第3話 吐露
赤黒いこれは血が固まったばかりの傷に見える。
しかしこれは肉体にあって肉体のものではない。
その証拠にどこにも血が着いていないし、それどころか服にはほんのわずかの裂けた部分すらない。
無残な状態のまま治ることなく体に残り続けるこれは、砂漠を行くものたちが不運に遭ってしまった証だ。
「あなた、砂魔物に遭遇したのね」
「砂魔物……?」
砂の中に棲む、人よりも大きな蛇。
それが砂魔物だ。
砂魔物は砂漠の中を自在に移動し、人間の前に現れる。大きな口を開いて上あごの牙でうなじに齧りつき、人間の記憶を食らうのだ。
だから砂漠を行くものたちは砂魔物が嫌う香をうなじに塗りこめておく。こうすれば砂魔物から身を守れる。
ただ、完全に防げるわけではない。汗で香が落ちてしまえば効力は落ちるし、そもそも限界まで空腹になった砂魔物には香が意味をなさないこともあると聞く。
ザフィーラが話すと男性は「そうか」と呟き、そっとうなじに触れた。
「ここに傷があるんだね」
「ええ」
ザフィーラがうなずくと彼はゆっくりと顔を上げ、天井を見つめた。
いや、見ているのは天井なのだが、彼はその先のどこか遠い場所を見ているようにも思える。
どこか寂しそうな後ろ姿の彼を、何か良いことを言って勇気づけたい。だが、ザフィーラの頭をどれだけ探しても今の彼にかけてあげられそうな言葉が見つからない。
焦りを抱えるザフィーラと、静かに上向く彼と。
黙ってしまった二人に代わって、祠の中は再び水の湧く音だけが支配した。
やがて、ふ、と低く笑う声がした。
「……記憶がないというのはなかなかに寄る辺がないものだね。自分が今までどうやって生きて来たのかも分からないし、これから、どうしたらいいのかも、分からない……」
「心配しないで!」
立ち上がったザフィーラは彼の正面に回り込み、大きな手を自分の両手で包むように握る。
こんなに風に男性に触れるなど普段なら絶対にしないし、出来っこない。先ほどからどうにも大胆だ。一体自分はどうしてしまったのだろうか。
「砂魔物に記憶を食べられた人を見つけたら付近の都市が保護する、というのが砂漠に生きる者たちの決まりよ。だからあなたはトゥプラクに来るの」
記憶を失った者の故郷を探し、家族の元へ帰せるよう努めるのが保護した都市国家の役目だ。
もしも故郷が見つからなくても、一人で生きていけるようになるまではきちんと世話をする。
それは基本的に見つけた者の家の役目だ。あるいは、商隊などが見つけたのなら託された家の役目になる。
とは言ってもその辺りに住んでいる人々がこぞって世話をしたがるので、結局は地域ぐるみで面倒を見ることが多い。
「あなた助けたのは私だもの。これからのあなたには王宮の一室を与えるわ」
「……王宮?」
「私はトゥプラクの王女なの」
「王女殿下? それは、さすがに」
彼は目を見開いた。ザフィーラは片手をあげ、彼の言葉の先を遮る。
「身分とか、そういったことは気にしなくていいわ。誰にだって文句は言わせない。だって、砂漠であなたを助けたのはこの私なんだもの。あなたの本当の家族が見つかるまで、私が責任を持って面倒を見てあげる」
年上の男性に対してこのような物言いは失礼だったかとちらりと思う。だけどザフィーラは自分がきちんとできるのだということを彼に示したかった。それに他の誰から「生意気な物言いだ」と怒られようとも、目の前の彼だけは微笑んで許してくれるような気がしていた。
彼がまだ迷うそぶりを見せていたので、ザフィーラは重ねて「平気だから、王宮に来て」と言い募る。
「私の家族はお姉様と私だけなの。ここ何年かでお父様も、お母様たちも亡くなってしまわれて、とても寂しくて……。だけどあなたが来てくれたら賑やかになって、お姉様もきっと喜んでくださるわ」
話は本当だ。
ただ、この青年が王族のザフィーラたちと完全に同じ暮らしができるわけではないし、男性の彼がザフィーラたちといつも一緒にいられるわけでもない。
それでも客分として近くにいれば顔を合わせる機会も増えて楽しくなるのは間違いのないだろう。何よりザフィーラは、砂漠で見つけたこの“宝物”を誰にも渡したくなくて必死だった。
「ね。だから、来て」
ザフィーラの口調は徐々に懇願の色を帯びる。これではどちらが求めている側なのか分からない。
やがて彼は覚悟したように頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたのご好意に甘えさせていただきます」
「良かった!」
浮き立つ声で言って、ザフィーラは胸の前で両手を打ち合わせる。
「さっきも言ったけど、砂魔物に襲われた人を助けるのは当たり前のことなんだもの。何の憂いもなく来てくれていいわ。それに……もしかしたらそういう巡りなのかも、しれないから」
小さなため息が漏れてしまって、ザフィーラは慌てて咳ばらいをして誤魔化す。
王宮では過去にも砂魔物の犠牲になった人を保護したことがある。ザフィーラは今からその話をする。
「あのね、砂漠に住む人たちは、あなたと同じように褐色の肌をしているでしょう? だけどほら、私は違う。私の肌は白い。これはね、私のお母様が白い肌の人だったからなのよ」
ザフィーラは手をかざす。わずかな光しかなくても肌の色の違いははっきりと分かる。
「トゥプラクからは主に三つの方向へ行けるわ。西と、東と、南」
北へも行くことはできるがあまり意味はない。大きな山脈が立ちはだかっているからだ。砂漠を行く人々はその先にある利益を目指している、越えられない道に用はない。だから、三つの方向。
「その中の西の道をずっと進んで行くと、海があるの。海って言うのはね、どのオアシスよりもずっとずっと広い水の集まりよ。そうして海を渡った向こうには白い肌の人たちが暮らす地があって、私のお母様はそこから来たの。……多分、来たんだと思う」
ザフィーラはそこで区切る。意図せずに小さくため息を吐いてしまったので慌てて咳払いをしてごまかす。
「白い肌だったし、海の向こうの言葉を話していたから『そうなんだろう』って推測しただけで、本当のことは分からないわ。……お母様は記憶を失くしていたの。砂魔物に記憶を食べられてしまったのよ。だからお母様の過去で分かっているのは、運よく辿りついたこの祠に入って、水を見つけて、たまたまそこに来た私のお父様に保護された、ってことくらい。――ちなみにこれが、今から十五年位前のこと」
トゥプラクでは数年に一度くらいの割合で砂魔物に食われた人が保護される。トゥプラクを終の住処とした者もいるが、故郷が見つかって帰った者も多くいるのだ、とザフィーラは付け加えた。
「ほら。私があなたを見つけてここへ連れて来たのも『そういう巡り』だったからじゃないかしらって思えるでしょう? 私、頑張ってあなたの故郷を探してあげるから、故郷へ戻れるまで少しだけトゥプラクで待っててね!」
話はここで終わりでいい。
分かっている。
なのに、ザフィーラの口は止まらなかった。
「……でも」
首はゆっくりと下を向く。
「私のお父様は、最初から、お母様の故郷を探すつもりがなかった……」
ため息は今度こそ誤魔化しようがなかった。
「……仕方ないの。海の向こうの国は遠いし、お母様の出自を示す手掛かりはペンダントくらいしかなかったし、伝手だってないし。……それでお母様は結局、最後までトゥプラクで過ごしたの。お父様の、第二夫人になって」
母のことを思うとザフィーラはいつも胸が苦しくなる。
自分の居場所を用意してもらった母は少しずつ砂漠の国の言葉を覚え、日常会話くらいは出来るようになった。だが、自身の生まれた場所へ戻ることなく世を去ってしまった。
交易の要衝であるトゥプラクの人々は様々な人種を見慣れている。
母のことも受け入れていたし、母譲りの外見を持つザフィーラのことだって同族とみなしてくれている。
青に金の混ざる不思議な色の髪、青い瞳、白い肌。
母に生き写しのザフィーラは、父の要素を何一つ受け継がなかった。
きっとトゥプラクの血より異邦の血の方が濃いせいだ。
そのせいだろうか、ザフィーラはふとした拍子に、自分の故郷がここではないような気がしてしまう。知らないはずの遠い場所が懐かしくて恋しくて、涙が止まらなくなることがある。
この気持ちが異邦の血のによるものならば、母だってザフィーラと同じように遠くの地を想って日々を過ごしていたのではないか。――例え記憶を失っていたとしても。
そう思うたびに故郷へ戻れなかった母が哀れに思え、母の故郷を探そうとしなかった父を冷酷に感じ、自身の誕生が祝福されていないものだと考えてしまう。
そして、大好きなはずのトゥプラクこそが遥かな場所にある異邦だという気がして、深い嫌悪を覚えてしまうのだ。
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