第4話

渡しそびれていた贈り物(前編)

 十二月も終わるというのにこの暖かな陽気はどうしたことか。

「年寄りには助かるけれども、これは流石に風情に欠けるわねえ」

 窓脇に移動させた揺り椅子ロッキングチェアをゆらゆらと揺らしながら、香茶をこくりと飲んではつぶやいた。南から吹き込む生温なまぬるい風に、歳月を経て白くなったの髪がふわふわと揺れている。

 が顔を向けている窓からは欧州ヨーロッパ中世と似た街並みが見えている。もっとも似ているのは外観だけだし、その外観だってよく見ればの知っている世界とは似て非なるものである。ここは欧州でもないし、そもそも地球でもなかった。

 地球の日本で生まれ育ったは生粋の地球人で日本人で名探偵だけれど、いま彼女がいるはちがう。

 その世界はユルノリアと呼ばれている。

 名前を覚えるのが面倒な読者は、ゆるいよーろっぱノリの世界、と覚えてくれればいい。これでだいぶ覚えやすくなったはずだ。そんな、球体なのか平面なのか判らない世界には大きな大陸がひとつあった。ジャルバ大陸だ。前に伝えたはずだが、これも憶えてなくとも構わない。国の名前はオングランド。これもまあ今はどうでもいい。のいる街の名前さえ憶えてくれればいい。その街の名は──。

 王都リンドン。

 日本で生まれた名探偵めいたんていが異世界転移して最初に訪れた村からは馬車で一日の距離にある大きな都だ。

 が最初に転移した村はドが付くほどの田舎だった。ほとんどが平屋の家ばかりで、周りには畑と草と木ばかりだった。そこから、とあることをきっかけにして、リンドンに引っ越すことになった。日本から異世界にが転移して一年が過ぎていた。ふたたび季節は巡って十二月になっている。前に住んでいた村での冬は寒さが厳しかったけれど、王都はいまのところ暖かい日がつづいている。

 むしろ暖かすぎるくらいね、とは思っている。ちらりと視線を外して、部屋の奥にある暖炉を見る。石造りのちゃんとした暖炉だ。この部屋は大通り沿いに建てられた三階建ての共同住宅アパートメントの二階にあるのだけれど、どの部屋にもああした暖炉が作りつけられている。ということは、とは考える。王都も平年ならば寒いわけだ。でなければ、あのような立派な暖炉は必要ないはず。けれども、が王都にやってきてから、まだ一度だって暖炉に火を入れたことがない。

 確かに冬にも暖かくなることはある。日本で言えば『小春日和』だし、ドイツで言えば『老婦人の夏』だ。けれども、そういった天気は概ね数日しかつづかない。こんな秋が終わらないような天候ではない。暖かい。暖かすぎるほどだ。ひょっとしたら、これには何か理由が──。

「あら?」

 考えていたことをは棚に上げる。

 ふたたび窓の外の景色を見ていたら、大通りを走ってきたカラブ車が目に入ったのだ。カラブ車というのはカラブと呼ばれる大きな猪に似た獣二頭に車輪の付いた箱を引っ張らせた乗り物である。騎獣車とも呼ばれる。地球で言うところの馬車なのだけれど、この世界には馬といえば一角獣ユニコーンしからず、そして一角獣はすべてドワーフやエルフのような「お隣さん」であって、使役の対象ではなかった。ゆえに人を乗せて走るのも物を引っ張るのも、馬ではなくカラブと呼ばれる似非エセいのししの役目なのである。そのカラブ車がの住んでいる建物の前で停まった。

「あらあらあら」

 揺り椅子ロッキングチェアから立ち上がり、これも備え付けの焜炉コンロのほうへと向かう。焜炉の隣にある流しの上の蛇口の取っ手ハンドルを捻った。

 蛇口から何も滴ってこない。

 は、取っ手をコンコンと叩く。何も起きない。コンコンコン、と辛抱強く叩きつづけると、ようやく蛇口から水が流れ出した。

 は溜息をついた。

「やっぱり、安いミルクじゃダメなのかしら……」

 王都の良いところは街の隅々にまで上下水道が行き渡っていることなのだけれど、水を低い所から高い所まで引き上げたり、圧力を掛けて押し流したりするような駆動装置はまだ発明されていない。従って、そういう機械的なお仕事はすべて機械の妖精グレムリンに頼むようになっていた。たいていの部屋には専属の機械の妖精グレムリンが同居していて、あらゆる機械的なお仕事をやってくれる。それも一日にミルクひと皿の賃金で。

(……まあ、だから機械が発達しないのかもね)

 どっちが良いという話でもないのだけれど、ただ、この機械の妖精グレムリンさんは、わりとさぼりがちなのだ。ミルクを忘れたり、ミルクがまずかったりすると、特に。

 やかんに水を入れて焜炉へと乗せる。

 炎熱石で焜炉に火を点けたところで部屋の扉を叩く音ノックが響いた。

 の予想したとおりだ。

「はい。開いてますよ」

 応えるのとほぼ同時に扉が開いて、まずは少年が飛び込んでくる。

「ばーちゃん! 事件だ!」

 ええ、そうでしょうとも。

 には判っていた。

「ロッカ、いつも言っているでしょ。ちゃんとしたお客さまが居るときには──」

 はっとなってロッカと呼ばれた少年は背筋を伸ばした。

「せ、先生、あのえっと……お客様、じゃなくて、をお連れしました」

「ええ。入ってもらってちょうだい」

 ロッカはいちど廊下へと引っ込むと、何事かを扉の向こうの人物へと告げる。おそらくは「入ってください」とか、そんなような言葉だろう。

 ロッカと入れ替わるようにして背の高い男がひとり入ってきた。白い縞の入った臙脂えんじ色のお仕着せを着た壮年の男で、頭には羽飾りのついた帽子を被っている。

「あら、まあ」

 男は帽子を取り、深々と腰を折る。仕草の丁寧さと綺麗さには目をみはるものがあった。

 貴族か、それとも──。

「失礼ですが、ミセス・ティーヨですかな?」

 ティーヨというのはのことである。どうやらこの世界の人たちは「ちよ」と発音しにくいらしい。まあ、にとっては、掛けられた言葉が自分のことを示していると判りさえすればどうでも良かった。どのみち、どんな相手であれすぐに、の「名前」よりも「能力」のほうを覚えることになるのだ。

 そして呼び名も変わる。

「ええ、まあ。未婚ですけれど」

「それは失礼。ティーヨ殿、いや、ティーヨ探偵殿、でしょうか」

「どちらでも。どちらにしても間違っていますし」

 名前も、仕事も間違っている。は探偵ではない。名探偵なのだ。

「それで──」

 は上から下まで男を観察してから言う。

「王宮にお勤めの方が、私に何の用かしら? お城で何か困ったことでも起きまして?」

「ど、どうしてそれを……」

 の言葉に依頼人は目を見開いて驚愕したのだった。


   ●


 訪ねてきた男は自らをベルガモット・タイラーと名乗った。

 寝椅子ソファへと腰を下ろすよう促した。自分は、揺り椅子ロッキングチェアをくるりと向きを変えて腰掛ける。それで短脚の机ローテーブルを挟んでベルガモット氏と向かい合う形になる。

 テーブルの上にはが淹れたばかりの香茶が三人分。それと焼き菓子が少々。ロッカは部屋の隅に立っていようとしたのだけれど、依頼人の許可を得て寝椅子ソファの片隅に座らせた。

 には子どもを立たせておく趣味はないのだ。

 王宮の役人だろうが、ここではの客である。主人ホストのほうだ。主導権は自分にある。それに不敬罪でを打ち首にして困るのは依頼をする側なのである。

 というわけでロッカを座らせてからは話を促す。

「その前に、なぜわたしが王宮から来たと判ったのですか?」

 不思議そうにベルガモットが訊ねた。

 は彼の質問に小首を傾げた。なんでいまさら、とばかり。

「だって、その左の胸に付いている飾り──『宝剣に絡みつく竜』は王国の紋章でしょう? その紋を身に帯びることが許されているのは王室の方々か、王宮に出入りする方と伺っていますもの。身分を隠して訪問したいのならば、身元を晒すものを付けてはいけませんよ」

「む」

「なので、たぶん相談事は、わざわざ身分を隠してこなければいけないようなことではないのでしょうね」

「まさに。しかし、その悩み事が城に起こった、と推測なさったのはどのような根拠からなのでしょう。まさかわたしが王宮に出入りしているから、というだけの単純な推理ではありますまい」

 は相手を焦らすように香茶を口に含んでこくりと飲み下した。

「ん。今日も美味しく淹れられました。ええと、そうね。今も言ったのだけれど、そういう身分を隠すような初歩的なことはお国の……例えば役人さんや密偵さんだったら身に染みついていることなの。あなたはそれができなかった。つまり、王宮勤めだけれど、王国の政治に関わるようなお仕事をしているわけではない。たぶんそうね……お城の維持管理とかをしてるのだろうと思ったのよ。あなた、お茶を淹れるときのわたしの手元を興味深そうに見ていたわよね。まるで家令の仕事を査定している人みたいに。執事頭とか、そういう人なのかなって。だから、依頼もきっとお城の生活に関係したことだわ」

「ぐ。な、なるほど……確かにわたしは王宮の執事管をしております」

 王宮執事管とはつまり執事たちや女家令メイドたちを束ねる役職だ。

「いや、恐れ入りました。最近王都にやってきた老婦人は、謎があればなんでも解き明かしてくれる──と聞いて、半信半疑ながらここに伺わせていただいたのですが、想像以上でした」

 ベルガモットは頭を下げた。

 は微笑むだけだったが、端でやりとりを見ていたロッカはどうだっすごいだろ、というドヤ顔をしている。

「それで、わたしにどんな謎をもってきてくれたの?」

「はい。まずはこれを見て欲しいのです」

 言いながら、ベルガモットは懐に手を入れる。手のひら二枚ぶんほどの大きさの薄い板を取り出して机の上に置いた。

「これは……?」

 もこちらの世界に来てから初めて見るものだった。

 大きさは文庫本二冊ぶんほど。厚さは小指の第一関節ほどまでしかない。表面には透明な硝子ガラスの板が嵌まっていて、硝子の下にはどうやら砂が敷き詰めてあるようだ。

「本当は現物を一部だけでも持ってきたかったのですが、王宮魔術師が調べたいということで、このような形でしかお見せできないのです」

 硝子を嵌めている板の端によく見れば小さな文字が書いてある。その文字はもちろんの文字なのだけれど、は異世界に渡るときに授けてもらった能力で、文字をまるで日本語のように読むことができる。「開始」と「停止」とふたつ書いてあった。

 ベルガモットは「開始」のところに指を当てると、言葉を紡ぎ始める。

「始むるは籠められし現世うつしよの影」

 だ。

 日常に広まっている子どもも使えるとはちがう。呪文はより強力である為に、うっかり発動しないよう、日頃使われない古めかしい語彙によって組み立てられているのだった。

 砂が、硝子の下の砂が動き始めた。うねうねと動いて、なにやらぼんやりと濃淡のようなものが現れてくる。

 砂の濃淡が白黒の一枚の絵を描き出していく。

「何処かの風景……でしょうか」

「城の城門です」

 なるほど。言われてから見れば何が描かれているのか判る。

 ただ、は白黒映画の時代も白黒しろくろ時代も憶えているが、それらの映像と比べても粗い。解像度の低い砂絵のよう。しかしどうやら、想像で描いたものではなくて、本当のお城の城門を撮影したもののようだ。魔法の撮影機のようなもので撮った映像ということだろうか。

 驚いたのはその映像がということだ。

 魔法の撮影機はお城の城門らしきところを少し離れて映している。距離にして二十歩ほどはあるだろうか。その位置から見ると、左右に広がる城壁と大きな両開きの門が見えているだけだった。門の大きさは門番との比較で判る。縦がおとな三人分ほど、つまり六メートルほど。横が扉二枚合わせて、四メートルほどもある。はすぐに気づいた。つまりこの門は、貴人を乗せている飾り立てた騎獣車をそのまま通せるだけの大きさがあるのだ。むしろそれが設計の基準になっているのかもしれない。

 撮影機の持ち主は徐々に城門へと近づいてゆく。右側の扉のほうへと近づいているようだった。六歩、五歩、四歩あたりまで近づいたところで、は撮影者が何を映そうとしているのかを理解した。門の扉に大きな染みのようなものが見える。映像が粗い為にその正体はわずか二歩の位置にくるまで判らなかった。

 手型だった。

 扉の、大人が手を伸ばしても届かない辺りにべったりと絵の具を塗ったような手型が押されていた。色は、白黒の砂絵なので判らない。だが、映像に映り込んでいるひとの大きさから考えても、おとなの手の倍ほどもある。

「これは……もしかして……」

首無しの騎乗者ヘッドレス・ライダー……デュラハンの手型です」

 には妖精の名である「デュラハン」と聞こえたが、もちろんユルノリアでの呼び名はちがうのだろう。けれども、に授けられた翻訳能力によって、地球にほぼ似たものが存在する場合は、日本語に翻訳されるのだった。。

 首無しの騎乗者デュラハンは元々はアイルランドに伝わる妖精の名である。頭が無く、黒馬に乗り、家々を訪れては死を予言して回るという。

 ──ん? 黒馬に乗って?

「あの……その首無しの騎乗者ライダーさんって、何に乗ってるんですか?」

 の唐突な問いにベルガモットはとくに気にすることもなく素っ気なく答える。

「カラブですが?」

「あー、猪の」

 それはそうか。だって、馬がいないし。はひとり納得していた。

「猪ではありません。カラブです。お間違えなきよう」

「あ、はいはい。そうですね」

 でも、そっくりだし、とは内心では思っていたが口には出さなかった。カラブと猪の差なんて、大きさくらいなものなのだ。ああ、それとカラブには額に角がある。でも、それだって大した差ではない──と、は思っていた。

「こほん。ええと、それでそのデュラハンさんですけど、訪れた家に死者が出ると予言して回る首無し妖精──ということで合っているのかしら?」

「ええ」とベルガモットが頷いた。

「私の知るものでは、その家の死すべき定めの人物に指を突きつける、という説話もあるのですけど?」

「それは初耳ですね」

 なるほど。

「では、家々の戸口に手型をべたりと貼るまで、というのが妖精のお仕事なのですね」

「手型はべったりと血の色をしておりまして」

 は顔を顰めた。隣で聞いていたロッカが顔を青ざめさせている。この年頃の子にはあまり聞かせたくない話だ。とはいえ、血の色というだけで血を塗りつけたとは言っていないから──。

「大昔は本当に血の匂いが立ち込めていたものだそうです」

 ロッカがひぇと叫んだ。冷や汗が頬を伝ってつうと流れている。

「あたりには獣の死骸が転がっていることもあったとか」

「今はちがう、と?」

 こくりとベルガモットは頷いた。

「予言ひとつでいちいち獣を殺していると野山から野生の獣が居なくなりますゆえ」

「あー」

 環境に優しいエコなデュラハンさんなのか。は取り合えずそう納得しておいた。真相は判らないけれど。異世界のデュラハンの仕様なんて神様でもないと判らないし。それに地球の神話伝承だって細部が異なるなんてよくあるわよね、と、はその問題は取り合えず棚に上げた。問題はそこではない。

 王族に死者が出るような予言がなされたのならば、それは政治的大ごとである。王宮執事管の出る幕ではないはずなのだ。

 ということは──。

「王宮では、誰の死の予言が為されたと思っているのですか?」

「王宮庭園の庭師か王宮の宝物管理官ではないか、と」

「……は?」

「庭師か宝物庫の……まあ、番人ですな」

 だから、わたしが来たのです、とベルガモットは言った。


  ●


 揺り椅子ロッキングチェアの上ではしばし考え込む。

「ベルガモットさん。予言が指しているのは、そのふたりだろうっていう根拠はなに? 大怪我して伏せっているとか、大病を患って危篤だとか、そういうこと?」

「いえ、ふたりともピンピンしておりますな。なんなら百まで生きそうです。二百だって可能かもってほど元気です」

「はげしく元気なのね」

「庭師はエルフで宝物管理官はノームなので」

 言葉通りの意味だったか!

 は喉の奥で唸った。これだから幻想世界の住人は面倒なのだ。考えるべきことが増える。は推理の幅を広げる可能性を迫られた。なに、そんなのは名探偵ならば容易いことだ。は古典推理小説だけではない、な異世界転生幻想小説だってちゃんと読んできている。

 ベルガモットはちよの内心には気づかずに問いに対して答え始める。

「庭師のほうはセラと言いまして、植物を育てるのが得意でしてな。なにしろ緑の指を持っております」 

「あら素敵」

「ですが今年は冬咲きの薔薇を枯らしてしまいました。例年ならばちょうど冬至の祭りの辺りに綺麗に咲き誇るのですが」

「クリスマスローズかしら。あれ、綺麗よね。花言葉は追憶。まあ厳密に言うとクリスマスローズはバラの仲間じゃないけど」

「そのクリスマスというのが何かわかりませんが薔薇です」

 おおっと。

 は自分のいさみ足に気づいた。そうだった。ユルノリアにはキリストがいない。この世界には神様にあたる概念がなかった。不可思議な自然現象を神様のせいにするのが宗教への第一歩だと思うのだけど、ユルノリアでは神様のせいにできなかった。なぜなら、森羅万象を司る妖精たちや精霊たちが実際に目に見えて存在してしまうからだ。なんなら話ができるやつだっている。交渉できるから機械の妖精グレムリンさんに頼むことだってできるわけで。不思議の国は実際に不思議なことが起きてしまうので、不思議は神秘ではなくなってしまうのだった。妖精はこの世界では日常である。

 ベルガモットが話を続ける。

「今年は冬が訪れませんでしたから、薔薇もうまく育ちませんでして」

「でもそれでなんで死ぬことに?」

「お妃様はたいそう冬咲きの薔薇が好きなので」

「『その者の首をねよ!』って、お妃さまが言うとか?」

 どこかのトランプの女王みたいに。だとしたら、だいぶ暴君だ。怖い。

「いえ、決してそのような方ではありません。それでも、庭師のセラはたいそう落ち込んでしまっておりまして。いつ首を切られるかと怯えております。このままでは、そのうち心労で病になってもおかしくない」

「うーん」

 役に立つのか立たないのかにとってさえなんとも判断しづらい情報だった。

「もうひとりの宝物管理官のほうですが」

「はいはい。そっちは? ノームのひとって話だけど」

「ノーム族のカルムーチョと申します」

「かる……なんですって?」

「カルムーチョ、です。彼女は──」

「女の子なの!?」

 話の腰を折られてさすがにベルガモットがむっとする。はお口のファスナーを閉じる仕草をして黙るが、ベルガモットはの仕草が理解できなかったようだ。ユルノリアではまだファスナーが発明されていなかった。ファスナーの発明は地球では一九世紀中頃──一八五一年である。だから中世風幻想小説には登場しない。ちなみにボタンも起源は古いが普及するようになったのは一三世紀らしい。欧州中世は五世紀頃から十五世紀頃までだから、実は中世風幻想小説というだけではボタンを描いて良いかどうかは微妙なのだった。ともあれ、ユルノリアにはボタンはある。ファスナーはない。なので、お口のファスナーを閉じるという仕草はベルガモットには伝わらない。

 閑話休題それはさておき

「カルムーチョはノーム族出身ながらこの王国の大学を首席で卒業しまして。まだ五十六という若さで王宮の宝物庫の管理を請け負っております」

「いいわね。五十六の若手。うん。とてもいいわ。だったら八十は中堅ってことね。まだまだこれからってことだもの」

「ノーム族としてはそうなのでしょうな。ヒト族の八十はさすがに……」

「うん」

「さすがに……。そう、中堅ですな!」

「でしょ!」

 の無言の圧に押されてベルガモットは毛ほども信じていないことを言った。

「ともあれ、彼女はそれまでは立派に宝物管理官の仕事をこなしておりました。しかしあれは……、十一月の初旬でしたか。その日も晴天が広がっており汗ばむほどの陽気でした。ちょっと暑すぎる感じではあったのですが、例年どおりに宝物庫の品を庭に持ち出して日陰で虫干しをしたのです」

「ははあ。年末の煤払いみたいなもんね。まあ、古い本とかたまに虫干ししないと紙魚しみが湧くって言うし」

「その日を境にカルムーチョは呪われてしまって」

 ベルガモットの顔に陰が指した。

「呪い、とは穏やかじゃないわね」

「はい。誰も居ないはずの宝物庫から女の泣き声がする、と言い出したのです」

「女の泣き声……」

「はい。そもそも、宝物庫は一年中施錠されておりまして、気軽に中に入ることが許されているのはカルムーチョだけなのです。もし誰かが入ったとしても、可能性があるのはその虫干しの日くらいしか可能性はなく。その日だけは大勢の手を借りなければ宝物の出し入れができませんからね。カルムーチョが女の泣き声について言い出したのはその日から数日後のことです」

「当然、調べてみたわよね?」

「勿論です。ですが、宝物庫の中をくまなく探しても誰もらず」

「幻聴?」

「と、思いました。が、その日から我々にも聞こえるようになったのです、女の泣き声が……夜中になると、王宮の廊下に響き渡ります。その声は確かにカルムーチョの言うように宝物庫の方から聞こえてくる」

 ぞくり、との背筋が冷たくなった。視野の端のほうでロッカもぶるると身を震わせている。

「しかし、何度探しても誰も居ない」

「その声は今でも?」

「はい。聞こえてきます。もう……二ヶ月近くになるのに。そして、お判りでしょうが、二ヶ月もの間、宝物庫に閉じ込められて生きている者など居るはずがないのです。あそこには水も食糧もないのですよ」

 なるほど、とは取り合えず頷いた。

「ベルガモットさん、もしかして、泣き女バンシーの可能性は?」

「その可能性はわたしたちも考えました。しかし、一般的にはあの妖精は家人が亡くなるときに現れる存在です。予言するわけではない。それに、今のところ誰も死んでいないのです」

 となると、残る可能性は……。

 ふと、目の端に映るロッカの姿には目を止める。そわそわしていた。死の予言を告げる首無しの騎乗者の話なんて聞いたからだろうか。あるいは家人の死を嘆く泣き女バンシーの話のせいだろうか。ここが地球だったら「単なるおとぎ話よ」と言って気にするなと励ますところだけど、生憎ここはユルノリアだった。不思議が不思議のまままかり通る世界だ。そういう怖いことが起こっても不思議は……、いや、待て。ロッカの様子は怖がっているわけじゃなくて……。

「ロッカ、何か言いたいことがあるんじゃない?」

「う、うん」

 ちよが先を促そうとすると、隣に座っているベルガモットが不審げな表情になる。まったくこれだから頭の硬いおじさんは困る。

「ああ、彼は伝令メッセンジャーなわけでも小間使いでもないんですよ。私の立派な助手です。彼の意見はとても役に立ちますから」

「ほう?」

 毎回このくだりをやるのメンドくさいわね、とちよは内心で溜息を吐いた。名探偵には助手が付きものだと知っていて欲しい。ホームズにはワトソンが付いているのが当然だろうに。まあ、ロッカはどちらかと言えばワトソンよりもベイカー街遊撃隊ベイカーストリートイレギュラーズのほうがしっくりくるか。もしくは明智探偵の助手の小林少年。は内心の溜息を表情には出さなかった。

「ロッカ?」

「あ、はい。ええと、なんでその声の主は部屋から出てこないんでしょう?」

 ロッカの問いにベルガモットは一瞬、きょとんとした顔になった。思いがけないことを訊ねられたという感じに。

「鍵が掛かっているからでは?」

「何度も宝物庫の中を探しているんですよね。つまり、数度に渡って扉を開けているはずです」

「それは……しかし、そのときにも見張り番はおりますし」

 でも、とロッカは反論する。

「その声の主って見えないんでしょう? だったら、別に目の前を通って堂々と部屋を出ていけばいいのでは?」

「あっ……。そう、ですね……」

「出られない理由があるんでしょうね。もしくは出ていきたくない理由が」

 が言った。

「出ていきたくない……。泣いているのにですか?」

「泣いているとは限らないでしょ」

 の発言はどうやら理解されなかったらしく、ベルガモットは顔に疑問符を貼り付けたまま不満げだ。

「もしかして、先生には何か判ったんですか」

 えっ、とベルガモットが声をあげる。まさか、という表情になったのだけれど、はゆっくりと頷いた。

「もしかしたら、と思うことはあるわ。だから、それを確かめてみないと。というわけでロッカ」

「は、はい。何でしょう」

「ベルガモットさんに付いていってお城に行ってちょうだい」

「僕が!?」

 だって、とは言う。

「私、冬はあまり出歩きたくないの。寒いとね、腰痛が悪化するのよ。ベルガモットさん、これから幾つかお願いするから、ロッカを連れて行って、言ったとおりにしてくださる?」

 狐に包まれたような表情のまま、目力めぢからに押されてベルガモットは思わず頷いてしまっていた。


つづく

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