第3話 導き
王宮に住み続けるか、それとも出るか。
選択を与えられたザフィーラは、迷うことなく前者を選んだ。
答えが意外だったのか、顎に手をやったホセは小さく鼻を鳴らす。
「この部屋に住み続けられると思ったら間違いだぞ。何しろここはメティン殿とその家族の住まいだ。そなたは王宮の外れにある宮へ移ってもらうことになるが」
「構いません」
「……分かった。メティン殿にはそう伝えよう。――ここを出る支度をしておけ。猶予は今日を含めて三日だ」
言って踵を返し、ホセはふと振り返る。
「しかしメティン殿は、そなたを五番目の奥方にと望んでおられるようだぞ。そうなればまたこの華やかな宮に戻ってくることもあるだろうな」
ニヤニヤとした嫌な笑いを浮かべてホセは去って行く。途端に侍女たちがメティンを罵り始める中で、ベルナがそっとザフィーラの横に来た。
「ザフィーラ様。どうして王宮からお出にならなかったのですか?」
「……私は知らなくてはいけないの」
マドレーがトゥプラクでどれほど力を持つか。各オアシス都市との関係性はどう変わるのか。メティンはどう動いていくのか。
これらを知るために一番いい場所は王宮だ。
“取るに足らない小娘”ザフィーラの前では誰もが油断して素の表情を見せるかもしれない。例え住まいが敷地の外れになろうとも、このまま王宮に残っているべきだとザフィーラは判断した。
「お姉様を失ってしまったのは私が何も知らなかったせいよ。私が、愚かな小さい娘だったせい。……だからこれから私は、たくさんのことを学ぶの」
ザフィーラの言葉を聞いたベルナは何か思うことがあったのだろう。視線を下げて、小さくうなずき、だけれども少し腑に落ちないような顔をして再び尋ねてくる。
「……メティン様の奥方になっても、ですか?」
「それは絶対にお断りだから、回避する方法を全力で探すわ」
***
誕生日から五日後の昼、ザフィーラは部屋を出ることになった。最近の王宮は誕生日の時よりも白い肌の男たちが増えている。その中において、褐色の肌をしたマドレーの第四王子はあの日からザフィーラの前に姿を見せていなかった。もしかすると今日あたり現れるかとザフィーラは思ったが、案内役としてやってきたのは知らない若い男で、ホセですらない。
「イバン・フランコと申します」
トゥプラク風の服を着た白い肌のイバンはすっと背を伸ばし、頭を下げる。
「王子殿下のご命令によりご案内とお手伝いに参じました。私の手が必要でしたら何なりとお申し付けください」
イバンは先に立って離宮まで行く。部屋に着くと彼は扉の横に立った。
「女性のお部屋に入るのは失礼かと存じますので、私はこちらにおります。ご用の際にはお呼びください」
侍女たちは彼に嫌悪の瞳を向け、「あんな男の手なんて絶対に借りるもんですか」と言って室内を整え始める。その声が聞こえていないはずもないだろうに、イバンは部屋の外で静かに立っていた。
やがて大半の荷物を運び終えた頃。一つ息を吐いたザフィーラは、ずっと控えていたイバンに近づく。
「……あの人はどうしてるの」
「王子殿下のことをお尋ねでしたら、殿下は昨日ここをお発ちになりました、とお答え申し上げます」
「発った? どこへ?」
「マドレーへお帰りになられました」
男の言葉を聞いた途端、ザフィーラは頭を殴られたかのような思いに駆られた。
ザフィーラはイバンの言葉を意外だと思った。その、意外に思った自分にどうしようもないほどの嫌悪を抱いた。
愚かなザフィーラ。考える必要性を理解したザフィーラ。変わろうと決意したザフィーラ。
なのにどうしてここに来てまでザフィーラは、彼がまだこの地にいると思いこんでいたのだろう。
トゥプラクはマドレーの傘下に入った。彼の役目は終わったのだから、この地にいる理由はない。
王家の廟でザフィーラにすべてを告白したあれが餞別だった。彼がトゥプラクを振り返ることはもうないだろう。
「そう……」
呟いてザフィーラはふと違和感を覚えた。
彼がイバンをわざわざ遣わせたのが少し妙に思えたのだ。
(……男手が必要そうだったから? でも……)
引っ掛かりがあるときは、考える必要があるときだ。
思考を巡らせて、ザフィーラは頭の底から答えを引き出す。
ここ数日、重要なことをしたり聞いたりするときはホセを通じてだった。しかしなぜ今回来たのはホセでなくイバンなのだろう。
一番最初に思いついたのは、イバンがホセの部下だということだ。ザフィーラへの伝令役をするのが面倒になったホセがイバンを代理に任命した。それはとてもありそうだと思う。
だけど、本当に合っているのだろうか。何か違う可能性はないか。
ここ数日のホセや、周囲のマドレー人たちの言動。そして以前、アシルと話したこと。
それらの中から一つの可能性を導き出し、ザフィーラは下ろした両手を体の前で握り合わせる。強く、強く。
「……一つ聞かせて」
「私がお答えできることでしたら」
「海の向こうの国……マドレーや、その他の国々に関する本は手に入る?」
「姫君がお望みであれば」
「……“あちら側”に気づかれることなく?」
試しに言ってみるとイバンの取り澄ました顔に表情があらわれる。わずかに上がった口の端は、意外とも面白そうだともとれるものだ。
「もちろんですとも」
「ではさっそくお願いするわ。今のところ、部屋の手伝いは必要ないから」
御意、と答えた男は静かに礼をして歩み去る。その背に向けてザフィーラは最後に声をかけた。
「それでいいの?」
何が、とは言わなかった。イバンも問い返さなかった。ただ、
「可能な限り姫君の意に従うよう、仰せつかっております」
とだけ答えて姿を消した。
男の足音が聞こえなくなってから、ザフィーラは自分に言い聞かせる。
(私は、考えなくてはいけないわ)
どうしてマドレーの第四王子は、ザフィーラの意に従うようイバンに命じたのだろう。
ザフィーラが海の向こうのことに興味を持つとは思わなかったのか。
あるいは、学んだところで何もできやしないと思ったのか。
――それとも。
ザフィーラは眉間に力を入れる。
「……そんなことで、許したりしない……」
怒りも悲しみもまだ胸を支配している。血にまみれた大広間を覚えている。ナーディヤの最期も忘れられない。どれほど時を重ねようと、絶対に忘れない。
ザフィーラの耳の奥に、いきなさい、という声が聞こえる。これはナーディヤが遺した言葉だ。「いきなさい、ザフィーラ」と。
ナーディヤがそう言ってくれたから、ザフィーラはきっと行く。
見上げる窓からは明るい光が燦々と降り注いでいる。
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