渡しそびれていた贈り物(後編)

  ●


 カラブ車で数分も走れば、王都の中央に位置する王宮の門前まで辿り着く。

 塀で囲まれた宮殿に近づくにつれて敷地の広さと宮殿の大きさに、ロッカはぽかんと開いた口を閉じることができなくなった。夢見心地である。無理もなかった。小さな村で生まれ育ったロッカは高級地区である王都の中央を歩くことさえしたことがなかったし、こんなに間近で宮殿を仰ぎ見ることもなかった。

 聳え立つ門の前でカラブ車がいちど停まる。門番が騎獣車に近寄ってきて客車を検めた。ベルガモットを見て深々と頭を下げる。

 開門の命令を受けて門がゆっくりと開いていく。

 通り抜けるときにロッカは首無しの騎乗者ヘッドレス・ライダーの付けたという手型を探そうとしたけれど、もう拭い取られた後なのか見つけることはできなかった。

 カラブ車に乗ったままで門の内側へと入る。ここからがまた長い。広々とした庭に門から延々と石畳が敷かれていて、そこをガラガラと音を立ててカラブ車が通る。偉い人は歩くなんてしない、という噂話をロッカは信じることにした。

「ロッカ様、どうしますか。庭園も見ますか? それとも、庭師のほうにお会いになりますか?」

 有能な助手、という言葉を信じたのか、ベルガモットのロッカに対する扱いは丁寧になっていた。丁寧すぎるほどだ。

「あの……『様』はやめてください。僕は先生の助手をしているだけです。あの人はすごいですけれど、僕はふつうなので」

「しかし」

「ロッカ、と呼び捨てで構いませんから」

 不承不承という感じでベルガモットは頷いた。

「では、ロッカさん、で」

「……はい。で、さっきの質問ですけど、いちおう庭も見てみたいですし、庭師さんにも会ってみたいです。ぜんぶ先生は聞きたがると思うので」

 そういうわけで、ロッカはベルガモットに連れられて、庭園に赴き、庭師と話をさせてもらったのだった。だが、そこでは新しい情報は何もなかった。ベルガモットから聞かされたとおり、庭園の一角にある薔薇園では花を咲かせていない薔薇の一群があって、庭師が冬の訪れがないことを嘆いているだけだった。

「では、つづいてカルムーチョに会わせましょう。彼女の許可がないと宝物庫には入れませんから」

「お願いします」

「でも……本当に先生の言うとおりにすれば解決するのでしょうか」

「それは僕では判りません。でも、いままで先生がああいうふうに言って、解けなかった謎はないんです」

 ロッカの答えにベルガモットは「だといいんですけど」とだけ言った。

 短い石段を登り、両開きの大きな扉を抜けて宮殿へと入る。

 ロッカは踏み出した足を「うわっ」と叫んで思わず引っ込めた。それからおそるおそるもういちど足を踏み出す。ふわり、と毛足の長い絨毯がその足を受け止めた。

「すごい……ふかふかだ!」

 扉をくぐってすぐは大きな円形の広間になっており、一面が赤地の絨毯で覆われていた。絨毯には様々な色糸を費やしてきれいな紋様が下品にならない程度にあしらわれている。広間の中央には鮮やかに描かれた剣にからみつく竜の意匠。王国の象徴だ。その上をベルガモットは平気で踏んでいく。

「い、いいんですか、これ踏んで」

「絨毯ですよ? 踏んで歩かないでどうするのですか」

 だったら、そこに王国の象徴を描くのはどうなんだ──とロッカとしては思わないでもない。貴人の考えることは訳が判らない。たぶん、彼らなりの論理で、こういう場合は良し、という基準があるのだろう。庶民のロッカには今ひとつピンとこなかった。まあ、先生だったら、そもそも気にしないだろうけれど。「所詮、絵でしょ」のひとことでずんずん歩いていきそう。

 奥にある三日月形になっている階段を登ってさらに奥へ。左右に同じような扉がつづくばかりで、もしここでベルガモットとはぐれたら、どこに行ったらいいか迷ってしまいそう。

「ロッカさん、こちらです」

 はっとして顔をあげると、ずいぶん先のほうの一枚の扉の前でベルガモットが待っている。ロッカは慌てて後を追った。


 宝物管理官のカルムーチョはロッカと同じくらいの背丈の女性だった。

 耳がわずかに尖っており、エルフやドワーフたちと同じように妖精との混血だと言われる種族に特有の特徴をもっている。年齢は五十六と言っていたから、ロッカの三倍以上だ。つまり、ロッカから見れば人生の大先輩だ。

「だからぁ! あたし、ぜったい呪われちゃったんだってば! しくしくしく、しくはさんじゅうろく~」

 ……子どもか。

 ロッカはすこし貴人への敬意を失った。

「あの……ええと、呪われたっていうと、何か身体に不調でも?」

「ない」

「じゃあ、ええと、たとえば立てつづけに失敗ばかりする、とか」

「あたし、天才だよ? 失敗なんてしないよ?」

 ……子どもだ。

「でも天才のカルムーチョさんは何か問題を感じているんでしょう?」

 天才、とロッカに言われた瞬間に、たちどころにカルムーチョの顔が変化した。笑顔になったのだ。ちょろい。

「えへへ。キミは良い子だねー。あたしのことは、ムーチョって呼んでもいいよ。長いでしょ!」

 略すの、そっちなんだ。ロッカは密かに溜息を吐いた。

「判りました。でも、カルさんのほうが可愛いと思います、けど」

「じゃ、そっちで!」

 食い気味に言われた。

「で、カルさん、さっきの質問なんですけど」

「あー、うん。問題ね。うん、大問題だよ。なにしろ、あたしにはいつの間にか魔法が備わったらしいんだ」

「魔法……が?」

「うん。まあ、使えるのは宝物庫の中だけなんだけど」

 カルムーチョの言葉にロッカははっとなる。

「どんな……魔法なんですか」

「本が読めない!」

「は?」

「だから本が読めない魔法だってば、呪いの魔法だね!」

「はあ。ええと、詳しく」

「宝物庫って、たくさん本があるわけ。昔のね。価値のある本。その中にはけっして外には持ち出しちゃいけない本もあるんだよ。まあ、ちょっとだけだけど。大半の本は稀覯本ってだけ。でもねえ、これが面白いんだよ。なにしろね、今ではちょっと読めないような内容だったりするわけ。っていうのも……」

「ああ、内容については後日改めて。で、読めないというのは?」

「本を開くでしょ。読もうとするよね? そっすっと、ぱらぱら~って勝手に頁がめくれていっちゃうの。でもね。そこって宝物庫の中だしさ。どこにも窓なんてないんだよ? 頁がめくれるはずがないんだ」

「はあ」

「っていう恐ろしい呪いなんだ。あたし、もう本が読めなくて欲求不満になりそう。無頼王と腹心の部下の〈閃光の白刃〉ジンのラブロマンス。あとちょっとで読み終わるところだったのに」

 ロッカはベルガモットの顔を見た。ベルガモットは顔をさっと反らしてから、苦虫を噛み潰したような顔をして「こういう方なのです」と小さな声で言った。

 まあ、性格はこの際どうでもいいか。あと二百年は生きてそう、というベルガモットの言葉に嘘がないことも判った。うん。たぶん三百年だって生きるね。ロッカは確信した。

「で、その、女の泣き声の話ですけど」

 話を促すと、ベルガモットから聞いたことと同じ話をカルムーチョは繰り返した。

「その現象は宝物庫の宝物を虫干しした日から、ということで間違いないですね?」

「そだよー」

「宝物庫の中だけ、というのは?」

「それもそう」

 そう言い切ってから、聞こえるか聞こえないかの声で「あ、でも」と付け足した。

 それを聞き逃すロッカではない。だからこそロッカは名探偵めいたんていの助手を務めていられるのだ。

「他の場所でも聞いたことがあるんですか!」

「あー、うん。そう、だね。いま思い返してみれば、だけど。虫干ししてたときにも聞いた気がする」

「カルムーチョ宝物管理官殿! そのようなことは今までいちども」

 ベルガモットが気色けしきばんだ。つまり、怒ったようなむっとした表情になった。

「あー、だから、たんなる空耳だと思ったんだってば。でも、いま思えば同じような声だった気がするんだよねぇ。耳の後ろのほうから聞こえてきて、でも振り返っても誰もいなかったんだよ。あれはこわかったよー」

「カルムー……カルさん、虫干しって、で行うんですよね」

「そだよ」

「ベルガモットさん。どうやら、先生の言ったとおりみたいです」

「ほんとうかね!」

 ロッカはこくりと頷いた。

「だから、用意してもらう物があります」

 言いながらロッカはポケットを探る。から借りてきているそれを取り出してベルガモットとカルムーチョの前に差し出した。

「これは……炎熱石だね?」

「はい。先生が焜炉の火を点けるために使っているものです。この石と正反対の効果を与えるものってここにありますか?」

 ロッカの差し出した炎熱石をひょいっと摘み上げてカルムーチョがしげしげと眺めている。

「ほほう。庶民の家にはこんなものが出回っているのか。なるほど、としては単純極まりないが、わるくない魔法機構をしている。呪力効率はわるそうだけど、そのぶん廉価に作れるって感じか。あと、これなら比較的安全だ」

 それまでの子どもっぽい喋り方がなくなっていて、ロッカは貴人への尊敬をやや取り戻した。

「必要なのはこれと正反対のやつ、ですけど」

「あるとも。それどころか、もっと効果の大きいやつもある。氷冷石なんてちゃちなものじゃない。この部屋いっぱいを一気に極寒の地に変えるやつとかな。氷冷盤って言って、こいつは真冬の深夜並みに冷やせる」

 ロッカは頷いた。まさにそういうやつがいいのだ。

「それを使いたいです」

「使う?」

「はい。宝物庫の泣き女を追い出す為に必要なんです」


  ●


 ロッカの手はず通りに準備は進んだ。

 実際にはロッカに手順を教えたのはなのだから、の思惑通りに、というべきかもしれない。

 手配が終わった頃にはもう夕方になっていた。そろそろ日が落ちる。けれども、やはり今日も気温は高いままで、元気少年のロッカはまだ半袖姿のままだ。

 宝物庫は王宮の最奥の間にあった。一階のもっとも奥の部屋だ。ただし、玄関からは右に左に曲がってから行かねばならないから最長の距離がある。着いてからロッカはここから庭に宝物をいちいち運び出すのは大変だったろうなと思った。

 扉の左右には武装した兵士が立っている。

 ベルガモットが鍵を預かり、カルムーチョは円形の魔法装置である氷冷盤を手にしていた。大きさはおとなの顔ほどもある。ノームのカルムーチョの顔だったら、ふたつ分はありそうだ。なんでも国宝級の魔法具らしくて使用許可を得る為にカルムーチョはたくさんの書類に署名サインをしていた。途中で文句も言っていた。つかれたよー、と十回は繰り返したと思う。ふたりはそれぞれの持ち物を確認すると頷きあった。

 ロッカだけが手ぶらだった。

 まあ庶民の男の子に王宮の備品を持たせないだろうし、ロッカのほうも持ちたくない。

 壊して弁償しろと言われてもできないし。

「では、始めますよ」

 ロッカが宣言し、ベルガモットとカルムーチョが頷いた。

 扉の左右にいる兵士はいったい何が始まるのかとやや不信感のある顔つきで見守っている。

「鍵を開けます」

 ベルガモットが鍵穴に鍵を差し込んでがちゃりと捻った。それから扉に両手を当てて押し開ける。すこし床をこするような音をさせつつ扉が開いた。

「アレグレッサ、明かりを点けて」

 カルムーチョがを唱えると、天井そのものが光った。それからぼんやりとした明るさで落ち着く。部屋の中が見て取れるようになった。

 予想していたものの、ロッカは思わず息を呑んだ。

 がらくた、もとい宝物で一杯だ。用途のわからない魔法具が小さいのから大きいのは箪笥ほどのものまで詰められるだけ詰めてある。部屋そのものは広いのだけれど、あまりに宝物がいっぱいなので狭く見える。正面奥には本棚が幾つも並んでいて、どの棚にもぎっしりと古めかしい背表紙をした本が置いてあった。

 ロッカは遠慮なく部屋に入る。まずは実験だ。

「カルムーチョさん、この本の中で僕が読んでもだいじょうぶなやつってどれですか」

 ロッカの問いにカルムーチョがすこし考えてから言う。

「真ん中の本棚のキミがまっすぐ手を伸ばしたあたりにある、その赤い背表紙の本はどれも平気だと思うよ~。そのあたりのはキミでも読めるようなだから。まあ、百年は前のやつだから、リアリティにはちょっと欠けるけどねー」

「ありがとうございます」

 ロッカは本棚に歩みよると、本を棚から引っこ抜く。そして、これ見よがしに高々と差し上げると、表紙を捲ってみた。

 風が、どこからともなく吹いてきた。

 ぱらぱらぱら……。

 本の頁がひとりでに捲れる。ロッカはそれを確認すると、ぱたりと本を閉じた。

「居ます、ね、確かに」

「あたしの呪いといっしょだー! うわ、キミも呪われちゃった!?」

 その現象を初めて見たのだろう、ベルガモットが驚愕に目を瞠っていた。

「い、いまのは……!」

「あ、ガモちゃんも見えた!?」

「は、はい」

「ほらほらほら~。あたしの言ったとおりだろ~」

 たしかに言ったとおりだ。

 ベルガモットをガモちゃんと略すのは納得がいかないが、ロッカとしてはそこはどうでもいい。現象に再現性があったことが大事なのだ。

 次の瞬間に、声が聞こえてきた。

 ひゅううううおおおおおお、と風が唸るようにも聞こえたけれど、聞きようによっては確かに女の泣き声のようにも聞こえる。

「カルムーチョさん!」

「ほらほらほらー、あたしはやっぱ正しい! 天才! ……ん? あ、おっけー」

 カルムーチョは弾むような足取りで氷冷盤をもったまま部屋に入る。中央までやってくると呪文を唱えた。

「祈りありて、事を為さん。我は訴えり、凍える氷の大いなる恵みあれ!」

 呪文を唱え終わると、氷冷盤の中央に青い光が点る。その光は盤面に刻まれた魔法の紋様をなぞるようにして走る。光の線が複雑な星型の軌跡を描き、一周してから中央の青い光の元へと戻った。ぱん、という乾いた音があがる。音に引っ張られるようにして中央の青い光からまっすぐに光の柱が立ち昇った。その光は天井近くまで届くと、踊るようにして柱を回転させ、部屋の中を青く染め上げた。

 そのわずかな時間で、あっという間に部屋の気温が下がった。

 全身に一気に鳥肌が立つ。先ほどまでの生温なまぬるい空気は瞬間で凍りつき、顎が震えるような寒気がロッカの全身を満たした。窓はないから霜は降りない。けれども、吐く息は白くなり、身体の表面にある水分が氷結したことが感じ取れた。睫毛が凍って目を閉じられない。

 風が吹いた。部屋の中で発生した風だ。ロッカとカルムーチョの髪を激しく躍らせて風が吹き抜ける。ごう、という音ともに扉のあたりに立っていたベルガモットを直撃し、大きな体を揺らめかせる。油で撫でつけていたはずの髪がざんばらになる。扉の両脇に居た兵士を押しのけて風が部屋を出る。ティーヨ先生の言ったとおりだった。姿の見えないこの風みたいなやつは冷たいのが苦手なのだ! だから居心地のよかった部屋を出ていくことにした──いまだ!

「カルさん、追いますよ!」

「お? おう!」

 部屋を飛び出ると、ロッカは兵士たちに「扉を閉めて!」と叫びながら、風の後を追う。よほど慌てていたのだろう、風は廊下にあるものをことごとくなぎ倒している。花を生けた花瓶を倒し、立っている彫像を倒し、歩いている女家令メイドをよろめかせて進むものだから、どっちに向かっているか丸わかりだ。

「あ、あれはいったいなに!?」

 カルムーチョが驚きを滲ませながら隣を走るロッカに問いかけてくる。

「あとで話します。それより、あいつを外に出せるかどうかです。この家は迷いやすいから! 右に曲がった!」

「あー、あっちは行き止まりだねー」

 曲がってみると、たしかに二十歩ほど先で壁に突き当たっている。どうやら風はそのあたりにいるようで倒れた花瓶から落ちた花びらが渦を巻いて舞っている。

「どうして、こっちにこないんだろ。あたしたちには見えないんだから捕まえられないのに」

 カルムーチョが不思議そうに言った。

 ロッカはすこし考えてからカルムーチョを見て納得する。まだ氷冷盤を持ったままだ。

「その魔法装置のおかげでこっちのほうが冷えてるからだと思います。なにか、暖かいものって用意できないですか」

「あったかいもんって言われてもね~。寒くするもんを用意しろとしか言われなかったしなー。んと、ああ、これどうかな」

 言いながら、カルムーチョは廊下の左右に互い違いに付いている燭台に手を伸ばした。蝋燭には夕方だからまだ明かりが点っていない。

「炎熱石もってたでしょ? あれで火を点ければ、したら、ちょいとはあったかくなるよ~」

「いい考えです。さすが天才!」

「でしょーでしょー、えへへ、褒めて~」

「カルムーチョさん、すごい! 賢い! 天才!」

「えへへへ。っと、じゃ、この盤はもういらないねー。こうだ!」

 カルムーチョは氷冷盤を廊下を滑らせるようにして廊下の突き当たりに向かって投げた。滑っていってごんと音を立てて奥で止まる。雑だ。いいのだろうか。国宝とか言ってなかったっけ?

 ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ! と悲鳴のような風の唸りが聞こえてくる。

 その間に、ロッカの貸した炎熱石を使ってカルムーチョは燭台の蝋燭に火を点けた。

「反対側のほうに行けば張り出しバルコニーだよ~」

「わかりました」

 カルムーチョから渡された燭台を掲げてロッカは叫ぶ。

「こっちのほうがあったかいぞ! 来い!」

 そして廊下の反対側へと走る。

 ふたたび風が動き出した。ちらりと振り返れば追いかけてくるのが見える。左右の飾り物をつぎつぎと薙ぎ倒しているから丸わかりだ。

 目の前に張り出しバルコニーが見えた。その向こうの青い空は暮れなずみ始めて夕方の色に変わってきている。

 張り出しバルコニーの端に立って燭台を掲げる。

 ごう、と前髪を揺らして風が吹いて、蝋燭の炎が消えた。ロッカの手から燭台が吹き飛び、身体が風に押されて手すりを越えた。宙へと躍る。視界いっぱいが青い空に染まった。くるりとひっくり返った視線の先に叩きつけられたら痛そうな石畳の庭が見えて──心臓がきゅっと凍りついた。やばっ! 

 ぐん、と身体が何かに引っ張られる。足首を掴まれてぐいっと張り出しバルコニーのほうへと引き寄せられた。

「重い重い重い~。なんで、ヒト族ってこんなに重いの~!」

 カルムーチョが必死でロッカの足首を掴んで重しになってくれていた。

 だが小さな身体では吹きつけてくる風に耐えられない。もう落ちる。思ったその瞬間、風が止まった。

 吹き飛ばされそうだった身体が勢いを失って落ちる。慌てて手すりを掴んだ。身体が半分以上も張り出しバルコニーの外に落ちかかっていた。

「重いよ~。早くのぼって~」

 カルムーチョが小さな身体で支えてくれているうちにロッカは必至で掴んだ手すりをよじのぼる。「もう、平気です!」叫んだ瞬間にカルの手が離れて、ロッカの身体は張り出しバルコニーの内側へと落ちた。助かったけれど、したたかにお尻を打って目の端に涙が滲む。改めて張り出しバルコニーの下を覗くと、二階とはいえけっこう高い。叩きつけられていたらと思うとぞっとする。安堵の息を吐いた。

「カルさん、ありがとうございます!」

「これっくらい、なんてことないよ~」

 ロッカは空を見上げる。

 追いかけてきた暖かい風は、ロッカの身体から離れて頭上を通り過ぎ、群青色へと変わりつつあった夕空へと還っていくところだ。枯れ葉が舞い上げられて空に躍っている。渡り鳥の群れが突風にあおられて編隊を崩されていた。あそこを風がいま通ってるんだな、と判る。

 そして、入れ替わるように冷たい風──木枯らしが吹きつけてきた。みるみるうちに空に雲が出てくる。夕焼けに照らされる間もなく全天を覆いつくしてぶ厚い灰色の雲が立ち込めて一時間もしないうちに空からの手紙が降り始めた。

 渡しそびれていた季節からの贈り物。雪だ。

 瞬く間に世界を白く覆ってゆく。

 冬がやってきたのだ。


  ●


「で、結局あれはなんだったんですか、先生」

 暖炉の前に置かれた寝椅子ソファに腰かけてミルクティーをすすりながらロッカが訊ねた。

 降り出した雪の影響での住む共同住宅アパートメントまでは送ってもらったものの、そこから先はカラブ車も営業時間外だと断られた。実際には雪のせいだ。しょうがないのでロッカは今夜はのところに泊まることになった。

「たぶん、だけど、ノトスみたいなもんだと思うのよ」

「のとす?」

 やっぱり通じないかとは説明を付け足すことにした。

「そもそもを言えば、昨年の冬のことを思い出したのよね。ほら、ロッカくんの住んでた村って、冬になると冬姫様がやってくるでしょう。雪を降らせる為に」

「あ、はい」

 ロッカの住む村、つまりが異世界転移してきた村は毎年のように雪が降る。その雪をもたらす妖精が「冬姫様」なのだ。冬姫様がやってくると雪が降る。地球だったらありえないことだけれど、ユルノリアではありえないことが起こる。それを見てはこの世界の大体の理屈を理解したのだった。この世界では、森羅万象を司る妖精たちや精霊たちが実際に目に見えて存在しているのだと。

 ノトス、というのはの居た地球では南風の女神として知られている。晩夏と秋を運んでくる風の女神である。秋を運んでくる女神が居座っていたら秋が終わらないのではないか、と考えたわけである。

「なる、ほど?」

「ここでの呼び名を知らないけど、そうね、仮に秋姫様と名前を付けましょうか。ほら、虫干しはって言ってたでしょう?」

 ロッカは言われてすぐに飲み込めたようだ。

「そうか。宝物の虫干しの場にたまたま秋姫様がやってきたんですね。それで、宝物管理管の後を追いかけた。だから、カルさんの耳の後ろから声みたいなものが聞こえたんだ!」

「そういうことだと思うの。そして、カルさん? に付いていって宝物庫に入ってしまった。鍵を掛けられてしまったから出られなくなった。そんなところかなって」

「だから秋が終わらなかった……。そういうことなんですね。いつまでも暖かかったし、冬咲きの薔薇も枯れてしまった」

 あれ? と納得しかけたロッカが首を捻る。

「でも、それだと宝物庫に留まりつづけた理由が判らない。それに泣いていた理由も」

「そんなのカルムーチョさんが話してくれたでしょ」

「へ?」

 読書を邪魔されている、とカルムーチョは解釈した。そこが間違っている。

「風の妖精の声なんて誰も聞いたことがないのだから無理もないと思うけれど、女性の悲鳴が聞こえたからって泣いているとは限らないでしょ。ほら、私だって『きゃあ♡』って、どう?」

「どどど、どうって言われても。……え、まさか、悲鳴じゃなくて」

「黄色い声って言われるやつね。秋姫様はたぶんカルムーチョさんといっしょに読書をしていたんだと思うの」

 沈黙が降りた。

 ロッカの顔は微妙だ。なるほどという納得と、あんまりな真相に呆れたという表情が同居している。

 はしみじみと語る。

「きっと王宮の宝物庫って魔法の結界みたいなものも張ってあると思うのよね。だから冬の妖精も見つけられなくて追い出せなかったんじゃないかしら? それを良いことに秋姫様はずうっと読書にいそしんでいた、というわけ」

 ロッカに追い出されて、外に姿を見せた秋姫様は、すぐに冬の妖精たちに見つかって追い払われてしまった──そんなところだろう。はそうまとめた。

「なるほどです」

 ロッカが得心した顔でを見つめる。ロッカの中でに対する尊敬の心がまた一段と強くなったようだ。遠いところからやってきた老婦人探偵は今まで出会ったどのおとなよりも賢いにちがいない、と。

「あ、じゃあ、もうひとつだけ教えてください」

「なあに?」

首無し騎乗者デュラハンの死の予言って、あれは何だったんですか」

 誰も死んでないし、とロッカが訝しむ。

「いいえ。もうすこしで死ぬところだったのよ。ロッカくんの活躍がなければね」

「えっ。僕は何もしてませんよ」

 そんなことはないとは首を横に振る。

「予言だから当たるとは限らないのだけれど、間違いなく死んでいたと思うわよ」

「だからそれは誰なんですか」

「誰、じゃないの」


 死の予言を免れたのは「冬」なのだ。


「冬、ですか」

「あのままずっと秋だったら、冬の出番はなくなってたでしょ? それってつまり冬っていう季節にとっては死ぬのと同じことじゃない?」

 粉雪が降る中、はロッカの疑問に答え合わせをしながら口ずさむ。

 それは今は遠い世界に冬になれば流れてくる流行り歌だった。ミルクティ―に口をつけながらは遠い世界に想いを馳せ、それから窓の外の雪を見る。

 でも、こちらの世界にだって雪は降る。

 寒い夜に暖炉を囲む親しい友人は居る。

 だったら、ここの生活もそんなにわるいもんじゃないわ。

「私の居たところではね。今日は子どもには贈り物をする日なのよ」

「そうなんですか」

「ええ。ほら」

 言いながら、机の引き出しから取り出した長い編み物をロッカの首に巻いてやる。

 冬になったら渡そうと思っていて、何時まで経っても寒くならないから渡しそびれていた襟巻マフラーだった。

「これ……いいの?」

「もちろん。良い子にしてましたからね。伝説だとね、サンタっていう贈り物の妖精がいるのよ。その妖精が良い子には贈り物をしてくれるの。私はさしずめその妖精の代理人ってこと」

 ロッカは襟巻に顎まで深く埋めながら笑顔になった。

「ありがとうございます、先生! 僕、弟子入りして良かったです」

「うん。じゃあ、暖かいミルクティーをもう一杯淹れましょうね」

 微笑みながら立ち上がり、は焜炉の火を点ける。

 しゅんしゅんと湯気が立ち昇るやかんを見つめながら心のなかでつぶやいた。


 Merry Christmas!


 おしまい!


★★★★★


お読みいただきまして、ありがとうございます。

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PS

公開がクリスマスを過ぎてしまったのは痛恨です。のお話自体、一年ぶりだし。待っていてくれた方がおりましたら、申し訳ない。


では、良いお年を!

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