2 蜂蜜酒

 部屋の中はの言葉に静まり返った。


 誰も口を開かず、巨人と小人の激しい口争いに割り込んだ老女を凍りついたように見つめている。

 その間に、は改めて周りをぐるりと見回してみた。

 間違いない。酒場だ。

 木の丸テーブルが8つくらいある。から見て左手の奥にカウンターがあって、よりはだいぶ若い……五十代ほどの男性がエプロンをして酒樽から注いだ飲み物を木製のマグカップに注いでいた。エールと呼ばれる欧州風異世界定番のビールで、泡がほとんど立たない。しかも常温で提供されることが多い──という蘊蓄はにはない。

 ないけれど、あまりにも周りの人たちが美味しそうに呑んでいるし、顔を赤くしているものだから、おそらく酒なのだろうな、とまでは推測がついた。だからここは酒場なのだ。間違いない。


 はそれから店にいる客たちと店そのものを観察した。

 カウンターにも、テーブルにも客は居て、店はごった返している。

 テーブルの中央には食べ物が置かれているのだけれど、木の実や乾燥した肉ばかりで、が見慣れた居酒屋らしい食べ物は見当たらなかった。湯気を立てているあの肉は青いのだけれど、美味しいのだろうか?


 もっと重要なことがある。

 客の外見だ。

 髪の色が黒ではない。金色もいれば銀色もいる。ではここは外国なのか、と問われればたぶんちがう。なぜなら、どう見ても髪の色の者たちも居たからだ。緑色とか紫色とかだ。染めたようには見えなかった。それに、耳の先がナイフみたいに尖っている人とかもいるし。

「えるふだわ」

 は博識だった。こう見えても、昭和から平成を乗り越えて令和まで生き残った古強者である。『ロードス島戦記』や『フォーチュン・クエスト』の発売された年に彼女は四十代の半ばだった。人生の折り返し点で発売された名作ファンタンジーはポワロやホームズで鍛えたの心を揺さぶったのだ。数は多くないが嗜んではきている。額に傷のある魔法使いの子とか。

 だから、エルフやドワーフくらいなら知識として知っていた。つまり、コロボックルとか泥田坊みたいなものでしょう?


「おい、ばばあ! 聞いてんのかよ!」

 はっとなっては声の主に顔を向ける。

 そうだったそうだった。

 はいがみあっている大きな人と小さな人を相手にしていたのだった。

「あら。ごめんなさい。でもねえ、あなたたちちょっと声が大きいわよ」

「ああん!?」

「だから、大声はやめてちょうだい。わたしはね。まだ耳は良いの」


 そう言ってからは両手をふたりの前に出して、押しとどめるような姿勢を取りながら言った。

「それより、あなたたちがどうして喧嘩をしているのか教えてちょうだい」

 言った。


「なんだと?」

「どうしてこいつと喧嘩してるかだって?」

「ええ。教えてくれれば──」

「てめえがなんとかしてくれるってのかあ?」

 はこくりと頷いた。


 酒場中が彼らを遠巻きにして見守っていた。誰も巨人と小人の迫力に押されて声を掛けようとはしない。

 いや、ひとりだけ例外がいた。赤毛の給仕娘がやってきて、「あ。あの、おばあちゃん……だいじょうぶ?」と心配そうな顔をして話しかけてきたのだ。はにっこりと笑みを返してから「だいじょうぶですよ、ありがとう」と礼を言った。

 それから手近な椅子を引き寄せて座った。

「どっこいしょっと。失礼させてもらうわね。この歳になると、いつまでも立っているのは大変なのよ」

「お、おう」

 巨人が鼻白む。

「さあ、じゃあ、聞かせて。なにがあなたたちに起こったの?」

 言いながら、は椅子に深く腰をかけてからふたりを穏やかな顔で見上げた。

 巨人がほう、と言いながら顎を撫でた。

「いいぜ。話してやろう。この泥棒が何をしたかな」

「してねぇって言ってんだろ!」

 赤ら顔の小人が言い返した。

 まあまあとは両手をひらひらさせて宥める。


 いがみあっていた巨人と小人はまるでの笑顔に気圧けおされたかのように束の間だけ黙る。

 まず巨人のほうが口を開いた。


「こいつが俺の大事なものを盗んだんだ」

「盗んでねえ!」

「はいはい。話は順番にひとりずつね。まずはこちらの大きな人のお話から聞いちゃいましょう。あなたはちょっとだけ静かにしてちょうだい」

「う……」

 小さなほうの人──髭もじゃで赤ら顔の小人は黙った。それは喧嘩っぱやいことで知られる彼にしてはとても珍しいことで、周りで見守っていた客たちが「おお」と思わず声をあげるほどだった。椅子に腰を降ろしてゆったりとくつろいだ姿勢になったからは何故か逆らえない圧力のようなものをみな感じていた。

 は言う。

「ええと、大きな人。あなたの名前は?」

「俺か。俺はゴロウだ。〈つるぎ山のゴロウ〉といえば、このあたりじゃ知らねえものはねえんだぜ」

「そうなの? へえ、すごいのねえ。五郎さんね、わかったわ」

 なにもわかっていないだった。

「で、何を盗まれたの?」


「こいつが盗んだのはこれだ!」

 ゴロウがぐいと差し出したのは瓢箪だった。には、そう見えた。

 ふたつのボールをくっつけた形をした瓜の実である。実を抜いてしまって中に液体や粉を入れることができる。小さなものならば七味唐辛子を入れたりもする。は浅草の酉の市で小さな瓢箪に入った七味唐辛子を買ったことがあった。もう五十年ほど前になるか。あの頃は日本も高度成長期で出店も活気で溢れていた──あのとき買った小ぶりの瓢箪はどこに仕舞ってしまったっけ。あったとしても中の七味唐辛子はもう香りが抜けてしまっただろう。

 いや、七味唐辛子はどうでもいいのだった。

 瓢箪は、大きければ液体……例えば酒とかを入れたりもする。巨人のゴロウが手にしているのは三十センチを超える大きな瓢箪だった。


「このヤロウは俺が大切にしていた、とっておきを呑んじまいやがったんだ」

 言いながら〈つるぎ山のゴロウ〉は瓢箪を口を開けたままひっくり返した。


 ぽた、と一滴の雫が落ちる。


 とゴロウの間を光の玉が落ちてゆく。雫は天井に掲げた洋灯ランプの明かりにきらりと光った。落ちる雫からかすかな香気が放たれての鼻をくすぐった。

(あら……とっても甘い、いい香り……)

 わずか一滴でもわかる。の鼻はまだ現役だった。が衰えているのは視力だけなのである。


 ゴロウがふんと鼻を鳴らした。

「呆れた野郎だ。すっからかんに呑み干しちまいやがった」

「おれじゃねえ!」

「そうかい。だがな、こいつの在り処を知ってたのはおめえしかいねえんだよ、ダムダム!」

「だむだむ?」

「おれの名前だ」

 赤ら顔の小人が言った。


「俺の家の戸棚の奥にこいつは隠してあった。こいつは蜂蜜酒ミードでな。八年物だったんだ。特別な日に呑もうと思って楽しみにしていたってのに!」

「あらまあ。いま、あなたみーどっておっしゃったのかしら?」

「言ったが?」

「水と蜂蜜を混ぜて、自然発酵させたお酒のことであってる?」

「ああ」


 なるほど、とは思った。

 先ほどから気になっていたことだが、この世界は明らかに地球ではない。『案内人』は確かに世界の壁を越えると言っていたが、ほんとに異世界なのかと疑ってはいた。だって、言葉が通じるのだもの。

 けれど、ひとつはっきりした。どうやら、地球にあるものと同じものがある場合は言葉はそのまま当てられるようだ。

 では、当てはまるものがない場合は……。


「ちょっと質問なのだけれど、そのテーブルに載っている青いお肉は何かしら?」

 もちろん地球に青い肉はない。マグロを加熱したときに青くなる場合があるくらいだが、あれは不良品扱いである。


 の質問の意図がわからず、それでもゴロウは辛抱強く答える。

「カラブの肉だ」

「からぶって何? 豚? 牛? それとも馬かしら」

「カラブはカラブだ。見たことねえのか? こいつはめちゃくちゃ旨いんだ。俺は大好物でな!」

「あー、はいはい。いいわ。わかった」


 つまり、当てはまるものがない場合はそのままの現地語で聞こえるらしい。


「じゃあ、その瓢箪の中には蜂蜜酒ミードが入ってたってことね。そしてわたしの知っている限りでは、蜂蜜酒は封を切らない限りは常温保存できる。ということはふつうに戸棚に仕舞っていたということでいい?」

「ああ」

 ゴロウが頷いた。

「戸棚のどこ?」

「奥だ。手前に置いておくと、うっかり呑んじまうからな」


「で、その場所をあなたは彼に話したのね?」

「そうだ。ちょいと前に俺の家に来たときに。ついうっかり話しちまった。こいつが無類の酒好きだってことは知ってたのにな」

「だからといって他人様の酒を呑んだりせん!」

「じゃあ、なんで、俺の家から出てきたんだよ!」

「それは……」

 ダムダムが言い淀んだ。明らかに言いたくない何かがある。だが、はとりあえずそれは放っておいた。

「そのお酒が空っぽだったのに気づいたのはいつ? どうして気づいたの?」

 は矢継ぎ早に質問を放った。

 だが、実のところ、そのときにはもうは酒を呑んだのが誰だったのかに薄々気づいていたのである。


 ゴロウはとっておきの酒が空だったと気づいたときの話を始めた。

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