第2話 交差


 夕の刻を告げる鐘が鳴る。

 次の鐘が鳴れば閉門だ。


 ザフィーラは残りのこうと、手をつけなかった食事とを籠に入れる。

 のろのろと立ち上がって魂送りのための部屋を後にし、廟の出口に向けて数歩進んで――そこで足を止めた。


「……いつからいたの」


 自分にこんな冷ややかな声が出せるのだと、ザフィーラは今の今まで知らなかった。


「朝から」


 対して、背後から戻ってきた声は憎悪をかき立てるほど何の感情も籠められていなかった。


「そう。ご苦労なことね。私が逃げないように見張っていたの? それとも私の嘆きを聞くのが楽しかった?」

「どちらでもないよ」

「まさかとは思うけど、私と一緒に魂送りをしていたつもりだ、なんて言わないでしょうね」


 返事はなかった。

 ザフィーラは来た方へ向き直り、扉の横に立つ男を睨みつける。


「ふざけないでよ。本当は私たちに何の思い入れもないくせに……この、嘘つき!」


 そう、すべては嘘だった。

 彼の言動は嘘だけしかなかったのだ。


 ザフィーラが「アシル」と呼んでいたこの男は、マドレーの第四王子だった。

 あの惨劇を止めたとき、ホセがそう説明した。


「我々としては女王側に立つ者たちを皆殺しにする予定でいたが、王子殿下がやめよと仰せになられたから仕方ない」


 それを聞いた白い肌の男たちがザフィーラの近くで吐き捨てるように言う。


「女をたぶらかすしか能のない“顔だけ王子”がこんなところでしゃしゃり出てくるなんて」

「仕方ないだろう。よりもの方が強いんだから」

「だけどよ――」


 すべて聞こえていたはずのホセはその言い合いを止めなかった。彼はいかにも不機嫌そうな顔をザフィーラへ向ける。


「トゥプラクの王女よ。お前の命があるのは殿下のおかげだ。感謝するのだな」


 そう言い放ったホセに命じられ、男たちがザフィーラを大広間から出す。抵抗は無駄だった。半ば引きずられるようにして連れられながらザフィーラは泣いた。命を助けられた理由は明白で、あまりにも悔しかったからだ。


(王子の命令で助けられたって言うのは正しいんでしょうね。でもそれ以上に、私という存在は『マドレーという国にとって何の脅威にもならない』と判断されたんだわ)


 姉王がいなければ何もできないくせに、一人前のつもりで浮かれた夢ばかりを見ていた愚かな王女ザフィーラ。

 もしもザフィーラがナーディヤと同じだけの器量を持っていたのなら、きっと助命はなされなかっただろう。


 その後も屈辱は続いた。頭からつま先まで赤く染まったザフィーラの身を綺麗にさせてもらえたのも、ナーディヤの体が返してもらえたのも、埋葬を許されたのも、すべてが“マドレーの第四王子”の指示によるもの。ザフィーラが何かを成したわけではない。ザフィーラは以前も今も、こんなにも無力なまま。


 だから姉のかたきがたった一人で目の前にいるのに何もできない。彼が鍛錬を怠らなかった姿をザフィーラは見ているから。一方の自分が何もできないことが分かっているから。

 それで、籠を抱いた腕に力を入れてザフィーラは廟の中で彼を睨みつける。

 この程度のことでは彼に何の影響も及ぼさないのだと分かっているけれど、今のザフィーラにできるのはこの程度のことしかなかった。


「マドレーの第四王子様。その記憶があったっていうことは、砂魔物には食われてないのでしょう。首筋にあったあれは砂魔物の噛み跡じゃなかったってこと?」

「そうだ。砂魔物の噛み跡に見えるように刺青いれずみを施した」


 刺青、とザフィーラは心の中で繰り返した。

 砂魔物の噛み跡だと思い込んでしまったため、刺青なのだとはこれっぽっちも気が付かなかった。


「……あの場で倒れてたのも偶然じゃないのね」

「トゥプラクの子が十歳になるとあの祠に行くというのは聞いていたから、誰かが来てくれたらいいと思ったんだ。まさか王女が来るとは思わなかったけれどね」

「誰も来なかったらどうするつもりだったの」

「その仮定は必要ないな。現に私はここにいる」


 ザフィーラは思わず拳を握る。


「お前は、最初から誰かを騙すつもりでいたのね」

「そういうことになるかな」

「人々の好意を逆手に取るなんてすごいわね、この恥知らず」


 悪意のこもったザフィーラの揶揄にも彼は眉一つ動かさなかった。悔しくてザフィーラは更に言い募る。


「お前はマドレーの人間なのよね。その褐色の肌はどうしたの? もしかしたらそれも刺青なのかしら?」

「肌の色はもともとだよ。私の亡き母は、砂漠の民だった」

「そう。では、自分の息子が砂漠でしでかしたことを知ったらさぞや嘆かれるでしょうね」

「私はマドレーの王族として生まれた。マドレーのために働くのが私の役目だ。誰に嘆かれようと、誰に恨まれようと、私は私の行動が正しかったと信じている」


 揺らぐことのない緑の瞳を見たザフィーラは、ため息まじりに「ああ」と呟き、負けた、と思った。

 この男はすごい。きちんとした信念のもとに自ら間諜となる道を選び、それを貫き通している。同じ王族だというのに、本当にザフィーラとはなんという差だろうか。


 悔しくて顔が歪む。でもそんな顔を見せたくなくてザフィーラは顔を背ける。静かになった廟の中で、次に話しだしたのは彼の方だ。


「私の母は、ここよりもずっと海に近い都市国家の王女だった。攻め落とされたあとに恭順を示すためマドレーに送られて父王の側妃になり、私を産んだ。周囲の人々に砂漠の話をすることはなかったけれど、私にだけは聞かせてくれたものだ。――どこまでも続く砂の大地。照り付ける日差し。美しい夜空。暑い空気を追いやるオアシスの爽やかな風と、冷たい水の美味しさ。何度も聞いているうちに、私は不思議と自分が砂漠にいるような気分になった。私の故郷は砂漠の国なのではないかと思うときさえあった……」


 ザフィーラはハッとした。今しがたの悔しさも忘れて思わず彼の方を向くと、揺らめく緑の瞳がザフィーラをとらえている。その輝きはザフィーラが知るものと同じ。

 砂漠の祠で会ったときから何度も感じていたあの不思議な感覚が体を包む。互いこそが互いの理解者であるという、あの感覚。


 そしてザフィーラは理解した。


(この人は、私と似てるのね)


 異邦の血を持って生まれたがために、自身が異質である感覚が常に付きまとう。受け入れてくれる人たちに申し訳なさを覚えながらも遠くへの憧れを持ち、いつかはと望んでしまう。その、孤独と罪悪感。


 もしも違う形で出会えていたなら、ザフィーラと彼は仲良くなれたのかもしれない。

 同じ気持ちを抱えた仲間として、親しく付き合えたのかもしれない。


 しかし彼は自国のために滅私することで憧憬を捨て、己の居場所を確立した。その犠牲になったのはナーディヤをはじめとしたトゥプラクの人たち。そして、


(……だから私とこの人は、相容れられない)


 ザフィーラは唇を噛み、再び彼を睨みつける。

 覚悟を新たにしたのだとは彼にも伝わったのろう。わずかに目を閉じてもう一度瞼をあけた彼の瞳からは、また感情が見えなくなった。


「さて。そろそろ行かないと門が閉まる」


 言葉の内容は独り言のようだったが、ゆっくりと出口へ顔を向ける彼の様子はどことなくザフィーラに問いかけているように思えた。


 彼と並んで歩くつもりはない。

 後から追いつかれるのもごめんだ。


 ザフィーラは脇へ一歩寄り、答える。


「お前が先に行きなさい」


 彼は素直に歩き出した。ザフィーラは顔を下向ける。耳飾りが小さな音を立てた。

 横を通り過ぎるときの彼からは、アシルと同じ香りがした。


「待って」


 背後で足音が止まる。

 床のタイルを見ながら、ザフィーラは押し出すように口にした。


「本当の名前は、何」

「セレスティノ。――セレスティノ・レジェス・デ・ラローチャ」

「……セレスティノ」


 耳慣れない異国のその名は、確かに彼が砂漠の民ではないことを示していた。


「……全部、お前のせいよ。卑怯者」


 背中越しの呼吸はまったく乱れない。彼はやはり淡々と、


「そうかもしれない」


 と返してきた。そうして一歩踏み出し、なぜか動きを止めた彼は、小さな、ごく小さな声で言う。


「……私を助けなければ、よかったね」


 不意を突かれてザフィーラは息をのんだ。


 廟の中に再び足音が響く。

 それはやがて扉を開く音に繋がり、少しずつ小さくなっていった。


 ザフィーラの耳の奥で、彼の声が繰り返す。


 ――私を助けなければ、よかったね。


 この声にだけは何か感情が滲んでいたが、それがどんなものだったか考える余裕はザフィーラにはない。

 胸の奥で怒りが渦巻いて止めようがなかった。だけどあの男に向けるものではない。自分に向けるものだ。


(……助けなければ?)


 しかしザフィーラは助けてしまった。

 だから本当は彼のせいではない。全部、ザフィーラのせいだ。


 分かっていても、今度のザフィーラの目から涙は流れなかった。

 泣いたときに抱きしめてくれる優しい腕はこの地上のどこにもない。誰にもすがることはできない。これからのザフィーラは一人だけで立って進まねばならず、自分の後始末は自分だけでする必要がある。それを理解してしまったから。


 深く息を吸って、ザフィーラは廟の奥へ顔を向ける。ナーディヤの墓所がある方をもう一度見つめてから背を向け、出口へ進んだ。

 先ほど一瞬だけ感じた軽やかな香りは、廟の中に濃く漂う香りにかき消されてもう残っていなかった。

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