河岸に着いたのはまだ鐘が鳴るかなり前だったが、剣鬼は既に到着して川面を眺めていた。立会人だと紹介したのは、村越平左衛門という、剣鬼と同年代の侍だった。

 剣鬼は自身の名前も役目も言わなかった。

「お主の名を聞いていない。名乗られよ」

 とうとう真乃が尋ねた。

「そうだったか。私の名は志水豊之進。本多大和守御用人、山岸十太夫家中のものだ」

 やはりこの男が志水豊之進だったかと、真乃の頭の中で様々なことが収まるべきところへ収まっていった。


 またしても豊之進は不思議な目を真乃に向けた。

 真乃は落ち着かない気分になるのを押さえ、冷ややかにその目を見返した。

 そもそもの悪事への加担もさることながら、いくら上からの命令でも、何も知らなかった松三郎を自らの手で斬殺したことが真乃には許せないでいた。

 ――松三郎はこいつに心底惚れていたのだ。こいつの真意に気づいても逃げ出さなかった。その気持ちをこいつはとことん利用したのだ。殺さずに乗り切る方法があったはずだ!

 死に顔しか見ていない松三郎だったが、るいへの手紙が、そこに短く吐露されていた覚悟と潔さが、真乃の心に深く染みていた。


「私が勝てばおるいさんの命を狙わないという証を見せていただこう」

 豊之進が立会人の村越に目配せした。村越は懐から封書を取り出して広げた。

「御覧のとおり、本多家中の在府の御家老、御用人、二名の署名がござる」

「その二つの署名が本物かどうかわからないのが難点だな。なにより大和守様御家中だけではないのだからな。おるいさんの命を欲しがっているのは。むしろ某御大家の御家老の方が熱心なのではないかね?」

 真乃には今の豊之進が大和守家中の意向を背負っているとは思えなかった。真意を少しでも見抜きたいと思っていた。

 村越の顔がひきつった。豊之進は変わらず無表情の能面だ。

「こちらの条件としては、その書面と三つ情報をいただこう。その情報が身を守るのに役立つからだ。抜け荷を言い出したのは某御大家の御家老だろうが、伊勢九とはそれ以前から繋がりがあったのではないか」

「そ、そこまで……」

 村越が言い掛けるのを豊之進が手で制した。

「四年前に三崎の御領分に杢左衛門という男が現れ、御国家老を説得して砂糖の生産を目指し、竹黍ちくとう栽培をやり始めた。しかしこれまでのところ売りに出せる程には成功していない。その試みにもそれなりに金がかかったが、資金調達までやってのけたその男は伊勢九の回し者だった」

「なるほど。事前に縄をかけておいたわけだ」

「御国家老の話を真に受けた我が上様を諌めたのが既に隠居しておられた工藤様だった。そうして、あの騒ぎだ」

「工藤殿が大和守様の眼前で斬られたのは、そのせいだったのか……そうした経緯を聞いて振り返れば、あの騒ぎも仕掛けられた罠だったのかもしれないな。よりによって田安御門で酔っぱらいが絡んできた出来事だ」

「私も今ではそう思っている。証となるものは何もないがな。そうして我らの側の対処が不味かったのも事実だ」

「ほう。反省すべきは反省しているのだな。二つ目は、真壁勝之助殿を水死にみせかけて殺害したのは誰かだ。お主か?」

「……違う。我らではない。おそらくは銀蔵とその仲間だ」

「ぎんぞう?」

「お主が本郷で倒した男だ」

「あの忍びあがりのような男は『ぎんぞう』といったのか……」

 真乃は一昨日の出来事を思い返した。随分前に起こった出来事のように感じた。

「三つ目は?」

 豊之進の方から尋ねてきた。

「二月近く前に何があったのか、だ。それが真壁勝之助殿が暇を取り、おるいさんの命が狙われ、松三郎をお主が斬った訳だと、私は思っている」

 真乃の言葉に豊之進は表情を全く変えなかった。

「残念ながら、私には答えられない問いだ。二月前に何があったかは知らぬ。勝之助は知っていたようだ」

「……それ故に殺された?」

「内藤家から暇を取り、市中へ出たことが一番の理由だろう」

 真乃は豊之進の顔を見つめた。傍目には睨んでいると見えたかもしれない。

 豊之進が何を企んでいるとしても、今聞いた答えに偽りはないと感じた。

 豊之進が知らないということは、二月近く前に起きたことは御大家の家老の身辺で起きたということだ。例え発覚しても大和守と伊勢九の企みで終わると思っていたところが、自身に目付方の目が向いていることに気づいて慌てた。

 ――あの叶屋での会合が御大家家老の唯一の油断だったのかもしれない。そう考え、真壁勝之助も殺害した……

 真乃は決断した。

「今の情報は有益だ。この度の果たし合い、受けて立つ。何を合図に始めるのだ?鐘か」

 真乃の果たし合いそのものへの質しに豊之進は初めて表情を変えた。薄く笑みを浮かべた。

「そうするか。最後の鐘で始めよう」

「承知した」

 真乃は頷いて踵を返した。鐘が鳴り始めるにはまだ少し時がある。


 振り向いた真乃が目にしたのは、胸元で両手を握りしめるるいとその横で手拭いを握りしめている万蔵だった。

 二人の目は心配だと訴えていた。万蔵も豊之進の只ならない雰囲気にいつもの軽口を叩けないようだ。

「大丈夫だ。私を信じてくれ」

 真乃は二人にだけ聞こえるように声を落として言った。

「ええ、信じますとも。青井様はいつかあたしの小間物屋の用心棒をしなきゃいけないんです。こんな所で倒されちゃ困るんです!」

 るいが両手を握りしめたまま、真乃の目を見つめて言った。

 真乃はこの時、ふっと、るいがいつか開くつもりの小間物屋の用心棒に自分を雇いたいと言ったのは、あまり先のことを考えていない自分への気遣いだったのかもしれないと思った。そんなことではいけないなどと言わず、前方に広がる闇の中に彼女なりに仄かな灯りをともそうとしたのかもしれない。もしもそうなら……

 ――ひとの心を開かせるのが実にうまいじゃないか。

 その言葉はもっと穏やかな時と場所でるいにかけたいと、真乃は思った。


 果たし合いはやると決まった時から駆け引きが始まっている。真乃の敬愛する師匠の教えだ。鐘が鳴るまでのこの場所での過ごし方も、果たし合いの結果を左右するのだ。

 この時点で後から来た真乃は不利な位置を選ばされてはいた。豊之進が西端に立っていたからだ。眩しくはないだろうが、残照を背にした豊之進の表情が読みにくい。しかしその程度なら挽回できる。真乃はそう信じた。

 真乃は刀を外して手に持ち、河岸に無造作に置かれていた桶をひっくり返して腰かけた。

 辺りを眺める。橙色から赤へと変化していく空が美しい。

 明日も晴れだなと真乃は空を見上げた。烏が山へ向かって頭上を横切っていく。師匠の言葉が次々と頭に浮かぶ。


 焦るな。慌てるな。相手を焦らせろ。慌てさせろ。冷静でいる限り、お前は相手の動きを読める。相手が焦ればさらに読みやすくなる。自分に有利な場ができるまで、待つのだ。そうしてお前から仕掛ける。「仕掛け」は刀を振るうこととは限らない。わかるな。


 ――わかりますとも。

 真乃は目を閉じた。汀の音が鮮明に聞こえる。先程までは夕凪の無風だったのが、少しずつ風が吹いてきた。

 遠くで鐘が鳴った。

 続いてこの近くの横川の時の鐘が鳴り始めた。まずは捨て鐘三つ。続いて始めは長く、徐々に短く六つの鐘が鳴る。鳴り終わるにはもう少し時がかかる。

 真乃は立ち上がり、刀を帯に差した。ゆっくりと川面から豊之進がいる方へ向きを変える。

 豊之進も真乃の方に向いた。この時二人の間は五間以上離れていた。


「だ、駄目だ。き、緊張しすぎて手も足も震えてきやがった……」

「しっかりしてよ、万蔵さん。あたし達がしっかりしてないと、青井様が思いきって戦えないじゃないの!大丈夫よ。青井様は勝つわ。きっと勝つ」

「お、おるいさんもつえぇんだな」

 万蔵とるいのやり取りが、ゆっくりと歩を進める真乃の耳に届いた。

 男達は案外と女の心の強さを知らないらしい。男が仕切る世に女と生まれたがゆえの、周りの見る目、扱いに鍛えられた肝の据わり方がある。そんな強さを隠してか弱い振りをするのも男優先の世を生き抜くための女の知恵かもしれない。

 次の鐘が最後だ。


 真乃は豊之進との間合いがおよそ三間になる位置で歩を止めた。

 豊之進も立ち止まった。

 豊之進の目は冬の空のようだった。自分もあんな目をしているのかもしれないと真乃は思った。

 時を告げる六つめの鐘が鳴った。


 対峙した二人は同時に履いていた草履を後ろへ飛ばし、刀を抜いた。

 双方とも正眼に構えた。そのままどちらも動かない。

 真乃は豊之進が見せる僅かな動きも見逃すまいと気を研ぎ澄ませていた。読み遅れは命取りだ。そうして相手に自分の動きを読ませないつもりでいた。どちらも同じことを考えているはずだった。

 静かに時が流れていく。

 双方が気を漲らせたまま全く動かない状態が長く続いた。見ている方が息苦しくなったことだろう。と、豊之進が右へ、真乃から見て左へ動く気配をみせた。

 思わず真乃は右へ動いた。

 だがそれは豊之進の仕掛けた罠だった。真乃が右へ動き掛けるやいなや、身体も切っ先も左へ向けてきた。

 真乃は瞬時の判断でそのまま右回りに駆け出し、豊之進に背を向けて東へと走った。

 背中に殺気が迫る。

 真乃は途中で川沿いに進路を変えた。刀を持つ手が相手側、向こうは空手をこちら側にする狙いだった。その間に豊之進は追い付いてきた。

 荷揚場の両端を二人の侍が抜き身を携えた姿で駆け抜ける。

 途中にある狭い水路は一跳びで越え、二人は走り続けた。

 その間にも静かに駆け引きは行われている。

 河岸の行き止まりが間もなく現れる。そこで勝負を決する。真乃はそう考えていた。

 その先は日除け地でもある広場だ。西へ行くよりは閑散としているだろうが、この時刻でもそれなりの人が集まっているに違いない。衆目に刃物沙汰を晒したくはない。

 予想していたことだが、豊之進は相当鍛えている。瞬発力、膂力では明らかに真乃は不利だ。

 だが持久戦に持ち込めば瞬発力も鈍ってくる。真乃に勝利の芽が出てくる。体力、持久力に関してはかなり自信がある真乃なのだ。


 河岸の終点が近づいてくる。大八車が一台河岸に残されていた。真乃は豊之進より僅かに先を走っていた。

 ――今だ!

 決断は勘に近かった。

 真乃は大八車の車輪脇の荷台に右側へ向きを変えながら飛び上がった。足を置いた瞬間にまた蹴る。板が動かないよう下向きになっている車輪脇を蹴ったが、十分な高さが出た。

 一瞬で間を詰め、真乃は豊之進へ斬り下ろした。

 真乃の驚いたことに豊之進は後ろへ引かなかった。向こうも間を詰めてきた。鎬同士がぶつかる。

 着地した真乃がすぐに振り向きながら斜め下から斬り上げる。豊之進の中段からの薙ぎをガチッと受け止めた。

 いや、受け止めてしまった。押し合いでは真乃の分が悪い。

 真乃の刀は相手の力と刃の固さに刃こぼれし、真乃自身は豊之進の押す力に後ろへ弾き飛ばされた。

 背中から倒れこむのを真乃はそのまま後転に変えた。

「くそっ!」

 真乃の中に豊之進を恐れるどころか、さらに「倒してやる」という気が膨らんだ。

 後転から前向きに屈んだところで相手の二手を鎬で弾く。

 元結が緩んだらしく、髪の毛が顔の回りにはらはらと落ちてくる。真乃はそれを払いもせず即座に立ち上がり、飛び退きながら刀を構えた。

 すぐに三手がくると思ったのに、弾かれた刀を素早く八相に構え直したところで豊之進が動きを止めた。驚いた目で真乃を見つめている。

 真乃は川風が舞っているのに気づいた。ほつれた髪が頬にまとわりつく。鬱陶しくて刀の構えは解かずに右肘で髪を後ろへやる。

 豊之進が夢から覚めたように二度、三度瞬きした。

 真乃はその隙に大きく踏み込んで突きを入れた。

 豊之進もすぐさま突きを入れてきた。

 互いに鎬を当てて切り落としに入ろうとした。

 どちらの刀も上手く切り落とせず、鎬で弾いた形になった。


 その瞬間、真乃の目に豊之進の右の脇が開いて見えた。

 気づいたとほぼ同時に真乃は肘を曲げた。弾かれて反れた刀を引き寄せながら、右肘を相手の脇に入れて動きを封じ、身体ごと豊之進にぶつけていった。

 ぶつかった瞬間に左で握った刃を相手の脇腹に押し付け、体重をかけて渾身の力で引く。利き腕ではないから、力任せだった。最後まで引ききる。腹圧に負けず深く斬りつけた手応えがあった。

 豊之進が振り下ろそうとして真乃の右腕に阻まれた刀の柄頭が背中にゴンと当たった。

 豊之進が倒れこんでくる。

 真乃は跪きながら身体全体で豊之進を支え、横へと流した。上にのしかかられては真乃も怪我をしかねない。豊之進より小柄ゆえに真乃が取った手だったが、一つ間違えば真乃の方が潰されかねない賭けだった。


 豊之進の左手が後ろから真乃の左肩に置かれていた。真乃は腹立たしい気持ちでその手を払った。

 地面に横たわった豊之進の唇が動いた。

「何故だ……何故……さっきあんなに……松……」

「松三郎があんたを迎えにきたんだろう。行き先はあんたが地獄で松三郎は涅槃だと思うが、ひよっとしたら、優しいあの子はあんたを地獄から引き上げてくれるかもしれないぞ」

 真乃はするすると言葉が出たことに自分で驚いた。日頃は幽霊も化け物も信じていないのだ。

 豊之進の左手が真乃の顔へと伸びてきた。

 避けようとしたが、風が真正面から吹き付けてきて、つい目を伏せた。

 豊之進の左手が真乃の頬に触れた。優しく包むように触れてきた。

「お前なら本気で愛せたよ……」

 嘘だ!

 真乃はそう思った。

 左手が頬から離れていった。

 その右手は最後まで刀を握っていた。

 もうどこも見ていない豊之進の目を真乃は閉じ、手を合わせた。立ち上がる気にならなかった。


 これまでに刃を交えた中でも一、二を争う強い剣士だった。無傷で勝てたのが不思議だ。しかし、これで本当に終わったかどうかはわからない。

 そう思いながら、ふと下を見ると、袴の半分近くが豊之進の腹から流れた血で赤く染まっていた。

 ――月水の初め頃に対処し損ねたみたいだ。

 真乃は笑い出したくなった。その時後ろからるいの涙声が聞こえた。


「青井様、よかった。ご無事で……ありがとうございます。ありがとうございます!松三郎とあたしのために、ここまで……それだけじゃないかもしれませんけど、お礼を言わせてくださいまし」

「松三郎が助太刀してくれたのかもしれない」

 真乃は振り向かずに言った。

「松三郎が?」

 るいが息絶えた豊之進の横に現れた。

「最後に刃を交える直前、豊之進の動きが一瞬止まったのだ。驚いたような顔をしてな。事切れる前に呟くように言った言葉からは、どういうわけか、私が松三郎に見えたらしい」

「ええ、あたしにもそう見えた時がありました。びっくりしましたわ。風が吹いて青井様のお顔に髪がまとわりついた時に、その雰囲気が松三郎と似てましたの」

 真乃は驚いてるいの顔を見た。

「日頃はどこも似ていないのにか?」

 るいは頷いた。

「あたしだけかと思ったんですけど、このお方にもそう見えたのなら、松三郎がこのお方を連れにきたのかもしれませんわね」

「私はこの男が自分の本当の気持ちに気づかないか、気づかない振りをしていたから見た幻だろうと思ったのだが……」

「え?」

 真乃はるいから豊之進の亡骸に視線を移して言葉を続けた。

「この男もいつの間にか松三郎を好いていたのだと思う。だがそれを認めたくなかった」

「そんな……そんなこと……」

 るいもまた豊之進の亡骸に顔を向けた。

「最後にこの男は『お前なら本気で愛せたよ』と抜かしたが、それなら私を松三郎に見間違うわけがない。松三郎を本気で愛せなかったのなら、それはこの男が自分の気持ちに正直ではなかったからだ」

「そうなのかしら……あたしにはそうは……」

 それぎりるいは黙り、豊之進の亡骸から真乃の顔にゆっくりと目を移した。暫くじっと真乃を見つめてきた。頭の中では色々考えているような顔つきだった。それからまた豊之進の亡骸に顔を向けた。再び真乃に向けられた顔はすっきりしていた。

「青井様、小柄こづかをお貸しくださいな」

「どうするのだ?」

 真乃は小柄を抜いてその柄をるいに向けながら言った。

「お髪を松三郎のお墓に埋めたいと思って。生きてる者の勝手な思いかもしれませんけど、あの世では、どのような形であれ、二人が仲良く過ごせますようにと……」


「おるいさんは優しいな」

 るいが跪いて豊之進の髷を少し切り取り、懐紙に包んで大事そうに懐に入れるのを見守りながら、真乃が言った。

「何を仰るんですか。本当にお優しいのは青井様ですわよ」

「こうして人を斬り殺したのにか?」

 その言葉にるいはさっと真乃の方を向いた。

 真乃は自分の袴に目をやった。

「ご覧の通りだ。しかも血の染まり方がまずいよ。そうは思わないか?」

 るいは真乃の視線を追って袴に目をやった。笑い出すと思っていたのに、真乃の予想に反してるいの目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ始めた。緊張が一気に解けたせいかもしれない。

 果たし合いを見守るのは、時として当事者より辛いのだと師匠が言っていたのを真乃は思い出した。

 ぽろぽろ涙を溢しながら、るいは我慢できないというように膝を進めて真乃に抱きついてきた。戸惑う真乃に耳元でこう言った。

「ええ、お優しい方です。勝ってもちっとも嬉しそうではないんですもの。このお方をお斬りになったことを一番悲しんでいらっしゃいます」

 るいの言葉に真乃ははっとした。

 頭には師匠の「自分を大切にするのだぞ」が浮かんでいた。

 その真意がやっと分かったのだ。頭でわかったのではなく、心で、いや、全身で理解できたと真乃は感じた。


 ――相手に刃を向ける時、のだ。


 自ら選んだ剣の道だ。割り切っているつもりだ。だが強い相手ほど余裕がなく相手の命を奪ってしまう。

 罪人であっても命を奪ってしまった時、心の何処かで何かが傷つく。心を持つ人である限り、全くの無傷ではいられない。

 そして、それは剣術に限らないのだ。

 何故その深い意味にこれまで気がつかなかったのかと真乃は悔やんだ。

 ――豊之進はそのことに気づいていたろうか?いや、気づいていたなら、松三郎を殺めはしなかったろう。そのうえ、おそらく幼馴染みの田中理十郎も手にかけている……


 ひとつ大きな壁を乗り越えた気がしている真乃の耳に、るいの涙声なのに明るい口調が聞こえてきた。

「お袴、日が暮れてしまえばわかりませんし、気になるのでしたら、あたしが前を歩いて隠してあげます。帰ったら、新しいお袴を縫ってさしあげますね。青井様は何も気になさることありませんわよ」

 真乃は今まで気づいていなかった身体中の凝りが解けていくのを感じた。


 何も気にすることはない。

 るいは今日のことだけを念頭に言ったのだろう。だがその言葉がなんと真乃の心に響いたことか。

 これまでそう言ってくれた者は真乃の周りにいなかった。弱みを見せることができなかった。そんなことをすれば揶揄される。剣術より裁縫をしろ、嫁にいけと言われる。

 真乃にとっては自分らしく生きることも決して容易くはない。

 松三郎がるいを姉のように慕ったのは、誰をもあるがままに受け入れ、その人の良い所を認める、この度量だったのだろう。

 はじめは詮索好きだと思ったが、るいの詮索はその人を理解するための素直な質しなのだ。

 今は松三郎がるいを姉のように慕ったことが真乃にはよくわかる。

 その不思議な包容力に身を任せるように、真乃はるいの肩に頭を乗せた。

 剣術に打ち込むようになってからは母親にも甘えなかった真乃である。口元が緩む。

 ――母親代わりになる年じゃないと怒るだろうな。

「あ~あ。とうとうこうなっちまったよ。無理ねぇけどさ。大貫屋の旦那にも相模屋さんにも、片岡様にも黙ってやすがね。けど、ほら、通りがかりの人がじろじろ見てやすよぉ。集まってきてやすよぉ」



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