第2話 秘密


 陽が沈んですぐ、空が紺青に染まる頃。ザフィーラは空とよく似た色のベールを揺らしながら王宮内を走っていた。


 最近のアシルはトゥプラクに慣れてきているせいで、“庇護者”を理由に会うのが難しくなってきている。

 苦肉の策としてザフィーラは「書庫へ行く」「向こうの庭の花が見たい」「あちらの回廊のタイルが気になる」などと言い訳をして部屋の外に出て、ついでに侍女を撒こうとするが彼女たちもそう簡単にはザフィーラを見逃さない。何しろ侍女はザフィーラの護衛を兼ねており、「離れるな」とナーディヤから申し渡されているのだから。


 だけど侍女がいるとザフィーラはアシルに会えない。トゥプラクの慣習として、家族以外の異性が長く一緒にいるのは良くないとされているせいだ。


 それで今日もザフィーラは、何とかして外て侍女を撒くきっかけを作ろうとひたすらに言い訳を重ねた。どうしてもアシルに会いたかった。

 その様子があまりに必死だったためだろうか。侍女のベルナが、他の侍女たちに「私がご一緒してまいります」と言ってついてきて、人目につかない場所まで来たところで「お早くお戻りくださいね」と、そっと背を押してくれた。


 ベルナはザフィーラと同じ年齢だ。それもあってか一番気が合うため、ザフィーラも彼女を友人のように思っていた。


(さて、アシルはどこにいるかしら?)


 普段のアシルならこの時間はもう国政の場を退出している。自室として与えられた王宮内の一角にいるか、誰かと立ち話をしているか、書庫にいるか。あるいは、秘密の場所で武芸に励んでいるか。


 悩んでザフィーラは『アシルが武芸の稽古をしている』に賭けてそちらへ向かう。


 引き込まれた小川を渡り、花壇の途中で木立を抜け、王宮のはずれへ。建物と建物の間にある通路とも言えないような細い隙間を進むと、その先の空間でやはりアシルが徒手で武芸の鍛錬をしていた。


 この場所は、王宮を建設しているうちにぽっかりとできてしまった単なる空間なのだと思う。四方のうちの二方にあるのは建物の素っ気ない後ろ姿、もう二方は王宮を囲む壁。地面には花も植えられておらず、ところどころで雑草がそよいでいるばかりのつまらない場所。なのに、そこでアシルが鍛錬しているだけで飾り付けられた舞台のように眩しく見えるから不思議だった。


 金の髪をなびかせて長い上着カフタンの裾をひるがえしながら、アシルは突き、払い、薙ぎ、構える。その一連の流れはとても美しい。

 端麗なおもてをして細身の体を持つアシルのことを、一部の人間は「顔だけでなく体も女のようだな」と揶揄する。だが、ザフィーラはそうは思わない。この場所にいる彼は驚くほど長い時間、姿勢が不安定になることもなく動き続けられる。あのカフタンの下にはきっと兵士のような肉体が隠れている。


 トゥプラクで武芸といえば剣が主流だが、アシルは剣を使わない。

 人に理由を尋ねられると「刃が怖い」と答えていた。

 その代わりに彼はこうして徒手で戦うのだろうが、鍛錬するときもいつもこの場所でひっそりと行い、ただ一人だけ事実を知るザフィーラにも固く口留めをしていた。


 理由は分からない。

 だがそんなことはザフィーラにとってはどうでも良い。


 ザフィーラはアシルが武芸の鍛錬をしているのだとは誰にも言わない。絶対にだ。

 だってこれはザフィーラとアシルの“二人の秘密”。

 この特別な気持ちはナーディヤとすら分かち合いたくないと思っている。

 何でも姉に話して気持ちを共有したいと思っているザフィーラにとって、こんなことは初めてだった。


 ほんの少しの罪悪感と、それを上回る幸福感を噛みしめながら鍛錬の様子を見つめていると、ふとアシルが動きを止める。大きく息をして呼吸を整え終えた彼は首を巡らせて笑みを見せた。


 アシルの視線の先は路地、ひいてはそこにいるザフィーラ。悪戯が見つかったような彼の笑顔はここにいるときにしか見せないもの。だから、ザフィーラしか知らないもの。更なるその特別感のおかげでザフィーラの胸はドキドキと高鳴る。心の奥ではフワフワとしたものがどんどん積み重なっていく。


 そんなザフィーラの気持ちには気づいていない様子で、アシルはいつものように手招きをする。通路から舞台へ踊り出たザフィーラは、壁際のアシルの元まで小走りに寄って横に立った。他の人が見ると「はしたない」と言われてしまうからいつもはもう少し遠い位置にいるけれど、ここでは少しだけ“特別”を自分に許してもいい。だって、二人だけしかいないのだから。


 アシルとザフィーラの間の距離は、握りこぶし三個分。

 本当はもう少し近くへ行きたいけれど、今のザフィーラではこれが限界だった。アシルにどう思われるのか気になるのもある。だけどそれより、あまりにも彼に近づくとザフィーラの心にフワフワしたものが積み重なり過ぎて、パンと弾けてしまいそうな気がした。


 汗を拭い終えたアシルは、宝石のような緑の瞳を細めてザフィーラを見つめる。


「今回も見つかってしまったね」

「そうよ。私から隠れようとしても無駄なの。だって私は、砂漠で倒れていたアシルも見つけられるんだから」

「確かに」


 笑うアシルに対し、ザフィーラはいつもの通りにごまかす。


 王宮すべて知るであろう掃除人にさえ忘れられたような場所、ここをザフィーラが最初に知った切っ掛けは母だ。本当に一人になりたいとき、母は誰にも見つからないようにしてここへ来ていた。

 そのときもザフィーラは母を探して偶然ここへ来たのだが、まさかアシルも同じように『隠し事をするための場所』としてここを探し当てるとは思わなかった。


「ところでザフィーラは私を探していたんだろう? 何か用事でもあった?」

「そういうわけじゃないの。ただ、明日になったらアシルはトゥプラクからいなくなるでしょう? それで……」


 続きの言葉が言えなくなってザフィーラは黙る。



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