第4話 新た
胸の前で合わせていたザフィーラの手はいつの間にか膝の上にある。
その手がふと温かくなった。見ると、彼が自身の大きな両手で包んでくれている。
ザフィーラが男性の手を包んだのは初めてだったが、こうして男性に手を包まれるのも初めてだ。父にだってしてもらったことはない。
しかし伝わるぬくもりはとても心地よく、ザフィーラは羞恥も嫌悪も感じなかった。
視線を上げると、とても優しい眼差しが手と同じようにザフィーラを包んでくれている。
途端にザフィーラは、彼が自分の気持ちをすべてを分かってくれているような気がした。
自分が立つ場所が定まらない不安や誰にも言えないまま抱えている孤独、相反する気持ちの板挟みになる思いといったものを、この男も持っているように思えるのだ。
だから彼の手のぬくもりも、視線の優しさも、こんなにもザフィーラに沁みる。
そうか、とザフィーラは心の中で呟く。
彼に母の話をしてみたかった理由は、きっとこのせいだ。
「ありがとう」
思わず礼を言うと、彼は黙って微笑んでくれた。
ザフィーラも同じように微笑みを返して、ふと気づく。
「ごめんなさい。まだ私の名前を言っていなかったわね。私はザフィーラ」
「ザフィーラ。その名は先ほども聞いたね」
「覚えていてくれた? そう、水の女神と同じ名前なの」
「そうか。ならば私には女神の加護が二重にあったんだね」
首を傾げたザフィーラはすぐ、彼の言う「女神」が助けたザフィーラ自身のことも指しているのだと知って頬を赤らめる。
「や、やあね。あなたって実は吟遊詩人だったんじゃないの?」
照れ隠しに横を向くと、祠の奥にある神像が目に入った。小さな泉の横に安置されているあの像が女神ザフィーラだ。
「私の名前を決めてくださったのはお姉様よ。お姉様は私の五つ年上でね、名前はナーディヤ」
ちらりと窺うと彼はやはりその名も忘れているようだったので、ザフィーラは付け加える。
「ナーディヤというのも女神様の名前なの。大地の女神ナーディヤ。水の女神ザフィーラの姉にあたる方。ナーディヤとザフィーラは、とっても仲が良い姉妹だと言われているわ」
「では君たち姉妹も、とても仲がいいんだろうね」
「もちろんよ!」
ナーディヤの話になるとザフィーラの心は弾む。少々過保護で困るところがあっても、ザフィーラはナーディヤが大好きだ。
「お姉様はとっても優しい方なの。でもそれだけじゃないわ。綺麗で、賢くて、とても勇敢なの! 二年前にお父様が亡くなられた後も立派にあとを継いで、今では国主として――」
そこまで話したとき、誰かが祠の扉を開けた。熱気と共に強い光が祠の中を満たす。ザフィーラは慌てて彼の手から自分の手を引き抜いた。
「ザフィーラ!」
名を呼んだ女性が、白い衣をなびかせて矢のように飛び込んでくる。
「ザフィーラ、ザフィーラ! ああ、良かった、無事ね!」
気が付いた時にザフィーラは彼女の胸の中にいた。いつものように汗とインクの匂いがザフィーラの鼻腔をくすぐる。
続いてナーディヤはザフィーラを左腕に移して立ち上がると、右の手で剣を抜き放って切っ先をぴたりと男性に向けた。
「お前は何者だ。ここでザフィーラに何をしていた。言え!」
「お姉様、違う、違うの!」
強く抱かれているせいで息が苦しい。それでもザフィーラは姉の腕の中で必死に叫ぶ。
「この人は、砂魔物の、犠牲者なの!」
「え?」
姉が腕を緩めたので、ザフィーラも体から力を抜く。
「祠から帰ろうとしたときに砂の上に倒れてるのを見つけたの。本当は街まで連れて行きたかったんだけど、私一人じゃここまでが精いっぱいで……。だけど意識が戻ってからお水も差しあげたし、体も平気そうだし、あと少ししたらトゥプラクへ行くつもりだったの。本当よ」
ナーディヤは何も言わず、厳しい視線を男性に向けたままだ。
ザフィーラはナーディヤと男性との間でハラハラと顔を行き来させながら状況を打開すべく言い募る。
「何も思い出せないって言うからうなじを確認したら、砂魔物の牙跡があったわ。砂魔物の犠牲になった方を保護するのは砂漠の決まりでしょう? それともお姉様は決まりを破ってしまわれる? この方を保護した私の体面を潰してしまわれるの?」
ナーディヤはザフィーラに甘い。このような言い方をすればきっと首を縦に振る。
それを分かってて利用する自分は我ながら卑怯だと思いながらも言うと、やはりナーディヤは一つ息を吐いて剣を収めた。
「……そうね。砂魔物に食われた人を保護するのはオアシスに暮らすものの務めだものね」
「ありがとう、お姉様!」
男性はまだ床に座っている。ナーディヤはザフィーラを離し、片膝をついて彼に目線を合わせた。
「あなたが一日も早く元の家に戻れるよう我々も尽力します。それまでは我が家の客分として気兼ねなく過ごされませ」
「ありがとうございます」
「さあ行こう、ザフィーラ」
立ち上がったナーディヤはザフィーラの肩を抱いたまま入口へ向かい、首だけをちらりと後ろへ回す。
「――あなたも」
黙って頭を下げた男性も床から立つ。
まだ少し足元はおぼつかないように見えたが、動けるようならここよりも王宮へ移動したほうがいい。
祠の空気が冷涼だったことを除いても、外はもうかなり暑くなっていた。ザフィーラが祠へ来てから思いのほか時間が経っていたようだ。
外では三羽のユシュ鳥が大人しく待っていた。ザフィーラと男性、それにナーディヤの鳥だ。
「もしかしてお姉様、お一人でいらしたの?」
「いや。護衛もいたんだけどねえ。どこに行ったんだろ」
まったく、とぼやく姉だが、ザフィーラにはなんとなく状況が理解できた。
きっと姉は護衛が追い付けないくらいの速度でここまで来たのだ。よく見ると姉のユシュ鳥はずいぶん疲れている様子だった。
可哀想に思いながらデーツを与えていると、ナーディヤがそっと背を屈ませ、ザフィーラに囁く。
「あの男が砂魔物に食われたというのは間違いない?」
「間違いないわ。……なあに、お姉様ったら私を信じてくれないの?」
もう十三になったというのにナーディヤは未だにザフィーラを子ども扱いをする。今回もそうなのかと不満に思うザフィーラが頬を膨らませると、ナーディヤは慌てて手を振った。
「違う違う。ザフィーラの言うことは信じてるよ」
「じゃあ、どうして?」
「そうねえ……」
見事な黒髪で相手の視線を遮りながら、しかしナーディヤ自身は髪の隙間をうまく使い、黒い瞳で男性をじっと見つめる。
「私が抜き身の剣を向けたって言うのにあの男は表情一つ変えなかった。その胆力が少し気になってね……」
そこまで言って、不満そうなザフィーラの視線に気づいたのだろう、ナーディヤは取り繕うような笑みを見せる。
「でもまあ、薄暗かったから本当は顔なんてよく分からなかったし……そう、剣を向けられて固まってしまっただけかもしれないよね。いずれにせよ彼の面倒はザフィーラが見るんだから、私も仲良くするよ。安心して」
うん、とザフィーラはうなずく。
砂の上からあの男性を見つけて助けたのはザフィーラだ。
いつか真の家族のもとに帰るその日まで、彼はザフィーラと共にある。
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