第3話 祈り
実は明日から、アシルはナーディヤと共に少し離れたオアシス都市へ出かける。
といっても別に二人は遊びに行くわけではない。
このところ各オアシス都市国家は、海の向こうの国々から少しばかり「ちょっかいをかけられている」。
ナーディヤはその件で話し合うため都市国家群の会合に出かける。
ザフィーラがアシルを見つけてから二年半ほど。アシルの過去を探す日々は続いているけれど、今のところは連絡済の国に彼の身内は見つかっていない。
「だけど今回の会合には割と多くの国が参加するから、もしかしたらアシルの故郷を知る手がかりが得られるんじゃないかと思うんだ」
それでナーディヤは今回、アシルを連れて行くと決めたようだった。
正直に言えばザフィーラは、今回の会合でアシルの身内が見つからなければいいと思っている。
もしもアシルを知る者がいたら、そのまま国へ連れて帰ってしまうかもしれない。そうしたらアシルはもう二度とトゥプラクには戻らず、ザフィーラとも会えなくなってしまう。これが最後の別れになってしまう。
だがザフィーラがアシルと別れたくないと思っているように、アシルの家族も急にいなくなった彼を探しているかもしれない。だとすればアシルは家族の元へ戻った方がいい。
頭ではちゃんと分かっているのだけれど、心はうまく言うことを聞いてくれない。おかげで「今回の会合で家族の手がかりが見つかったらいいね」とすんなり言えない。
それでもなんとか暴れる心を抑えつけることに成功して、ザフィーラはようやく口を開く。
「アシルのことはお姉様がきっと良いようにしてくださるわ。一緒に行けない私は、トゥプラクでお祈りしてる。神々のご加護がありますようにって毎日お祈りしてるから。――って、言おうと思ったの」
靴のつま先で小さく地面を掘りながら探し当てた言葉は、自分でもガッカリするほど無難なものだった。
けれど横から戻る声はとても優しい。
「ありがとう、ザフィーラ」
そっと窺うと、綺麗な緑の瞳には柔らかな光が宿っていた。
ザフィーラの胸に祠のときと同じ感覚が心をよぎる。互いだけが互いのことを理解しているような、あの不思議な気持ちが。
「ナーディヤ様は『トゥプラクへ帰って来るのは二か月後くらいになるだろう』と仰っていらした。その月にはザフィーラの誕生日もあるよね。大事な、十六の誕生日だ」
「……うん」
「どんなに素晴らしい日になるのだろうね。私も贈り物を買ってくるから、楽しみにしていてほしいな」
「え? アシルはトゥプラクに帰ってくるの?」
意外なことを聞いたザフィーラが思わず問い返すと、アシルは右手で顔を覆い、空を見上げる。
「なんということだ。ザフィーラは私が帰ってこない方が良いらしい。そんなに嫌われていただなんて気が付かなかったよ……!」
嘆くアシルの様子が芝居がかっていると分からなかったわけではないが、自分がアシルを疎んでいると少しも思って欲しくないザフィーラは「違うの!」と悲鳴じみた声を上げる。
「今回の会合にはたくさんの都市国家が来るでしょう? お姉様が、『もしかしたらアシルの故郷も分かるかも。そうしたら一緒に国へ戻ってもらった方がいいかもしれないね』って言ってらしたから、それで……!」
「……私の故郷は、分からないと思うな」
アシルは推測ではなく決定を述べているように聞こえた。ザフィーラの心に違和感が湧き上がりそうになるが、その前にアシルは右手を外してザフィーラへ視線を戻し、目元を和ませる。そうして、
「だから私もナーディヤ様と一緒にトゥプラクへ帰ってきて、ザフィーラの誕生日をお祝いするよ。約束する」
と言ってくれた。
彼とはもう二度と会えないかもしれない。そう覚悟していたというのに、当のアシルが帰ってくると約束してくれた。
ザフィーラの心にフワフワがどっと押し寄せ、高い高いところへ舞い上げる。嬉しくてもう他のことは考えられない。
「分かったわ! 約束ね!」
あまりに言葉が弾み過ぎていたので、ザフィーラは慌てて付け加える。
「え、ええと、どんなものを買って来てくれるのか、楽しみにしてるから!」
アシルが帰ってきてくれるのが一番の贈り物だから、本当は他になにもいらないのだけれど。
もう一度アシルがうなずき、「楽しみにしておいで」と言って笑う。彼の笑顔をしっかりと記憶しておきたいのに、あまりに眩しくて直視できない。頬を押さえて、周りを見て、そこで辺りがずいぶん暗くなってきていることに気が付いた。
「いけない。ベルナが侍女頭に怒られちゃうわ。私、そろそろ帰るわね。アシルは?」
「私も部屋へ戻るけれど、一緒に行くと不味いだろうから少し時間をあけるよ」
「分かったわ」
後ろ髪を引かれる思いで通路へ足を向けたとき、ふとザフィーラは発つ前の彼に特別な祝福を与えたいと思った。それで、振り返ってアシルの方を向く。
「アシル。今ここで特別なお祈りをしてあげるわ」
「特別な祈り?」
「うん」
いつも服の下に隠してある母の形見のペンダント・トップを出す。それを顔の前に掲げて両手を組み、目を閉じ、厳かに口を開いた。
『エレオノーラは祈ります。眩い光とともに、天の慈愛が世界とあなたの元へ降りそそぎますようにと』
砂漠の共通語でも、海の向こうの共通語でもない。母からしか聞いたことのないこの祈りの言葉。
果たしてどこの国の言葉なのかは記憶をなくしているせいで母自身も分からないようだった。もしかすると母の故郷の手がかりになる言葉なのかもしれなかったが、母はこれを父に伝えなかった。
「ほかのひとに、いってはいけない。そんなきが、する」
拙い砂漠の言葉でそう言う母だったが、ねだるザフィーラにだけは繰り返し聞かせてくれた。
ほんの短い文節だが、歌のようなこの美しい発音がザフィーラは大好きだった。
(知らない言葉を聞いて、アシルはびっくりするかな)
期待を込めてザフィーラが瞼を開くと、予想通り彼は驚愕した様子でザフィーラを凝視していた。しかし極限まで剝いた目や、わずかに開いた口、なにより暗がりでも分かるほど顔色を変えているという状態までは想像していなかった。
ザフィーラは思わず吹き出す。
「いやね、アシルったら。知らない言葉を聞いたからって驚きすぎよ」
アシルは「ああ」と言ってぎこちない笑いを浮かべる。
「そう……そう、だね。ごめん。あまりに、予想外だったから……」
「失礼ね。私だってちゃんと勉強してるのよ。アシルの知らない言葉を話すことだってあるわ」
この言葉は教師に習ったものではなく母から教わったものだが、それは言わずザフィーラはアシルに手を振る。
「明日は見送りに行くわね」
もう本当に戻らなくてはいけない。
アシルの返事を待たずにザフィーラは来た道を足早に戻り始める。アシルを驚かすことができて嬉しいザフィーラの足取りは、とても軽かった。
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