幕間 ちよの異世界忘備録
〈まじない〉と〈呪文〉について
『ちよの異世界忘備録』より
夜明け前で真っ暗だった。
布団の中から、ちよはまじないを唱える。
「アレッサ、明かりをつけて」
天井に取りつけられていた
六畳ほどの部屋が落ち着いた光で満たされる。
ちよは八十歳の日本人だ。
いろいろあって異世界に辿りついた。
その異世界──ユルナリアはおおむね欧州の中世ほどの文明
ちよが生まれたのは一九四三年(昭和十八年)。日本に国産の電気冷蔵庫が登場したのは一九三〇年であって、ちよが生まれるたった十三年前である。つまりちよの生まれた頃、庶民の家庭にはまだ電気冷蔵庫はほとんどなかった。電気洗濯機もなかった。テレビもなかったし、当然のように
(異世界転移するなら歳取ってからに限るわね!)
それに科学技術は発達していなかったけれど、代わりにその世界では魔法技術が発達していた。
そして、異世界の魔法技術の使い勝手は、ちよにとって都合がよいものだったのである。
例えば、いま使用した魔法技術はまじないと呼ばれていた。
こちらの世界には魔力が込められた色々な品があって、その魔力を解放することによって様々な働きをさせられる。明かりを点したり、汚い水を真水に変えたり、とかだ。魔力が込められた便利な品は
まじないは「
この合言葉は、普段使わない言葉である必要があった。
宿にある魔法技術製品は「アレッサ」という言葉を合言葉として登録されている。「アレッサ」はどうやらこの世界の古い神様か精霊の名前らしかったのだけれど、ちよにとっては、地球で電化製品を動かすときに似たような言葉を使っていたから馴染むのが早かった。ちなみにこの合言葉の部分は〈明かり石〉を商人から買ってから使用前に登録する決まりなので理論上は何でもよい。町ごとにちがうというのが基本だった(だから宿から盗んで他の町で売ろうとしてもすぐにバレる)。
「アレッサ、明かりを消して」
ふっと明かりが消えて部屋は真っ暗に戻る。
「アレッサ、明かりをつけて」
ふたたび部屋は明るくなった。
(ふふ。慣れてきてもなんども試しちゃうわね。おもしろいわぁ)
新しい魔法技術製品を教えてもらうたびにちよは何度もこうして試してしまう。使うたびに込められた魔力を消費してしまうので、無論「何度も」といっても「ほどほど」にしようとは心掛けている……つもりだ。前にも言ったように、ちよは遠慮がちな性格なのである。
このようなまじないで動かせる魔法技術製品にはひとつの共通項がある。
使用する頻度が高く、誤作動しても致命的な事故を引き起こさない、という。
魔法技術製品は言葉を放ったのが誰なのかを気にしない。声の届く範囲に同じ合言葉で起動する魔法技術製品があると、それが誰のアイテムであろうといっせいに動きだしてしまうというわけだ。だからこの技術は例えば施錠には使えない。『アレッサ、鍵を開けて』と誰が言っても鍵を開けてしまうから。
実際にこのような他人の言葉で誤って起動してしまう魔法技術製品の誤作動事故が時々起きるらしい。
ちよもまじないを唱えるときは不必要な大声をあげないように気をつけていた。先ほども天井の〈明かり石〉にぎりぎり届くような声を目指していたのだ。
こう聞くと不便にも思えるけれど、泊まる客が変わるたびに客に合わせていちいち〈明かり石〉を付け替えたりせずに済む。合言葉さえ伝えれば、どの客も自室の明かりの点け消しが簡単にできる。そういう便利さもある。
誤作動しなければもっと良いのはもちろんだが、その為にはちよがかつて居た現代地球の声紋認証のような技術が必要で、生憎そういう魔法技術はまだ発明されていない。
このようにまじないは誰にでも簡単に使えるけれど誤作動事故も起きる。
ちよは考える。
(たぶん、だからこそ事故が起きても問題ない日常の軽いお役立ち
ファンタジーの世界で「魔法」といえば、もっと華々しいものを想像しがちだが、まじないで動かすことができる魔法技術製品は百均
けれど、それしかないわけでもなかった。
ゲームや小説でよく目にするような魔法……空を飛んだり、炎を放ったり、あたり一面を凍りつかせたりするような、そんな魔法もないわけではない。そちらの魔法は別の体系として存在しているのである。
それが呪文だ。
効果の範囲も大きくできて、場合によってはとても危険でとても恐ろしい現象を生じさせる……。
それゆえに呪文はまじないよりも使いづらくなっている。
(まあ、私には、ちょっと面倒くさい、くらいだけれども……)
ちよにとって都合がよかったことは呪文を構成する言葉は、日常で使われづらくするために古めかしい言い回しである、という点だった。
例えば、もっともささやかな呪文である発火の魔法の言い回しは、こんなふうである。
寝床のなかでちよは起き上がる。
布団から体が出るとぶるりと震えた。陽が昇っていないうえに冬至をようやく過ぎたばかりで寒さもひとしおだ。枕元に置いてあった手のひらほどの箱を引き寄せて開ける。箱の中の、小さな赤い石をつまみあげると、ちよはささやくような声で呪文をつぶやいて石に向かってぶつける。
「祈りありて、燃ゆる
これが発火の呪文である。
日常の中でめったに使われない言い回しだからこそ、うっかり口にした誰かの言葉で起動してしまうこともないわけだ。若者たちには覚えにくく言い辛いとしても、ちよにとっては朝飯前だった。
ちよの声が赤い石にぶつかり、石の周りの空間に虹色の波紋が一瞬だけ生じる。それを確認してからちよは石を暖炉の中へと放り込む。
しばらく待つと、赤熱した石が種火となって暖炉が赤々と燃え上がった。魔法技術製品である赤い石──〈炎熱石〉のおかげで、手ずから火を熾したことなどないちよでもこうして楽に暖炉に火を入れることができる。
〈炎熱石〉の使用は火事を引き起こす可能性がある。そういう危険な効果をもつ魔法技術製品が誤作動しては困る。だから、日常的に使われることのない古めかしい言葉を使った呪文で起動させることになる、というわけだ。
古めかしい言葉はこの世界だろうと日本だろうとそもそも使いこなせる人は少なく、ゆえにまじないは日常に浸透しているけれど、呪文はあまり使いこなされていない。〈炎熱石〉を赤熱させる呪文はこれでもまだ普及しているほうらしいが、それでもこの世界の若者たちにはウケが悪い。
しかし、ちよにはさほど苦労がなかった。ちよの知っている古い日本語の言い回しとさほど違いはなかったからだ。違いはないというか、そのままというか。ちよは日本語を話しているつもりなのだが、自動的に現地語に何故か翻訳されている。なので古めかしい日本語を使うと、自動的に古めかしい現地語に翻訳されてくれる。そして古めかしい言い回しならちよにとっては当たり前のように使いこなせる。
それにしても、八十歳までに学んできた色々なことが異世界でこんなに役立つとは思わなかった。ちよはふたたび戻ったベッドの中で思わず破顔してしまう。学びつづけてきてよかったわと。
部屋を充分に暖めてからちよはようやく着替えて部屋を出た。
★★★★★
お読みいただきまして、ありがとうございます。
今回は、お話ではなく、ユルナリア世界のTIPSです。
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来年はちよのお話を含めて、もうちょっといっぱい書きたいです。
では、良いお年を!
異世界老婦人探偵ちよ はせがわみやび @miyabi_hasegawa
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