4.幽霊の願いごと

 部屋の扉は苦もなく開いた。

 エマたちは足を踏み入れる。


 角灯ランタンの明かりに照らされた部屋はエマの記憶にあるとおりの母の部屋だった。正面には大きなガラス窓。

 光が斜めに差し込んでいて、思ったよりも明るい。

 窓の外にはエマたちが歩いてきた黒々とした森が見えている。森の上、窓の左側に半分ほど昇った月が見える。

 ……月? エマは不思議に思う。夜道を歩いていたときにはずっと角灯ランタンを提げて歩いてきたのだ。

「月が……昇ってたんですね」

「冬の月は低いからな。森の中を歩いてきたから気づかなかっただけだ」

 ぼそりとした声が応える。

 エマは振り返った。廊下にはハインツと父のジャルバンがいる。低い声の主はさらにその後ろに控えていた。ダムダムという名のドワーフの戦士だ。幽霊と会うためにやってきたエマたちの護衛だった。

「部屋に入っても?」

「ちょっと待って」

 エマを押しとどめたのはダムダムの隣に居る小柄な少年だった。

 背丈はおとなの半分以下。ドワーフよりも小さいのは子どもだからというだけではなく、そういう種族だからだ。少年は大地の妖精ノーム族だった。

 この少年は大工ギルドカーベンターズ・ギルド『土とのみ』から、燃え残った別荘に入ってもだいじょうぶかを確認してもらう為についてきてもらっていた。

 ノームの少年はエマの脇をすり抜けるようにして部屋に入ると、床の上をとたとたと歩き回ってあちこちの床を叩いて音を聞いたり、絨毯を剥がしてみたりしている。

「うん。床が崩れる心配はないね。入ってきていいよ! この部屋は思ったよりも燃えてないみたい。どこを歩いてもだいじょうぶだよ」

「はい。お母様の体には火傷ひとつ付いていませんでしたから。でも、見つかったときにはもう……」

 煙にやられたのだろうと焼け跡を調べた役人たちが言った。

「では、ここで待つとしよう」

 ダムダムが言って、壁際まで下がるとそこにどかっと腰を下ろした。

 エマはふらふらと窓際へと歩いていく。ガラス窓に手を触れようとして、ぐいと服の裾を引っ張られた。ノームの少年の小さな手がスカートの端を摘まんでいる。

「おねえちゃん、ダメだよ。外側はもしかしたらもろくなってるかもだから。あまり触らないで」

「は、はい……。あの、すみません」

 おとなしく謝ると、振り返る。

 父と、それから愛する恋人が困ったような泣きそうな顔をして自分を見つめていた。

「エマ、その……」

「だいじょうぶです。待ちましょう。真夜中まで」

 暖炉には火が入っておらず、もちろんくべる薪もない。

「これを掛けておけ」

 ダムダムが背負い袋から毛皮の毛布のようなものを出してきた。

「くるまっておけば寒さを多少はしのげる」

「ありがとうございます」

 ゆっくりと満月は南へと昇りつめようとしていた。

 部屋に差し込む月の光がすこしずつ回っていく。


『蒼穹の羅針盤亭』の一階食堂には客はほとんど残っていなかった。

 柱時計がもうすぐ夜の十二時を指す。

 幾ら酒を呑ませる店だとはいえ、冒険者たちが昼夜のない生活をしているとはいえ、真夜中のこの時間には大半は寝床に行っている。その中では珍しく暖炉の前でテーブルに頬杖をついて座っていた。

「まだ、寝ないんですか?」

 赤毛の給仕娘メルが暖炉の前のにミルクティーの入ったカップを差し出しながら言う。

「あの……ほんとにあの人たちだけで行かせてよかったんですか、ティーヨさん」

「いいのよ。あのね、親子喧嘩なんて他人が口を挟むもんじゃないわ」

「それは、そうかもですけど……」

 受け取ったミルクティーをこくりと飲んでからは言う。

「ちゃんと護衛も付けたし。まあ、本当に困った幽霊が出たら困るけど」

「困りますね」

「冒険者なんだから、なんとかしてくれるでしょ。はあ。温かい。メルの淹れてくれるミルクティーは絶品ね」

 の言葉にメルは嬉しそうに微笑む。

「でも、……本当なんですか? 幽霊が伝えたいことがあるはずだっていうの」

 メルの問いには答えず、はぽつりとつぶやいた。

「夏の月が高く昇るなんてね……」

「えっ?」

「ああ。ええとね。わたし驚いたのよ。ほら、冬ってお日様がとっても低くまでしか昇らないでしょう?」

「ええ、まあ。冬ですから」

「夏は逆に頭の上のほうにまで昇るでしょ」

 はこの世界に来たばかりだから夏のことは判らないが、それでも推測はできる。

「夏は、そうですね。太陽はとっても高いです」

 では、とは確信する。地球と同じなのだわ、と。


 意外と誤解されているのだが、夏が暑く冬が寒いのは太陽光線の角度が異なるからである。太陽との距離は関係ないのだ(太陽との距離の差が原因なら、北半球が夏のとき同時に南半球が冬になることの説明がつかない)。

 陽差しが垂直に近く降り注いでくるほど、地面の面積あたりの太陽光線のエネルギーが大きくなるので地面がたくさん温まる。つまり、夏至の頃がもっとも北半球は温まる。空気は地面よりも遅れて温まるから、夏至から二ヶ月ほどで気温は最も高くなる。これが北半球の夏である。

 北半球の冬が二月になるのはこの反対だと思っていい。

 イヴェールでも太陽の高度が高いほど暑くなり、低いほど寒いのだとすれば、もしかしたらこの世界も、物理法則の基本は同じであり、地球のように球体で、地軸を傾かせたまま、太陽の周りを回っているのかもしれない。

 魔法が存在するのだから、全く同じではないのだろうが。


 そして、この先が重要なのだけれど……。と、は、頭をくるくると回転させ、想像の翼を羽ばたかせた。そう、問題は太陽ではなくて……。


「で、ね。わたしの居たでは太陽が高くまで昇るときには月は低いの」

 夏の満月は低く、冬の満月は高くまで昇る。

「だから、月が高くまで昇るのは冬だったの……」

「へえ。ティーヨさんのお国ってそうなんですね」

 は苦笑を浮かべた。

 国じゃなくて世界と言ったのだけど、たぶんメルには伝わっても理解できないのだろう。太陽と月の軌道は大陸の端と端では変わらないものなのだ。この世界では惑星と衛星の軌道も地軸の傾きもたぶん地球とは違うのだろう。ただ、には細かい部分はどうでもよかった。重要なのは……。

 火事のあった夏の夜は満月で、とても空高くに月が見えていた、ということのほうだった。ドラゴンの過ぎる月を見上げたと言ってた。そのわずかな証言からは、夏の月の位置が地球とはちがうと気づいた。

 それがそのまま冬の月がどこに見えるかを意味するわけではない。はそこまで天文学に精通していない。だから聞いてみた。

 そうしたら案の定……。

 冬の満月は低いという答えが返ってきた。

 だとしたら、冬の真夜中、しかも、満月に近くなった今の時期に幽霊が出てき始めたのはおそらく意味がある……。


 じりじりと時が過ぎていく。

 ゆっくりと月が南へと回っていく。

 エマは、床の上を這い進む月の光を目で追いながら母の幽霊が出るのを待っていた。

「ほんとうに、出るというのはクリスティーヌの幽霊なのか?」

 ジャルバンの問いに答えるものはいない。誰も真相などわからないからだ。

 いや……。

「ティーヨがそう言っていたのだとしたら、そうなのだろうな」

 ドワーフの戦士が言った。

 ジャルバンが懐を漁って海中時計を取り出した。

「だが、もう十二時になる。なにも起きんではないか……」

「お父様っ。ほら、見てください。窓の影がっ」

 エマが指さしたのは部屋に落ちていた月の光だ。南向きの窓からは月光が差し込んでいる。部屋の闇を四角く切り取って床に落ちる月の光が次第に部屋の奥へと近づいていた。

 夏の月は空高くにあり、月の光は部屋の中央あたりに落ちていた。けれども、今のこのとき冬至を越えたばかりの月の光は、遥かに遠く、部屋の奥にまで差し込んでいる。

 ひたひたと月の光は、壁際に置かれた衣装箪笥にまで辿りつく。

 ダムダムがゆらりと立ち上がった。

「来たようだぞ」

 斧を手にしていたが構えてはいない。

 空気の揺らぐ気配があった。

 部屋の中央にぽっと青白い炎が現れる。

 それが床に這うように広がって伏せて倒れている女の姿になった。

「ク、クリスティーヌ……!」

 まるで今にも逃げ遅れて倒れたかのよう。

「可哀そうに……逃げようとして、そして煙に巻かれて……」

 父の言葉をエマが首を横に振って否定する。

「ちがうわ……」


「ちがうのよ」

 こくりとミルクティーを飲みながらは言った。

「逃げようとしたんじゃないの。それならたぶん窓から飛び降りたほうが助かる可能性は高かった。エマさんが見たのは見間違いじゃなかった。いちどは窓にまで駆け寄ったのだから」

「じゃあ、なんでそうしなかったんですか」

「思い出しちゃったのね」

「思い出した?」

「クリスティーヌさんは気づいてたのだと思うわ。娘に恋人ができたことに。だから……取りに戻った。そのわずかな時間が手遅れになった」


 倒れていた女の影はゆっくりと立ち上がった。

 鬼火が青白く幽霊の周りを飛び交っている。この光を、この影を、屋敷の外を通りかかった者が見たのだろう。

 幽霊は、その場に佇んだまま哀しげに部屋の奥、月の落とした光を見る。夏には決して辿りつかなかった。今ならばクリスティーヌの願いどおりに届いている。

 凍りついたように動きを止めていた一行の中でエマだけが動いた。

 衣装箪笥の前まで歩いてから、母の視線の先を追う。

「ここ……?」

 いちばん下の引き出しを手前に引く。すぐにわかった。小さな頃に見せてもらったことがあるからだ。箪笥の奥に仕舞われていたきれいな赤い小箱を取り出した。

「それは……」

 ジャルバンがはっとしたような声をあげる。

 エマは小箱を取り出して母の幽霊の前で開けた。中に入っていたものを手に取る。

 銀細工の櫛だった。

「お母様、これを……?」

 青白い光を放つ幽霊が小さく頷いた。


「それは俺がプロポーズをしたときに贈った櫛だ」


 うめくようにジャルバンが言った。


「プロポーズって?」

 呑気な声をあげたのはノームの少年で、ドワーフが首を振りながら言った。

「人間族の結婚の風習だ。そのときに櫛を贈る習慣があるらしいな。聞いたことがある。ドワーフの細工師にわざわざ注文に来ることもあるそうだ」


「そうだ。俺が贈って、あいつはどこに行く時もそれをもっていった」


 顔をあげたエマがハインツを見る。

「わたし、昔これを見せてもらったときに、欲しいってねだったことがあるんです」

「エマ……」

「とってもきれいで、キラキラしてて。でも、お母様がお父様からプロポーズされたときにもらった大切な品だからって一度は断られて」

 エマの頬を涙が零れ落ちる。

「それでもねだったら、お母様、言ったの。じゃあ、もしあなたが結婚することになったら、譲ってあげるわって」


 エマの言葉をハインツもジャルバンも黙って聞いていた。

「お母様はこれを取りに戻って……」

「エマ……」

 ハインツはエマの脇に立つと、幽霊のほうへと向き直った。

「俺は……この村の料理人でしかないけど、でもエマを愛しています。どうか、結婚を許してください!」

 きっぱりと言い放ち、エマは涙を流しながらハインツの腕にしがみついた。嗚咽が漏れる。


 叫びだしそうなほどジャルバンは大きく口を開け、手をふたりに向かって伸ばし。

 だが、その腕からは力が抜けたようになって、ゆっくりと降りていく。

 妻の姿を見つめて「おまえは……それが望みだというのか」と掠れた声をあげた。


 青白い光を放つ幽霊は、ゆっくりと首を巡らせると夫の姿を見た。

 視線が合う。ジャルバンには妻がかすかに微笑んだように思えた。

 それから幽霊は若いふたりのほうへと向き直ると、腰を折り、ふたりに向かって頭を下げたのだ。

 顔をあげ、口許だけが動いた。


 しあわせにね……。


 月がしずかに傾いて、願いを果たした幽霊はゆっくりと消えていった。


 エマが父のほうを見やる。

 ジャルバンは首を振りながら、「好きにしろ……」とだけ言った。

「お父様……」

「幸せにします」


 残されたしばらくの間、涙を流して立ち尽くしていた。


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