第6話 暗澹


 ザフィーラの部屋にナーディヤが来たのは、夕食が終わってからだった。

 アシルはどうしたのかと尋ねると、ナーディヤは、


「姉妹だけでどうぞ、だって」


 と言って微笑む。姉のその表情に今まで見られなかった艶があって、ザフィーラの胸の奥はまた騒めく。


 今回、ナーディヤたちが行ったのはトゥプラクからは思いのほか離れた場所だった。文化の少し違うその地だけでなく、道中に立ち寄ったオアシス都市の話もきっと興味深いものだったに違いない。だけどアシルとナーディヤの間に何があったのかを考えてばかりのザフィーラは気もそぞろで、ふと我に返ったとき部屋の中にあったのはザフィーラと、侍女たちと、大量の土産物と、甘い残り香だけだった。


「お姉様は?」

「とうにご退出なされたではありませんか」


 呆れが混ざる声で答えたのは年かさの侍女に、ザフィーラは重ねて問う。


「どちらへ行かれたの?」

「さあ。仰ってはおられませんでしたが、この時間ですからね。ご自身のお部屋でしょう」


(ご自身のお部屋……)


 今までならザフィーラもそれを疑うことはなかった。

 でも、いつもとはどこか違う姉の化粧、香水、そして表情。


(本当に、お部屋にお帰りになったの?)


 ザフィーラはいてもたってもいられなくなって立ち上がった。床に置かれたクッションと、茶器と、たくさんの土産物の片づけを侍女たちに頼み、皆がそちらへ気を取られている隙にそっと夜の廊下へ出る。

 今日のザフィーラは、髪に合わせて深い青の服を着ていた。この色で良かったと思う。華やかな色なら、夜陰に紛れようとしてもきっと目立ってしまっていた。


(この時間なら、アシルは自室にいるはずよ)


 回廊の天井や壁にはアラベスク模様のタイルが飾られていてとても美しい。その華やかな回廊の暗い部分だけを選び、ザフィーラは走った。走りながらアシルの自室に近づいて、ザフィーラはふと何かの香りを嗅いだような気がした。

 深い深い甘さの、大人びた、官能的な香り。


 この香りには覚えがある。そう思ったのと、アシルの部屋が見えたのとは同時だった。そうしてザフィーラは回廊の太い柱にぴたりと身を着けることになる。


 アシルの部屋の前には誰かがいた。あれは。


(……お姉様?)


 後ろ姿でも見間違えるはずはない。侍女も護衛もつけず、一人で立っているあの女性はナーディヤだ。


(いったい、何をしているの? 何をするつもりなの?)


 柱からそっと顔を出し、様子を窺う。やがて扉が開いて光がこぼれ、部屋の中からアシルが姿を見せた。背を向けているナーディヤがどんな表情をしているのかは分からないが、アシルの顔にあるのは優しい優しい笑みだ。ナーディヤはその彼に向かって一歩踏み出し、アシルは両手を広げた。


 ふと、アシルが顔を上げたように思う。その視線の先はザフィーラに向けられているような気がしたが、双方の視線が絡む前にナーディヤがアシルの腕におさまった。――拳が五つも入らないくらい近くに。

 それでアシルの視線はナーディヤのものになる。アシルは素早く扉を閉め、辺りは暗がりと静寂に包まれた。


 気が付くと、ザフィーラの膝や太ももの裏側が冷たい。何があったのだろうと思ったザフィーラは、回廊の石畳が思いのほか近くにあることに気づく。


(……あら? 私ったら、床に座り込んでしまったのね)


 昼の日差しも柔らかめなこの時期は、夜の気温が意外に下がる。早く立たなくては冷えて風邪をひいてしまうかもしれないと分かっているのに、ザフィーラの足は萎えてしまって力が入らない。

 それでも、立たなければ。ここはアシルの部屋の近くだ。誰かに見られて、こんなところで何をしているのかと問われてしまったら――。


(こんなところで、何を?)


 ザフィーラは、くす、と笑う。


(本当に。何をしているのかしら。――お姉様と。アシルは)


 一つの部屋で。未婚の男女が。


 そう。二人は未婚だ。別に互いに決まった相手がいるわけではない。

 慣習として男女があまり近づきすぎるのは眉を顰められるが、でも実際には人目を忍んで逢瀬を繰り返す恋人同士がいることくらいザフィーラだって知っている。

 そもそもナーディヤは二十一歳。トゥプラクの国主になってからの日々が忙しくて結婚がおざなりになっていたが、本来なら子どもがいてもおかしくない年齢なのだ。


 そして、アシルも。

 記憶のないアシルは年齢が分からない。それでナーディヤが最初に「庇護したい相手だから、自分の一つ下」と決めた。

 ザフィーラにとってアシルはどう見ても年上なので、一つ二つの違いは関係ない。ナーディヤがそうしたいのならとうなずいたのだが、だけど今日、ナーディヤがアシルに向ける目は今までと違っていた。庇護者のものではなかった。あれは、もしかしたら。


 ザフィーラは渾身の力を振り絞り、石の柵にすがって立つ。


(侍女が探してるかもしれないわ。部屋に帰らなきゃ)


 外に面している回廊は屋根と手摺しかないので、風が吹くたびに肌寒くて仕方ない。

 近くには暖かい部屋があるけれど、そこにザフィーラは入れない。


 ――だって、ザフィーラは選ばれなかったのだから。


 涙は出なかった。ザフィーラは冷たい石製の手摺にすがりながら、暗い回廊を黙って進んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る