第1章 女神の祠

第1話 逢着


 その塊を最初に見つけたのはザフィーラだった。



***



 オアシスの都市の門を出るとすぐに道は砂に飲み込まれる。方角を間違わぬよう太陽の位置を頼りに砂の中を行といつの間にか都市の壁は姿を消し、いくら顔を巡らせても辺りには砂しか見えなくなる。

 最初に砂の道へ出た子どもが慌てるのはここだと聞く。

 落ち着け、と自分に言い聞かせながらザフィーラは太陽の位置を確認し、覚え込んだ方角へ騎乗したユシュ鳥を進ませた。暑さに強い旅の友は力強く砂を蹴って走りゆく。


 まだ朝の早い時間だとはいえ、さすがに砂漠は街の中に比べるとだいぶ暑い。何度か水を飲み、トゥプラク名産のデーツが二つ腹の中に消えるころ、砂の中にぽつんと何かが見えて来た。


 砂とよく似た黄の色合いは、ともすれば気づかず見落としてしまいそうだ。しかし事前に嫌と言うほど聞いていたから絶対に砂と見間違ったりしない。あれが目的地で間違いない。

 はやる心を押さえながらユシュ鳥の背に揺られていると、やがてそれは祠の形をとった。


「やった。着いたわ!」


 ザフィーラは庇の下にユシュ鳥を繋ぎ、水とデーツを与えて祠を見上げる。

 建物は人が五人も入れば窮屈に感じるほどの大きさしかない。一見するととても小さく感じる。しかし小さくとも、ここはトゥプラクの人々にとってはとても重要な場所だった。


 扉を開けて中へ一歩入ると、外とは違う冷涼な空気が出迎えてくれる。こぽこぽという小さな音がするのは奥で水が湧き出ているためだ。都市の大きなオアシスからは離れているが、ここにもごくごく小さな水源がある。


 ザフィーラはその水に持ってきた布を浸し、安置されていた小さな石の女神像を拭き上げる。隙間から入り込んだ砂を掃き出し、こうくゆらせ、その場に膝をついて祈りの言葉を捧げると儀式は完了だ。

 ふと思い出して青い玻璃の器に水を汲む。中に届くわずかな光が水面を輝かせるのを見ながら、ザフィーラはうなずいた。


「うん」


 そうして「ほら」と呟く。


「私だってちゃんと、来られたわ」


 オアシスの都市で生きるものにとって砂漠は文字通り隣にあるものだ。いつ、砂の海へ出て行くかも分からない。そんな“その日”のための第一歩としてこの祠はうってつけの場所に建っている。

 おかげでいつからだろう、十歳になったトゥプラクの子どもは神官に吉日を選定してもらい、ユシュ鳥に乗って一人で女神の祠へ向かうのがならわしとなっていた。


 トゥプラクの民なら身分を問わず誰でも行うこの小さな“儀式”は十歳、遅くとも十一歳のうちに済ませる。だがこの小さな旅に、ザフィーラはなかなか発つことができずにいた。

 別に自分に問題があるわけではない。とザフィーラは思っている。

 体は丈夫だし、勉学に関して講師からの評価は良い。


 ただ一つ。

 問題を上げるとすれば、ザフィーラの肌の色だ。


 ザフィーラの母は異邦人だった。

 母譲りの白い肌は、褐色の肌の人たちより日差しに弱い。

 それもあって異母姉のナーディヤはザフィーラに対しとても気を使っており、いつしかそれは大いなる過保護にと発展していた。ザフィーラが手にかすり傷を作っただけでも大騒ぎするようになったナーディヤは、ザフィーラが十歳になっても女神の祠への旅を許可しなかったのだ。


「ザフィーラが砂漠で迷ったらどうする? いや、そうじゃなくてもユシュ鳥がザフィーラを振り落としたり、もしかしたら砂魔物に襲われてしまうかも……ああ、駄目だ駄目だ、絶対に駄目だ!」


 このトゥプラクの女王でもあるナーディヤは、そう言って頑なにザフィーラの儀式を拒否し続けた。


 儀式へ向かう子は十分すぎる水や食料を持って出るし、昼過ぎまでにトゥプラクへ戻らなければ大人たちが捜索に出る。砂魔物だって、対策を十分にしていれば簡単に襲われたりはしない。

 そもそもナーディヤだって十歳だった八年前に祠への旅を済ませている。どういうものだかきちんと知っているはずなのに、ザフィーラのことになると彼女はとても視野が狭くなってしまうのだ。


 このままでは『さしたる原因もないのに女神の祠へ行かずに成人したもの』という不名誉な称号を得ることになってしまう。

 見かねた周囲の人物が進言を繰り返したおかげで渋々ながらもナーディヤは首を縦に振ったのだが、ザフィーラはもう十三歳になってしまっていた。十歳の誕生日を三年も過ぎてこの祠へきた人物など、きっとザフィーラが初めてだろう。


 それでもようやく今回来られたのだから、時間はかかってしまったがこれでザフィーラもトゥプラクの民として一人前だ。

 女神像にむかってもう一度お辞儀をし、清々しい気分で祠を出たザフィーラがユシュ鳥に乗ったとき、砂の中にごく小さな塊を見つけた。


 最初は砂の小山かと思った。気にせず帰ろうとしたのだが、しかし心のどこかが引き止める。もっとよく見ろとの声がする。

 そこでユシュ鳥の上で立ち上がり、目をすがめてじっと見つめ――ザフィーラは声を上げた。


「ユシュ鳥だわ!」


 砂漠を行く人間の大事な相棒。立派な体躯と強靭な足を持つユシュ鳥は、野生だと基本的に群れで行動している。あのように一羽だけでいることはほとんどない。だとすれば群れからはぐれた個体だろうか。


 あるいは。

 それとも。


 焦りで手がじっとりと汗で滲む。滑らないように手綱をしっかりと握りながら騎乗したユシュ鳥を走らせたザフィーラは、自分の後者の懸念が当たったことを知る。


 砂漠に座り込んだユシュ鳥には鞍や手綱がついている。もちろん、野生のユシュ鳥ではない。そしてそのユシュ鳥が退化した翼を懸命に広げ、雛を守るかのような仕草をしている理由は砂の上を見ればすぐに分かった。


 ユシュ鳥の下には倒れた人間がいる。ザフィーラの位置からでは下半身しか見えないが、砂漠の人たちが着る前開きのガウンカフタンの柄とゆったりした長ズボンシャルワールの形状から考えると、あれはどうやら男性のようだ。


「もっと早くよ!」


 ザフィーラの乗るユシュ鳥が一声高く鳴き、気づいた地面のユシュ鳥が顔を上げて冠羽を立てた。威嚇するギェ、ギェ、という低い声をあげるが逃げようとはしない。倒れた人間を見捨てるつもりがないようだ。


「怒らないで」


 ザフィーラは乗っていたユシュ鳥から下りてそっと近づく。しかし地面にいるユシュ鳥は、相変わらず威嚇の声を上げ続けている。


「あなたの守りたい気持ちは分かったわ。でもこのままだと、その人は砂漠で乾いて死んでしまうの」


 自分で言った「死」という言葉にザフィーラはドキリとする。

 既に死んでいたらどうしようかと思ったが、動く腹部が見えたのでこの男性はまだ息があるようだ。しかし時間の問題でしかない。これから昼にかけて砂はどんどん熱くなる。暑さに強いユシュ鳥がいかに守ろうとも、人間が砂漠に横たわって生きていられる温度には限界がある。


 ザフィーラは腰の革袋からデーツを取り出し、威嚇を続けるユシュ鳥に差し出した。


「ほら、これをあげるわ。だからその人を見せて」


 ザフィーラの必死の思いが伝わったのだろうか、それとも空腹には敵わなかったのか。ユシュ鳥は長い首を伸ばしてザフィーラの手からデーツを取る。

 冠羽は完全に下がりきったとは言えないが、威嚇の声は上げていないので大丈夫だとザフィーラは判断した。


 屈みこんだザフィーラは、そこでようやく砂の上の人物をはっきり見る。

 倒れていたのは想像通り男性だ。褐色の肌と肩までの金色の髪を持つ彼はまだ若い。十七歳くらいだと思われるが、しっかりと瞼が閉じられている今はきちんと判別できているかどうか自信がなかった。


「あの、あなた。大丈夫ですか?」


 ゆすってみるが、男性の反応はない。とにかくこのまま砂漠に寝かせておくわけにはいかないのでなんとか男性を運ぼうと思ったのだが、意識のない年上の男性を持ち上げるのは何とも骨の折れることだった。うんうん唸りながら必死に抱え、不安定ながらもうつ伏せの状態でユシュ鳥の背に乗せる。


「お願いだから、私の言うこと聞いてね」


 言い聞かせて手綱を引くと、ユシュ鳥は大人しくついてきてくれた。

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