プロローグ ようこそグリモワールド 2

 逆光の中、戻りつつある視界の中に写る人影は、次第に鮮明になっていく。


 詠太えいたと同年代――もしくはもっと若いだろうか。窓から入る風にショートの髪をなびかせ、穏やかな笑みを詠太えいたに向ける少女。

 幼さを残しつつも凛とした芯の強さを感じさせる、透明感あふれる涼しげな眼差し。

 見ているだけで吸い込まれそうな程のなめらかな白い肌。

 細身でありながら無駄のない肉付き。

 それは詠太えいたがこれまで身の回りはおろかグラビアでもお目に掛かったことのないような美少女、そう、まさに美少女の概念そのものとしか言いようのない存在が、詠太えいたのすぐ目の前にあった。


 俺、今、この子とキス――


 詠太えいたの脳裏に先程の感覚がよみがえる。

 さっきのキスからどのくらい経っただろうか。――おそらくはそれ程の時間でもないのだろうが、気の遠くなる程の時間が流れたような、そんな気さえする。

 頭に血が昇り、今の今まで何も考えられない状態にあった詠太えいたの意識が、徐々にクリアになっていく。


「君は――」

「アタシはリリアナ。サキュバスだよ。あ、サキュバスっていうのは悪魔の一種ね」


 サキュバス――聞いたことは、ある。寝ている男性のもとに現れ、精を奪う夢魔……だっけか。

 それは知っているがしかし、自己紹介でそれを名乗るとは一体どういう……?


「ここはキミがいた世界とは別の世界。全てがグリモワールによる召喚契約に基づいた、『グリモワールド』よ」

 ……!! 別の世界!? 召喚……!


「そうだ! ゆうべ俺は怪しい書物を使って召喚の儀式を――!」

「キミ……どっかで手順間違えたでしょ。キミの方がこの世界に召喚されてきちゃってるんだけど」


 はあああああ!?

 確かに文字は一切読めなかったから、本に挟まっていたメモと挿し絵を頼りに儀式? を行った……のだが。


「ちょっと待てよ! 何で俺が召喚される側になっちゃってんだよ!?」

「知らないわよ! アタシだっていきなりの押しかけ召喚で驚いてるんですけど」

「じゃ、じゃあ、俺の激カワ天使ちゃんは?」

「そんなモンいる訳ないでしょ。激カワ悪魔のリリアナちゃんならいるけどね!」


 そんなっ! そんなっ!


「なに落ち込んでんのー。アタシじゃご不満だった? シツレーだなあ、えーたクン」

「!? そういえばさっきも俺の名前……」

「うん、知ってるよー。秋月詠太あきづきえいた君、高校二年生。趣味はゲームとアニメ鑑賞ね。あ、エロ本集めも趣味に入る?」

「ななななんでそんな事まで!!」

「アタシ、召喚者の立場だからね。キミの情報はひととおり分かっちゃうのよー。にひひひひー」


 リリアナと名乗った少女は、上機嫌で「悪い笑顔」を浮かべている――が、ふいに真顔になって再び口を開く。


「で、話を戻すと……ここはグリモワールド。キミのいた世界とは別の、いわゆる異世界ってやつ?」

「グリモワールド……聞いたことがないな」

「アタシが今つけたのよ。わかりやすいかと思って」


 わかりやすい……か……? そのネーミングセンスの方が気になってかえって理解を妨げているような気がしなくもないが。


「ここには神や悪魔や天使、精霊、モンスターからUMAの類まで、つまりそっちの世界で言うありとあらゆる『架空の存在』が実在しているの」

「なんでこっちの世界での想像上の存在が……?」

「逆じゃないの? 過去にキミみたいに何らかの形でこちらに来た人間が、向こうに帰ってからこっちで見たモノの話を広めたんだと思うけど」


 なるほど。


「こっちでは俺のいる世界の存在も普通に認識されてるんだな」

「そりゃねー。ちょいちょいいるみたいだし、キミみたいに迷い込んでくるの。実際に会うのは初めてだけど」

「まあ、とにかく、それは分かった。でもさっきのアレ、なんであんなコト――」


 唇に先程の感触が甦り、やっと落ち着いてきた詠太えいたの鼓動が再び早まる。

「あんなこと? ……ああ、あれ? 朝ゴハンだよー?」

「朝ゴハン!?」

「だってアタシ、サキュバスだから♪ 精を吸い取る的なー?」


 コイツ……


「……っていうのは実はあんまりカンケーなくて――」

 リリアナは身を乗り出し、立てた人差し指を詠太えいたの鼻の頭に乗せる。


「要するにキミは今、召喚された状態だから、キミ自身の生命エネルギーで活動してる訳じゃないのよ。召喚者側からエネルギーを供給してあげなきゃいけないわけ。これを定期的にやっとかないとキミ、存在ごと消えてなくなっちゃうんだから」

「は!? 消え……??」

「ま、多少サボッたって力が出ないとかそんな程度よ。消えるとこまでいっちゃうのはよっぽど。大体は先に召喚契約も解除されちゃうし。それよりも……ね、さっきのキス、憶えてる? すごく気持ちよかったでしょー!?」


 さっきのキス……脳内が大パニックで記憶も飛び飛びになっている。

「なんか……よくわかんねー……」

「はいぃ!? 人間同士のキスなんかより全っ然気持ちいいはずなんですケド!」


 人間同士!?


「人間同士でなんかしたことないし……」

「え!?」

「いやだから人間同士でなんて……」

 とたんにリリアナがにやりと笑顔を浮かべる。

「ん~? もしかして初めてだったぁ? えーたクン」

 詠太えいたはうつむき、得意げな表情で顔を覗き込んでくるリリアナの視線を避ける。

「……てだよ」

「ん? なになに? 聞こえなーい」

「初めてだよっ!!」

「おおっ!! オネーサン、えーたクンの初めてを頂いちゃったワケね~? これはサキュバス冥利に尽きるわー♥」

「そ、そんな話はどうでもいいだろ!!」

「そ・れ・がっ! どうでもよくないのよー」


 気恥ずかしさから視線を外していた詠太えいたの正面に回りこみ、リリアナはずいっ、と顔を寄せる。

「さっきのキス、あれはキスにあってキスにあらずっ!」

「――何度も言うな恥ずかしい!」

 リリアナは詠太えいたの言葉など意に介さず話を続ける。

「あれはねー、いわば召喚の契約を持続させるための、アタシとキミの間を繋ぐパイプラインよ! さっき召喚者側からのエネルギー供給が必要、って言ったでしょ? チャージっていうんだけどね、そのパイプラインを利用してアタシからキミに生命エネルギーが受け渡されたの」


 コイツの……生命エネルギーが俺に? あの力がみなぎる感じ……そういうことだったのか。

「そうか……こっちが『召喚された側』なんだもんな」

「ついでに言うと。召喚した側が『サマナー』で、された側は『エンティティ』って呼ばれてる。アタシたちの関係で言うと、アタシが『サマナー』で、キミは『エンティティ』。で、エンティティはサマナーの願いを叶えなきゃいけない、っていうのがルール!」

「願いを叶える、って……まさか俺が!?」

「そう! アタシの願いを叶える! そうすれば二人の契約は満了してキミも元の生活に戻れる……はず?」

「……はず?」

「コッチのルールではそうなんだけど、キミは異世界間で召喚されてるからちょっとわからないわね」

「はあああぁぁぁぁ!? そんな無責任な……!!」

「そう言われてもねえ……アタシだって迷い込んだ異世界人なんてどうやって戻してやればいいかわからないし……キミ、元の世界に帰りたいんでしょ?」

「そりゃもちろん……」


 詠太えいたは元いた世界に思いを馳せる。とはいえ昨夜まではそちら側にいたのだから、まだこの段階ではホームシックも何もあったものではないのだが。

 しかし、何かが引っかかる。

 忘れている気がする。とても大事な何かを……


 ――――はっ!!


 このまま俺が行方不明扱いになんかなったらベッドの下がヤバい! 押入れの奥の段ボールがヤバい! せめてパソコンの中身だけでも消去させてくれええええええぇぇぇぇぇ!!


「なら試してみなさいよ。途中で別の方法だって見つかるかもしれないじゃない」

 真っ青な顔で冷や汗を垂らしている詠太えいたに、リリアナが声をかける。

 現段階では他に戻る手段も思いつかない以上、ここは飲むしかなさそうだ。


「…………わかったよ」

「やりぃ♪」

「で、オマエの願いって、何なんだ?」

「うん……あのね、今この世界は二つに分かれて対立しているの。ここリドヘイム、そして隣国セレニア……それぞれの国を中心とする勢力同士が召喚魔術を使って戦ってる。キミにはアタシと一緒にこの戦いに加わってもらいたいのよ」

「お? おう…………ええええええええええっ!?」



 リリアナが笑顔で突き付けてきた『願い』は詠太えいたの想像をはるかに超えるものだった。

 退屈な毎日を呪い、不満に満ちた日々を過ごしていた詠太えいたの元に現れた、グリモワールというわずかな可能性。

 『藁にもすがる思い』などという言い回しがあるが、しかしそれは決して藁などではなく、実際に詠太えいたをこの異世界にまで導いた。


 これは安全が保証されたアトラクションではない。

 都合良くリセットできるゲームでもない。

 望んだ刺激と望まぬ危険……


 ――詠太えいたの『非日常』が今、幕を開ける。

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