第5話 兆し


 考えてみれば質問の内容も妙だ。

 トゥプラクの人であれば話せる言葉は三つが最大、それより多く使うことはないから必要としない。ではなぜ、三つでも二つでもない答えを知りたいのだろうか。一つだとでも思っているのだろうか。そんな、まさか。


 ペンダントのトップは服の中に隠れて見えないはずだが、ザフィーラは思わず両手で胸元を押さえて下がる。それを追うようにメティンも一歩踏み出した。


「ザフィーラ。お前、本当は――」


 しかし、その叔父の姿がふいに隠れる。


「メティン様、そこまでです」


 侍女のベルナがザフィーラとメティンの間に割って入ったのだ。彼女は腰の剣に手をかけている。


「いかに親族の方とはいえ、未婚の女性にみだりに近づくのは感心しません。それに何より、視線を向ける先があまりにいただけませんね」

「へあっ?」


 メティンは奇妙な声を上げる。そこでザフィーラは気が付いた。

 確かにメティンの行動は傍から見ると『男性が、若い未婚女性の胸元を凝視していた』としか思えない。


 メティンの追求から逃れる好機だと悟り、ザフィーラは両手で顔を覆う。


「ありがとう、ベルナ。怖かった……」

「ええ、そうでしょうとも! ――誰か! 誰かいませんか!」


 辺りから人がやってくる音と、「待て! 話を聞け! 誤解だ!」というメティンの声とがする。しかしそれに応えることなくベルナは周囲に向けて、


「メティン様がご退出になられます。送って差し上げてください」


 と冷たく言い放った。

 当のメティンは弱い声で「いや、まだ、儂の用は済んでいないが……」と言っていたが、これ以上は話ができないと考えたらしい。思いのほかすんなりと退出していった。


「もう大丈夫ですよ、ザフィーラ様」


 ザフィーラが顔を上げると、励ますようなベルナの微笑みがそこにある。


「嫌な思いをなされましたね。ですが叔父君はお帰りになりました。さあ、ザフィーラ様、お部屋に戻りましょう! 今日は特別に、うんと甘くしたお茶を淹れて差し上げますよ!」


 ベルナに促され、ザフィーラは力なくうなずく。


 結局ザフィーラは、自分の力だけで場を収めることができなかった。

 対して、ベルナの対処は的確だった。

 同じ年齢だというのにどうしてこうも違うのだろう。


 あと三日でザフィーラは十六歳になる。名目上は大人になる。この日をザフィーラはずっと待ち望んでいた。

 だけど今の段階ですら子どもっぽいザフィーラが、誕生日を迎えたからといって急に大人になれるとは思えない。


(……大人って、どうやったらなれるのかしら……)


 夕月草が咲いた時の高揚感はもうザフィーラにはなかった。

 しぼんだ気持ちを抱え、壮麗な回廊を部屋に向かってとぼとぼと歩いていると、途中でベルナが「あ!」と大きな声を出す。


「ザフィーラ様! ナーディヤ様がお帰りですよ! ほら、あちらに!」


 反射的に顔を上げたザフィーラは、ベルナが指さす方向、自分がいるのとは逆側の回廊を見る。

 まるで光がさしているように華やかなその一団の中心にいるのは、間違いなくナーディヤだ。


 たった二か月なのにずいぶん離れていた気がする。懐かしくて、嬉しくて、ザフィーラは駆けだした。


 ナーディヤの方はといえば、横の人物と話していてザフィーラには気づかなかった。先にザフィーラに気づいたのはその話し相手の方だ。彼が何かを言い、ナーディヤが首を巡らせる。そうしてザフィーラに気が付き、破顔したナーディヤは立ち止まって両手を広げた。

 促した横の人物が一歩引く光景を見ながら、ザフィーラはナーディヤの腕に飛び込んだ。


「お姉様、お帰りなさい!」

「ただいま、ザフィーラ!」


 ナーディヤに抱き留められた途端、ザフィーラは違和感に気付く。汗にまざって漂ったのはインクの匂いではなく、深い甘さを持った香水だ。今までとは違うその大人びた空気にザフィーラは体を強張らせた。

 しかし、ナーディヤはザフィーラの変化にはすぐ気が付かなかったらしい。


「元気だった? 病気はしていない?」

「え、ええ! お姉様もお元気そうで、よかったわ!」


 いつものように話そうと思ったのだが、演じきれなかった声は不自然な甲高さになる。


「……どうしたの?」


 体を離したナーディヤはザフィーラの表情の硬さに気が付いたらしい。両腕をつかみ、不安そうな表情で顔を覗き込んでくる。


「ザフィーラ? 何かあった?」

「あ、ええと……」

「今しがたメティン様がお越しになってらしたのです。そのせいでザフィーラ様はご気分が落ち着かないのでしょう」


 助けは後ろからあった。ベルナだ。


「ザフィーラ様に対し、メティン様は大変に失礼な態度を取っておいでしたから」

「失礼な態度!」


 憤慨を隠し切れない声のベルナに呼応し、ナーディヤが柳眉を吊り上げて叫ぶ。


「メティンのやつ、未だに懲りてないのね!」

「え? あ、あの、お姉様。叔父様はお帰りになったから、もういいの」

「良くないわ! ちょっと今から追いかけて――」

「ナーディヤ」


 駆けだそうとしたナーディヤを呼ぶだけで止めた柔らかな声は、ザフィーラの動きをも止めた。


(ナーディヤ?)


 この声がナーディヤを呼ぶときは、今まで「ナーディヤ」だったはずだ。


(……聞き違い? ……でも……)


 声の主は二歩進み出てナーディヤの横に立つ。その動作があまりに自然だったのでザフィーラの胸は騒めく。


「メティン様はお帰りになったんだろう? 無粋な相手とやりあって無駄な時間を使うくらいなら、好ましい相手と一緒に過ごす時間をもっと増やすべきだと思うよ」

「アシル……」

「あんなにザフィーラと会いたがっていたじゃないか。話をしながら、たくさんの土産物を見せてあげるといい」

「……そうね」


 ふう、と息を吐いてナーディヤがアシルに笑う。その表情からは横に立つ相手への心からの信頼と、そして、深い愛情とが感じられた。二か月前にトゥプラクを発つ前のナーディヤは、アシルに対してこんな表情を見せなかった。


(どういうこと……?)


 もちろん、ナーディヤに対するアシルの態度も違う。優しさだけでなく、いたわりと気遣いが見られる。これではまるで、二人は――――のようだ。


(……いったい、なにが、あったの)


 声も出せずに立ち尽くすザフィーラを不安そうに見たものの、ナーディヤはすぐに優しく微笑む。


「急いで用事を片付けてくるわ。そうしたらゆっくり話をしましょうね、ザフィーラ」


 姉の言葉にぎこちなくうなずき、ザフィーラは黙って道を譲る。ナーディヤは会合のために同道した諸官と、そしてアシルとを連れて回廊の奥へと歩み去っていった。

 ザフィーラは立ち尽くしたまま、先ほどまで姉がいた場所をぼんやりと見つめる。風が吹いて甘い香水の香りが消え、辺りに夕月草の香りがたちこめる。それも風が払って、また、夕月草の香りが。

 それが何度繰り返されただろうか。


「ザフィーラ様……そろそろ、お部屋に戻りませんか」


 遠慮がちにベルナが声をかけてきた頃には、先ほどまであったはずの陽がとうに沈み切っていて、空はインクと同じ色になっていた。

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