第2話 覚醒
砂漠を歩きなれていないザフィーラは自身のユシュ鳥に乗り、男性を乗せたユシュ鳥の手綱を引く。
このまま行けば昼までにトゥプラクへ着くだろうと思ったのだが、その考えがいかに甘かったかザフィーラはすぐに思い知ることになった。
歩くたびに起きる振動のせいで男性は右に左に揺れ、せっかく乗せたユシュ鳥の背から少しずつずり落ちていく。
そのたびにザフィーラはユシュ鳥から降りて男性の位置を必死に直すのだが、どんなに頑張っても男性を完全に固定することができない。そうこうしているうちに陽は昇って行き、辺りの気温もどんどん上がって行く。
この調子では先に男性が干上がってしまう。
そう判断したザフィーラはトゥプラクへ行くのを諦め、先ほどまでいた祠を目的地にした。
ユシュ鳥を屈ませて男性を下ろし、熱くなった砂になるべく触れないよう努力しながら男性を祠の中へ引きずる。
トゥプラクでは基本的に家族以外の異性と触れ合うことはない。ザフィーラも今まで亡き父と手を繋いだことがある程度なので、服越しとはいえ自分の胸を見知らぬ男性の背に密着させているこの状況は本来なら絶対にありえない。
しかしそんなことを気にする余裕もないほど、今のザフィーラは必死だった。
祠は狭いが男性を寝かせるだけの空間はあるし、日差しが遮られているため石の床は冷たい。荒かった男性の呼吸もようやく少し落ち着いたように思う。
肩の力を抜いたザフィーラは男性の顔についた砂をそっと手で払った。
さすがにもう慣習のことは思い出していたが、ザフィーラは無視した。
だって今回の一連の出来事はあまりにいつもの日々と違いすぎて、まるで夢の中にいるような心地がする。
慣習という無粋なものを持ち出して、気持ちを現実に引き戻すような真似をしたくはなかった。
砂を払い終えたザフィーラは奥の泉で未使用の布を濡らす。
男性の顔の横に座り、口の上で少しずつ布を絞った。
わずかに開いた乾く唇の中へ、一滴、また一滴と水が流れ込んでいく。
その様子をザフィーラはじっと見つめる。
目を閉じたままの男性は音を立てない。
ほとんど動かないザフィーラも呼吸音程度しか出さず、それすらも水の湧き出る音にかき消される。
空気は先ほど捧げた香の影響で甘い。
ほの暗い空間はすべての境を曖昧にする。
ザフィーラは徐々に、辺りにあるものすべてが遠くなっていくかのような思いにとらわれる。
世のすべてはこの小さな祠の中にある。
そしてここいるのは自分と、この男性だけ。
二人の境界ですら少しずつ混ざり、溶けあっていく。
物言わぬ彼と一緒に、永久の時間を過ごす――。
その不思議な感覚は今まで味わったことがないほど甘美だった。
陶然としたザフィーラは小さく身を震わせ、同時にハッとする。
(や、やだ。私ったら、見知らぬ男性に対して何を思ってるの?)
きっと、薄暗い中で単調な音などを聞き続けたせいで一種のトランス状態になってしまったせいだろう。
気をはっきり持たせるためにフルフルと首を振ったところで、彼の喉が動く。閉じられていた瞼が一度震えて、開いた。
奥に隠されていた瞳は緑色。祠の中のわずかな光でも明るく輝く。こんな美しい色は姉が大事にしている宝石の中にだってない。
まだ茫洋としたままの緑の瞳に自分が映る、その様子を見て高鳴る胸を右手で押さえながらザフィーラはそっと囁く。
「気が付いた?」
男性の焦点がザフィーラに結ばれた。
「……ここ、は?」
掠れてはいるが、低く艶のある声はとても美しい。
頬が赤くなっているのが見えたらどうしよう、と思いながらもザフィーラは平静を装って微笑む。
「オアシスの都市、トゥプラクの近くにある祠よ。あなたは砂の上に倒れていたの」
「……トゥプラク……砂の上……?」
二、三度瞬いて、男性は吐息まじりに呟く。
「……ああ、そうか……私は……」
緑の瞳に苦悶と悲哀が見えたような気がして、ザフィーラは思わず見返す。
しかし彼がもう一度瞬きをしたとき、瞳の中にその感情はどこにも見当たらなかった。
(……気のせいだったのかしら)
小さく首を傾げながら立ち上がり、ザフィーラは神像の前に置かれた青い玻璃の器を取って泉の水を汲む。
「お水があるのだけど、起きられる?」
男性は喉を鳴らし、ふらつきながらも必死に体を起こした。
器を渡すと彼はあっという間に飲み干したので、ザフィーラはあと四回、水を汲む必要があった。
「ずいぶん喉が渇いていたのね」
ザフィーラが笑うと男性は「そのようだね」と言って少し恥ずかしそうな笑みを見せたので、ザフィーラの胸は再び大きく高鳴った。
(男の人もこんな風に感情を表に出すことがあるのね)
身近な男性といえば亡き父くらい。あとは王宮の衛兵や姉女王の廷臣ばかりというザフィーラにとって「取り繕わない男性の表情」というのはとても珍しいものだ。
まじまじと見つめていると彼は小さく首を傾げる。さすがに無遠慮だったことに気づいてザフィーラはパタパタと手を振った。
「ごめんなさい。ええと、そう。顔色はどうかなって思ったの。だけど暗くて良く分からなくて」
「少し怠いけれど気分は悪くないよ」
言って彼は頭を下げる。
「そうだ。まだお礼を言っていなかったね。――私を助けてくれて、ありがとう」
「いいのよ。きっとこれは全部、ザフィーラのお導きだったに違いないもの」
「……ザフィーラ?」
「ええ。だってここは女神ザフィーラの祠。だか、ら……」
言いながらザフィーラは妙だと思った。「ザフィーラ」という名を聞く男性の表情はまるで、今まで知らなかった言葉を耳にしたかのようだ。しかし砂漠で生きる者が女神ザフィーラの名を知らないなどありえない。
ザフィーラの胸の奥が騒めいた。――まさか。
「あの……あのね。あなた、名前はなんていうの?」
「ああ。私は……」
笑顔で言いかけた男性はふと表情をこわばらせる。
「私は……私の、名前は……」
呟き、眉を寄せ、やがて彼は額を押さえた。
「分からない。……私は……私の名前は、なんだ……?」
「落ち着いて。焦って思い出さなくてもいいから」
彼に「落ち着いて」とは言うものの、実を言えばザフィーラの方こそかなり動揺している。
王女として少なからず人の前に立った経験があるからこうして堂々としていられるだけだ。
「ええと、じゃあ、他のことはどう? 年齢とか、出身地とかは分かる?」
彼は首を横に振る。
「……何一つ分からない。年齢も、家族も、どこから来て、どこへ行こうとしていたのかも……」
ザフィーラの胸がどくどくと音を立てた。
先ほどの高揚した気分の脈動とは違う。今度は嫌な予感のせいだ。
彼が何も思い出せないのは気を失っていたことによる一時的なもの。
そうならいいと思う。だが。
「……うなじを見せてくれる?」
「うなじ?」
男性は怪訝そうな表情を浮かべたものの、素直に姿勢を変えてザフィーラに背をを向ける。彼が両の手で金の髪を分けてうなじを晒したとき、ザフィーラは思わず呻いた。
「……やっぱり……」
嫌な予感が当たってしまった。
彼のうなじには、背中へ伸びる数本の線があった。
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